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春告鳥-Boys be ambitious!-  作者: 涼海 風羽
3/5

春告鳥(上)-3

 先ほど電車から見えたように、この町は自然を多く感じることができる。春菜の希望によって俺は彼女に連れられ、春を感じる場所を巡ろうツアーに参加することになった。


 主催者、朝倉春菜。


 参加者、俺。


 俺としましては、地元の田舎っぷりを再認識するただの散歩に過ぎないので、それなら適当にぶらついて適当な喫茶店を見つけては適当な読書や談笑をしようじゃないかと説いてみたが、ゲスト様が田舎道を歩きたいと言って聞かないのだから仕方ない。


 あえなく照幸案は却下され、春菜原案が晴れて決定と帰結した。……まあ、ゲスト様がそれで満足するのなら、大変よろしい事だと思う。かなり疲れる旅になると悟った俺は覚悟と靴ひもを固く結んだ。


 時刻は昼の下がった頃。俺達一行は住宅地と田園のちょうど境目を歩いていた。雲は白くて、太陽はまだ高い。風はひんやりと涼やかで、歩くには丁度良い気候というのがせめての救いだ。


「ねえ、テルのおすすめはどこ?」


「そんなの春菜もよく知ってるだろう」


 考えるのがめんどうくさい。


「あらやだ、それってまさか文学的な告白?」


「んなわけあるか」


 渋面で春菜の軽口をたたき切った。


「冗談よ、じょーだん」


「うっせ」


 母さんとの会話ですっかり春菜は浮かれているようだ。俺の冷酷な返しをあっさり一笑にふし、鼻歌まじりで田圃のあぜ道へ入った。


 一歩前へと進み出て振り返ったかと思うと、人差し指をまっすぐ十字路の向こうへ指しやり、にかっと笑む。


「やっぱり桜を見なくっちゃ!」


 指をさすストロークがむだに優雅で、かつキレがあったのはつっこむまい。


 指先の延長線には水路があり、更に先には河原が見える。桜は川縁に並んでいた。ほう、あそことは中々……


「……遠くないか?」


 俺は小さくこぼした。視界に桜は入っている。だがそれは遮蔽物がないからであって、現在地と桜の位置は端と端。広い田園の両極端だ。桜なんてのは豆粒にしか見えない。


 すると春菜は首を振って、ついでに指も振った。


「なにもあれだけ見ようってわけじゃないわ。あくまで桜は往路のゴール。いろんな所を経由して景色を楽しみながら、あそこに行こうって言いたいの」


「ほへぇ」


「そうね……どういう道のりで行こうかな。とりあえず」


 とりあえず。


「適当に歩こう」


「結局そうなるのかよ」


「良いじゃない。道草を食いながら行けば、距離なんて案外忘れるものよ?」


 さいなもんですかね。


「って、待て。つまりそれって、かなりの距離を歩く、と言う事か」


「歩かずに移動できると思ってるの?」


 いや車や自転車というものがあってだな……だめだ聞いていない。


 春菜は大手を振ってあぜ道を往く。こうなったら風の向くまま(春菜の)気の向くまま、大人しく追従するしかあるまいな。俺は小走りで追いついていく。春菜は大きく伸びをしていた。


 そういうわけで、春菜による田舎の景色満喫ツアーがスタートするのだった。わーわー、ドンドンパフパフ。


 と、ゆるゆる歩いて数分経過。


 モンシロチョウが飛び交う田圃の間で、軽トラックとか農耕作業車とかの通った(わだち)に足を取られぬよう、俺は頑張って歩いていた。


 そう、頑張っているのだ。それに対する春菜はというと、俺の三歩先をずんずん突き進んでいる。あいつの足元、ヒールなのに、だぞ。春菜の歩幅は俺のそれより大きめで、ペースを合わせて歩くとなると、早歩き気味になってしまう。息切れしない程度に配分は考えておこう。


「広々とした土地っていいよね。心まで伸び伸びとしちゃう」


 足取り軽やかに春菜は言う。


「同じ景色しか見えないのにか?」


「なに言ってんの。どこも同じ景色なんてないわよ」


 はて。


「三六〇度を見渡しても土と水しかないが」


 春菜の目には、何が見えているというのだろう。すると彼女は目の前で急に立ち止まった。


「おうっ」


 後ろからぶつかりそうになったのを、寸での所で踏みとどまる。鼻先が彼女の髪に触れかけた。


「テル、あんた何を見て育ってきたのよ!?」


 その距離のまま春菜は振り返った。「ありえない物を見た」と顔が語っている。待て、近い近い。春菜はかなり通る声なので耳を思わず守った。


「何って、仮面ライダーとかウルトラマンとか……?」


「そうじゃなくて! 自分の町の風土とかを感じないの」


「フード?」


 フードって言ったら、野菜が美味しいことは知ってるぞ。さすが我が町ながらよく肥えた土だなぁと。


「真面目に聞きなさい」


「いてっ」


 春菜の中指が、俺の額を撃ち抜いた。デコピンと呼ばれる最強破壊奥義だ。


「たとえば、見て。あぜ道に咲いてるこの花。なんて名前か知ってる?」


 そう言いながらしゃがんで指さしたのは、とても小さな紫色の花。言われてみれば、野辺でよく見かける花だ。けど名前は知らない。俺は植物図鑑など読んだことがないからだ。


「コスミレっていうの。その名のとおり、スミレの仲間よ」


「スミレか。あー、名前は知ってる。可愛らしい花だな」


 なるほど。背の高い茎にポツンと小ぶりな花弁が開いている。漠然と広い田地でいじらしく咲くその姿は、たしかに風流だ。つついて長い茎が揺れるのを楽しんだりしてみる。


「テル、そっちはキキョウソウよ」


 オゥマイガァ。


「コスミレはこっちの背が低くて色が薄い方。初めて見たわよ、そんな大胆に間違える人」


「こっちだって、花の名前なんて初めて知った」


 出来るだけ不愛想に返した。さっきのデコピンへの恨みも含んでいるぞ。どうだ、こわいだろう。


「勉強になったでしょ。こういうのも旅の楽しみ方の一つよ」


 春菜は意にも解さぬ顔で、ひょうひょうと小首をかしげた。


「お陰様でIQが上がりました。ありがとうございます」


 ダメだ、かなわない。春菜は満足そうに笑顔で言った。


「感受性をみがこ、必ず役に立つ」


 ですな。


 あの小さな薄紫が、コスミレ、と。


 大きな景色だけでなく足元の細かやかな変化も、その気になれば楽しめる。ということを春菜は伝えたかったのだろう。


 旅は再開する。畔を曲がり、そう高くない丘を前に据えたところで春菜は声を上げた。


「ねえ、あそこに見える鳥居、なに神社?」


「鳥居? どれだ」


 木しか見えん。


「あれよ、あれ。石でできてるのが見えるでしょ。丘をちょっと登ったところに」


「ん、ああ……あれ、か?」


 春菜が指し示してくれるので目を凝らしてみると、緑の斜面に小さく石色が混じっているように見えなくもない。春菜はうなずく。


「そういえば昔っからあるな。でも何て名前だったかまで覚えてない」


「どの神様を祀っているとかは?」


「存じておらぬ」


「よし、あそこ行こう」


 マジすか。


「あの丘、坂道が結構な勾配だぞ。春菜、お前大丈夫なのか」


「気にしない、気にしない! ほら、しゅっぱぁーつ!」


「ちょ」


 歩く速さがいっそう増す。


「待てってば!」


 虚を突かれた俺はたちまち置いて行かれそうになった。この女、思慮と分別は持っているが好奇心には正直な部分もあるらしい。猪突に走る背中は見る見る遠ざかっていく。


 田園の中を走るなんてこの歳でない事だと思っていたのだが、あれを追うには走らざるを得なかった。


「はい、到着ぅ!」


 坂道砂利道なんのその、獣道すら我には床と変わらぬわ。と言わんばかりに元気よく石段を登り切った。春菜だけ。


「は、は、はぁ……タンマ、休憩させて……」


 ワンテンポ遅れて俺も境内に入り、それと同時に灯篭にすがりつきながら石畳へ崩れ落ちる。境内は林に覆われて日陰になっている。ひび割れた石の感触が冷たいが、そんなの気にしてられる余裕などない。心臓と肺が酸素をめちゃくちゃ求めている。胸が跳ね馬のように弾けだしそうだ。


 浪人していた間ろくに体を動かしていなかったツケが、こうして回って来るとはな……。以前は頻繁に体を使っていたんだが、まったく情けない限りだ。これからリハビリを頑張るとしよう。それより今はあ、あせが、汗が止まらない。


 そんな俺を見て春菜のけろっとした声が聞こえた。


「テル、顔色が悪いよ。大丈夫?」


 誰のせいやねん。


 裏拳ツッコミしてやりたかったがそれどころじゃない、今回は見逃してやろう。歩き回るんだったら何か飲み物を持ってくるべきだった。のどがひどく渇いた……。


 と思っていたら、視界の端からペットボトルがぬっと出た。目だけを上げると、白い手が飲みかけのボトル(くち)をぶら下げている。


「ん」


「……どうした」


「さっき買ってくれたカルピス」


「それがなんだ」


 春菜はでしゃがんで俺の顔を覗き込んできた。目尻の引き締まった大きい目のよこを汗が一筋したたっているが、気にする様子もなく顔の隣でボトルの中身をゆすって見せた。


「これ、飲む?」


 俺はぎょっとした。


 そいつを俺にくれる……だと?


 な、何を言っている。今しがた平然と言いのけられた一言は、この俺、三山照幸にとってどれほどの衝撃を与える舌鋒となりうるか、それを春菜は理解したうえで口にしているのか? とんでもない!


「ぬるくなっちゃってるけど、良いよ、飲んでも」


 丁寧に両手で突き返す。


「結構だ」


「いいの? 別に私、口つけるのとかそういうの気にしないけど」


 いいんだ、結構だ。


 俺自身も友人同士で同じドリンクの飲みまわしくらいする。潔癖などいちいち(かま)ける人間じゃない。だが、いいのだ。遠慮するのだ。


「それは遅刻の謝罪として献上した品であって、俺が貰うわけにはいかない」


「えぇ、今更そんなの気にしなくていいのに」


「とにかく、それは春菜が責任をもって最後まで飲みなさい」


「なんかそれだと私が罰ゲームを受けてるみたいじゃん」


 自分の中での大義名分は、「男の意地」と書いてルビは敢えて振らない。春菜は唇を尖らせているようだが、今の問答の隙に俺は境内に手水場を発見した。あれは……オアシスではあるまいか!


 声がカスカスになってもはや限界だ。背後のブーイングを聞き流して俺はこけつまろびつしながら溢れ出る湧き水へかぶりついた。


「いぶぶべえ!」


 訳:水うめえ!


 竹筒から注がれる石清水(いわしみず)を両手に溜めて、何度も何度もそれをあおる。この冷たさ、柔らかさ、喉越しの良さは井戸水だろうか。はたまた山頂からせせらぐ小川のろ過水だろうか。体が潤っていく、サバンナの乾地に雨水が染み込むようだ。素晴らしい。こんなに美味しい水は初めてだ!


「なに感動してるのよ」


「春菜知ってるか、自然の水は美味い」


「自然? 何言ってるの」


 眉根を寄せて春菜が手水場の裏をたたくと、プラスチック管を打ったような……いや、もろ水道パイプの音がした。


 え。


「残念ね、しっかり水道は整備されてあるみたい」


「じゃあこの水は」


「職人の技が光るとてもきれいな真水ね」


 なん……ですと? じゃあこれは、家で蛇口をひねったら出てくるのと同じ水質だというのか。


「そんな、めちゃめちゃ美味しかったぞ」


「それはテルののどが渇いてたからって理由と、バックグラウンドが良かったからだと思う」


「バックグラウンド?」


 背景。


 そういえばここ、神社の境内だ。湿った土の匂いがただよい、空気がしん、と澄んでいる。


「確かにこの雰囲気には、天然の生気を感じるな」


 で、さっき言われた細かな部分に注目する、と。なるほど、興味深いものが見えてくる。


 丘の下から見上げた鳥居は近くで見るとずいぶん苔むして年季が入っているし、奥にたたずむ小屋のような社屋もところどころが朽ちかけている。そもそもこの境内自体が雑木林に侵されながら、悠久の時の中でじっと町を見守っているように見える。


 静謐な空間。それだけで表すには事足りる。


「どう、心が落ち着かない? 私好きだな、こういう場所」


「なるほど」


 ヘチマたわしの似合う台所とは、感じる水の味が違うわけだ。


「それにしても、神社の水をがぶ飲みするなんて、バチが当たらないかな」


「うっ」


 人間は本能に逆らえないのだと、大きな主語を用いて理性の貧弱さを誤魔化したかったが、ここは聖なる神祠の御前だ。アホまるだしな言い訳が出来ようか。悔悟と感謝の気持ちをきちんと伝えれば、きっと神様も許してくれるに違いない。


 ズボンのポケットから小銭入れを出し、五円玉を賽銭箱へと放った。春菜も投げた。


「二礼、二拍手、そして……」


 両手を合わせてぺこり。お水、ごちそうさまでした。


 拝み終えて目を開けると、春菜はまだ手を合わせていた。ここの神様がなにを司ってるか知らないが、五円でそれは粘りすぎじゃないか? 初詣じゃあるまいし。


 手持無沙汰に鳥居に刻まれてある社名を解読しようと試みたが、すでに凹凸(おうとつ)は風化していて読めなかった。パッと見まわしたところで、忘れられたような境内には解説看板とかいう親切な物もやはり見当たらない。記憶を頼りにしてみるが、どうやら幼少の俺の活動範囲の外らしかった。


 まあ、土地神と考えるのが妥当か。


 ようやく顔を上げた春菜は舌の先をちょっと出した。


「えへ、お願い事しちゃった」


「こういうお社が祀ってるのって土地の神様とかじゃないのか? 聞いてくれるのか、願い事なんて」


「信じる者は救われるのデース」


「お前は土地神の何なんだ」


 話はこれでオチたと考えたが春菜から「見守られる対象?」と返って来た。いや、疑問文に疑問文で答えるなよ、と鼻笑に替えてつっこんだ。


 神社のひとけのなさを存分に堪能し、俺達は石段を下りる。苔がふかふか盛り上がっているから歩きにくさがある。


「そういえばお賽銭を投げた時さ、中身がいっぱい入ってそうな音がしたよね」


「そうなのか」


 俺には聞こえなかった。


「あのお金、誰が回収するんだろうね」


 こら、そんな下世話な話をしない。


 階段を下りるにあたって、紳士は女性の数歩先でエスコートをするものだ、と本で読んだことがある。だが春菜相手にそんな心配りはご無用らしい。


 なぜなら次の場所を目指して、ごんごん先に下りていくのだから。何食ったらあんな細い脚で動き回れるんだ。俺の足はすでにぷるぷる震えてるんだが。


 将来、春菜のエスコートをする人はさぞかし苦労するだろう。いやはや頑張ってほしいものだ。


 石段の一番下は道路にそのまま面しており、舗道が丘の勾配を受けてそのまま坂道になっている。ようやく長い石段を下りきってホッとしている俺を泣かせたいのか、春菜は溌剌(はつらつ)とこう言った。


「よぉし、じゃあ丘の上を目指そっか!」


「よっしゃ、俺はお前の分も休んでるぜ」


「テルも行くの!」


 あぁ無情かな、春菜の背に振っていたはずの手はいつの間にか掴まれていた。


「なあ、もう桜はすぐそこだろ、ゴールしても良いんじゃないか」


 俺を引きずる春菜の勢いは止まらない。むしろ増す。


「なぁに言ってるの! 折角来たんだから、行かな損ばい!」


 損って……ここ俺の地元なんだが。しかも今の春菜、


「訛ってる」


「訛り言うな!」


 春菜は振り向かなかったが、電光石火の反応だった。手が塞がっているため、物理的なつっこみは流石にされなかったけれども。ただ、


「あのすんません、めちゃくちゃ手首痛いんすけど」


 すさまじい握力で手首が締め付けられている。指が、細いから、食いこんでくる。アカン、引きつる、顔が引きつる。


「ふんっ、テルがそんなこと言うからよ!」


 春菜から俺の手が解放された。温かい手だったとか、それは良いのだが、つかまれた部分ににぶい痺れと赤い手形がくっきり残った。なんと(むご)い所業をなさる。


 その代わり、歩くペースは緩くなった。


 ……しかしまあ。博多弁とかいう方言は、語尾に独特なイントネーションがあるようだ。ふむ、ちょっとずつ分析ができてきたぞ。


 今日は平日のため道に人の気配がないのは当然か。長いだらだら坂の頂上は近い。棒になりそうな足に鞭打って、ゲスト様のツアーは続く。


 鳥のさえずり響く林間を抜けたら景色がわっと開けて、空が急に広がりを見せる。ここは丘のてっぺんにある公園だ。テニスコートが三面入るくらいの広場には、華やぐものは置いてない。ベンチが天蓋(てんがい)の下に据えられている他には錆び付いたくず入れと、あとは水飲み場くらいが主だった施設だ。


 だが、見晴らしはすこぶる良い。


「かぁ~っ! 相変わらずここからの眺めは最高ね。ね、テル!」


 着くや春菜は走り出し、柵に半身を預けて声を上げた。彼女の手庇(てひさ)しの向こうには、かくも長閑(のどか)な春の田園。若草色の町一帯が、桜と菜の花で彩られている。


「久しぶりに来たな」


 俺はベンチで一休み。非常に残念だが、足がパンパンで景色どころではない。しかも毎日間近で見ている身としてはこの景色にさほどレアリティは感じない、というのは口にするまい。


 あ、いけない。


 しまったと俺はこの瞬間に強く思った。たった今おのれが犯した失態に気がついたのだ。疲れのために適当ではない発言をこぼしてしまったのだ。


「テルは最後にいつ来たの?」


 ほら見ろ、過去を掘り返す会話につながった。春菜は自然な返しをしたんだが、それの想定 を怠ったために今、望ましくない状況を招いてしまった。逃げ道はいくつもあるが、果たしてこいつに誤魔化しは効くのだろうか。


「そうだな、覚えていない」


 冗談っぽい笑いを浮かべて答えてみる。笑顔に不慣れなものだからさぞや不自然な顔になっていると思う。


「? ふぅん、そうなんだ」


 案外春菜は素直な性格だった。本当は覚えている。最後に来たのは一年くらい前だったか。


 まあ、語るまでもない記憶は思い出すまでもない。


「しっかし田舎ねぇ、この町は本当。今も昔も」


「おっしゃるとおり、何にも変わっていませんよ」


「博多と全然ちがうわ。あっちには高いビルが沢山あったのに、ここには何にも無い」


 む、何も無いとは心外な。先刻申しただろ、土と水と草ならある。


「都会の方が好きなのか」


「いいや別に、どっちでもない。都会は疲れちゃう。でも田舎の方が気が楽でいいな。大変な事も色々あるだろうけどさ」


 シティガールにそんなため息混じりで言われると、ここの住民としてはカチンと鳴るものがあった。お互い様と言えれば丸く収められるのだろうけれども、地元民の矜持(きょうじ)に触れられたのは流石にたしなめるべきか。


「あのさあ春菜」


「……ん?」


 声を低めて呼びかけると、春菜は何の気なしに振り返った。


 俺は、自分の感情をめったに表へ出さない人間だという自負がある。だから表情を自分の正直な気持ちに任せたのは久しぶりの事だった。


 その時の俺の顔は、とても驚いた表情をしていたと思う。


「……なんで泣いてるんだお前?」


「何でだろうね……はは、分かんないや」


 両目から流れる二筋の涙が、春菜の頬を伝って落ちていた。俺はそれに驚きすぎたあまり、今考えていた事など忘却の彼方へ吹き飛んでしまった。


 春菜が泣いている……だと? あの春菜が、だぞ。俺を今日、散々連れまわして満足現在進行形していたはずのおてんば娘が、どこに悲しむ要素を感じた? まさか。俺、悪いことしたか? 口数少ない俺の発言にトゲがあったのか。


 頬を染めながら目が潤ます春菜を前に、脳内で喧々諤々(けんけんがくがく)の緊急サミットが開催された。え、えと……目の前で異性に泣かれるシチュエーションに遭遇した経験が少ないので、こういう時どうするべきかなど対応の仕方が分からない。


 と、とりあえず。


「涙を拭きな?」


 ハンカチを差し出してみる。奇跡的にも本日未使用の物がポケットに入っていた。前読んだ本でこんな感じのシーンがあった気がする。手渡したのはやや古いものであったが、恥ずかしい色でも柄でもない。


 ど、どうだろうか。


 それを見た春菜は丸く目をしばたかせ、困ったように笑って言った。


「これ、私のハンカチじゃん」


 んなばかな。


「刺繍がしてあるでしょ、隅の方に」


「まさか」


 春菜が広げて見せた場所には、擦り切れた『HALNA』の文字が確かにあった。なにゆえこれが俺の元に。


「小学生の時、テルに貸した奴ねきっと」


 そうなのか? と口に出すのは流石に不義理が過ぎるので、頭の中で遠い記憶を探ってみる。……検索結果はすぐにヒットした。


「家にまだ十枚近くある気がする」


「でっしょー? テルったら外で遊ぶときいっつもハンカチ持ち歩かないから、私のを毎回貸してあげてたじゃん」


「それを毎回返しそびれていた、と」


「困ってたのよ、テルと遊ぶたびにハンカチが一枚ずつ減ってくんだから」


「いや……本当にすまなかった」


 あの日の俺よ、お前も謝れ。(補足として我が名誉のために言っておくが、きちんと返したこともある。)


「でも、ありがと。懐かしいものを見れたわ」


 受け取ったハンカチで春菜は目元をぬぐう。


「返した方がいいか、それ?」


「うぅん、既にこれは三山家の馴染みになっているでしょ。逆に私がテルに返すわ」


 もちろん家で洗ってからね、と言って春菜は視線を田園に戻す。俺はその背中に問いかける。


「俺、まずい事を言ってしまったか」


 後ろ姿は首を振った。


「感極まっちゃったんだわ。思い出の場所にこれたから」


「思い出? ……あぁ」


 ここは、八年前に春菜と話した最後の場所だった。子供の間で丘の公園と呼ばれたこの広場に正式な名称はないのだが、春菜にとっても俺にとっても思い入れのある場所だ。ひとつ思い出したらあとは芋づる式に次々と記憶は掘り起こされていく。


「歌を聴いたな、お前の」


「覚えてたかぁ……恥ずかしいものをお聞かせしました」


「サウンド・オブ・ミュージックだったよな。歌ってたのって」


「さあ、そこまでは覚えてないかな」


「自分が歌った曲くらい覚えてろよな」


 俺の言葉尻は笑っているらしかった。


 当時は曲名なんて知らなかったが、春菜が去った後もメロディは耳に残っていた。それがミュージカルの歌だと知ったのは、ほんの最近の話。元々は同タイトルの作品で歌われる劇中歌で、雄渾なアルプス山脈を背景に歌われるこの曲は、幼い春菜が背景にしたここからの眺めと重なっていた。


「あのあと、結局帰りが遅くなって怒られたんだよね」


「俺なんて風邪こじらせてお前の見送りに行けなかった」


 美談で語り継ぎたい話であるけども、しっかりオチまでついているあたりが小学生時代の俺らしい。春菜が福岡に旅立つ日、友人達は駅まで見送ったというのに、俺は熱を出して布団の中で眠りこけていた。


「馬鹿だったな、昔の俺」


「そうね、たしかに」


「否定して欲しかったんだが」


 言ってはみるが、自分でも否定できないくらい悪ガキだった覚えはある。空き地や田圃の真ん中でヒーロー漫画の真似事ばかりしていた。


「でもそれがテルの良い所だったんじゃない?」


「あれが、か?」


「まさに、田園のヒーローって感じだった」


「その言い方は面白いな。田舎のガキンチョっぽさがある」


「テルについて回ってた私は、さしずめ田園のヒロインかな」


「自分で言っちゃうのか、それ」


「テルが気を利かせてそう返してくれると思ってた」


 期待されていたのか、それは失敬……いや待て、これは俺の責任か?


「ま、芋っぽさで言えばお似合いだな」


「ひどい。何よその言い方」


「それが春菜の良い所だったんじゃないか?」


「純朴な少女はたしかに素敵ね」


「ポジティブかよ」


「テルも同じじゃない」


 春菜と三秒程の睨み合いが勃発する。勝敗の結果は春菜が先に吹き出した。つられた俺は口元だけを緩ませた。


「私達もいい大人になったわ」


「まだ二十歳にもなってないのにか?」


「十九歳はもう大人よ」


 春菜は馬鹿にするような顔で言ってきた。


「それともテル君はまだ子供でいたいんでちゅか?」


「ぬかすな」


 ベンチから重い腰を上げた。春菜の左に立ち、柵に肘をかける。景色は確かに何にもない。昼下がりの太陽がだんだん光を弱め、遠くを見るには丁度良かった。鳥がさえずっている。俺は春菜に尋ねた。


「で、どうなんだ。ミュージカル女優さんの近頃は?」


 春菜は微笑しながら髪をかき上げる。  


「大したことはしてないわ。東京は福岡ほど甘くないね」


「福岡も日本有数の演劇メッカって聞くけどな」


「絶対数が違うのよ、私より出来る人は星の数ほどいる」


「あの、春先に受けたってオーディションはどうだったんだ」


「アンサンブルにも引っかからなかった。去年は三次審査まで行ったんだけどなぁ」


 右からため息が聞こえた。


 聞けば福岡にいた頃は、名の知れた講師の元で舞台の基礎を鍛えぬき、地域主催の市民ミュージカルでは何度も主役を経験したそうだ。大企業プレゼンの地方巡回公演でも地元のアンサンブルダンサーを募集される中に選ばれ、晴れてセンターを飾った。


 その春菜でさえ、東京(ここ)では歯が立っていない。


「でも私はあきらめないよ」


 威勢のいい声が聞こえると、唐突に姿勢が正された。


「だって私、舞台が好きだもん」


「おぉ、春菜が燃えている」


「当たり前じゃん」


 春菜の背筋はまっすぐに伸びている。


「好きだから全力でやれるんだよ」


 まっすぐ空を見ながら言ってのける彼女に、俺はその横で無粋に答えるだけだった。


「応援しとります」


「じゃあ」


「んあ?」


 よっしゃ、といきなり両手をぶんぶん回して気合いを入れた。俺の反応が少しでも遅れていたら殴打の餌食となるところだった。


「度胸試しよ。テル、私の歌を聞きなさい」


「いきなりすぎるだろ。それに外だぞ、ここ」


「だから度胸試しって言ってるじゃない。何のために丘の公園まで来たと思ってるの」


「まさか」


 こいつ、初めからここに来るつもりだったのか。平日に丘の公園を訪れる人は稀だと知っていて、いや……覚えていたのだ、春菜は。俺はまんまとハメられた。


「テル、あんた私の歌が聴けないとでも言うつもり?」


「とんでもないっす」


 猫のようにぱっちりした目が三白眼に。べつに……俺は拒否する気など全くない。むしろ興味を惹かれている。


「この八年でどれだけ成長したか、是非ともお聞かせ願いたいですな」


「言ってくれるじゃない。じゃ、そうさせてもらいますよ」


 そう言って春菜は両手を合わせ、手のひらを重ねたまま十字を切ると眉間に当てがい目をつむった。本人なりのルーティンなのだろう。息をひとつ吐き、そして肩を(くつろ)がせ再び息を吸った。


 薄い唇が次に開かれた時、そこから出たのは旋律に乗った声だった。


 これは、『オン・マイ・オウン』だ。ミュージカル「レ・ミゼラブル」の曲か。叶わぬ恋をする少女が自分の気持ちを切々と語るナンバー。しっとりした曲調から始まり、後半にかけての爆発的な盛り上がりがドラマチックだ。エポニーヌという少女の芯の通った強さは、春菜によって見事に表現された。


 その堂々たる歌いぶりや。周囲の空気が春菜に共鳴している。俺は確信した。かつての内気な少女はもういない。八年の月日を遠い地で過ごし、今や春菜は咲く日を待ちわぶスターの蕾になっていた。


 何と言ったらいいのやら、こういう時に語彙が無いのが悔やまれる。ただ、拍手だけは送っておいた。


「お粗末様でした」


 歌う前とは一転し、謙虚に頭まで下げてきた。顔を上げたら舌を出して恥ずかしげに照れ笑う。おそらく俺のリアクションを待っているのだろう。


「すごいと思います」


 我ながらなんと芸のない感想だろうか。それでも春菜は調子を崩さず、


「へへ、ありがと」


 と頬を掻いた。小学生並みの感想で喜んでいただけたら幸いです。だが、上手かったのは本当だ。どこに行っても通用するのではないかと思うのだが。


「でも、まだダメね」


 春菜の顔がすっと引き締まる。


「まだよ、私はまだまだ上を目指せる」


「凄まじい向上心だ」


「あったりまえよ! 夢道邁進(むどうまいしん)、夢が続く限り私は上しか見てないわ!」


 なんともまぁ頼もしい人だ。情熱家さんが口にした格言じみた四字熟語は座右の銘かなんかのようだ。夢への道を邁進する、とでも当て字するんだろうか。


「ほら、見てよテル」


 春菜が柵をつかんでその更に向こうを指さした。眺めるものが、立体感のない平らな風景なのには変わりない。そよ風が頬に吹きつける。


「綺麗に桜が咲いてるわね」


「さいですな」


「私、ここが大好き」


 にっ、と白い歯を出した。


「こういう場所をただ歩くだけでも、自分の中で得られるものがあると思うの」


「心が伸び伸びする余裕を作れるって事か?」


「それも大いに含まれる。けどね、本当に求めているのは、知らないことを感じさせてくれるものかな」


「知らないことを、感じさせてくれるもの」


 なるほど分からん。俺の眉根に皺でも寄ってたのだろうか、春菜は言葉を継いでくれた。


「じゃあテルは中世ヨーロッパの王様に会ったことある?」


「ないに決まってるだろ」


「でも、当時の王様をお芝居で演じなさいって言われたら、イメージできるでしょう」


 うなずいて答えた。


「なんとなく、威厳たっぷりで重々しい雰囲気を出そうとすると思う」


 大きなクラウンを頭に戴き、マントを羽織っている感じ。


「トランプの絵に描かれてるのみたいな?」


「まさしく」


 再び首肯する俺を見て、春菜は笑んだ。


「ではテルが役作りする王様のイメージは、トランプの絵と対応している、ということになるね」


「そうなるな」


 すると分かるのは簡単、とでも言いたげに人差し指をぴんと立てた。


「私が言ってるのは、その歌と景色バージョン。例えば壮大に歌い上げる曲だったら、思い浮かべるのは果てしなく続く青空の大海原。気高く勇ましくだったら険しい山脈」


 可愛くポエミーなメロディだったら小さなコスミレと、なるほど。春菜が言う「得られるもの」とは、つまり歌声という抽象的な表現をする際に参考とするバックボーンのことだ。春の和歌を詠むなら桜花を思え、というわけか。


「雄大さを知らないなら、感じればいいってのが私なりの考え方。以上が私の勝手な持論なのでした」


「おーん」


 ひたすら首を前後させる。ここまで考えがあって歩き回っていたとは、この娘、単なる田舎好きでは済まなかった。どういう感性してたらこんなこと思いつくというんだ。だがしかし。


「回りくどくないか、それ」


 一理こそあるがちょっと感覚に依存しすぎな考えではなかろうか、と俺には思える。


 情景を浮かべながら歌ったり踊ったりするというのは、毎回の表現が不確かなものになるのではと俺は思う。感覚で演技をしている事になるからだ。


 舞台表現というものは幻想の世界を、緻密な計算と高度な論理で創り上げる精緻な芸術だと俺は心得ている。その考えでは上手くいくのだろうか。


「想像力」


 返って来た言葉は自信に満ちていた。


「それで万事解決よ。テルが言いたいのはずばり、「めんどうくさい」ってことね」


「む、そこまで否定的にとらえてないが……」


 いわゆる図星ってやつだ。


 反論しようにも春菜の夢想感覚と俺の現実論理(自称するのも恥ずかしいが)はそもそものベクトルが違うため否定もなにもできやしないし、こちらの持論を押し付けられるほど俺はそこまで我が強い人間でもない。単純に疑問をもった、とでも言っておこう。


「さっき感受性を磨こうって言ったのはそういうこと。自分への戒めみたいなもんよ。考えるのにお金はいらない。慣れたら何ともないわ」


「つまりは」


「考えるな、感じろってね」


 ふーむ。


「なんて顔してるのよ」


 いや、言うべき言葉が見つからないというか、なんというか。


「頭良いこといってるなーって」


「そんな、大したことないわ。テルはどうなの、心構えみたいなのあるんじゃない?」


 そう言った流れで春菜はこう、疑問文を付け足した。


「テルも役者目指してるんでしょ?」


 俺は春菜の方から目を逸らした。


「……まあな」


 だから俺はわざわざ、演劇学科がある芸大に入った。淡々としている自覚はあるが芝居への想いならそれなりにあると思っている。だがモットーを掲げるほど突き詰めて考えたことは無かったというのを、春菜への答えに言いよどんだ自分に気づかされてしまった。


 そもそも春菜は今の考え方に基づいて、福岡で一花咲かせてきたのだ。しかも人を待つ片手間に、スタニスラフスキーの演劇論を踏まえながらシェイクスピアを熟読するような人間でもある。そんな奴に舞台について弁を立てようというのなら、俺はとんだドン・キホーテだ。


 彼女の一つ目の質問にはナッシングと答えた。


「テル、舞台が好きだったんだね」


(たで)食う虫も好き好きだろう、珍しいよな田舎町で芝居が好きなんて」


「だから良いんじゃない。テルがこの町のオンリーワンなんだから」


「ポジティブかよ」


「やっぱそうかもね」


 春菜がうん、と柵の向こうへ腕を伸ばした。


「すぐそこに桜が見えるのに届かない」


「で?」


 俺なりの次の言葉の促し方。


「特に深い意味はない」


 なんやねん。春菜の服の裾を引っぱって引き戻す。


「危ないから止めとけ」


「とっとっと……ぷっ」


「今度はなんだ」


「うぅん、ここにはテルがいるんだなあって」


「はあ? 何を言ってるんだ。俺の地元だぞ、ここ」


「うん、私達の町だよ」


 すると隣の春菜の目元はまたうるんできた。


「……帰ってきたんだ、私。故郷(ふるさと)の町に」


 感受性と言うべきか、情緒不安定と言うべきか。喜怒哀楽のはっきりしている彼女であるが、前向きな姿勢は愛せない物でもない。それに長い間、遠い土地で暮らしてきたのだ。郷里の地を再び踏めたとなれば、その気持ちはなんとなく察せぬわけでもない。


 俺はまたも涙を浮かべるあいつに戸惑いをかくせないが、やはり洒落た言葉もこれまた出ない。ただシンプルに、それでいて無愛想に声をかけるだけはしてやった。


「おかえりんさい」


 その言葉に春菜は嬉しそうな反応を見せた。


「ただいま!」


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