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春告鳥-Boys be ambitious!-  作者: 涼海 風羽
2/5

春告鳥(上)-2

 長々と続く桜道。風はあたたかな匂いを運び、空には花が舞っている。春霞がたなびく山々の残雪は解け、麓の草木に潤いを与える。

 この町にも春が来た。


 最近の変わったことと言えば、世情に大きな変化はない。私的な事でも良いのなら、大学に入学できた。それぐらいしか話題はないが、まあ俺にもようやく春が来たとでも言っておこう。


 駅前ですれ違う人達はすっかりファッションの流行にのっかって、パステルカラーのスカートだとか、シックな色のジャケットだとか、まさに春の通行人然とした恰好で街を明るく彩っている。


 大学もまた似たような感じだ。キャンパスは今日もカラフルに賑わっている。広場を往来する学生達の足取りは軽い。


 そこにひとり、彼女はいた。


 彼女は雑踏のなかで桜を眺めている。立ち姿には気品があり、その線は細い。手元に本を開いたまま桜に見惚れる彼女は絵になっていた。


 風が吹く。あちこちで木々がざわめきだしたとき、俺と彼女の視線は、重なり合った。その目は猫のように大きく、俺をとらえたまま二、三度まぶたを(またた)かせた。


 彼女の手元で、本にしおりが挟まれる。


 その人は軽く息を吸うと、ありえないくらいの声量でブチ切れた。


「おっそぉぉぉぉぉぉおおい! レディーをどれだけ待たせんのよ!」


 木々から小鳥が飛んで逃げた。


 開口一番、春の安閑は突き破られた。揺れる黒髪、赤らむ頬。


 早速ですが頭頂部に平手打ちをいただきました。痛い。すごく痛い。


「レディーが出合い頭に他人(ひと)のおつむを叩くか、普通?」


「うるさいっ! 待たせる方が悪いったい!」


「あぁ、悪かった。しかし、待たせたと言っても数分程度で……」


「数分じゃない、二十五分よ! 正確には二十五分二十五秒!」


「おー、ニコニコで揃ってる。だからお前もニコニコォ~って」


「なるかっ!」


 再び頬がふくらんだ。整った眉がしかめ面に迫力を添え、ぐいぐい俺に迫って来る。身長差に大差が無いゆえ鼻先で凄まれると、流石にのけぞるしかない。


 ……が。


 一分前とギャップがありすぎて恐いというよりは、なんか面白い。待たせた身分で言える事ではないけども。


「それに」──追撃しようとする口をあわてて手で制した。


「ストップ。声のボリュームを落とせ」


「声ぇ?」


 俺の目のやり場に沿って、彼女の目が左右に動く。視界に映っているのは、さっきまで上品だった顔立ち(超ドアップ)と、奇異の目全開なザ・春の通行人たち。


 俺と目が合ったとたんに顔をそらされるのは割とクるものがあった。たぶん、この自称レディーにも同じ光景が見えただろう。衆人環視の中で何やってんだか。


 彼女の膨らんでいた頬は急速にしぼんでいき、替わって気まずそうな表情をその顔に浮かべてきた。俺は近すぎる顔から一歩引いて、


「状況把握、オーケー?」


「……オーケー」


 彼女の親指が弱々しく立つのに苦笑した。彼女は姿勢をしゃんと直して、咳ばらいをひとつ。


「まあ、いいわ。友達に捕まってたんでしょ? テルの事だから」


 本を手提げに収めながらそう言うと、そのまま表情を緩めた。


「まさにその通りだが、いやでも待たせたのは本当にすまなかった、春菜」


 春菜に頭を下げて、手刀を切る。返って来たのはさっぱりした声色。


「いいわよ、テルがそれだけ頑張ってる証拠じゃない? 入学早々、たよられる友達ができるなんて」


「こちらこそ、新参者の友人事情に理解ある先輩がいてくださって、ありがたき幸せですよ」


「ちょっと、先輩はやめてよ。そういうのはナシって言ったじゃない」


 春菜は口をちょっと尖らせた。俺は一年生だが、春菜は二年生だ。


 そういえば、と彼女は唇を動かした。


「テルの入学金、半額免除になったんだって? すごいじゃない、この大学って結構レベル高いのに」


 入学試験の成績上位者に遇される特別措置のことだ。ここ、東京芸術学院大学は毎年の合格者で、上位二割に入る得点をした者に限り、学費の減額または免除をする特待制度を設けている。


 俺はそれでまあまあ点数が取れたので、ありがたく制度の恩恵をあやかれることになった。


「一浪した末に取ったものだし、そんなに偉いことじゃないさ。せいぜい努力が報われてハッピーくらいに思ってる。それより、春菜は何を読んでたんだ?」


「あぁ、これね。シェイクスピアの『マクベス』」


「マクベス? 四大悲劇のアレだろ、読んだことなかったのか」


「ううん」


 春菜はかぶりを振って言った。


「日本語版だったらどこの出版社のも読み終えてる。だから今度は英語版に挑戦してるの。この前レポートにまとめた、『スタニスラフスキーの演劇論』と併せて読めばなかなか楽しめるわ」


「お、おおう。これまた賢そうな趣味をお持ちで……」


 春菜は成績が優秀だ。噂では学内でも図抜けたものらしい。一年遅れで入った俺とは、そもそもの賢さが違う。


 この春菜という女学生は俺の古い友人の一人で、小学生のころ福岡へ引っ越していった幼馴染だ。まさか八年が経った今、大学で再び出会えようとは思いもしていなかった。


 再会したのは入学オリエンテーションの日。個別学部案内なるマンツーマンの相談会に参加した際、俺の対応として現れたチューターが春菜だった。


「それで、テルの用事ってなんなの?」


「あ、そうだった」


 話の流れで忘れかけていたが、春菜は俺と約束していたからここで二十五分二十五秒も待ち続けていたのだ。そのことについては心から申し訳なく思っているが、既に折檻はいただいているのでもう罪は償われたはずだ。話を続ける。


「母さんが、今夜はうちにご飯食べに来たらどうだって。父さんも春菜に会いたがってるみたいだし」


「えっ、ヒロシおじちゃんとマイちゃんが?」


 前者が父の名で、もう一方は母の呼び名だ。俺が肯定のうなずきをすると、春菜の目にさらなる輝きが宿った。


「やったぁ! じゃあ、遠慮なくご厄介になろうかな」


「なんだかんだで、まだ地元に帰ってないんだろ?」


「本当そうよ、ずっと帰りたかったんだ。わぁ、久しぶりだなテルの家。八年ぶり? どう、二人とも元気にしとぉ?」


 春菜はうっきうきしている。しかし俺は、聞きなれぬ語尾に思わず首をかしげた。


「ん、どうかしたの」


「し、シトー? ……それは何語だ」


「えっ」


 ちょっとの間が空くと、春菜は赤面しながら「あ、やば」と漏らしたが、すぐに開き直ってつっけんどんな態度をとった。


「博多弁よ、博多弁。向こうでの暮らしが長かったから、そりゃ身に付くに決まってるでしょ」


「ふーん」


「……笑いたいなら笑いなさいよ」


「いや、べつに。なんか可愛いなーって」


 語尾のあがる小粋な語調が耳にこしょばくって、萌える。と言うか否かの瞬間にわき腹を衝撃がほとばしった。鈍痛はあばらから喉元へ駆け上がり、嗚咽となってこぼれ出た。


 エルボーをくらったのだと理解するには、少々時間を要した。


「からかわないの! さ、早く行こ!」


「オ、オホっ、オフホっ……」


 颯爽と歩き出す背中に何か言ってやりたかったが、俺の口から出たのはせいぜい間抜けたうめき声くらいだった。五分にも満たぬやり取りで二発の打撃を喰らってしまった。


 ……手が出るの早すぎだろ。この春菜と名乗る女は、俺の記憶に残る人物と別物であるまいか。


 だが、そうだったら、入学説明の日に俺の名を見て驚くはずがないし、俺の父母を知るはずもない。それに……俺の名をこう呼ぶ人は他にいない。


「テル! 何やってんの、はやくはやく」


 振り返って手招きする春菜に、俺はすごすご後を追うばかりであった。考えても間違いない、あいつは春菜。俺の幼馴染の一人である。昔は突けば折れてしまいそうな少女だったのに、なんという変貌ぶりだろうか。


 現実逃避に並木へ目を遣る。あぁ……桜の花がきれいだな。


「あと、遅れたんだから罰として何かおごってよね?」


 それすら許さぬと言わんばかりに、現実へ引き戻すこの強気な一言。


「だが断る」


 とはとても言えなかった。こいつ、福岡でどんな生活していたんだ。


 余談だが彼女の肘はナイスな部位に入ったらしく、俺のわき腹は駅に着くまでうずいていた。





 俺の実家は都心から離れた郊外にある。電車に揺られること一時間。車窓は景色をどんどん流し、高い建物などはもう窓枠の中には見えなくなっていた。


「へぇ、ここらへんはあまり変わってないんだね」


「あまりっていうか、全然だな」


「ふーん。そうだっけ?」


 右隣に座っている春菜は、向かいの窓から景色を眺めている。かたわらに手土産の菓子が置かれて、手には俺からの慰謝料であるカルピスウォーターが後生大事にぶら下がっている。


 窓から見えているのは広々とした田園地帯。晴れた空に新緑がよく映える。


「いやでもこの電車、昔に比べたらだいぶ綺麗になってるよ」


「さいですか」


「懐かしいなぁ。あっ、あの川。小さいときテルが連れてってくれたよね」


「おう、そうだったな」


「わぁ、見て見て! あの老人ホームまだあったんだ!」


「お前もうちょっと大人しくできないのか」


 大きな黒目が、らんらんと輝いている。毎日見ている景色にいちいち感動されるとは。地元を出た経験のない俺には理解しかねるが、そこらの電柱や老人ホームはさぞお喜びのことだろう。


 ただ、周囲のお客様のご迷惑となりますのでどうぞお静かに。


 大学の最寄り駅から俺の暮らす町までは、鉄道のローカル線をいくつも乗り継いでようやくたどり着くことができる。そこは世に名も知られぬ、都内に隠れた場末の町だ。そう形容するというのも、この町は周囲を低めの山や小高い丘が囲うように横たわって、時勢の波など届かぬ辺境となっているからだ。

 

 まさにへんぴな田舎だが土壌はどうやら肥沃らしく、丘陵が根を下ろして作る円の内には広大な田園が広がっており、その端に貼りつくように住宅地が点在している。農作に必要な水も、山々から小川が何本も流れているおかげで事欠くことがない。


 人いきれを感じないこの町は、緑の原風景が多くのこり、風通しもよく、空は高い。しかもこの季節に限っては、川沿いに桜が咲き並んでいて春うららをなしている。これを写真に収めるために、わざわざ訪れる人もいるんだとか。


 まあ、とにかく自然豊かで平穏な町というのは間違いないし、俺も静かで安穏なのは嫌いではない。


 幼い頃は町全体をレジャーランドのように駆けまわっていた。友人たちと丘の上まで競走したり、川で水切りをして遊んだりはいつもの事。手からすっぽ抜けた石が野良犬に直撃し、散々追い回された思い出なども少なくない。


 駅からバスに乗り替え、一〇分ほどかたい座席に座っていれば家の近くまで運んでもらえる。これは三年前から地域の自治会が運営を始めた、コミュニティーバスと呼ばれる安価な交通機関だ。田圃ばかりの町にこの存在はありがたい。自治会よ、ありがとう。


 バス停から歩くこと更に五分。天穂日命(アメノホヒノミコト)とかいう神を祀ったお社や、個人経営のコンビニなど小さな商店を横切って、ようやく自宅が見えてくる。


 それまでの間、俺と春菜の間に会話が無かったわけではないが主として彼女が地元を懐かしむものだったり、俺に遅刻のつぐないの品をさらに要求するものだったりしたので割愛させてもらう。


 俺の実家はかつて大規模な地主だったと聞いている。父の話では曾祖父の代には、ここら一帯の土地をたっぷりと持っていたらしいのだが、戦後GHQによる農地改革政策が我が家にも適用され、土地の大半をごっそり買い上げられたのだとか。


 その結果残ったのは少しの田畑と、今俺達の目の前に鎮座する無駄に立派なご邸宅。


「相変わらず歴史と風格を感じるわね、テルの家」


「ところがどっこい、その実態は一般家庭」


 時代劇に出てきそうな平屋建てを、やりすぎたくらいに縮小コピーしたような日本家屋は……うん、まあ、たしかに雰囲気だけは旧家のそれっぽくはある。自分の家ながら家譜の委細に明るくないため、いまいちピンときていない。


 玄関前には石塀の末端として肩の高さ位のゴツい石柱が二本対で建っており、その一方に『三山』と書かれた木の表札が貼られてある。


 俺と春菜は門前に水打ちがされているのを確認し、その間を通った。塀のふちの道端にはタンポポの花が咲いていた。


 ようこそ我が家へ。


「ようこそいらっしゃいました。照幸(てるゆき)の母、麻衣子(まいこ)でございます。春菜さんの事は息子より伺っております。八年ぶりになりましょうか、お久しゅうございますね」


 家の玄関をくぐると、着物姿の母さんが廊下の奥から姿を現した。隙の無い所作で上がり框に端座すると、すっと三つ指をついて頭を下げた。


「ご無沙汰しております。この度はお招きに預かり、誠にありがとうございます。お陰様でつつがなく過ごせて参りました。こちら、つまらぬものですがどうぞお召し上がりください」


 石三和土(たたき)に立つ春菜も、負けず劣らず芯の通った物腰でねんごろに一礼をすると、菓子包を袋から出してうやうやしく差し出した。


「これは大層なものを。ありがたく頂戴いたします」


 手土産を受け取った母さんは大事そうに箱をそっと膝の上に置くと、春菜の顔を見て微笑んだ。


「春菜さんとは知己の仲と言っても過言ではありません。今宵は三山家一同で歓迎します。本日は、お忙しい中、よくぞお越しくださいました。」


 母さんが柔和な笑みを浮かべると、しめやかに再度辞儀をする。今度は深い。


「恐悦至極に存じます」


 それを下回るように頭を深く下げた春菜。


「いえいえ、こちらこそ」


 さらに母さんは床に頭を沈める。


「いえいえいえ、どうぞどうぞ」


 春菜。


「いえいえいえいえ……」


 母さん。


「いえいえいえいえいえ……」


 二人の頭はどうしたもんかと聞きたいくらいに下がり続ける。そしてついに春菜の腰の角度が九十度を突破した。対して母さんは床に額をつけたまま尻を上げることによって、頭の低さを強調しだす。


 うん、玄関で何やってんのこの人たち。


 その真ん中で挟まれている俺は、一体どうしたら良い?


 止めるべきか。はたまた参加すべきだろうか。


 とか思っていたら、いえいえ合戦はハタとやんで二人は急に真面目な顔になっていた。


「さて、挨拶を済ませたことですし……春菜ちゃん」


「……はい」


 ……今度は何をする気だ。


「おっかえりなっさーーーーぁぁぁぁぁい!」


「マイちゃーーぁぁぁん! 帰ってきたよぉぉぉうわーーああん!」


 二人はぶつかるように抱き合って熱い再会を果たし始めた。危ない、一歩退くのが遅かったら挟まれているところだった。


「元気にしてたかしらぁぁぁあああ!」


「もちろん! めっちゃ元気やったぁぁああ!」


 取り残される男一匹。だから玄関で何やってんのこの人たち。春菜からは博多弁と思しき(なま)りも漏れている。


「照幸から聞いた時は驚いたわ。春菜が東京に帰って来てたーって。家中が大騒ぎだったのよ」


「えへ……本当は去年のうちに挨拶に来たかったんだけど、想像以上に大学が忙しくって。ごめんなさい」


「良いのよ良いのよ。こうして今日、元気な顔を見せてくれたんですから」


 それから母さんは俺の真顔でたたずむ姿を見て「あら」と言うと、春菜の頭に手を乗せた。


「春菜ちゃん、おっきくなったわねぇ。身長いくつになったの?」


 ……背丈を見比べられたのね。


「今ね、一六五だよ!」


「やだ、照幸と同じじゃない。もぉ~すっかりお姉さんになっちゃって」


 おい、同じではないぞ。俺の方が二cm高い。……今はヒールの差でちょっと抜かれてるけど。


 玄関は二人の笑い声にすっかり支配された。このまま母さんと春菜をほっといても、延々とこの場で話し続けていると思う。感動の再会に水を差すようで申し訳ないが。


「母さん、早く春菜を入れてあげなよ」


「あらやだ私ったら、ここが玄関だってこと忘れてたわ」


「もぉ、マイちゃんってばぁ!」


 おどけた母さんの言葉で、春菜が涙すら浮かべて腹を押さえている。


「さ、二人とも、上がった上がった。とりあえず奥の客間でも使って」


「はい。おじゃましまーす!」


 母さんは音もたてずに立ち上がると、一足先に引っ込んだ。お茶を淹れに行ったのだろう。案内役は、どうやら俺に任されたらしい。春菜は元気よく声を張り上げると、三和土に置かれた沓脱石(くつぬぎいし)に乗った。


「相変わらずマイちゃんの所作は綺麗よねぇ……さすが日舞だわ」


「日本舞踊の先生を略さないでやってくれ。春菜も前は習いに来てたよな」


「うん。マイちゃんには憧れちゃうわ。ザ・日本の女性って感じだし」


 どうやら俺の母親は春菜にとって理想の御仁らしい。母さんは地域で日本舞踊の講師をしている。流石その一挙手一投足は大和撫子たるものとして、たしかに極まれる物である。と、息子は思う。


 だがしかし、まごうことなかれ。我が母・三山麻衣子の真の姿は、今しがた春菜とすさまじい熱烈問答をハイテンションで繰り広げていた方だ。


 そう、俺の母親は……とても明るい。言い方を変えれば「ひょうきんもの」でも語意は通じるかもしれない。よって春菜を迎えたときの慇懃丁重な言葉と所作は、母さんなりの洒落だったのだろう。


 用意されていた来客用スリッパを春菜に勧め、俺も自分の物を履き、家の奥へと先導した。我が家の廊下は長い。


 ちなみに春菜による靴を脱いでから端に揃えるまでの所作一連も、おどろくほどに流麗だった。


「あぁ……やっぱり落ち着く、この和室」


 腰を下ろして春菜は湯のみを一口。大きな目がふにゃりと細まる。俺も続いて傾ける。熱い緑茶を、ずずず。……お茶が美味え。


 母さんが笑いかける。


「昔は稽古終わりによくここで、お喋りしていたわね」


 春菜を通したのは八畳の一室。二面が障子張りで、部屋の真ん中にはこげ茶色の机と座布団が。開け放された濡れ縁から涼風が吹き抜けている。


「小学校の友達と一緒に残ってた。テルもその中に入ってたよね」


「たまにな」


 あの頃の俺は放課後を日舞の稽古に捧げたりなどしないで、ただただ自由を謳歌していた。春菜が扇をかしげている時、俺は悪友たちを引き連れて野山を駆けずり回っていた。


「今でもお稽古は毎日あってるの?」


「いいえ、毎日はしていない。近頃は週末に、近所の奥様方と集まってやっているくらいかしらねえ」


「そうなんだ。もう教えてるのは大人だけ?」


「大人ばかりねぇ、たまにちっちゃい子を連れてくる人もいるけど。前みたいに、子供に若さを吸い取らせるなんて出来ないわ」


「そんなぁ、マイちゃんまだ若々しいよ。肌も綺麗だし。さっき玄関でびっくりしちゃった」


「ふふ、嬉しいお世辞をどうもありがと」


 母さんがお茶をすするのにつられて、春菜と俺も動きを同じくする。お茶から熱さが少し引いて、上品な甘味が現れてきた。


「福岡ってどんな所なの? テレビじゃ食べ物とか、戦国武将とかが有名らしいけど」


 母さんがたずねた。知ってるぞ、修羅の国だ。


 春菜は言いたい事をまとめているらしく、えーとね、と小首をかしげてから言った。


「まず、建物が高いかな。博多とか、天神とか、若い人向けのショッピング街がいっぱいある」


 へぇ、と母と子そろって声を漏らす。博多は聞いたことあるが、天神とはどんな街なのだろう。菅原道真公の銅像でも建っているのだろうか。


「それにね、外国からもたくさんの人が観光や留学で来てるよ。東京に引けを取らない、インターナショナルな雰囲気がある」


 再び、へぇ。九州なんて南の果ての未開の地、などと考えてなかったこともない。話を聞くに、先進した文化や文明があるらしい。いやはや、大変なご無礼を働いていた。まことに参りました。


「スイーツも豊富だよ、たとえばね……」


 さすがイマドキの女子大生だけあって、朗々と語られる土産話はいかにも女の子が楽しめる内容だった。よその文化は興味をそそるが、服や甘味の流行に話が移ると、その辺に疎い俺は途端についていけなくなった。


 流行にノれない系男子は、春菜の方に時折目をやりながら、正面に見える庭から雲の観察へとなけなしの興味を向けていた。外はのどかな天気だ、空が青い。


 春菜が土産に持参した煎餅(せんべい)がお茶をどんどん進ませる。我が家の趣向を覚えていたとはさすがだろう。


 四十分ほど、かしまし娘たちの間に飛び交う笑い声に付き合ったところで、年長者の方が湯のみ茶碗を手に立ち上がった。


「さて、続きは晩御飯の時にお父さんも入れて話しましょう。そろそろ今夜の支度をはじめなきゃね」


 若い方もすばやく腰を上げた。


「あ、私も手伝うよ」


「ありがとう。でも折角だけど結構よ。あなた達は外で散歩でもしてきなさいな」


 母さんの視線の先には俺も含まれている。慌てて俺はさっきお代わりした三杯目の緑茶を飲み干した。茶碗を仰ぐかたわらで、春菜が首を振っていた。


「いやだって、私が厄介になる方だし、なんだかわるいよ」


「なに言ってるの、春菜ちゃんは歓迎される側なのよ? ゲスト様には何から何まで歓迎させてちょうだい」


「ゲストって言われても、私は昔からここに出入りしてる人間だし……」


 指を組んでもじつかせながら春菜は言う。


「それだからこそよ。『親しき中にも礼儀あり』ってね。今日くらいは、予が帰って参ったぞ、者ども宴を催せや。くらい豪快に振る舞ってくれてもいいのよ?」


 それだと今口にした諺と矛盾するのでは。まあ、言うまでもなく冗談だろう。母さんはお盆に三人分の茶碗を乗せて立ち上がった。


「お気遣いありがと、良いお姉さんになったわね」


 春菜に優しく笑いかける。春菜は褒められたのが嬉しいのか、少し照れた顔をしている。


 ……んっ。


「来るときに見たと思うけど、外は桜がきれいよ。二人でゆっくり巡ってらっしゃい」


「うん……ではお言葉に甘えさせていただきます。お茶、ごちそうさまでした。テル、行こ……って、何してんのよ」


「茶柱がのどに引っかかった」


 春菜が振り返ったとき俺は激しくむせ悶えていた。お茶を一気に流し込んだために、茶葉の欠片が口の奥に貼りついたのだ。急須の底の茶は苦い。


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