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エゴイズム

作者: 真城

人というのはエゴの塊と人は言う。しかしエゴを捨てろと人は言う。エゴとは利己主義という意味で、わかりやすく言えばエゴが強いということは自己中心的な人間だと言う事だ。この「自己中心」という言葉を人は基本的に嫌い、自分はそうでない様にしたいと振舞う。

しかし利己主義、自分の利益や得になる事を指すならば自己中心的な振る舞いをしないという考えも同じではないだろうか?自己中心的な振る舞いをしたくないという言葉の中に、嫌われたくない、嫌な人間に思われたくない、などの気持ちが含まれているならそれこそ利己主義ではないだろうか?


人に迷惑をかけたくないから自己中心的な考えは捨てたい。と考える人もいるとは思う。しかしこの人に迷惑をかけたくないというのも利己主義に当てはまるのではないだろうか?なぜ人に迷惑をかけたくないか?という部分から考えると、嫌われたくない、嫌な人に思われたくない、好かれたい、自分がされたら嫌だから、どうだろう?全て自分にかえってくる、自分の利益そのものではないだろうか?


でわ迷惑をかけて自己中心的に生きてもいいのかと言われればまたそれはマナーやルールの問題になってる。しかしこのマナーやルールもまたエゴで作られた物である。ただエゴと違うのは利己主義ではないのだ。マナーやルールは自分にとって得かどうかはわからない、しかし決められている事だから守らなくてはならない。ルールは決して自分に都合が良いことばかりではない、場合によってはルールによって自分が損をしてしまう場合もある。でわマナーは?マナーに関してはその中間ではあるもののエゴとは全く別物である。マナーというのは相手に対しての振る舞い。自分を良く見せる事もマナーであり、自分を下げて見せる事も時にはマナーである。しかしマナーというのはその場その場の変幻自在なものであり、育った環境や文化、いる場所によって無数に変化するものであって確立しているマナーというものは少ない。もちろんマナーを守らなくていいという事ではないが、無数あるマナーの中でマナーを強要してしまう事こそエゴと言えるだろう。マナーとエゴはよく似ていて、エゴも変幻自在なものである。表を表というのをエゴな場合もあり、表を裏というのもまたエゴと言われる事もあるだろう。


エゴというのはつまり誰にでもあり、自分のマナーもルールも自分の中だけにあるものならばそれはエゴかもしれない。

人はエゴと言う言葉、自己中心的という言葉に嫌悪感を抱き、それはエゴだと言われると否定する人が多いだろう。しかしエゴとは誰にでもある物であって人からエゴを取るということは出来ない。つまりは自分のエゴというものを受け入れる事、誰にでもあるという認識が必要だと思う。エゴを押し付けるなと人は言うけれどそれすらもエゴであり、結局人はエゴの押し付け合いをしているのだと思う。エゴという言葉に嫌悪感を抱かずエゴのぶつけ合いをしている、意見を交わす時に

「これは自分のエゴだ」というのを恥じずに受け入れる事が大事ではないだろうか?

全ての人がエゴという言葉を受け入れれば相手のエゴを受け入れる事、相手を認める事も容易になるのではないだろうか

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