奇跡を紡ぐ少女2
それからも二日余り、二人の道程は何も問題無く進んでいった。
しかし行けどもまだ樹海の終わりは見えず、豊富な実りのお陰で食料に困ることは無いとは言え、さすがに気力が尽きてくる。
もっと深刻なのはミリカの体力で、昼間は弱音も吐かずに明るく振る舞ってはいるものの、夜になると意識を失ったのではないかと心配になるくらい急速に眠りに落ちていた。
この日の夜は岩壁に小さな横穴を見付けたので、奥に草を敷いてミリカを押し込んだ。むき出しになっているよりは安心して眠れるはずだ。
穴の外でセディルが火を起こしていると、ミリカが半身だけ出して尋ねてきた。
「セディルはどうするんですか?あの、私すぐに寝てしまっているので分からないんですけど、もしかして寝ていないんじゃありませんか」
「そんな訳ないだろ。ちゃんと寝てるから心配すんな」
火の中に枝を放り込みながら笑って答えるが、内心ではミリカの意外な鋭さに少し焦っていた。
彼女の言う通り、実はあまり寝ていない。戦う術を持たない少女を連れて、夜の森で無防備に意識を手放す訳にはいかないだろう。
ミリカはまだ疑わしそうにしていたが、それ以上は聞かずに穴に潜る。すると姿は見えないまま、その闇の中から小さな声で問いかけてきた。
「ミディアルは大丈夫でしょうか」
「どういう意味だ?」
質問の意味を図りかねて問い返すと、ミリカは少し答えに間を開ける。
「…私がセロスルードを離れてしまったことで、彼に迷惑がかかっていないといいんですけど」
「それを言うなら、そもそもお前が抜け出したいって思わなければ良かったって話になるぞ」
「そうですね……すみません」
ミリカの声が更に小さくなったので、セディルは苦笑して声音を和らげた。
「俺に謝ることないだろ。ただ過ぎたことを悔やんでも仕方ないんだ。お前に今出来ることは、しっかり休んでミディに元気な姿を見せることだな」
「はい。ありがとうございます、セディル」
セディルの言葉に安心したのか、それとも体が言うことを聞かないほど限界に近いのか、間もなく横穴の奥からミリカの細い寝息が聞こえてきた。
それを確認すると、セディルは剣を抱えて穴の横の壁にもたれかかる。今夜も寝ずの番をするつもりだった。
(…とか言う俺も、いつまでもつのかね)
依頼によっては不眠不休のもっと過酷な状況もある。体力には自信があるが、それは自分一人でいる場合だ。守る者―――それも非力なお嬢様を抱えた状態では消耗も早いだろう。
セディルは空を仰いで星を見ようとするも、重なりあった木々の葉が邪魔をして上手く読めなかった。断崖を辿っているので方向に間違いはないはずだが、代わりばえのしない景色は距離感を狂わせるので、どのくらい歩いてきたのかが分からない。
このままでは本当にミリカがもたない―――そう考えて目線を下に降ろした時、セディルの耳に異質な音が届いた。
息を殺して周囲の闇に目を凝らす。
小さな虫達の鳴き声に、焚き火で枝がはぜる音、背後からはミリカの微かな寝息。それらの音に混じって何かが忍び寄ってくる足音が聞こえるのだが、その姿が全く見えない。
だがそれこそがアンノウンがいる証拠だった。影の獣は夜の闇の中では周囲に溶けてしまうのだ。
セディルが剣を抜いて立ち上がると、向こうも火が照らす明かりの中に姿を現した。始めに一体の黒い影―――しかし後から次々と現れて、気付けば六体のアンノウンに囲まれていた。
「俺も実は相当疲れてたのかね…こんなに近付いて来るまで気付けないとはな」
舌打ちして剣を構える。少しでも気を抜けば、その瞬間に喉笛を食い千切られてしまうだろう。それほどにアンノウンは素早く獰猛だ。
先手必勝とばかりに、意を決してアンノウンの一体に剣を突き出す。相手は横に飛び退いてかわすが、それはセディルの狙い通りだった。アンノウンが移動して空いた隙間を一気に駆け抜ける。
素早い敵はすぐに追い付いて再びセディルを囲もうとするが、次の狙いは逃げることではなく、アンノウン達を少しでもミリカから引き離すことだった。
セディルは適度な広さの空間を見付けると、そこで立ち止まってアンノウンを待ち構えた。向かい合うと相手も歩みを緩めて警戒の色を見せるが、じわじわと包囲は狭められていく。
「来いよ。まとめて相手してやる」
それはほとんど虚勢に近い言葉だったが、セディルは本気でこの場を切り抜ける気でいた。ここでやられてはミリカも助からない。自分達を案じているはずのミディアルに、何としても彼女の無事な姿を見せなくてはならないのだ。
一体のアンノウンが均衡を破って動くと、他の五体も一斉に飛びかかってきた。
セディルは全身の神経を尖らせて剣を振るった。後ろの一体の牙を弾き、前の一体の爪を避ける。それでも視界の端で黒い影がかすめ通る度に全身に傷が増えていく。
だがセディルは討伐依頼を受けて何度もアンノウンと戦っていた。さすがに一人で六体を相手にするのは初めてだが、何度か攻撃する内についに隙を見付ける。
「くらえっ!」
そこを見逃さずに振り下ろした一閃がアンノウンの胴を断った。黒い体が宙に消える。
一体が消えたのを見届けた時、剣の切っ先が僅かに重くなったように感じた。自分でも気付いていなかった疲労が、安堵感で表に出てきてしまったのだろう。
下がった剣先を戻そうと意識した瞬間、ふいに頭に衝撃が走って視界が揺れる。アンノウンの爪が額をかすめたのだと分かった時には、目の前に鮮血が飛び散っていた。
それほど深くは切れていないものの出血が多く、目に入って視界が霞む。気付いた時にはその場に片膝を突いていた。
(やべぇ…くそっ!油断した)
片目でもアンノウン達が周囲を取り巻いたまま近付いて来るのが分かった。
そこへ、セディルの心に更なる絶望を植え付ける声が届く。
「――セディル!どこですか!?」
包囲の向こうから聞こえる足音とその声に、荒い息を無理矢理おさめて闇の中に叫んだ。
「来るなミリカ!そのまま逃げろ!」
しかしそれは逆にセディルの位置を彼女に教えてしまうことに繋がった。月明かりの中にミリカの姿が現れる。
ミリカはアンノウンの群れを見ると小さく悲鳴を上げて立ち止まったが、群れの中心で膝を突くセディルを目にすると駆け寄ってきた。
アンノウンも増えた獲物を止めようとはせず、ミリカを通した後に再び囲いを狭める。
「セディル、血が沢山出ています!大丈夫ですか」
ミリカはセディルの横に膝を突くと額の傷に手を伸ばしたが、セディルはその手を払いのけた。
「お前…馬鹿にも程があるだろ!状況が分かんないのか!何で来たんだ!?」
「ご、ごめんなさい…目が覚めたらセディルがいなくて、何かあったのかと思ったらじっとしていられなくて」
ミリカは払われた手を押さえ、ビクリとして身を引く。こんな風に怒鳴られた経験など無いのだろう。驚きと怯えがその声に滲んでいた。
その間にもアンノウンの包囲は狭まっていく。セディルが剣を支えにして立ち上がろうとした時、その手をミリカの細い指が押さえた。
震えながらも強い力がこもっている。うつむいた顔は恐怖の為か月明かりの為か青白く浮かび上がり、赤みの引いた唇を引き結んでいた。そこからか細い声が漏れる。
「私は何も知りませんけど、一つだけ分かっていることがあります。ここで貴方がいなくなってしまったら私も助かることは出来ないということです。それならどこにいても同じです」
押さえる手に更なる力がこもる。その非力な指が色を失うくらい強く握られているのを見て、セディルは彼女の震えの理由に気付いてハッとした。
それは恐怖ではなく、何か決意を固めた緊張から来る震えだった。
「…でも、それでは駄目なんです。きっとミディアルは私達が帰るのを待っています。私達は無事に彼の所へ戻らないと!」
「お前…」
セディルは開く片目でミリカを見つめる。彼女も同じことを考えていたと知って驚くと同時に、こんな状況なのにちょっとおかしくなった。
お互いに相手をミディアルに会わせようと考えていた。セディルはひたすら非力なお嬢様を守っているつもりでいたが、まさかその無力な存在が自分を守ろうとしていたとは微塵も思わなかったのだ。
ミリカは震える手を自らの胸に当て、深く呼吸を整えた。
「だから私に出来ることがあるなら、しなければいけないと思ったんです―――私に出来ることはこれだけですから」
彼女が目を閉じた瞬間に、空気が震えた。
――ゼーレンティス・セ・フィーリア・エン・タティア・インク・カ・シュア・レーディヒ・マ・フィア……
断崖で歌っていた歌だ。何度聞いてもセディルにはどこの言葉か分からない。けれどミリカの高い声から生み出される涼やかな音色は、初めて聴く者にもどこか懐かしさを覚えさせる優しさに満ちていた。
すると、セディルの目の前で信じられないことが起こった。
ミリカの歌が音の波となって広がっていくにつれ、アンノウン達が動きを止めたのだ。死んだ訳でも無く、五体共ただの黒い彫像になってしまったかのように、揃ってその場に伏せてジッとしている。
呆然としていたセディルがゆっくり立ち上がっても、まだアンノウン達はそのままだった。
ミリカが歌うのを止めて立ち上がる。
「セディル、今の内に離れましょう」
「お前、一体何を…?」
「今は急いで下さい。しばらくすればまた動けるようになってしまうんです」
真剣なミリカの声に、この効果はそれほど長く続くものではないことが悟れた。それでもアンノウンを歌で鎮めるなど聞いたことがなかったセディルは、まだ信じられない思いで周囲を見回す。
彫像となったアンノウンの囲みを抜け、二人は断崖からも離れて歩き続けた。進んでいく内に、セディルは自分の呼吸がますます荒くなっていくのを自覚した。
体の傷は大したことないが、額からの血が止まらずに拭ったそばから流れてくる。激しい呼吸がどこか他の場所から聞こえるように錯覚した頃、セディルはついに再び膝を突いてしまった。
「セディル!大丈夫ですか!?」
「ははっ…だせぇな。ちょっと血が足りなくなってきたみたいだ」
「少し休みましょう」
「そうもいかねぇよ。血の臭いで他の獣が寄ってくるかもしれないんだ」
そんなことを言った矢先に、セディルは自分達以外の存在の気配を感じてその方向を見た。それとほぼ同時に大きく葉が揺れる音がする。
ミリカがビクリと肩を揺らしてセディルの服を掴み、セディルは舌打ちして剣の柄を握った。
「――誰かいるのか?」
しかし二人の予想に反して、投げかけられたのは人の声だった。ミリカが顔を輝かせる。
「人です!人が来ますよ、セディル。助かりました」
嬉しそうにはしゃぐミリカに対して、セディルは貧血と助かった安堵、そして今の声をこんな所で耳にした驚きで動けなかった。
やがて現れた筋肉質な壮年の男を見て、セディルは今自分達がいる位置に見当が付き、思わず苦笑した。
「マジかよ…アドルのおっちゃんがいるってことは、ここはヘッセルの近くか」
「セディル!?お前セロスルードに行ったんじゃなかったか?どうしてこんな所にいるんだ」
たくましい体で窮屈そうに木の間を通りながら、男も驚いて近付いて来る。ミリカは何が起こっているのか分からずに男とセディルを見比べていた。
「そうか、ヘッセルから帝都に行くのに山一つ迂回するんだもんな…真っ直ぐ転がり落ちて進めば近道って訳か……」
そこまで考えたところで、セディルの視界が急速に霞んだ。今度は抗えずに地面へ倒れ伏す。
「転がりって…お、おいセディル!?えらい血じゃないか。えっと、あんたこいつの彼女か?ちょっとモームのとこまで運ぶの手伝ってくれ」
「え?は、はい!」
そんなやり取りが遠くの方で聞こえたのを最後に、セディルの意識は途切れた。