奇跡を紡ぐ少女
「セディル、見て下さい。綺麗なお花ですよ。これは大丈夫ですよね?」
うららかな昼下がり。緑濃い森の中、木漏れ日の下ではしゃぐ愛らしい少女―――そんな絵になる光景に向けて、セディルはもう何度目か分からないうんざりしたため息を吐いた。
「だーかーら、この辺の植物は綺麗なものほど触るなって言ってるだろ。それはクルニアの花だ。触ると指先から痺れていって呂律が回らなくなるぞ」
「は、はい!すみません。セディルは物知りですね」
(お前が物を知らなすぎるだけだろ…)
ミリカの心底感心しているらしい様子を見て、呆れ果てた突っ込みは内心に止めた。
クルニアの毒性くらい子供でも知っていることだ。稀に種が飛んできて町中に自生していることもある為、親や周りの大人達が教え込んで自然と受け継がれていく、生活の知恵のようなものだった。
しかしそんなことも知らないくらい知識が無いのかと思いきや、話してみると土地の名称や帝都の歴史、芸術や音楽などに関しては驚くほど詳しかったりする。
つまりこのミリカ=タリアというお嬢様は、貴族に必要な社交的知識に偏った生粋の箱入りなのだった。
(尊敬するぜ、ミディ…よくもまぁ、こう住む世界が違う人間と関わろうと思ったもんだ)
既に半日一緒にいるだけで疲れてきているセディルは、鈍く痛み始めたこめかみを押さえて上の大地にいるはずの友人を労った。
アンノウンや他の獣を避ける為、二人は辺りがはっきり見えるくらい明るくなってから本格的な移動を開始した。
広大な樹海で闇雲に歩けば瞬時に迷ってしまうので、落ちてきた断崖に沿って迂回するように歩く計画だ。上手くすれば帝都セロスルードの方に向かえるし、直接そうはいかなくても断崖の端まで行けば樹海を抜けられるはずだった。
敵の気配も無く、喉が乾けば周囲でたわわに実る果実をもぎ、柔らかな地面が足の疲れを感じさせない非常に順調な道のりだった。
その為か、二人はいまいち遭難しているという緊張感に欠けている。特に滅多に外へ出ないというミリカは、緊張どころかこの状況を楽しんでいるようにさえ見えた。
「あ、蝶がいます。羽が青くて綺麗ですね、セディル」
今度は花から蝶へ関心が移ったらしい。子供のようにくるくると興味の先が変わる依頼主の首に紐でも付けたい気分になりながら、セディルは曖昧に頷いて返した。
その青銀の目には密かに観察するような光が浮かんでいる。
(箱入りならそれらしく淑やかにしてくれればいいのに、好奇心だけは人一倍旺盛ときた。これは自分の意思で深窓のご令嬢やってた訳じゃないな)
「…抜け出したくもなるってことか」
ボソッと呟いた言葉は、新たな関心の対象を見付けたミリカの耳には届かなかったようだ。
「セディル、あっちに何かありますよ。行ってみましょう」
「おい!お前なぁ、もう少し依頼主としての自覚を持ってく…」
いい加減文句を言おうとしたセディルだったが、そこにあったものを見て言葉を途切れさせた。
密集する木々の向こうに突如開けた空間―――そこに小さな石を積み重ねた塊や白い岩が点在している。よく見ると、それらはかつて壁や柱だったのだろうと思われる人工的な建造物の残骸だった。
何か争いでもあったのか、どれも破壊されて元々の建物の形状は全く分からない。奥に唯一、かろうじて四本の柱が立って残っている箇所だけは中心に台座のような物があり、何か大事な物を据えていた東屋だろうと推察できた。
「何だこれ…こんな場所に廃墟か?」
「遺跡じゃないんですか?」
ミリカが周囲を見回しながら尋ねてくるのに、セディルは首を振って答える。
「いや、それにしては新しすぎる。せいぜい放置されて二、三十年くらいだろ。それよりも、樹海の中にわざわざ住み着く連中がいたってことが信じられないな」
セロスルードのネズミ街のように、正規の市民権を持たなくても町で暮らすことは出来る。多少惨めな思いを味わっても、アンノウンがうろつく危険を考えれば外とは比べるまでもないはずだった。
だがここには確かに人がいた形跡がある。
「ここにいた人達はどこへ行ってしまったんでしょうか?」
ミリカが至極当然な疑問を口にした。しかし対するセディルに答えなど分かるはずもない。
「さぁな。やっぱ暮らしにくくて森を出たのか、それともアンノウンの群れにでも襲われたか、はたまた仲間割れを起こして互いに殺しあったとか……あ」
つい凄惨な可能性ばかりを挙げてしまい、ミリカの顔色がみるみる蒼白になっていくのに気付いたセディルは慌てて口をつぐんだ。
「とにかく、普通の奴らじゃないってことだな。昔はよく独自の生活圏を持つ少数民族がいたとか言うけど、もしかしたらその類いじゃないか?」
取り繕う為に口にしてみたが、あながち間違いではないように思えた。
現代までどの程度の民族が生き残っているのかは知らないが、いるとすれば自分達の生活を阻害されないように隠れ住もうとするのではないだろうか。残された台座も、独自の宗教を持った民族が神の偶像を祀っていたとも考えられる。
「――アン・ダ・タール・ワ・フェア・インディスターニア・エラ…」
自らの予想に満足していたセディルは、ふいに歌い出したミリカを見た。改めて聞いても上手いが、唐突に歌い出したので少々呆気に取られる。
声をかけるタイミングを失って、頭を掻きながら首を巡らせた時だった。
視界の端に先程までは無かった妙な色が映り込む。目をやると、何も無かった台座の上に人影が現れていた。
蜃気楼のように輪郭が曖昧なそれは色黒の子供のようだが、細い手足の長さのバランスは大人のようにも見えた。あぐらをかいて微動だにしない。
「おい、ミリカ。さっきあんなのあったか?」
ミリカは声をかけられたところでピタリと歌を止めて「え?」と聞き返す。セディルの指差す方向を見て首をかしげるので、いまいち噛み合わないテンポの悪さに少し苛立ちながら台座に近付こうとした。
しかし、掴んで差し出そうとした人影は綺麗に消えている。
「…ヤバい。俺疲れてるのかも」
「え!?だ、大丈夫ですか?私が負担をかけてしまっているからでしょうか」
「そういう事じゃ…何でもない、悪かった。それよりお前も何で急に歌い出したんだ?」
「あ…ちょっと亡くなったお母様のことを考えてしまいまして。すみません」
ミリカは照れたように笑みを作る。しかしどこか寂しげな微笑みに、セディルは幻を見た気まずさも相まって頬を掻いた。
「悪い。何か思い出させたか?」
「そんな事ありません。私が五歳くらいの時に亡くなってしまったので、むしろよく覚えていないんです。セディルは養護施設で育ったと言ってましたけど、ご両親の顔は覚えていますか?」
逆に問い返され、セディルはちょっと悩んだ後で首を振った。
「いや。つーか、俺は施設で生まれたんだ。俺の母親はある日突然施設の前に倒れてて、臨月なのに意識もろくに無いくらい弱ってたらしい。それで事情も何も聞き出せないまま、数日後に俺を産んで死んだんだとさ。だから顔どころかどこの誰かも分からないんだ」
セディルの母が死んでいると言った時にミリカが息を飲むのが分かったが、彼女は何も言わなかった。それでも似た境遇の者同士と分かり、僅かに細めたまなざしに親しみがこもる。
成り行きとは言え、身の上話などしてしまった自分を意外に感じながらセディルは話を続けた。
「そういや少数民族のことを知ったのは、その話を聞いた時だったな。母親が俺と同じ目の色をしてたとかで、未開の地に住む少数民族の末裔なんじゃないか、とか施設のジジイ共が勝手なこと言ってたぜ」
すると今まで黙って話を聞いていたミリカが、その言葉を聞いた途端に身を乗り出した。
「やっぱり!セディルのその目の色って珍しいんですね?もしかしたら私が知らないだけで、外には沢山いるのかと思ってしまいました。綺麗ですね。私セディルの目の色好きですよ」
褒められたのに、セディルは何も言葉を返すことが出来なかった。無邪気に微笑むミリカの姿を見ていると、呆れと驚き、そして言い知れぬ不安がわき上がってくる。
初対面の人間ならばつい目を覗き込もうとしてくるほど、セディルの目の色は珍しいものだった。続いて注がれるのは決まって奇異や好奇の視線だ。人は自分達と姿が違う人間を、つい別の生き物のように見てしまうところがある。
だがミリカは何の含みも無く、花や蝶に言うのと同じように、どこにでもあるものとして『綺麗』だと言っていた。
その何でも受け入れる寛容さが、無知から来ているのが怖かった。
(こいつ…何でこんなに何も知らないんだ?)
セディルには貴族の生活など分からない。しかしこれは明らかに異常な気がした。文字通り箱に入れられて育ったのではないかと疑うほど、ミリカの無知さは異質だった。
セディルが黙ったまま見つめているので、ミリカは訝しげに首をかしげた。
「セディル?どうしたんですか」
「…そろそろ行こうぜ。暗くなる前にもう少し進んでおきたいからな」
ミリカはまだ不思議そうにしていたが、笑顔で「はい」と返事をして付いてくる。雛を抱えた親鳥の気分だ。
果たしてこの雛鳥を再び籠に返して良いのか―――そこまでは便利屋としての自分が関わることではないと分かっているが、断崖の縁に腰かけて歌っていたミリカの姿が脳裏に浮かぶ。
あれは夜の闇の中でだけ、繋がれた鎖を解いて羽根を広げられたのではないかと思うと哀れな姿に見えて、彼女を連れ出したミディアルの気持ちが分かるような気がした。