青銀の瞳の便利屋5
背中には湿った冷たい感触と鈍い痛み、胸と腹には温かく柔らかな感触と重み。その相反する感覚でセディルは意識を取り戻した。
薄く目を開け、正常に呼吸が出来ていることを確認しながら呆然と呟く。
「すげぇ…俺生きてるのか…」
気絶する前の記憶が甦るにつれて、自分で決断した事とは言え益々信じられない思いになる。
仰向けに横たわった視界には、遥か上空に落ちてきた崖の縁が見えた。あんな所から落ちて無事だったのは、この樹海の深い木々と柔らかい土がクッションになったお陰だが、それでもやはり奇跡としか言い様がないだろう。一緒に落ちたアンノウンの姿が見えないので、もしかしたらそれもクッションの一つになったのかもしれない。
(『妖の唄』の全容がようやく見えたな。あのお嬢様の歌にふらふら近付いて行った奴が、潜んでたアンノウンに襲われて崖から落とされてたんだ。死体が見付からない訳だぜ)
首を起こすと、胸の上に小さな頭の天辺が見えた。明るい色の長い髪がセディルを覆うように広がっている。
空中に放り出された瞬間に、このミリカ=タリアという少女を抱え込んだまでは良かったが、その後意識を手放してしまった。密着した体から伝わる温もりと、彼女の背中が自分とは違う間隔で僅かに上下しているのを見てようやく安堵する。
自身も軽傷なせいか、無事だと分かると少し余裕が出て起こすのが惜しくなった。柔らかさと温もりと、育ちの良さを表すような爽やかな甘い香りが心地よくて離れがたい。こんな考えをミディアルに知られたら殴られるかもしれないが、命を懸けて少女の身を優先したのだからこのくらいの役得は許されるだろう。
だが本当にミディアルの念でも届いたのか、少女は僅かに身じろぎすると間もなく目を開けた。
「う…ん。ここは…?」
「少なくともあんたの部屋のベッドじゃないな」
まだ少し意識が混濁しているらしい少女にそう言うと、彼女はハッとしてセディルの上から降りた。地面に座り込んだまま、半身を起こしたセディルをまじまじと見てくる。
「ご、ごめんなさい!えっと…セディル、さん?私ずっと乗っていたなんて」
頬を赤らめる少女に、むしろセディルの方こそバツが悪くなって頭を掻いた。
「いや、別にそこは謝る事じゃ……あぁ、それより怪我は無いか?俺達は足元の崖が崩れて、下の樹海に落ちたんだよ」
「はい。私はどこも痛くありません。…セディルさんが庇ってくれましたよね?抱えてくれたのが分かりました。ありがとうございます、貴方は優しい人なんですね」
何の含みも無く本気で言っているのが分かる笑顔と言葉に、セディルはぎょっとしてたじろいだ。こんな真っ直ぐな物言いをする人間が周りにいないので、新鮮味を感じると同時に対処法が分からない。
戸惑う心を隠すように、少女の笑顔から目を逸らして言葉を探した。
「それは…その前に、あんたが俺とミディをアンノウンから庇おうとしただろ?貸し借り無しって言うか、おあいこだろ」
いくら動揺しているとは言え、我ながらよく分からない言い訳だと思いながらも口にする。
すると少女は小首を傾げ、間を置いてから「あぁ!」と手を叩いた。
「今気が付きました!私あの時は必死で、ただ体が勝手に動いてしまったので何も考えていませんでしたから。こういうのを『おあいこ』と言うんですね?初めて知りました」
神妙に頷いている少女を見て、セディルは先程までの動揺が音を立てて引いていくのが分かった。代わりに今度は頭を抱える。
(これだから世間ずれした良いとこの人間は…)
会話のテンポの悪さに呆れ果てる。これほどのんびりとした箱入りお嬢様と相対するのは初めてだ。今まで抱いてきたふんぞり返った貴族イメージは改められたが、どちらにしろ疲れることに変わりない。
(ま、ミディには合ってるのかもしれないな)
あの不器用なくらい真面目で、分かりやすく優しい友人ならば、この呑気な少女とも上手くやれていたのだろうと思う。それは彼女がミディアルに寄せる信頼からも推し量れた。
ともかく、今は彼の為にもこのお嬢様を無事に元の家に帰さなければならない。それが出来なければ助かった命を再び捨てるだけだ。
セディルは立ち上がって周囲を見回した。
「セロスルードに戻るにしても、まずはこの樹海を抜けなきゃ話になんないな。お嬢様は樹海を歩いたご経験はおありで?」
「樹海どころか、町を歩いたこともほとんどありません」
「予想以上の答えだな。それじゃあここからは俺の経験と勘を頼りにしてもらうしかない訳だが…お、そうだ!あんた俺に依頼しないか?」
ふと思い付いてそう言うと、当然ながら少女は首を傾げる。
「依頼、ですか?」
「ついさっき請け負ってたやつが解決したからな。あんたのことはミディが死に物狂いで捜しに来るだろうけど、このままここにいたら助けが来る前にまたアンノウンか獣に襲われて終わりだ。だからあんたは俺に『無事に帝都まで送り届けろ』って依頼してくれればいい」
「…依頼をしなかったら、私はここに置いて行かれるのでしょうか?」
少女の顔色と声に不安げなものが混じる。
世間知らずのせいか人より警戒の度合いが低そうだが、それでも手放しで相手を信用するほど抜けている訳ではないらしい。ミディアルの友人ということで多少底上げされているのだろうが、つい先程出会ったばかりの男に命を預けろと言うのも無理な話だろう。
だからこそセディルは依頼という形を取ることにした。互いにどんな事情があれ、安全な所に出るまでは運命共同体となる。ならば仕事にした方が相手を信頼しやすいし、少しでも生還の可能性を高める為にもモチベーションを上げておきたい。
「さすがにそこまではしないが、俺のやる気が違うんだよ。依頼達成率百パーセントが売りなんでね。と言っても、今回は俺の目的地も同じだから依頼料はまけとくよ。どうする?」
選択肢は無いだろうが、やはり最後は彼女の意思だ。置いていくことも出来ないけれど、どうしても気が進まないようなら無理強いする気も無い。
少女はうつむいてしばらく考え込んでいたが、やがてはっきりと頷いた。
「分かりました。依頼料は帰ったら必ずお支払いしますから、私を帝都まで送り届けて下さい」
「決まりだな。それじゃあしばらくよろしく…えっと、ミリカ=タリアだったか?長ったらしいな」
「ごめんなさい。親しい人はミリカって略して呼ぶんですけど」
謝る必要など全く無いのに、少女は勝手な文句を言うセディルへ律儀に謝る。
「じゃあ会ったばかりだけど俺もそれでいいか?」
「…本当ですか?はい、ぜひ呼んで下さい!」
また思い付きで口にした事だったのだが、何故か少女は異様に食い付いてきた。思わぬ反応につい仰け反る。
「な、何だ?そんなに嬉しいのか」
「はい!…親しい人と言いましたけど、実はお父様とメイド長くらいで。ミディアルには『恐れ多いです』って言われてしまいました」
「あいつも変なとこで固いからな。それなら帰った時にあんたからミディって呼んでやれよ。きっと驚いて固まるぜ」
セディルは友人の動揺する姿を想像して楽しみになった。少女もちょっとしたイタズラのような気になったのか、口元を隠してクスクスと笑う。
穏やかな微笑みを見て、少し互いの心が近くなったように感じた。
「そうですね、そうしてみようと思います。『おあいこ』ですね?」
「そうそう。じゃあ夜も明けてきたし行きますか、ミリカ。俺もセディルでいいぜ」
「はい。よろしくお願いします、セディル」
気付けば月も星も薄くなり、葉の隙間から見える空が明るくなっている。
帝都に戻るまでのほんの短い旅―――今はそう思いながら、広大な木の海の中で二人の長い旅が始まろうとしていた。