青銀の瞳の便利屋2
帝都セロスルードで最も美しい景観を誇る貴族街の大門を抜けると、街道から少し逸れた辺りに森が広がっていた。
平原に突如盛り上がるようにして存在するそれは、一部が城壁の裏門に沿って広がっている。その辺りには城の警備兵がうろついているので、セディルは明るすぎる月の光に舌打ちをしながら、見付からないように素早く森へ踏み込んだ。
兵士に見付かると不審人物としてあれこれ詮索される可能性がある。時には知らぬ間に悪の片棒を担がされていることもある職業の人間としては、公僕の人間にはなるべく関わらない方がいい。
セディルがわざわざ夜を待って森へ行くことになったのは、もちろんベルモンドからの依頼の為である。彼はこのところ『妖の唄』の噂に悩まされていると言うのだ。
「『妖の唄』を聞いた人間は、冥界に引き込まれると言うんだ」
(くっだらねぇ…)
依頼交渉が成立した後、開口一番ベルモンドが言い放った内容に、セディルは思わずそう口にしかけて思いとどまった。さすがに出会って五分で依頼主の機嫌を損ねたくはない。
「その唄ってのはどういうものなんだ?」
「城の裏手に森があるのを知っているか?断崖まで広がっているやつだ。最近夜になるとあの森から綺麗な歌声が聞こえてくると言うんだけど、その正体を確かめに行った者が誰一人戻ってこないらしいんだよ」
いよいよ怪しくなってきた。ありがちにも程がある。
しかしキルディオの言った通りこのベルモンドという男は相当な臆病者らしく、自分で説明する端から怯えて震えている。完全に噂を信じ込んでいた。
「それで?あんたは近い内に森なんかに行く予定でもあるのか?」
セディルが少々呆れた口調で聞くと、ベルモンドは唾を飛ばす勢いでまくし立てた。
「冗談じゃない!アンノウンだっているのに森なんか行くもんか!…ただ、僕の家は森に近い街壁の傍なんだ。風向きによっては歌が聞こえてしまうかもしれないと思うと、もう不安で夜も眠れないんだよ!」
オウンとキルディオが、呆気に取られた表情で顔を見合わせるのが視界の端に入った。ベルモンドの取り巻き達も、また出たと言わんばかりにそっぽを向いて溜め息を吐いている。
セディルもこのまま聞かなかったことにして酒場を出ようかと思ったが、既に依頼は請け負ってしまったし、簡単に済ませられそうならいいかと思い直した。
(聞いた人間が消えてるってのはともかく、歌らしきものは実際にあるんだろうな。それを確認すれば納得するだろ)
こうして、セディルは夜を待って森に向かうことになったのだった。
腰の剣に触れながら獣道をゆっくり歩く。
帝都は大陸の北側にあり、『天地の断崖』と呼ばれる崖を境とした高地に位置する。この森の先にその断崖絶壁があった。なのでそれほど深い森ではないはずだが、ベルモンドの言葉ではここにもアンノウンが棲み付いているらしいので警戒を怠る訳にはいかない。
アンノウンとは、古くからこのアーシェラン大陸に生息する人間の天敵である。
姿形は大きな狼に似ているが、全身真っ黒で目鼻は無く、死ぬと空気中に溶けるように消えて骨も残らないので未だにその生態はよく分かっていない。
鋭い牙と爪を持つ上に凶暴な性格で、群れでの襲撃は各地に甚大な被害をもたらしている。セディルも便利屋として何度か討伐依頼を受けたことがあった。
一体一体ならば倒すのにそれほど苦労は無いが、群れで来られるのは危険だった。今の時間帯も場所も、真っ黒な奴を相手にするには適さない。
(単純な依頼が厄介なことになっても困るしな。アンノウンに出会わない内にさっさと終わらせるか)
そう考えたセディルは、月明かりの注ぐ箇所を選んで気配を潜めて進んだ。
夜の森は静かで、風で木の葉が擦れたり、時折闇の奥から蝙蝠の金属質な鳴き声が聞こえてくるくらいの音しかしない。人に幻覚を見せるガスや花の香りの存在も考えたが、それらしい臭いも無いのでこのまま穏やかな夜の散歩として終わるのではないかと思われた。
するとその時、それまでとは異質な音が混ざっているのに気付いた。
「歌……か?」
セディルは足を止めて耳を澄ませる。うさん臭い噂の歌など、せいぜい断崖や木々の間を渡る風の音が歌のように聞こえるだけだろうと思っていた。
しかし―――。
――ゼーレンティス・セ・フィーリア・エン・タティア・インク……
(マジで歌だ。子供…じゃないな、女の声か。崖の方からだ)
意味は分からないが、旋律に乗って確かに言葉がある。セディルは歌が聞こえてくる方向へ足を向けた。
依頼達成の為には何としても正体を突き止めなくてはならないのだが、近付くにつれて柄にもなく足取りが重くなっていく。
それはあまりに綺麗な声だった。澄みきっていて透明感があり、まともに聞いていると惹かれて聞き惚れてしまいそうになる。自分が音楽に感動する心を持ち合わせていたことを、今この時に初めて知った。
『冥界に引き込まれる』というのは、この歌に魂を抜かれたようになる、という意味だろうかとも考える。
(でも実際に消えてる人間がいるのが気になるな。歌との関連性がはっきりしない…)
歌に聞き惚れた人間がフラフラと吸い寄せられた先に何があるのか―――気を引き締めていなければ、自分も彼らの二の舞になってしまうかもしれない。
セディルは無意識の内に剣の柄を握り締めながら森の奥を目指すと、突然視界が開けた。森が途切れる『天地の断崖』に着いたのだ。
セディルはそこで立ち止まり、思わず息を飲んだ。
そこには一人の少女がいた。眩しい程の月明かりの下で崖の縁に座り、断崖の下に広がる広大な樹海に不思議な言葉の歌を響き渡らせている。
セディルの位置からだと横顔しか見えないが、よほど気持ち良く歌っているのか、頬を少し紅潮させている顔は子供から脱しつつあるものの、まだ愛らしさが残る整った顔立ちをしている。明るい色の長い髪を風になびかせる少女は、本当に人を惑わす妖精の類いか、天地の境から地上を見下ろす天使かもしれないとさえ思った。
それ程に、まるで一枚の絵画のように幻想的で、舞台の上で行われているのではないかと錯覚するほど現実離れした光景だったのだ。
しかし眺めている内に冷静になり、やっぱり人間だと思うと今度は困惑した。十七、八の年頃の娘が夜に森の中で歌っているなど、妖精より怪しいのではないだろうか。
(何だあの女?というか、これが『妖の唄』の正体なのか?まぁ、それにしても…)
「上手いな…」
思わずそう呟いて近付こうとした時だった。
「―――そこで止まってもらおうか」
すぐ横の茂みから突然男の声がした。それまで人の気配など全く感じなかったのに、今は抜き身の剣を思わせる鋭い気迫が立ち上っている。
セディルは反射的に剣を抜いていた。数多くの危険な依頼をくぐり抜けてきた経験で、殺気を向けられると体が咄嗟に反応してしまう。
いくら少女に気を取られていたとは言え、男の気配に気付けなかった驚きと悔しさで余計に反応が鋭くなり、抜いた剣をそのまま茂みに振り下ろした。
葉と枝が斬れる音と感触の中に、硬質な音と衝撃が起こる。男も剣を抜いて応戦してきたのだ。
セディルは舌打ちしながら刃を滑らせて弾き、一足飛びに茂みから離れた。剣を構え直して茂みに向かって声をかける。
「やるじゃねぇか、出てこいよ。それとも隠れてないと戦えない臆病者か?」
わざと嘲る調子で言うと、一拍置いた後に茂みがガサガサと動いて立ち上がる気配がした。セディルは意外な気持ちで待ち構える。
(こんな安い挑発に乗るのか。腕は立つみたいだが、案外考えは馬鹿正直で読みやすいかもな)
だがその後出てきた男の姿を見て、セディルはもっと驚くことになった。
薄明かりの中に浮かび上がったのはセディルと同じ年頃の青年で、簡素だが仕立ての良い胸当てとマントを纏った兵士だった。凛々しく引き締めた柔和な顔は、実直さと笑えば誰からも好かれそうな雰囲気を醸し出している。
その顔を見た瞬間、セディルの記憶が刺激された。格好こそ立派になっているが、人の良さそうな穏やかな目は別れた時と寸分違わなかったからだ。
「お前…ミディか?」
愛称で呼び掛けると、青年は訝しげに眉を潜めた。その時、風で木の葉が乱れて月明かりがセディルを照らす。青銀色に輝くセディルの瞳を見て、青年も驚きに目を見開いた。
「セディル?どうして君がこんな所に?」
間の抜けた反応に、ぶった切られたセディルの緊張はそのまま怒りへと変換された。
「それは俺の台詞だ!お前、傭兵になったんじゃなかったのか?何でこんなとこにいるんだよ!」
「ち、ちょっと待ってくれ!声が大きい」
人差し指を口に当てながら、青年はチラチラとよそに意識を向けている。しかしセディルは消息不明だった友人と数年振りに再会した衝撃で、そんなことに構っていられなかった。
「お前この二年、何も言ってこないで…。俺はともかくレオには連絡くらいしてやれよな。あいつがどれだけ心配してるか、鈍いお前でもちょっとは想像出来るだろ!」
「う……分かった!説明するから、とにかく今は…」
そこへ細い声が割って入り、青年の動きが止まった。
「…ミディアル?」
セディルが声のした方を見ると、そこにはあの歌っていた少女が立っていた。神秘的な雰囲気が消え去り、先程よりあどけなさが増した顔でこちらを見ている。
「大きな声を出して、どうしました?――あら、その方は?」
「ミ、ミリカ=タリア様。えーと、彼のことはお気になさらずに…」
「お気になさらずじゃないだろ、ミディ。この状況でどう気にするなってんだよ。俺には気になることだらけだ」
「もしかして、ミディアルのお友達ですか?」
少女は少し戸惑った表情で二人を見比べていたが、セディルが彼に愛称を使うと途端に瞳を輝かせて近付いてきた。どうやら二人の関係について興味が湧いたらしい。
その様に後押しされ、セディルはここぞとばこりに威圧感を出して押し切る。
「とりあえず、紹介も兼ねて一から説明してもらおうか」
「………分かったよ」
二人の圧迫にすっかり気圧され、セディルのよく知るお人好しの顔に戻った友人は、がっくりと肩を落として頷いた。