二つのプロローグ
大仰なあらすじを書きましたが、歴史大作などではありません。
ファンタジーなのに派手さもありません。
とにかく書けるだけ書いていこうと思います。
ある一族の青年
(嫌だ、嫌だ…死にたくない!)
残った命を燃やし尽くすように懸命に走りながら、さっきからそればかりを繰り返し考えている。
父と母は無事だろうか。あれだけいた同胞の姿が全く見えない。この傷を負わせたあいつらに必ず復讐してやる。いっそこのまま全てに背を向けて逃げてしまおうか。―――もう少し冷静になれば、そんな風に考えることは沢山あるはずだった。しかしどうしようもない痛みが、怒りが、何より死への恐怖が、思考と体を縛り付けて勝手に動かしている。
脳裏に浮かぶのは「死にたくない」という言葉。それと、自分の一族に伝わる『伝説』。
足は自然にそこへ向かっていた。樹海の木々は速く走るのに邪魔だったが、逆に敵の目から自分の身を隠してくれる。気が逸る勢いでほとんど四つん這いになりながら走り続け、ようやく鬱蒼とした木々の向こうに四本の石柱で周囲を支えられた東屋が見えた。
壁は無く、今にも崩れそうな天井が影を落とす中心には台座が据えられ、その上に小さな人影がある。すがるようにそこへ駆け寄った。
人影は一見すると、黒くくすんだ老人の人形のようだった。しかしよく見れば、その木の皮のようになった皮膚に無数の毛穴があるのが分かる。
それは、元は生きた人間だったのだ。気の遠くなるほど昔―――当時一族内で神のように崇められていた人物が、死した後も蘇って一族の敵を屠るため自ら即身仏となった。座したまま死んだ男は一族の真の神となり、以来こうして台座の上で一族を見守り、供物を捧げられて祀られてきた。
だが今求めているのはそんな言い伝えではなく、この仏の体にまつわる伝説だった。
死期を悟った男は己の身に蘇りの法を施した。そして長い年月注がれ続けてきた一族の念は、いつしか彼の体に不死の力を宿らせたという。
健常な状態ならば、眉唾物だと笑い飛ばす話だ。実際に男は蘇ってはおらず、現代に至るまでミイラのまま据えられている。
しかし今はどんなものにもすがりたい状態だった。腹の傷からは絶えず血が流れ出ていて、あれほどの痛みも段々と感じなくなってきている。視界も霞んできた。眉唾だろうが神だろうが悪魔だろうが、何かをしなければ遠からず自分は死ぬのだ。
「クリア族の神よ!頼む…俺に不死の力をくれ。死にたくないんだ…!」
親を求める幼子のように両手を差し伸べる。するとミイラが突然僅かな痙攣を始めて手前に倒れてきた。風も無いのに、あたかも想いに応えるかのように。
ミイラはしかし、触れた箇所から崩れて灰になっていった。長年風雨に晒された為か、それとも別の作用なのか、サラサラと音を立てながら霧散していく。灰が完全に消え去ると、受け止めた両手に僅かな重みが残った。
両手で包み込めるくらいの大きさのそれは、男の心臓だった。不思議なことに、ミイラに入っていたとは思えないほど赤く鮮やかで、さっきまで脈打っていたかのようにほんのりとした温もりがある。
柔らかな心臓を壊すまいと、そっと目の高さに掲げた。赤く照り映える塊は、どんな宝石や果実よりも魅惑的に見えた。
「これが、不死の肉。俺は助かるんだ…」
朦朧とした意識の中で、ゆっくりと口元に寄せて歯を立てる。
熱い鉄の味が広がった――――。
ある一族の女
「本当によいのだな?」
「はい、覚悟は出来ております。貴方の意志に沿うことが私の幸せですから」
そう言うと、目の前に立つ夫は僅かに眉を寄せて「すまない」と呟いた。決して弱い顔を見せない彼にしては珍しい表情だ。
こんな顔をさせるつもりはなかった。しかし謝る夫の気持ちも分かる。分かっていながら、つい謝らせてしまうような答え方をしたのは自分の落ち度だ。夫であり、恩人でもある彼に負い目など感じてほしくはないのに。
申し訳なくなって、ただ「いえ…」とだけ返す。すると夫はいつもの威厳溢れる、それでいて優しさも含んだ強い眼差しを向けてきた。
「本当にすまないと思っている。だからこそ、お前の意思を無駄にしない為に必ず成功させてみせる。お前の為にも、またこの国に住む多くの人々の為にも。理不尽に命が奪われることのない、平等な真の平和を皆が手に出来るようにするのが私の理想だからだ」
胸が熱くなり、涙が出そうだった。その言葉を待っていたのだ。こう言ってくれる人だからこそ、自分は命を懸ける気になったのだから。
しかし「命を懸ける」と考えた瞬間、針で刺すような痛みが胸を突いた。
(そうよ、私は謝られるような立場ではないわ。私は自分の好きにするだけ。本当に可哀想なのは…謝られるべきなのは……)
「―――お母様?」
部屋の入口からかけられた小さな声にハッとして振り向くと、眠そうに目を擦る幼い娘が立っていた。夜中に目が覚めてしまい、隣に眠っているはずの母の姿を求めてさ迷う内にここへ辿り着いてしまったのだろう。
「お父様、何のお話をしてるの?お母様は何かするの?…怖いこと?」
寝ぼけていても、話をちゃんと聞いていた訳ではなくても、この場に漂うただならぬ気配は感じ取れるらしい。子供は不穏なものを嗅ぎ取る感覚に優れている。
そう、真に可哀想なのはこの子だった。これから行う事で自分の意識は二度と戻らない可能性が高い。下手をすれば命を落とすことになるだろう。
それでも夫の望みを叶えてあげたい―――そんな自分勝手な想いで、まだ五歳になったばかりの我が子を置いていくのだ。
(私は可哀想なんかじゃないわ。何て酷い人間かしら…ごめんなさい)
目の前の小さな娘に心の中で謝る。許しを請いたい訳ではなかった。むしろ憎んで、忘れてほしいとさえ思う。
しかしその一方で、娘に何かを残したいとも思った。成長していく過程でふいに母が恋しくなった時、自分のことを思い出せるような何かを―――。
その時、暗い廊下の向こうから足音が聞こえ、娘の世話役をしている壮年のメイドが駆けてきた。後ろには一組の男女の兵士を従えている。二人は夫婦で警備兵をしており、彼らとメイドと自分の四人はよく親しく話す間柄だった。
「あぁ!こちらにいらっしゃいましたか。心配しました」
「もし不届き者だったならばどうしようかと…。ご無事で良かった」
シェイラとクレバーグという夫婦の兵士が娘を見て胸を撫で下ろすと、メイドはこちらに向かって深く頭を下げた。
「申し訳ありません、メルフ=リーフ様。少し部屋を離れた隙にお目を覚まされてしまったようでして。さあさあ、お父様とお母様は大切なお話をされているのですから、もうベッドに戻りましょう」
「待って、ノイラ。私も行きます」
娘の手を引いて行こうとするメイドを引き止めて夫を振り返った。夫は変わらずそこに立ったまま、じっと自分を見詰めている。
「あなた…お願いします。今夜だけはこの子と一緒にいさせて下さい」
夫は渋い顔も見せず、全てを理解した穏やかな表情で頷いた。
「もちろんだ。今日はお前の意思を確認しただけ。何もいきなり始める気はない。…ゆっくり休め」
「はい。ありがとうございます」
一礼して部屋を出ると、メイドに代わって不思議そうに見上げている娘の手を取った。
「目が覚めてしまったのね。母様が新しいお歌を教えてあげるわね。あなたがゆっくり眠れるように」
「本当に?何のお歌?」
「母様の一族に伝わる古いお歌よ。ゼーレント族の神様に、大地に実りと平和をもたらして下さいとお願いする歌詞なの。貴女が平和な世界で幸せに暮らしていけるように歌ってあげるわね」
片手で包み込める小さな温かい手を握りながら、メイドと二人の兵を連れてベッドルームに向かってゆっくりと歩く。
最後になるであろう穏やかな夜を、少しでも長く味わいながら。