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ヴィントは、息子の興奮が冷めるのを待って、後始末を始めた。
まずは、自分の傷口と、ついてしまった血を洗った。それから遺体の始末である。とはいえ、多少血や汚れを落とす程度のことで済ませてしまった。埋葬などの、後のことはイルフォード家の者たちに任せるべきだろう、と思ったからである。
これらの作業を、ヴィントはてきぱきと終えた。しかし、手際がいいというよりも、無心になろうとして無理矢理作業に没頭しているようなものだった。その間、興奮がすでに引いていたレクシオは、焦点の定まらない目で、ぼうっと父の姿を追っていた。
遺体の汚れを簡単に取って、端の方に移動させたヴィントは、雪の上に膝をつき、膝頭で手を合わせて短い祈りを捧げた。それから立ち上がると、呆然としているレクシオへと歩み寄る。
「――行くぞ、レク」
彼はそう言って、手を差しだした。
いつものレクシオならば、喜んでその手を取っただろう。だが、この日の彼はいつもと違った。顔をこわばらせて、びくりと震え、身を引いたのである。
ヴィントは、手を差しだした状態のまま沈黙した。――レクシオの内心が、透けるように分かってしまう。手を握りしめかけた彼は、だがすぐにやめた。
「行くぞ」
もう一度言って、強引にレクシオの腕をとる。すると、彼はようやくうなずいた。
「……うん」
耳が痛くなるような静寂の中、彼らはゆっくりと歩き出した。
元々、シュトラーゼは出歩いている人が少ない。加えて、人の話し声も先の戦いのようなやかましい音も、すべて雪が吸収してしまうかのように、他人の耳には届きにくい。だからヴィントとレクシオは、追跡に遭うことも誰かに姿を見られることもなく、街の外へ出ることができた。
しんしんと冷える冬の道。二人の親子は、沈痛な空気を漂わせながら歩いていた。
――それから、いくらかの時が経った頃。ヴィントたちは大きな街にいた。北部と中央部を繋ぐ山道を抜けた先の街である。これからその山道に入るという人たちが必ず立ち寄る街なので、道案内や土産物屋といった商売で成り立っているようであった。
ヴィントは、街に着いてすぐ、その日の宿を取った。街で一番安いぼろぼろの宿屋だが、屋根があるだけましだった。
シュトラーゼを出てしばらく、二人はさまざまな仕事をこなした。荷物の配達から用心棒まで、人を選ばないのであればどれほど給料が安い仕事でもやった。その上、極力節約しながら逃げてきていたため、手持ちの金は少なくない。
シュトラーゼに来る以前も多少は仕事をしていた。しかし、人目につくのを恐れて、おおっぴらには動かなかった。それが今回、狂ったように仕事をこなしたのは――ヴィントの胸の内に、ある考えが浮かんでいたからだ。
狭い部屋に入り、しつらえられた二つの寝台を見ると、レクシオの顔が輝いた。
「うわあ! 久し振りのベッドだあ!」
嬉しそうな声を上げると、彼は勢いよく寝台に飛び乗る。
寝台は固いし、薄汚れているし、決して寝心地のいいものではない。だが、ずっと油紙やら服やらに身を包んで寄り添って寝ていた者にしてみれば、まともな寝床というだけで天国なのである。
ヴィントは、頬を緩めるレクシオを横目に、黙って自分の寝台に腰かけた。それから、黙って荷物の整理を始める。レクシオはしばらく寝台の上をごろごろと転げまわっていたが、やがては黙り込み、父親を見据えていた。
静かな時が流れる。床や天井が軋む音と、荷物を探る音しか、聞こえていなかった。
街に着いたころには天中を少し過ぎていた陽が、西へと沈み始めた頃。ヴィントはふと、手を止めた。未だ自分をじいっと見つめている息子の方に、目をやる。
「レク」
ヴィントが静かな声で名を呼ぶと、レクシオは「なに?」と言って顔を上げた。ヴィントは姿勢を正すと、彼の方をまっすぐに向く。
「おまえはこれから、どうしたい」
すると、レクシオの表情が動いた。きょとんと目を丸くして、首をかしげる。
「どうしたい、ってどういうこと?」
「俺についていきたいか?」
訊かれたレクシオはますますわけが分からないという顔をした。そこでヴィントは、思い切ってきっぱりと言った。
「――人殺しの俺に、ついていきたいと思っているか?」
ヴィントは、鋭い目で息子をにらんでいた。自分でも気づかないうちに、全身から冷たい気配を漂わせる。レクシオは顔をこわばらせて、ぴたりと硬直した。
お互い、しばらく睨みあったあと、レクシオが動いた。体を起こして寝台の上に座り、姿勢を正して父を見たのだ。
「……父さん」
「おまえは、俺を怖いと思っているだろう? あの日から、ずっと」
ヴィントが言うと、レクシオはぎゅっと眉をひそめる。何かを堪えるように歯を食いしばった。
「ち、ちがうよ! 父さんが本当はすっごくやさしいって、知ってるもん……」
顔をくしゃくしゃに歪めるレクシオを見て、ヴィントはふっと微笑んだ。
息子の心遣いが嬉しかった。
だが、ヴィントは分かっていたのだ。息子が心の底で、自分をどう思っているのか。あの雪の日に、差し出された手を拒まれたとき、悟ってしまった。
「隠す必要は、ない」
レクシオが今にも泣きだしそうだった。ヴィントはそれに気づいていて、あえて無視をした。
小さな鞄の中から、銭入れ用の小さな麻袋を取りだした。
「俺と一緒に行きたくないと思っているなら、それで構わない。そのために今日まで、一人で生きていくための手立ては教えてきたつもりだ。おまえ一人なら一月は食っていけるだけの金も蓄えてある。だから」
レクシオの顔は、うつむかれていて見えない。窓から差し込む夕日のせいで、その姿さえ影に沈み込んでいる。ヴィントは淡々と、言葉を投げた。
「自分がどうしたいか、明日までゆっくり考えろ」
返事は、なかった。
翌日の早朝、親子は起きて早々荷物をまとめ、宿屋を引き払った。文字通り逃げるような態度に宿屋の主人は不思議そうな顔をしたが、何も詮索はしなかった。
街で買えるだけの物を買うと、二人は街と外を繋ぐ門の前に立った。先頭を行っていたヴィントは足を止め、自分の息子を振りかえる。彼は、暗い目をしてうつむいていた。
「心は決まったか、レクシオ」
「……うん」
レクシオは、ヴィントが予想していたよりもしっかりとした声で答えた。それから顔を上げ、まっすぐに父を見据える。ヴィントはそのまなざしに驚いた。
強く鋭い、しかし奥底に純真さを秘めた目。自分に似て、自分にはないものを持つ息子が、そこにいた。
ヴィントは無表情で麻袋を取り出す。昨日レクシオに見せたものだ。袋がゆれると、中の銭がじゃらじゃらと音を立てた。男は無言で幼子に袋を差し出す。
レクシオは、小さな袋をしばらくじっと見た。そしてやがて――手に取った。
「ありがとう、父さん」
舌足らずな口調で紡がれた言葉は、ひどく大人びていた。
力強い息子の態度に微笑んだヴィントは、すぐに笑みを消して言った。
「もう、俺のことを父親だと思わなくていい。おまえはおまえの道を行け。おまえが、選んだ道をな」
レクシオは静かにうなずく。そして、一歩を踏み出した。
顔を歪めてしばらくためらった彼は、やがて振りきるように走り出し、父親だった男の脇をすり抜けていく。
すれ違いざま、彼は囁いた。
「父さんは、父さんだよ。でも今は――さようなら」
十にもならぬ子供の声ではない。小さな子が、束の間立派な男に見えて、ヴィントは目を見開いた。思わず、弾かれたように振り返る。
だがその頃には、レクシオの背中は遠く道の向こうにあった。ヴィントはしばらく、無言で駆け去る子を見つめていた。
だが、その姿が地平線に消えたとき、彼もまた一歩を踏み出した。
お互い、背負うものは何もない。男と子供は、それぞれの道を歩き出した。
十二年後の再会など、想像もしないままに。




