5
確信があったわけではない。だが、散歩の途中になんとなく嫌な予感を覚えて、ヴィントは外へ出たのだ。人の足跡を見つけたとき、胸の中を不快な靄が渦巻いているように感じた。――そして今この瞬間に、気付いたのだ。
名前の分からぬこの感覚は、しかし何一つ間違っていなかったのだと。
目の前にはディオルグがいる。彼と、彼の息子が知らないディオルグが。鋭い眼と、油断のない足さばきと、きれいに構えられた剣。それは、「騎士」そのものであった。相手から抑える気さえないと見える敵意を感じ取り、ヴィントは剣呑に目を細める。
「どういうつもりだ、貴様」
問いかけたあと、ヴィントはちらと背後を振りかえる。
レクシオが雪の上に横たわっている。眠っているだけのようだが、あまり長らく放置していると凍えてしまうかもしれない。だが今は、移動させている暇などなかった。
ディオルグはヴィントの問いを黙殺したかに見えた。だが、剣の切っ先をぴたりと彼の方に向けると、唐突に口を開いたのだ。
「勅命だ」
「何?」
「皇帝陛下からの勅命だ。ルーウェンから落ちのびたデルタ一族を掃滅しろ、と」
ヴィントは動揺しなかった。ただ、嘲るように鼻を鳴らして「やはりか」と吐き捨てる。彼はリーシェルの言葉を覚えていた。
「帝都に呼び出されるときは、だいたい戦時か特別な命令が下されるとき」。彼女は確かに、そう言っていたではないか。
「それで俺たちを真っ先に排除しようと思い至ったのは、どういう了見だ?」
「大した理由はないさ。ただ、大立ち回りをしているデルタがいる――と、皇帝陛下からお聞きした情報がそのままおまえだったから、ってだけだ」
確かにヴィントは、あの日から散り散りになったデルタ一族の中ではかなり派手に暴れている方だ。彼は嘲りの笑みをその顔に浮かべる。
「なるほどな」
そして、目を開いた。相手を見つめ、そして見逃さなかった。力強い瞳の奥で、堪え切れないほどの苦痛が揺れていることを。
ヴィントはつい、口を開いていた。
「何か、あったのか」
波のない声がこだまする。それを聞いたディオルグはしかし、微かにも表情を揺らすことはなかった。
「何も、ないさ。……何も」
言うと同時に、騎士の男は一歩足を踏み出す。それに気付いたヴィントは、眉ひとつ動かさず魔導術発動の準備に入った。そして次の瞬間――ディオルグの姿が、ぶれた。
霞み、消えたかに見えた剣の刃が一瞬にして再び姿を現し、ヴィントの顔面に叩きつけられる。そのはずだったが、刃はその寸前で、見えない何かにさえぎられ、澄んだ音を立てて弾かれる。
直後にブウンと低い音を立てながら、ヴィントと剣を隔てるように、橙色の円が描かれた。円は煌々と光を放っている。
通常の防壁魔導術とは違う術。並みの戦士ならば動揺をしたところだろうが、ディオルグは表情を変えなかった。呼吸を整えて再び剣を構えると、地面を蹴ってヴィントへと躍りかかってくる。
強力な一撃だ。うなりを上げる剣を見ただけでヴィントは見抜いた。防御をやめ、攻勢に転じる。彼は一瞬で自らの周囲に燃え盛る火の球を五つ、生み出した。間髪いれず、燃え盛る火炎を相手へ投げつける。相手は驚くわけでもなく、慌てるわけでもない。ただ一瞬、目を細めると、再び無言で――踊った。身のさばきひとつで、飛んでくる火球をすべてかわしたのだ。
しかしそれは、ヴィントにとって想定範囲内の出来事だ。彼は火球を作らなかった方の手の先で、素早く別の魔導術を展開する。銀色の光がぽっと、灯火のように現れ、それはやがてこねられた粘土のように歪んでいった。そのとき。
「――ちっ!」
ヴィントは肌が粟立つのを感じて、咄嗟に後ろに飛んだ。彼の顔面すれすれを、鋼の剣が滑って行く。空を切った剣は一度ひっこめられたが、またすばやく突き出された。
ヴィントとディオルグ、両者の間で剣同士がぶつかり合い、火花を散らした。きいん、と澄んだ音が響く。片や魔導の剣、片や鋼の剣だった。
押し返されるようにディオルグと距離をとったヴィントは、力強く助走をつけて再び刃を振り上げた。苛烈な打ちあいが二合続いたすえ、二人はそれぞれ三歩分の間をあけてにらみ合う。
ヴィントは、冷たい緑の目を騎士へと向けた。そして、口を開く。
「ディオルグ。ひとつ訊く。……本当は何があった?」
ディオルグが、顔をしかめた。動揺が走る。その証拠に、構えられた剣の切っ先が、ほんのわずか、震えていた。
「どうした? 何もない、って言ったはずだが」
「嘘だ」
「――なんだと」
騎士の声が、低くなった。だがヴィントは少しも臆しない。この程度の怒気、彼にとってはそよ風以下だった。
「貴様が、皇帝の勅命だからといって、なんでもかんでも無感情にこなす人間とは思えないな。事情があることなど分かりきっている浮浪者親子を、そうだと知りながらわざわざ拾うような奴だ。命令だから殺します、で済ませられるようなら、最初からそんな真似しないだろう」
ヴィントはディオルグを信用していなかった。味方としては。だが、人間としての彼については、ある程度冷静に分析できていると自負していたのである。だからこそ、珍しく饒舌になっていた。
ディオルグは、ふ、と鼻を鳴らす。そして笑った。人殺しのゆがんだ笑みではない。いつものディオルグ・イルフォードの笑顔だった。
「違うさ。『命令だから殺します』で済ませられなきゃいけないんだ、俺たちは」
構えは解かない。だがいつもの調子で、彼は語っていた。
「軍人ってのは嫌な生き物だよなあ、ヴィント。表じゃお高くとまっていても、実際は王様やら皇帝やらに自分や家族の命を握られている。だから彼らの命令には逆らえない。自分の意思じゃ身動きできない、駒なんだから」
「……おまえ」
ヴィントは微かに目を見開いた。
独り言のような言葉。だがそれは、ただただ真実を述べていた。つまり彼は、「家族の命を握られ」たのである。――ヴィントの記憶が正しければ、今、帝都には彼の長男と長女がいたはずだ。
「おまえは、この仕事を断ろうとしたんだな。だが、そこで脅された。『子供たちがどうなってもいいのか』と。もちろん直接ではないだろうが」
ディオルグは答えなかった。だが、ややあって、無理に口の端を持ち上げる。
「どうしたんだよ、ヴィント。おまえらしくない」
言った後、彼はしかと剣を構えなおした。ヴィントも魔導術発動の体勢に入る。
「こうなってしまえば、事情や経緯なんて関係ない。俺はおまえらを殺すために戦い、おまえは息子を守るために戦う。そうだろう?」
「――ああ、そうだな」
二人の間を、雪を纏った風が吹き抜ける。戦場は凍りつくほどに冷たかった。戦いに付きものの熱気など、彼らの間にはない。ただ冷徹に、殺し合うだけだ。
二人は同時に地面を蹴った。雪煙が舞いあがる。
ディオルグが剣を振るう。ヴィントに届きそうな刃を、しかし彼は金色の魔導防壁で防ぎきった。後ろに弾け飛ぶ体の勢いを利用して、氷の刃を一瞬で生成し、相手に向かって飛ばす。猛烈な勢いで飛んだ氷。だがそれは、ディオルグの苛烈な剣によってすべて砕かれた。
強くなる雪の中、ディオルグは白い息を吐きだした。そして同時に、目を見開く。
白く染まる視界を縫って迫る、まばゆい白銀の光を見た。
それは、ヴィントが握る魔力の剣だった。
「――しまった!」
ディオルグが声を漏らす。それは、ヴィントにすら聞きとれないほどの小声であった。騎士の動揺を知らぬ男は、いつもの無表情で敵に迫る。
ヴィントは、ふいに笑った。雪で霞んでいる視界の中、ディオルグが歯を食いしばるのを見たのだ。
「ようやく、本気を出したか」
放たれる言葉は、やはりどこにも届かない。
騎士の男が剣を握る。開かれた口から、雄叫びがほとばしった。流浪の男もまた、自らの得物を手に瞳をぎらつかせ、味方であった人間に刃を振るった。
お互いがぶつかる。激しい衝撃の波が、宙に舞う白雪を吹き飛ばした。
互いの剣が、時に高く時に低く、すさまじいうなりを上げる。じりじりとこすれ合う刃の間から、一条の光と見まごうほどの火花があがった。やがて放たれる慟哭とともに、鋼の剣が魔の剣を圧倒し始めた。強い圧迫感に、ヴィントは顔をしかめる。
喉の奥でうめいた彼は、ふいに悟った。
――このままでは押し負ける。
判断してしまえばヴィントの行動は早い。彼は咄嗟に得物を手放すと、その瞬間に地面を蹴って後ろに飛んだ。刹那、実体のない剣が砕かれる。硝子のような音を立てて割れた剣は、粉々になって虚空に舞い散っていった。勢いよく振り下ろされたディオルグの剣が空を切る。
「なっ……!」
驚きに目をみはったディオルグは、すぐさま剣を引いたが、体勢を立て直すまではいかなかった。ヴィントは無言で魔導術を展開し、掌に巨大な氷の刃を生み出す。そして相手に向かって投げつけた。すべての動作が、一瞬だった。
氷の刃は、まっすぐにディオルグへと飛んでゆく。彼が剣を構えなおそうとする頃には、冷たい凶器は目前にあった。やがて、冷徹な輝きは彼の胴を狙い――
ディオルグは、横合から何かに突き飛ばされていた。
氷は勢いを止めることなく「何か」に突き刺さる。肉を切る音が生々しく響き、赤い鮮血が飛び散った。
突き飛ばされたディオルグは、体を起こして――硬直した。顔が衝撃と恐怖に彩られ、切ないほどに引きつっている。魔導術を放ったヴィントでさえ驚き、その場に立ちすくんでしまった。
ヴィントの対面にいたのはディオルグではなく、一人の女性だった。氷の刃の一撃を胸に受けて、血を流している。
「なぜ、おまえが来たんだ」
ヴィントの問いに、彼女は答えなかった。生きているか死んでいるか、それすら分からない。だがどの道、彼女は死ぬだろう。
ヴィントは静かに目を細め、ディオルグは強く拳を握った。
「…………リーシェル」
異口同音に紡がれた名は、誰にも届かず消えていく。
――リーシェルは恐らく知っていた。夫が何を命ぜられ、どういう道を選んだのか。本人から聞いたか、自分で推測したかは分からない。でも確かに、知っていたのだろう。
でなければこの場に現れはしない。
ヴィントは、動かなくなった女騎士を見下ろし、すぐに顔を上げた。彼女の横には夫が立っている。剣を構えて立っている。
「もう――終わりにしよう」
ディオルグは、言った。ヴィントもうなずいた。
「この一合でどちらかが生き、どちらかが死ぬ。それだけだな」
ディオルグが剣の切っ先をしかとヴィントに向ける。一方ヴィントは、再び手の中に魔導術の剣を生み出した。刀身は、先程のものよりも明らかに強い光を放っている。魔力が空気を震わせる音が、じかに聞こえるのではないかというほどだった。
二人は、じっとお互いを見た。お互いの目を。
どちらも賭けているものは同じだ。自分の命と、家族の命。
違うのは当人の立場と思いの形だけ。
二人は息を吸うと、鋭い蹴りで地面を打った。それぞれに、急所めがけて得物をひらめかせる。
やがて、雪の舞う灰色の空に、赤い飛沫が舞い踊った。
吹き荒れる風はふいに止んだ。
無音の時が続いた大地に、やがて微かな音が戻ってくる。低くうなる、風の音。雪を纏いながら吹く風は、変わらずシュトラーゼの街を流れていた。
それ以外の音がすべてかき消される、雪の中。ヴィントは膝をついていた。震える手を辛うじて動かし、魔導術の剣をかき消す。
脇腹の刺すような痛みに、ヴィントは顔をしかめた。腹をおさえる手が生温かい。血が出ている。彼の横の雪には、赤い血が染みていっていた。ヴィントはそれでもどうにか体を動かそうとした。
どさり。
彼の背後で物音がした。彼は別段、驚きはしない。
振り返ろうとは思わなかった。ヴィントは引きずるように体を動かし、未だ眠っている息子の方へ行った。小さな体にそっと触れる。かなり冷たいが、まだ息はあるようだ。ヴィントは急いで、身にまとっていた外套を脱ぎ、レクシオの体をくるんだ。裂けて血がついている部分が当たらないように、注意しながら。
一通りの作業には、一分もかからなかった。ヴィントはほっと息を吐く。
「ヴィント」
声が聞こえた。小さく、かすれた声だ。ヴィントはようやく、自分の背後を振り返った。
雪の中にディオルグが倒れていた。彼の周りには腹の傷から流れ出した血が溜まっており、さながら血の池のようである。それが何を意味するのか、ヴィントに分からないはずがなかった。
男は、再び体を引きずるようにして、瀕死の騎士の前に来た。己よりいくらか若い顔をのぞきこみ、その疲れ果てたような有様に顔をしかめる。
「……そんな顔、するなよ」
ディオルグが言った。ヴィントは答えず、ただ息を吸う。
「当然の結果さ。因果応報というやつだ。俺たちは、触れてはならぬものに触れた。理由や経緯がどうあれ、な」
イルフォード家の騎士は笑う。死の間際にあるとは思えないほど快活で、爽やかだ。彼らしい笑顔だと、ヴィントは思った。
「なあ、ヴィント・エルデ」
「……なんだ」
「ひとつ、頼まれちゃ、くれないか」
細い息を吐き出しながらディオルグは言う。ヴィントは否定せず、その場から動くこともしなかった。目を細めて、言葉の続きを待つ。やがて、若い男の口が動いた。
「おまえは、レクを連れて、すぐにここから、離れるだろ? けどよ……もしまた、『ウチ』と関わることがあったら、面倒、みてやってくれ。リオンの。それから、ラキアスに、ステラ、の……」
今までほとんど聞くことのなかった名を聞いて、ヴィントは微かに眉を動かした。だが、何も言わなかった。すると、ディオルグがぎゅっと眉を寄せ、うめき声を漏らす。それでも彼は、続けた。
「厚かましい、お願いだってのは……分かってる。けど、もう……心の底から信じて、頼める奴、なんて……家族とおまえ、くらいしか、いないよ……」
弱々しい言葉に、ヴィントは目を見開いた。自分の手が震えているのに気づかないふりをして、ディオルグを見つめる。
「信じる? 信じると言うのか、この俺を」
ヴィントは幻聴でも聞いたかのような思いで問いかけていた。
夫婦を傷つけ、恩をあだで返すような真似をした自分に。自らの子を託すようなことを言う。その心情が、男には理解できなかった。正気の沙汰と思えなかった。
だがやはり、騎士はいつものように笑うのだ。
「信じるよ。おまえ……義理堅いからなあ……」
ディオルグは穏やかな表情で言う。光のない目が、静かに降る雪を見つめていた。ヴィントは口を開き、すぐ閉じる。だがやがて、力の抜けたディオルグの手をぎゅっと握った。
「――分かった。もしもまた、この家と縁ができたなら……そのときは、約束を果たそう」
「約束、か」
いいな、それ。ディオルグは乾いた笑声を漏らすと、うつろな瞳をヴィントに向けた。
「ごめんな……。おまえたちのこと、大好きだったのに。レクにも、謝っといてくれ……」
血が流れる。微かな脈の音が伝わってくる。
だがそれは、どんどんと弱まっていっていた。最後の一瞬は、近づき――
「おまえたちとの生活、楽しかったぜ。ヴィント」
騎士を、のみこんでいく。
悟った男は、ふっと――微かに笑った。
「俺も、少しだけ……楽しかったぞ、ディオ」
「ああ――」
そりゃ、よかった。
動いた口から、声は出なかった。
風が吹き抜ける。ディオルグの様子は、先程とまったく変わらなかった。だが、死んでしまったのだと、ヴィントはすぐに分かった。脈の音も、その振動も、もう感じない。
ディオルグもリーシェルも、いないのだ。
ヴィントはゆるゆると首を振り、立ち上がる。いつの間にか、わき腹の傷口は固まりかけていた。じくじくとした痛みだけが残り、小うるさい主張をしている。ヴィントは、痛みを忘れようとするかのように、あらぬ方向を見た。
「父、さん……?」
ふいに、声がした。子供の震える声だ。自分に最も近い、子供の。
ヴィントは背筋が凍るような感覚を覚える。だが、いつもの無表情で押し殺し、そっと背後を見た。少し離れたところで、レクシオが体を起こしていた。蒼白い顔でヴィントの方を見ている。目が合った。――と、同時に、幼子の顔が引きつった。「え?」と小さな声が漏れる。
大きな緑の瞳が、ゆっくりと泳ぎ、ヴィントと――さらに向こうの遺体を捉えた。
「ひっ!!」
レクシオが引きつった悲鳴を上げる。ヴィントは何も言わなかった。
小さな体が、ぶるぶると震えている。やがて、震えが強くなって、先ほどよりも目の焦点がうつろになった。彼は、自らの体をかき抱きながら、恐怖と悲しみに彩られた目を父へと向けた。
「なん、で?」
向けられる問いは、か細く、かすれている。ヴィントは目を伏せた。何故、という単純でまっすぐな問いに、答えられるだけの言葉を見つけ出すことができない。
ディオルグとリーシェルの方をちらと見た彼は、それからふう、と息を吸い込んだ。途端、心が沈みこむように冷えてゆく。ただ鋭くなった目を、彼は息子へ向けた。
「俺が殺した」
放たれた言葉は、舞う雪にも劣らぬ冷たさだ。
レクシオは、氷の矢に射られたかのように身を竦め、顔をこわばらせる。両目に涙が盛り上がっていた。
「あ……」
レクシオが頭を抱えた。目覚めたときよりさらに血の気が失せた顔を、さっとうつむかせる。彼はひたすらに震えていた。「あ、ああ……」と――放たれる声は、どんどん強くなり、やがて緑の両目に激情が走る。
少年の慟哭が、イルフォードの街を引き裂いた。




