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間延びするような日々に少しの変化があったのは、ヴィントとレクシオがイルフォード家に来てから一週間ほど経ったときのことだった。
ある朝ヴィントが玄関に顔を出すと、ディオルグが旅装でそこに佇んでいたのである。
「よお、ヴィント。おはよう!」
「……どこかに行くのか?」
いつもと変わらぬ様子で手を挙げる男に対し、ヴィントは眉をひそめて問う。すると彼は、にかっと歯を見せて笑った。
「いやあ、ちょっと本国の方から呼び出しを受けてさ。帝都まで出かけてくるわ」
一切の気負いのなさそうな表情ではあったが、声からは気だるさがにじみ出ている。その意味するところを悟ったヴィントは、肩をすくめてため息をついた。踵を返そうとして、しかし上半身だけで振り返る。
「そうか。気をつけろよ」
するとディオルグは、目を瞬いたあとにまた笑った。
「ああ。リーシェルとリオンのこと、よろしく頼む」
「居候に物を頼むのか」
「することがないよりいいだろ?」
いつも通りの軽口と、からからと響く笑い声を残して、男は家の外へと消えていく。ぼんやりとその姿を見送ったヴィントは、軽く鼻を鳴らしてから歩きだした。そろそろ朝食の時間だろう。
ヴィントが食堂に入るやいなや、いつもの通りにレクシオが飛びついてくる。それを軽くいなした彼は、またいつものように食卓についた。
一人欠けた食卓。その中で自然と話題にのぼるのは、やはりその一人のことであろう。
「ええ? おじさん、いないのー」
レクシオがパンにかぶりつきながら、不満の声を上げた。対面にいたヴィントは小さく顎を動かす。
「帝都へ呼び出されたらしい。仕方ないだろうな」
「ええ。皇帝陛下から招へいされたとあっては」
澄んだ声で応じたリーシェルは、ヴィントからの鋭い視線をものともせず食事を進めていく。そして手すきのときに、リオンをあやしていた。
その姿を見ていた男は、ふと疑問を覚える。呟くようにして、それを口に出してみた。
「……こういうことは、よくあるのか」
「いいえ。私たちの役目は、基本的にこの町の守護ですから。今回のようなことがあるときは、だいたい戦時か――特別な命令が下されるんです」
深く含みのある声に、ヴィントは一瞬、警戒を強めた。しかしそのときにはもう、リーシェルの表情はいつも通りの穏やかなものに戻っている。男は釈然としない感覚を味わいながらも、黙々と食事を続けた。
冬の鋭い空気を切り裂くような風切り音が、周囲に響き渡る。規則的に続く音の中には、人の息遣いが確かに混じっていた。
相変わらず雪深い日ではあるが、ヴィントは辛うじて積雪を免れた岩の上に腰かけて、ぼうっと前を見る。白雪に足をうずめながら、息子が木剣を振っていた。気合の声を入れながら一通りの動きを繰り返した彼は、最後にゆっくりと剣を振り下ろすと、動きを止めた。満足そうに息を吐く。
「熱心だな」
「うん! だって、楽しいもん!」
無愛想な男の呟きに、息子は満面の笑みで答える。
何も知らない無垢な笑顔。それを見ると胸の中にためらいが生まれる。だが結局、ヴィントはそれを振り払って、重い口を開いた。
「レク。俺は――俺たちは、そろそろこの家を出るべきではないかと思う」
レクシオが硬直した。自分と同じ緑色の瞳が見開かれるのを、男は無感情に見る。
「ここは貴族の家だ。そして今の俺たちにとって、帝国貴族は敵に等しい存在だ。だからこそ、あまり長居して彼らに正体がばれてしまってはまずいんだ」
少年は、木剣をだらりと下げると、うつむいて唇をかんだ。
幼い彼の気持ちは分かる。気のいい当主夫妻に懐いてしまっていたことは、想像に難くなかった。だがそれでも、これは逆らいようのない現実なのだ。受け入れてもらわねばならない。だからヴィントは、待った。
やがて、レクシオが顔を上げる。
「…………じゃあ、せめておじさんが帰ってきてからにしようよ。ちゃんとお別れ、言いたいもん」
それは、幼子なりの妥協なのだろう。ヴィントは静かに瞑目し、息を吐きだした。
「分かった。じゃあ、奴が帰ってくるのを待って、また旅に出よう。それまでに荷物をまとめておいてくれ」
「うん。ありがとう」
透明な言葉は、男の胸に小さな罪悪感を芽生えさせた。
ディオルグは、ヴィントの予想に反して五日足らずで戻ってきた。行きのようにその瞬間に立ち会うことこそなかったが、食堂を潜った瞬間に陽気な笑顔に出迎えられ、実はちょっとげんなりとしたものである。
ただ、そんな朝食後からずっと、ヴィントは違和感をぬぐうことができなかった。
――ディオルグの様子がおかしい。どこが、と聞かれれば説明に困る程度の些細な違いではあるのだが、それがどうにも酷く気にかかるのだ。よそよそしい、というのが一番近いだろう。
ヴィントは渋い顔をして廊下を歩く。今は特に何をしているときというわけでもなく、全員が全員の好きなように過ごしている時間帯であった。そしてこういうときヴィントはいつも散歩をしているのだが、しかめた顔のせいで、難しいことを考えていると誤解されることも少なくない。
もっとも、今に関しては本当に難しいことを考えていたのだが。
ディオルグのあの態度はなんなのか。帰ってきてからあの調子ということは、きっと帝都で何かあったのだろう。だが何があったのか、イルフォード家の実情を知らない彼には推測することすら容易ではなかった。
外では雪がちらついている。ヴィントは目を細めた。
「そろそろ、潮時だろうな」
もとより、ディオルグが帰ってきたら別れを言ってここを去るということを、レクシオと約束していたのである。それを行動に移すときが来たということだろう。
「ずいぶんと長くいたような気がするな」
――長く、安寧を貪ってしまった。これからはそうはいかない。また、逃亡の日々に戻っていかねばならない。真なる安住の地を見つけるまで。
男はそう思い、真っ白に染まる窓の向こうを振り返った。
「レクシオ」
唐突に名前を呼ばれ、リオンと遊んでいたレクシオは目を丸くして振り返った。部屋の入口にはディオルグが笑顔で立っている。
「おじさん」
「よっ。元気そうだな。親父さんはどうした?」
いつも通りの軽い調子で問いかけてくるディオルグ。安心感を覚える笑顔は、彼が帝都に行く前から変わっていない――はずなのだが、レクシオはそれに対して首をかしげた。言葉にできない違和感が、そこにあったのである。
「お父さんなら、お散歩だって」
だが少年は、結局その違和感を無視した。それを見つめ、正体を考えるには、彼はあまりにも幼すぎたのである。大きな丸い瞳が、笑みを浮かべる男の顔を映す。
「そうか」
放たれた明るい言葉には、なぜか小さな氷片が混ざっているように思えた。レクシオは、リオンの小さな手を握りながら、ますます首をひねる。だがディオルグの方はと言うと、それに気付いているのかいないのか、いつもの調子で歩み寄ってくる。
「じゃあ、ちょうどいいや。おまえさんも、少し散歩しないか?」
「え、おじさんと?」
「ああ」
黒茶の瞳を見た少年は、少し考え込む素振りを見せる。それから、小さな声で「うん」と言った。
ディオルグが部屋を出るのを見届けると、レクシオはリオンに「また遊ぼうね」と声をかけてから、外に出る支度を始める。――こんなに雪が降ってるのに、どうして散歩なんて言い出したんだろう。そう、思いながら。
支度を整えたあと、レクシオとディオルグは二人して外に出た。本当は出る前に父に知らせておきたかったレクシオだが、残念ながら彼を捕まえることはかなわなかった。と言うのも、不安げに男の姿を探す少年に対し、ディオルグが「だーいじょうぶだって、そんな神経質にならなくても」と言ったのである。
一歩家の外に踏み出すと、身を切るような寒さが襲ってくる。レクシオは上着の襟を寄せて身震いした。
「ははは。寒いか?」
「うん……」
陽気に笑いながら訊いてくるディオルグに対し、レクシオは素直にうなずいた。すると、彼は腰にさげている袋をまさぐると、何かを取り出す。
「んじゃ、これ食べろよ」
そう言って彼が差し出したのは、一粒の丸薬だった。いかにも辛そうな赤色に、レクシオの顔が険しくなる。するとディオルグはまた笑って、空いた方の手で、もう一粒の丸薬を自分の口に放り込んだ。がりん、と豪快にかみ砕く。
「確かに辛いが、そのぶん体はあったまるぞー。ほら、良薬は口に苦しってな」
そう言われると何故か反論できない気分になる。レクシオは仕方なく丸薬を受け取り、むっとそれを睨むと、やがて口の中に放りこんだ。がりがりと夢中でかみ砕く。するとすぐに、強烈な辛さが口いっぱいに広がった。少年の目に涙がにじむ。
「か、からい……」
半泣きになりながらそう言った彼を見て、ディオルグはまた笑った。
それからしばらく、二人は無言で歩いた。辛い丸薬のおかげで内側からほてってきた体を抱きながら、レクシオは地面を見下ろす。
『俺は――俺たちは、そろそろこの家を出るべきではないかと思う』
父の言葉が頭の中にこだまする。
言葉を受けれられないのはなぜなのか。自分が子供だからなのか。レクシオはあれからずっと、それを考え続けている。だが、答えは出ない。何度も同じ疑問が巡り続けているだけだ。
レクシオはふと顔を上げ、ディオルグを見る。彼の横顔は相変わらず穏やかだ。だがなぜだろう――どこか思いつめているようにも、レクシオには見えた。
「ねえ――おじさん」
ふと、声をかける。かけてから驚いた。知らない内に、口から言葉が滑り出ていたからだ。ディオルグの瞳が彼の方に向く。
「どうした、レクシオ」
「う、うん。あのね……」
自分の言葉に自分で戸惑った少年はしかし、言葉を続ける。
「父さんと話をしたんだ。そろそろ、おじさんのところから出ていかないかって」
胸に、締め付けられるような痛みがあった。緊張しているせいなのか、頭が上手く働かない。レクシオはそろりと、ディオルグを見上げた。彼はとても優しい、そして悲しそうな目で、少年を見下ろしている。
「そうか」
「うん」
「じゃあ、その前に片をつけてしまわないといけないわけだ」
「……え?」
思いもよらぬ返答にレクシオは目を丸くする。何を言われたのか、さっぱりわからない。驚いたまま見返したが、ディオルグの表情は真剣なまま動かない。名前の分からぬ不安に駆られた少年は、男の方へ身を乗り出した。
「ねえ。かたをつけるって、何、を」
だが、彼の言葉は最後まで続かない。急に世界がくらりと傾き、意識に靄がかかった。
レクシオの小さな体は、そのまま白雪の上に倒れ込む。疑問と不安を宿した目は、とろんと暗くまどろんでいる。その顔を、騎士の男が見下ろした。
「ごめんな、レク」
やはり意味が分からない。
朦朧としている意識の中で、確かに混乱している少年は直後、ディオルグが剣を抜く姿を見た。その目にもはや、いつもの穏やかさはない。
戦士は子供を標的と見定める。そして切り捨てようとしている。それだけだ。
なんで?
レクシオは音にならない言葉を発する。だが答えは返らない。自分で答を見つけることもできない。
なぜ、どうして、こんなことを。
わけが分からない。幼い瞳から涙があふれる。同時に、剣は振り下ろされた。
無情に少年を切り裂こうとした刃は――しかし、その役目を全うすることができなかった。直後、間に割り込んできた影によって弾かれたのだ。
「っ!」
ディオルグの顔に明らかな動揺が走る。
レクシオは、涙にぬれた目で闖入者を見やった。
大きな背中。なびく黒髪。どこかで待ち望んでいた存在が、そこにいた。
レクシオは呼びかけようとする。だがそれは叶わない。だから、ただただ、ひとつのことだけを願って目を閉じた。
どうか、どうかおじさんを救って――と。




