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あの雪の日の約束  作者: 蒼井七海
第四章 あの雪の日の約束
16/23

3

 落ち着ける場所を得たおかげか、レクシオの体調はみるみるうちに良くなっていった。三日後にはベッドの上で「退屈」と漏らし看病に携わっているリーシェルを苦笑させたらしい。

 ヴィントはそのことに安堵する一方で、まどろみそうな平穏に苛立ちつつあった。


 窓の外では、雪が音もなく降り積もっている。男の記憶が正しければ、雪が降らない日はなかった。これではなかなか春が訪れないだろう、と考えてかぶりを振る。そしてどことなくそれが、今の自分たちと重なっているような気がしていた。

「よう、ヴィント」

 背後から楽しげな声がかかる。彼は目を細めて振り向いた。

「なんだ、ディオルグか」

「なんだはないだろ。相変わらずお堅いな」

「おまえたちを信用すると言った記憶はないからな」

 ヴィントが素っ気なく吐き捨てると、朝から元気なイルフォード家当主は肩をすくめた。だが不快に思っている様子はなく、ただいつも通りに「もうすぐ朝飯ができるそうだ」とだけ告げると出ていった。

 鷹揚に手を振りながら遠ざかっていく男の背中を見送ったヴィントは、ふん、と小さく鼻を鳴らす。

 しかし直後、微かに開いた扉の向こうから漏れた子供の笑い声を聞くと、髪の毛をかきむしりながらうなった。

 もうレクシオは普段と変わりないほどの元気を取り戻している。あとは諸症状がおさまれば大丈夫だろう、というのがこの家の侍医の言葉だった。それに問題があるわけではなく、むしろ喜ばしいくらいの事実である。

 だが困ったことに、無垢な息子はすっかり二人の大人に気を許してしまったらしいのだ。

 むろんヴィント自身のように警戒をしろというのは無理な話だが、相手は帝国屈指の戦士二人なのである。あまり懐いてしまっては、万一彼らが敵に回ったときに納得させるのが困難になってしまうかもしれない。そう考えると、ヴィントは憂鬱で仕方なかった。

 再び声が聞こえてくる。ヴィントはいつの間にか伏せていた顔を上げ、重そうに立ち上がった。

 今ここで、可能性ばかりをあれこれ考えていても仕方がない。今やるべきなのは、息子の身を守ることだけだ。そう思うことにして、彼は鉛のような身体を引きずった。


「父さん!」

 食卓に顔を出すやいなや息子に飛びつかれてしまい、ヴィントは苦い顔になった。とりあえず小さい身体を引きはがして地面に下ろす。

「おはよう。元気だな」

「うん! あのね、だいぶ良くなったよ!」

「それはよかった」

 自分でも無愛想極まりないと思うような返事だったにも関わらず、レクシオはきらきらと目を輝かせる。その様子に呆れる一方で心が温かくなるのを感じたヴィントはふと視線を上げた。すると部屋の奥でにやにやと笑うディオルグの姿が目に付く。

――少しだけ、殴りたいと思った。

「ほらほら、もうすぐでき上がるから、席についてくださーい」

 だが、さらに奥の調理場と思しき場所からリーシェルの声が聞こえると、彼はふつふつとわき上がる怒りを飲みこんだ。なんともいえぬ苦みを感じながらレクシオを引きずって、テーブルの方へと歩いていく。

 全員が座ると同時に、笑顔のリーシェルが皿を運んでくる。それらは丁寧に、広い食卓の上に並べられた。レクシオが嬉しそうな声を上げる横で、ヴィントはずっと渋い顔をしていた。

 やがて全員がそろうと、穏やかな食事が始まる。

 匙を手にしながら、ヴィントはふと夫婦の方を気にした。ディオルグはレクシオと会話しながらがっついている。一方のリーシェルは、赤ん坊を抱いてあやしながらそれを見守っていた。

 聞くところによると、この赤ん坊の名はリオンで、第三子らしい。男児とはいえ末子なので、家の中で強い力を持つことはなさそうだが、今は夫婦揃って、そのようなことは関係なく自らの子供を慈しんでいる。

 その様子が、腕におさまるほど小さかった息子をあやす亡き妻の姿に重なって――ヴィントは束の間、瞑目する。

 だがすぐに気を取り直すと、彼は子供との対話に飽きてきたらしい男を見た。

「そういえば、他の二人の子供はどこにいるんだ? 姿を見ないが」

「ん、ラキとステラのことか」

 貴族一門の当主とは思えない豪快な所作でパンを頬張った男。彼は目を瞬くと、次のパンに手をつけながらヴィントの方を見る。

「あいつらなら、研修のために帝都まで行ってる。あと一週間くらいしたら戻ってくるだろうが……」

「……そうか。その頃には俺たちもいなくなっているだろうから気にするな」

 逃亡者は当然のことのように言い、知らずそれをかくまっている騎士も反対する素振りは見せない。ただ「そうか」と言って食事を続ける。だが、大人の会話に聞き耳を立てていた少年が、そこで身を乗り出した。

「えーっ! その人たちに会ってみたいよう」

「――あのな」

 半ば予想していた反応に、だがヴィントは呆れる。

 純粋無垢な態度を責めるわけにもいかないが、あまりにも警戒心が足りていない。

 せっかくなので何か言ってほしいと彼はディオルグに訴える視線を向けたが、相手はそれに答えることをせず、からからと笑った。

「そうかそうか。二人とも、ちょっとうるさいがいい子だからな。きっと仲良くなれるさ」

「本当?」

「ああ、本当だとも」

 どうやらこの当主は、とうぶん自分たちを逃がす気がないらしい。

 飲みこんだはずの鬱屈とした気分が、また男の喉元にまでせり上がってきていた。

 自分たちは逃亡者で、犯罪者である。

 故郷が焼かれたあの日から、それはずっと、男の根底に潜む意識だ。

 だからこそ、誰も信じない。誰の手も取らない。そう決めて、残されたただ一人の家族を守るために各地を放浪した。

 しかし、本当は分かっていたのかもしれない。

 誰かの手を取らないかぎり、この旅は終わらないと。

 そしてそれと同時に、差し伸べられた手を取ることで、自分の罪とともに新たな犠牲が生まれるかもしれない、と。


 乾いた音が庭に響く。ヴィントから少し離れたところでは、二つの木剣が何度もぶつかりあっていた。相対するのは、まだ少年とさえ表現することもはばかられる幼い子供と、一人の男。

 朝食を終えてしばらくしたとき、レクシオが剣を習ってみたいと言いだしたのだ。どうやらヴィントが見ていないところで、やってみないかとディオルグに誘われたらしい。

 剣と言っても木剣を使ったお稽古程度のものであるし、いざというとき自分の身を守るための心得が少しでもあるのは、悪いことではない。

 レクシオの今後に不安を抱きはじめていたヴィントにとって反対する理由がなかったため、彼は息子の願いを受け入れた。そしておそらくは帝国一と言っても過言ではない剣の使い手に、稽古に付き合ってもらっているのである。

 二人の動きを見ながら、ヴィントはぼんやりと「手を抜いているな」と考えた。

 息子の知らないところでいくつかの窮地を潜り抜けてきている男は、ディオルグの足さばきや剣の勢いを見ただけでそれが分かった。

 本来ならば、もっと力強い剣撃を目にもとまらぬ速さで相手に叩きこむことなど容易なのだろう。だが、さすがになんの心得もない子供相手にそれはしないらしい。

 それでもどこか楽しそうな色を彼から感じて、ヴィントはやれやれと頭を振った。

「ここのところ、誰もあの人の相手をしていませんから。きっと楽しいのでしょう」

 唐突に、頭上から柔らかい声が降ってくる。

 見上げるとそこには、幼子を抱いたリーシェルが立っていた。彼女はヴィントの視線を受けて微笑すると、その隣に座りこむ。

「普段は息子か娘のどちらかにもっと苛烈な剣を叩きこんでいるのですが、今は二人とも帝都にいるので」

「ああ……」

 そういえばそんな話があった、と男は朝食時の話を思い出す。同時に、人の親である彼は「三人もいるのは大変そうだな」などとも考えた。

 無愛想な男の顔に今までなかった感情が過ったことが面白かったのか、リーシェルはくすりと笑う。幼子をあやしながら、庭の方に目を向けた。

「私が相手をしてあげることもないことはないですよ。けれど、今はリオンにかかりきりなので……あと数年してこの子が成長したら、また彼と手合わせしたいものです」

 リーシェルもまた、少し前までは騎士だったという。今は育児があるため、その仕事から身を引いているらしいが。

 時折彼女が見せる鋭い視線は、皇帝の身辺を守りときには戦場で武力を振るう者であるからだと、ヴィントはその話を聞いたときに気付いた。

 苦々しさが浮かび上がってきて、隣の女に何も言えなくなる。

 表面はいたって平穏だが、実情は平穏とは程遠い。ヴィントとレクシオの親子は現在、敵に囲まれて暮らしているようなものなのだ。

 春までどうにか正体を隠し、勘付かれる前にここを出なくてはならない。日常の片隅で彼はいつもそのことを気にしていた。

 ゆえにこの一家の日常に口出しをすることは憚られる。

 ヴィントが何も言わずにいると、リーシェルはリオンの頭を優しく撫でながら口を開いた。

「本当は、彼も私もこうして夫婦仲良く、子供たちも一緒に穏やかな暮らしをしていられればいいと思っているのです。でも、同時にこのイルフォード家を守り抜きたいと思っていて……そうするとどうしても騎士、軍人としてのしがらみが生まれる。難しいものですね」

 まるで男の胸中を見透かしているかのような言葉に、彼は答えることができなかった。

 それから少ししてディオルグとレクシオがこちらに向けて駆けてくるのが見えた。どうやら剣の稽古は終わったらしい。

「父さん!」

 レクシオは父の姿を認めるやいなやその身体に飛びつく。嬉しそうな子供を横目で見たディオルグも、彼らを見て、思いっきり伸びをした。

「いやー、こんなに体を動かしたのは久し振りだ!」

「良かったですね、ディオ」

「ああ、楽しかった」

 小躍りでも始めそうな様子でそう言ったディオルグは、唐突にヴィントの方に顔を寄せてささやいてくる。

「あいつ、筋がいいぜ。きっともっと鍛錬すれば騎士にも引けを取らない剣士になれる。な、だから来年の夏くらいまで貸してくれよ」

「――断る。同じところに長居したくないしさせたくもない」

「えー、ケチ。過保護」

「なんとでも言え」

 その後もディオルグは何かにつけて文句を垂れてきたが、ヴィントはそのすべてを黙殺した。


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