第7話
無言で差し出されたグラスを受け取り、エリックは一気に飲み干した。喉を滑り落ちていくワインが、かっと腹の底まで熱くする。
タン、と勢いよくグラスを置くのと同時に、溜めていた息を大きく吐き出した。
傍に控える執事のジョゼフから、行儀が悪いと窘めるような視線が送られたが、そうやって気合を入れなければ、この後を乗り切れない気分だった。
この後の、初夜を。
晩餐は、つつがなく終了した。
それは、晩餐が始まるまでじりじりと待っていた時間とは大違いの、ひどくあっさりとしたものだった。
晩餐前の思いがけない鉢合わせのことを、何か言われるかと身構えていたエリックだったが、リュシールからはこちらが用意した装飾品や家具のことなどのお礼を言われただけだった。
もう結婚した夫婦だ。この後に控えた初夜のことを思えば、下着姿を見られたくらい、何のことはないだろう、とそのことは納得した。
しかし、本当にたったそれだけしか言われなかったのだ。
終始微笑んで合槌を打つだけで、楽しい会話が繰り広げられたわけではない。
予想していたこととはいえ、エリックはそのことが気に入らなかった。まるで、返事をするだけの人形を相手にしてるような味気なさだった。
まさか、このドアの向こうでもそんな態度なのだろうかと思うと、なかなかドアを開く勇気が湧いてこない。
「もう大分夜も更けてきましたが」
「わかっている」
いくら待っても寝室に向かおうとしないジョゼフが遠まわしに指摘した。
「カーラが、準備が整ったと伝えに来て30分も経ちます」
「―――そんなに経つか」
「何を躊躇しているのかはわかりませんが、もし『使い物』にならなければ恥をかきましょう。そういうことでしたら、今日は無理だとお伝えしてまいりますが」
一瞬、何のことを言っているのかわからなかった。しかし、何度かジョゼフの言葉を反芻することで、やっとかなりなことを言われていることに気付く。
「ジョゼフ!」
「こんなにお待たせするなど失礼にもほどがありましょう。女性に恥をかかせるとは、男の風上にも置けませんな」
「わかっている!」
ジョゼフにそう尻を叩かれて、ようやくエリックはそのドアの前に立った。
期待と不安に、高鳴る胸の音を聞きながら、それまでの勢いをどこに忘れてきたのか、というくらい慎重にドアを開ける。
私室よりも少し薄暗い寝室の中は、大きなベッドがあり、そしてそこにはリュシールが寝転んでいた。
エリックを待ちくたびれたのか、ベッドに腰掛けてそのまま横になってしまったようだ。
ベッドに広がった淡い金髪の長い髪と、白い肌とが相まって、まるでそこだけ淡く光っているように見えた。
瞼を閉じて無防備に寝転がるその姿は、昔見たままで。あの少女が、成長して目の前にいることが、どこか信じられない気分だった。
本当に、手に入れることができたのだ。
ここにきて、やっとそのことを実感した。手を伸ばす距離にいることが信じられない。
不安にかられ、緊張していたはずなのに。リュシールを目の前にしてしまえば、そんな気持ちよりも、喜びばかりが胸を満たす。
「また寝転んでいるのか」
懐かしさが滲む声でそう呟くと、閉じていた目が薄らと開く。どうやら、寝ていたわけではないようだ。
とりあえず、落ち着いてもう一度話がしたいと思っていたエリックは、座る場所もないので、仕方なくリュシールと同じようにベッドに腰をかけた。
慌てて身を起こすリュシールを眺めていたエリックは、自分の失敗を悟る。
無防備な夜着越しに、リュシールの女らしい身体がはっきりとわかる。それに加え、控えめにつけられた香水が、リュシールの体温で温められ、ふわりとエリックに届いた。
近づきすぎだ。
こんな状況で、落ち着いて話ができる心境になれるはずがない。まして、景気づけに酒を入れてきたから、理性の紐が緩んでいる気がした。
凝視していたリュシールの身体から目をそらし、必死に平静を装う。
「待たせてしまったな」
「え? あ、いえ。大丈夫です」
『大丈夫』と言ったリュシールの声が、わずかに強張っているのに気が付いた。視線を戻せば、先ほどまでの驚きは隠されて、硬さの残る笑みが浮かんでいた。それは、リュシールにとって、心の中を見せない仮面に近いものなのだろう。
やはり、恐れていたこのパターンなのか、とエリックは失望した。
「どうしたいんだ?」
焦りと不安と、いろんなものが一緒になって、エリックの口からはそんな言葉しか出てこなかった。
本当は、もっと他愛のない会話をして緊張を解してから、リュシールが今後どうしたいと思っているのか、その本心を聞き出そうと考えていたのに。
どうすれば、リュシールの心に触れることができるのか。急がずゆっくりと、その糸口を探るつもりだったのに。
エリック自身が、そんな余裕もないほど追いつめられてしまったのが、予想外だった。
「ど、う…とは」
困惑に眉を寄せたのは、一瞬のこと。
リュシールは、また同じような微笑みを浮かべると。
「エリック様のいいように―――」
何の主張もしないリュシールが腹立たしかった。エリックは、リュシールを手に入れて、こんなにも舞い上がっているのに、淡々としたリュシールの対応に、温度差を思い知らされて傷つかずにはいられない。
「俺は、人形を娶ったつもりはないっ」
思わず語尾も荒く言い切っていた。
その瞬間、さっとリュシールの顔が蒼ざめる。
零れ落ちた言葉を拾うこともできず、その失言をフォローすることもできず、エリックは逃げ出すしかなかった。
拙作をお読みくださり、ありがとうございました。
体調不良と仕事が多忙につき、少々間があきます。
待ってくださっている方、がいるかはわかりませんが。申し訳ありません。
お付き合い、よろしくお願いします。