第2話
もう、この日を迎えるのね。
目の前にある神殿の扉を見ながら、リュシールは怒涛の数か月を振り返った。
花婿に逃げられる、なんて衝撃の出来事の後、デガルト帝国の第3皇子に求婚されたのが5カ月前。
正式な求婚の使者がファストロに訪れ、国王である伯父と父に「考え直すように」と言われ、軟禁されたのが4か月前。
デガルト帝国からの圧力とリュシールの説得により、婚姻が許可されたのが3か月前。
―――よく花嫁道具がそろったわね、と感心してしまう。
ミリアが燃やすと宣言した花嫁衣装は仕方がないにしても、他の物はそのままでいいわ。
そう主張したリュシールだったが、ミリアを始めとするファストロの者から花婿に至るまで、「絶対駄目です」と言われてしまえば、諦めざるをえなかった。
一度も使わなかったのに、勿体ない。
よく、とリュシールが感心してしまった花嫁道具一式だったが、それでも満足のいく量ではない、と更に物を増やそうとするから、慌てて止めた。足りない部分は趣味の材料をぎゅうぎゅうに押し込めておくようにお願いしておいた。
ただの見栄のために、あれ以上散財するのは許せないじゃない。
倹約家のリュシールは、そんなことを考えながら、視線を落とす。すると、こちらもずいぶん高価そうなドレスが目に入った。
前回のとは違う、細かい花の地紋入りの白いドレス。そしてその花のモチーフになった、デガルト帝国を代表する花のカミルのブーケが目に入った。
林檎に似た香りの可憐な小花。
自分とは正反対の印象のカミルの花に、自分の懐が痛んだわけではないドレスの値段は、少しの間忘れることにした。それよりも、今は似合っているのか心配だった。
しなやかな茎を絡め、細かなカミルの花を流れるような動きを持たせながら、ブーケとしてまとめていた。それに加え、髪飾りやベールにまでカミルの花が飾られている。
動く度に、カミルの香りがして、ここが帝国なのだと強く意識させた。
「リュシール、大丈夫かい?」
「はい。もちろんですわ、お父様」
帝国らしいの飾り気がなく堅牢な造りの神殿の扉を前に、リュシールは父に向って微笑む。
大丈夫。どんな視線でも耐えて見せる。それが、私の勤め。
目を閉じ、気合を入れ直したリュシールを見て、父が安心させるように笑った。
「そんなに気負わなくても大丈夫だよ。内輪な式だと聞いているからね。せいぜい、帝国の主だった貴族とエジェンスの貴族くらいだ」
「そう、なのですか?」
3番目とはいえ、デガルト帝国の王子の結婚式なのに、周辺国も招待しないのだろうか。
華美な物や余計な物を嫌う傾向があるとはいえ、それはあまりにも不自然だった。そこまで考えて、リュシールはあぁそうかと納得する答えを見つけた。
私の結婚式だから、か。
花婿に逃げられた花嫁。その輿入れを大々的に歓迎することはできないだろう。近隣諸国を招待するのも憚られる、ということか。
思い至った考えに気分を害していると、いよいよ目の前の扉がゆっくりと開きだした。
「リュシール」
「はい?」
「私もマルセルも、お前を愛している。いつでも帰ってきなさい」
それは、今から嫁ぐ娘に言う言葉としてどうなのかしら?
どうやらまだこの結婚を納得できないようで、リュシールの手を強く握ってくる。
心配してくれる父と弟。そして、久しく会っていない母を思い、リュシールは薄らと笑った。
「そんなこと、お母様は許されませんわ」
「ロレーヌは関係ない」
そんな風に冷たく切り捨てる父の言葉に、自分に向けられたわけではないのに、ひやりと心が冷える。
「いいのです」と緩く首を振って、それ以上を拒絶する。母から向けられる嫌悪も、父の母に向ける無関心さも、これ以上はいらない。それに、ここから逃げ出すつもりもさらさらない。
「お父様、もう決めたことです」
むせ返るようなカミルの香りの中で、リュシールは真っ直ぐ前を向く。
娘の覚悟を感じたのか、父は一つ息を吐くと餞の言葉を贈ってくれた。
「幸せになりなさい」
感極まったような父の言葉に、リュシールは答えることができなかった。
政略結婚の幸せって何?
疑問に思いながら、父と共に赤い絨毯の上を歩んで行く。その先には、これからの人生を共に歩むパートナーが立っていた。
その堂々としたエリックの姿に、リュシールの中の負けず嫌いの虫が騒ぐ。
私は、花婿に逃げられたことを負い目になんて思ってない。どんな視線にさらされても、俯かない。
思わずガンを飛ばす勢いでエリックを見つめていると、何度か瞬きをした後に唇が微かに動いたのがわかった。
けれど、声は聞こえない。とっさのことで動きも追えなかったリュシールは、ますます目が釣りあがりそうになった。何か文句でも?! と。
しかし、その寸前で自分の立場を思い出した。怒ったら負けのような気がして、気合いで目ではなく口角を釣りあげた。
その次の瞬間、リュシールは虚を突かれて、無理やりの笑みは驚きの表情へと変わった。
リュシールの笑顔を見たエリックが、わずかに目を見張り、目元と口元が綻んだ。
笑顔というには、微か過ぎるほどの変化。
けれど、結婚の交渉に来たときの、胡散臭い笑顔よりよっぽど嬉しそうな顔に見えた。
リュシールにしてみれば何でそんな顔をするのか全くわからず、驚いているうちに、微かな笑みは消えて強張った顔へと変わっていた。
もしかして、あのエリックも緊張しているんだろうか、と思うと、エリックへの対抗心から身体に入っていた力が抜けた。ピリピリとしていた感情がゆっくりとほどけていく。
そして、不自然に見えない程度の笑みを浮かべ、父からエリックへとその手を委ねることができた。
「娘を託す。決して泣かせるな」
「心得ました」
父の言葉に、しっかりとエリックが頷いた。
未だ強張った表情をしているエリックを意外に思いながら、リュシールは二人で神官長の前に跪いた。
「これより、デガルト帝国アスティダ公とファストロ国 王弟の娘リュシールとの婚礼の儀を執り行う」
…ちょっと待って、アスティダ公って誰?