西の荒野を駆けるは東の風
時代は開拓とゴールドラッシュが一段落を終え、大陸横断鉄道が設営された19世紀。
そして物語の舞台は西部に建てられた荒廃した炭鉱の町。
人々は町の富豪と雇われたガンマン達による欲望と暴力に支配されていた……。
一人の女が息もつかせぬ勢いで荒れ果てた荒野をその両足で駆けている。
表情には焦りが大いに表れており、まるで何かから逃げているようだ。
そう、女は逃げているのだ。そして逃げているという事は当然―
「ヒャッハー!! やっと見つけた! 待ちなよお姉さん!!」
「荒野で女一人でいたら襲われちまうぜ! あ、今襲われてるのか。ギャハハッ!!」
追う者がいるという事だ。
女の背後から二人の男の下卑た笑い声が聞こえてくる。
距離は大分離れているが、女は両足、男達は二頭の馬に跨り荒野を駆けている。
人と馬の走る速度の差は歴然で、女が男達に追いつかれるのは目に見えていた。
それでも女は必死に足を動かし、視界に見え始めた自分の住む町へと駆けていく。
だが耳を劈く銃声の音に驚き、足を絡ませその場に倒れ込んでしまう。
擦りむいた箇所を押さえて立ち上がるが、既に追ってきた男達に包囲されて動けなかった。
それとは別に、女は男達が握る拳銃を向けられ恐怖で身が竦んでしまっていた。
「手間取らせやがって。富豪の旦那に殺さずに連れてこいと命令されたが……少しぐらい楽しんでも罰は当たらねぇよな。まぁそう言う事だから今から俺達のオモチャになってもらうぜ」
「どうせあの豚に滅茶苦茶にされちまうんだ。ならその前に優しく喰ってやるよぉ」
「や、やめて! 誰か助け―む~む~っ!!」
馬から降りてきた男達に押し倒され、抵抗しようとするが女の腕力では男の腕力に敵わず、助けを呼ぼうと大声を上げるも手で口を塞がれてしまう。
女はこれから自分の身に起こる事に目を背ける様に目の前の男達から恐怖で潤んだ瞳を離し、僅かに離れた場所で吹き荒れていた砂塵に瞳を向けた。
不思議な出で立ちの男がいた。
くすんだ黒色に染まり、胸元が見えるボロ布のような服を纏い、顎と口元周辺に短い無精髭を生やし、毛先の縮れた長い黒髪にその辺に生えている枯草で編んだような傘帽子を被り、腰元に色の付いた棒を差した優男的な顔立ちだがどこか芯の通った印象を感じさせる男が、片手に持つ白い球の様な物を齧りながら砂塵の中を歩いていた。
女は瞳をぱちくりさせ、怪訝な目付きで二人の男も歩いている男を見ていると、今し方気づいた様に男が三人の許へ近付いてくる。
「なんだテメェは」
「お前さん等、こんな所で何してんの?」
傍に寄って来た男に一人の男が銃を向けて話し掛けると、男が眠たげな目付きで尋ねる。
その質問に男達は顔を見合わせ、下卑た笑みを浮かべた男が答えた。
「見りゃ分かるだろ?これからこの女を喰うのさ」
「そんなに腹減ってるならこの銀シャリやろうか?砂混じりであんま美味くねぇけど」
「そういう事言ってんじゃねえ! 邪魔だからさっさと消え―ゴヘッ?!」
「なっ?! テメェぶっ殺―ブハッ!?」
白い球もとい喰い掛けの銀シャリを差し出され、苛立ちを露わにした男が銃の引き金に指を掛けるが、銃口を向けられた男が突然銀シャリを自分の頭上に放り投げた瞬間、苛立つ男の顎に素早い掌底を繰り出し、もう一人の男の顔面に腰元に差した棒を叩き付け、瞬く間に二人の男を倒し退けた。
荒々しくも流れる流水の如き挙動。
女はその動きに心を奪われ、身動き一つせず固まっていた。
二人の男を倒した男は顔を上げ、放り投げて落ちてきた銀シャリを口の中に入れて頬張ると、傍で固まっている女の目線に自分の目線を合わせて話し掛けた。
「よぉ、襲われてるぽかったから成り行きで手ぇ出しちまったけど不味かったか?」
「う、ううん。助かったわ……ありがとう。ねぇ、貴方一体―」
目線を合わせて尋ねられた女は恥かしそうに目線を外して答えると男に質問する。
だが突然男の腹から大音量で空腹を訴える音が鳴り、質問は音に掻き消されてしまった。
僅かの間沈黙が訪れるが、女が片手で口元を隠して笑声を零す。
その表情は襲われていた時の恐怖はもう無く、明るい表情に変わっていた。
笑いを零す女の傍で男は頬を指で掻き苦笑すると、何も言わずにその場を去ろうとする。
「どこに行くの?」
「こっから見えるあの町にでも行って食いもん恵んで貰うつもり」
「恵んでって……お金持ってないの?」
女の質問に対し、男は肩を竦めるとその場で数回軽く跳躍を行う。
その動作で金銭を持っていないのが分かった女は軽く息を零すと町に人指し指を向けた。
「私あの町で酒場を経営してるの。料理も出してるから……一緒に来る?」
「良いのか?」
「助けて貰ったお礼。ねぇ、町までまだ遠いからコイツ等の馬に乗って行きましょ」
「良い提案だが、あいにくと俺は馬に乗ったことが無くてね」
「じゃあ私と一緒の馬に乗りましょ。そうすれば一緒に行けるわ」
言い終えると女は一頭の馬に颯爽と跨り、男に和らげな笑みを向けて手を差し出す。
笑みを軽く男も浮かべると、差し出された手を取り女の後に乗り込む。
乗り込んだのを確認すると女は手綱を弾き、馬に走る様に命ずる。
「しっかり私に摑まってて!」
瞬間、女の言葉と同時に二人を乗せた馬は大きく一声鳴き、荒野を駆け出した。
大地を駆ける馬の四肢で砂埃が巻き上がり、風に吹かれて空へと散っていく。
ぐんぐんと町までの距離が縮まっていき、何事もなければ直ぐに到着するだろう。
そんな中、女はふと自分の身体に違和感を感じて視線を身体に向ける。
男はしっかりと女に摑まっていた。しっかりと両手で女の乳房を掴みながら。
「異人の女は胸が大きいと聞いていたが……ふ~む、お前さん良い物持ってるねぇ」
両手で乳房を掴んだまま男が賛辞を言うが、女は全く聞いておらず―
羞恥心に染まった悲鳴を上げながら、男の頬に強烈な肘打ちを喰らわせた。
太陽が僅かに西に傾きかけた空に、女の悲鳴と男の苦悶に満ちた声が響き渡った……。
「はい、直ったわよこの変な帽子」
「どうも。ついでにこの頬の傷も治してくれると嬉しいんだけど」
「知らない。貴方のスケベ心が招いた傷でしょ」
「掴む箇所が他に見当らなかったんだよ。なら今度乗る時は尻でも……悪かった」
町の中心地に建てられた小さな酒場。
その酒場のカウンター席に座った男と女が声に刺々しさを表して会話をしている。
肘打ちされた頬を押さえながら、男は落馬した際に壊してしまった傘帽子を針と糸で器用に修復した女に文句を吐くが、殺気の籠った瞳と針を向けられると冷や汗を額から流して素直に謝ると、目の前に置かれた料理を黙々と食べ始める。
料理を口に運ぶ男を見て一息ついた女は先程から聞きたかったことを質問した。
「ねぇ、貴方って見掛けからしてこの国の人じゃないわよね。どこの人?」
「遠い遠い東の島国から旅してきた流れ者さ。俺も訊いて良いか?」
「……変な質問だったら怒るわよ」
「真面目な話だ。この町、規模がデカい割に全然人が往来してねぇのはどうしてだ?この酒場に客が俺一人だけってのと何か関係があるのか?」
周囲の空いたイスやテーブルに目を向け、男は疑問に思っていた事を問う。
女はその問いに顔を強張らせて黙り込むが、少し経つと重々しい口調で答え始めた。
「この町はね、昔は近くにある鉱山から採れる資源のおかげでそれはもう人々で賑わってたわ。でもね、ある時一人の資産家がその鉱山を買い取って資源を独占し始めたの……。それで町の人達は結束して資産家に資源を独占するのを止めるよう頼んだの……でも頼みは聞いてくれず、資産家が雇ったガンマン達に頼みに赴いた街の人達は見せしめの様に皆撃ち殺された……。それから数年経って資産家は金にモノをいわせてこの町の町長になったわ。それが地獄の始まり。他の町とは比較にならない高い税を私達から搾り取り、気に入った女は連れてかれ、抵抗する者は皆撃ち殺されて絞首刑台に吊るされる。そんな町で呑気に歩いたり、酒を飲んだりする人はもうこの町にはいないのよ……。ごめんね、町の住民じゃない貴方にこんな深く話をするつもりはなかったのに……ごめんね」
寂しげに言葉を終えた女は俯き、口を閉じた。
話を聞いていた男は直してもらった傘帽子を目元深く被り沈黙する。
二人しかいない寂しい酒場に重苦しい空気が充満していく。
空気を換えようと、女が俯いていた顔を上げて別の質問をした。
「気になってたんだけど貴方が腰に差してる棒は何?只の棒には見えないんだけど……」
「コレか?コレは―っ!?」
腰元に差した物に手を掛けて答えようとした男だったが、突然傍にいる女を片手で抱き寄せ、瞬時に近くのテーブルの後ろに回り込んで床に伏せた。
刹那、酒場の入口から数多くのガンマンが現れ、握る拳銃から雨粒の如き銃弾を撃ち出し、店内の至る所に銃痕を創り上げていき、店内を見るも無残な光景としていく。
銃声が止み、無数の空薬莢が床に散らばり硝煙が舞い散る中、でっぷりと腹の肥えた醜悪な顔の男が店内に足を進めながら口を開いた。
「ぬふふ。迎えに来たよん。あら? もしかして死んじゃった?」
「町長……!」
「あぁ良かった生きてた。死んでしまってたら楽しめないもんね。さてもう一人奇妙な格好の男がいると聞いてるんだけど何処にいるのかなぁ?」
テーブルの陰から顔を出した女を見つけた町長は嬉しそうに笑みを浮かべると、首を動かしてキョロキョロと店内を見回す。
すると女の傍で身を隠していた男がゆっくりと立ち上がり、町長と背後で構えているガンマン達を見据えながら口を開いた。
「随分と派手な挨拶をするじゃないか。で、俺に何か用か?」
「おぉいたいた! なに、私の部下が世話になったみたいだから派手な持て成しをしようと思ってね。さて用件は一つ。死んでくれないか? 私の背後に控えている部下達の銃弾をその身に浴びて肉片を飛び散らせるぐらいに惨たらしくね」
「どうせ嫌だって言っても駄目なんだろ?……仕方ねぇ、此処が汚れちまうから外でな」
「物分りが良くて良いねぇ。ではせっかくだから絞首刑台の傍まで御足労願おうか。あ、そうだ町の住民も集めよう。せっかくの余興だし、皆で楽しく見る方が良いね」
下卑た笑みを浮かべてそう言うと町長は背後の部下達の数人に町民を集める命をする。
命ぜられた部下達はすぐさま酒場から離れ出し、酒場に残っている者達は絞首台のある場所へと足を進め始めた……。
町の中心地からほどなく外れた場所に建てられた絞首刑台。
死の匂いが起ち込めるその場に多くの町民達が集まり、対峙する男とガンマン達の姿を活力を無くした瞳に映し喉を小さく鳴らしていた。
女も町民達の中に混ざり込み、祈る様に両手を組み身体を震わせている。
そんな女の耳に、町民の何人かの囁き声が届いてきた。
「可哀想に……異国の人間がこんな町に近付くから……」
「異国の人間だろうが此処の人間だろうが変わらねぇよ。どうせあの豚が雇ったガンマン達に蜂の巣にされちまう……。万一何人か倒して退けたとしても、豚の側近を務めてるあの最強のガンマンに撃ち殺されて終いだ……。それにあの男、持ってるの物は銃じゃなくて只の棒だ……何時もと変わらねぇよ」
「お母さん。わたし達も、あのお兄ちゃんと一緒に殺されちゃうの?」
「大丈夫よ。何もしなければ……抵抗さえしなければ……生きて行けるのよ……!」
人の絶望に染められた嘆きの声が小さく響き、絞首刑台に充満する死の匂いをより一層濃くさせ、町民達の瞳から光を奪っていく。
さながらその姿は地獄の淵で漂う幽鬼や亡者の様であった。
しかし、女だけは他の者と違い、心に一欠片の希望を残し、男の無事を瞳から伝う涙を拭わずに深く祈りを続けていた……。
「まるで地獄だな」
周囲に居る町民達の顔を一通り眺めた男は感情を籠めずに一言だけ言葉を零す。
その一言が面白かったのか、町長は大声で笑い声を上げ、両手を天に伸ばし、欲望と暴力に染まり切った眼差しを浮かべて喋り始めた。
「カカカカカッ!! 地獄?! いいや違うよ! 此処は天国さっ! 全ての者が私に幸せを運び、命と身体を捧げて私を楽しませてくれる! 此処は私が求めた理想郷なんだよ!! クカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカッ!!!!」
「……救えねぇな」
「クカ……? なに?」
「堕ちた人間は救えねぇって言ったんだ。理想郷だぁ? そんな理想郷、一人で住みやがれ」
町長の笑い声を芯の籠った言葉で遮った男は、口の端を上げ、不敵な笑みを浮かべた。
其処に街の中心付近に建てられた教会の鐘が鳴り響く。
それは夕刻を知らせる音であり、公開処刑の始まりの合図でもあった。
苛立ちを顔中に広げた町長は、銃を構えたガンマン達に―
「殺せ。肉片残らずな」
死の宣告を告げた。
瞬間、構えられた数多くの銃の銃口から弾丸が撃ち出されていく。
数瞬後に訪れるであろう凄惨な光景から町民の多くが顔を背けて目を瞑る。
そして男は―
「もう終いか?」
僅かに足幅を広く取った体勢を取り、弾丸を浴びずに無傷で生きていた。
その場に居る者達には何が起きたのか分からず、唖然とした表情で硬直する。
同時に弾丸を撃ち出したガンマンの多くが突然身体をぐらつかせて地面に倒れ込んだ。
「おっおい、何馬鹿な真似してんだ」
一人のガンマンがうつ伏せに倒れたガンマンに駆け寄り顔を振り向かせる。
倒れたガンマンは言葉を発する事ができなかった。なぜなら―
「しっ、死んでる……?!」
眉間に風穴が空き、物言わぬ屍と化していたからだ。
ざわめきが広がり、冷たい緊張がその場を大きく包み込む。
「何をやっているっ!! 早く奴を撃ち殺せ!」
緊張に耐えきれなかった町長が冷や汗を吹き出しながら怒声で命じる。
それを皮切りに我に返ったガンマン達が次々と弾丸を撃ち出していく。
だが撃ち出された弾丸は男に直撃する瞬間、一本の光の軌跡に弾かれ、気付いた時には弾丸を撃ったガンマン達がその場に倒れて絶命していた。
理解の得難い異様な事態を把握できる者はその場におらず、銃声と渇いた金属音だけが不気味なほどに鳴り響き続け、暫く経つと銃声は鳴り止み、男と対峙して生きている者は町長と傍に佇むガンマンだけであった。
町民達は言葉を発する事ができずに、ただ無傷で立つ男を瞬き一つせず見つめていた。
その直後―
「キ、キサマ、何をす―グガッ?!」
突如、町長の傍に居るガンマンが銃を構えて銃弾を放ち、町長を撃ち殺した。
そのガンマンは異様な風貌であった。
ウェスタンダスター、ベスト、ウェスタンハット、ホルスター、ブーツ、そして握る双銃……。
着飾る物全てが黒色に染まっていた。
黒いガンマンは新たな薬莢を装填すると静かな足並みで構える男に近付いて行く。
その一挙一動は全て洗練されており、並の使い手ではないことが窺えた。
強さを感じ取った男は今まで正面に構えた体勢から相手に己の片側の肩を相手に向けた体勢に変わると、腰溜めに構えて腰元に差した棒の中心部分を片方の手で握り、棒の柄部分に触れそうな位置にもう片方の手を静かに添えた。
同時に研ぎ澄まされた刃の如き圧力が男の身体から溢れ出す。
圧力を身に感じたガンマンは僅かに身体を震わせると、男から約五メートルの位置で足を止め、握る双銃を太腿に着けたホルスターに仕舞い、ゆっくりと口を開いた。
「……さぞ名のある御仁とお見受けする。……男として手合わせを願いたい」
「そんな畏まった事言わなくて良いさ。……何時でも来な」
両者は言葉を終えると互いの身体を瞳に映し、相手の出方を見据える。
凄まじい重圧が死合う両者の間で渦巻き、空気が悲鳴を上げて四散していく。
夕陽がその場に居る者達の影を伸ばし、刻々と時を重ねる。
静寂が緩やかに流れる中、女が重ねた両手を強く握しめ、瞳から流れた一粒の涙を地面に落とす。
そして―
「死なないでっ!」
思いの丈を空と大地に響かせた。
刹那、二度の銃声と斬撃音が花火が散るかの様に余韻を残して消えた。
対峙していた両者は立ち位置が逆となり、互いに背を向けて動きを止めていた。
死合いを見ている者達は男が持つ物に目を奪われた。
それは夕陽の灯に煌めき、茜色に染まった儚げな美しい刀刃。
男が持っていた物は只の棒ではなかった。
極限まで研磨され、万物全てをその一振りで断ち切ることを望んだ者達が創り上げた武器。
刀であった。
「……聞きたい事が一つ……御仁は一体何者だ……?」
背を向けたままガンマンが背後の男に正体を尋ねる。
町民達も固唾を飲んで尋ねられた答えを待つ。
僅かに刻が経つと、男は抜刀した体勢を解き、茜色の刃を鞘に納めながら―
「ただの侍さ」
己の正体を明かした。
答えを聞いたガンマンは満足した表情を浮かべると、地面にゆっくりと倒れ込み、絶命した。
かくして異国を旅する侍により、悪は一刀の許斬り伏せられ、、荒廃した町は復興されていき、人々は活気を取り戻した。だが其処に侍の姿はない。なぜなら男は旅をする侍。
気ままに旅をして流れるのが男の性分。
まるで風の様に自由に流れては消え、またどこかに現る。
富や名声は要らない。ただ、あるがままに生きて行ければそれで良い。
それが男の、侍としての道だから……。