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こつり、と彼の事務机の上に白いマグカップを置いた。
事務机の上はパソコンと、一面の書類に埋め尽くされている。マグカップが置かれたのは彼の目の前の、本当にマグカップ分の面積の空き地だった。
きっと彼は実際にマグカップを置いていたんだろう。何度ここに飲み物を置いたんだろう。
「どう、終わりそう?」
声を掛けて、自分は立ったまま隣のデスクに寄りかかって彼を見た。
「あ、須藤さんすいません、ありがとうございます。」
彼はマグカップに気づき、入職時から変わらない、律儀に頭を下げながら礼を言った。
けれどその顔はずいぶん疲労の色が濃い。ここ数日彼は納期の厳しい仕事を抱えていて、その段取りや書類の作成に追われている。
時間は22時。オフィスの明かりは煌々とついているが、フロアにはわたしたち二人以外の姿はない。
「なんとか明日の朝には間に合うと思うんですけど。っていうか間に合わせないといけないですよね。」
そう彼が呟く声は、ちょっと弱弱しかった。
彼、御堂謙一は2つ下の後輩で現在入社3年目。入社時は周りに押されぎみで頼りない感じが強く、大丈夫だろうかと課の全員が思っていたことだろう。しかし彼は怒られたことをひとつひとつ訂正してもう一度間違えないようにする、という努力を何度も重ねることによって急成長した。今ではずいぶん彼も頼りにされるようになり、少しずつではあるがひとりで案件を任されるようになっている。ただ、その分プレッシャーも大きいらしく、ここのところの仕事量の多さと納期の締め切りで、ずいぶん参っているように見える。忙しすぎてそれらが解消されないままずっと根詰めて仕事をしており、一応先輩としては気になっていた。
「御堂くん、夕ご飯は何か食べたの?」
「あー、何かその辺にあったものを食べたような気がします。」
「その様子じゃ食べてなさそうだね。じゃあコーヒーはやめとこう。胃が荒れる。」
そう言ってわたしは自分が置いたマグカップを取るために手を伸ばした。
「あっ、いえ、いいんです。飲みますから!せっかく先輩が入れてくださったのに。」
慌てて彼が、マグカップに伸びたわたしの手を遮った。
彼の手がわたしの手首をつかんで、びくり、とする。
少し自分より高い体温にどきどきしながら、それを顔に出さないように気をつけた。
「だめだよ。代わりに違う飲み物入れてくるからちょっと待ってて。」
するり、と彼の腕をすり抜けてマグカップをさらい、給湯室へ向かった。
ちゃんと食べてないみたいだから、何がいいだろう。
これからも仕事をするだろうから消化にいいものがいいだろう。
そう考えて、食べ物を買おうと思い立ち、会社の真ん前にあるコンビニエンスストアに入った。
若いから揚げ物が入った弁当でも食べられちゃうだろうけど、健康にはよくない。レトルトの棚に目をやると、お粥やスープが目にとまる。これなら食べやすいだろうが、もしかしたら物足りないかもしれない。
そんな風に考えている自分がなんだか彼の母親のようで、くすりと笑った。
彼に恋人がいたらちゃんと彼の健康を気遣って料理を作ってくれるだろう。もしかして今も家で料理を作って彼の帰りを待っていたりするんだろうか。その場合、今の自分の行動は余計なおせっかいになってしまうけれど・・・
まあ、彼が食べないと言えば自分が食べればいいのだし、と気持ちを切り替えて、わたしは目に付いたものを全部カゴの中へと入れていった。
「先輩!」
彼の声が聞こえたのはコンビニで買い物を済ませ会社のロビーへ入った時だった。
「どうしたの?何かあった?すごい息切れてるけど。」
現れた彼は息が荒く、少しネクタイも曲がっていてそれこそ慌てている様子だった。
「どうしたの、じゃないですよ。給湯室行ったきり戻ってこないから心配したんですって。」
そういえば彼には飲み物を入れなおす、としか言っていないんだった。腕時計に目を遣るとあれから30分以上経過している。
「ごめんね、心配かけちゃったね。ちょっと買い物してたら楽しくなっちゃって。」
「買い物?」
「そう。食べ物買ってきたから一緒に食べようよ。」
「えっ、先輩が買ってきてくれたんですか。」
「わたしがおなかすいちゃったから御堂くんも巻き込もうと思って。ひとりで食べるより楽しいでしょ。」
そう言うと彼は眉を下げて、申し訳ないような、なんともいえないというような顔をした。
「ええーっと、おにぎりでしょ、サンドイッチ、おかゆ、味噌汁、コーンスープ、ポテトサラダ、たこ焼き、フランクフルト、栄養ドリンク、プリン・・・、ってどんだけあるんですか。」
オフィスに戻ってきて袋の中身を見た彼はあきれたような声を出した。
予想通りの反応がおかしくて、笑いながら答える。
「久々にコンビニ行ったけど、最近のコンビニってすごいね。なんかおいしそうなものいっぱいあるからさ、目移りしちゃって。」
こんなにたくさんの食べ物を買ったのはもちろん楽しかったのもあるが、半分は彼がどのくらい、何を食べられるかわからなかったからだ。これだけ種類があれば何かひとつくらい彼の食べられるものがあるだろう、と思ったから。
「今度こそ飲み物入れてくるから、その間に食べ物決めといてね。」
「いや、俺が飲み物入れてきますから、」
「ううん、わたし優柔不断だからさ、決めてくれたほうが嬉しいんだ。だからよろしく。」
彼が席を立とうとしたのを制して、先に給湯室へと歩いていった。
給湯室は狭いが一口のガスコンロもあるのでお湯もわかせて簡単な調理もできる。お茶とコーヒーは課のみんなで費用を出し合って購入しているが、時折違うものが飲みたいときは自分で買って持ってきている。ハーブティーもそのうちのひとつで、ティーバックから取り出して、真っ白の飾り気のないカップに入れ、湯を注ぐ。
蒸らして少し待つ間に考える。ハーブティーで少しは落ち着くだろうか、と。
頭の中が彼のことばかりだということに苦笑した。
-思ったより気になってるんだな。
いい香りが立ち上るカップを2客お盆にのせて、彼の元へ戻った。