婚約者が妹を選んだので、姉妹で祝杯を上げました
「クラリス。すまないが、私は君ではなく、ミレーユを選びたい」
アルマンがそう告げた瞬間、食堂から音が消えた。
ベルナール伯爵家の晩餐室には、両家の両親と近しい親族、それに婚約の話をまとめた古参の子爵夫妻がいる。大勢ではない。それでも、五年続いた婚約を終わらせるには十分すぎるほど人目があった。
クラリスは手元のグラスから顔を上げた。向かいに座るアルマンは緊張しているように見えたが、その表情にはどこか、決意を褒めてもらいたがっているような色がある。
「アルマン殿、何を言っている!」
父が声を上げる。母は息を呑み、アルマンの父である侯爵は額に手を当てた。当のアルマンだけが、騒ぎを予想していた者らしく落ち着いている。
「軽率に決めたことではありません。私は長い間、自分の心と向き合ってきました。クラリスには申し訳ないと思っています。ですが、結婚は一生のことです。愛のないまま夫婦になる方が、彼女に対して不誠実でしょう」
ずいぶん立派なことを言う。
五年前、婚約したばかりのころなら、その横顔に見惚れたかもしれない。今のクラリスには、もっと先まで考えられる。
では、その誠実さとやらは、なぜ妹に手紙を送る前に発揮されなかったのだろう。
胸が痛まないわけではなかった。十五歳から二十歳までの五年間だ。初めて贈られた花の色も、二人で初めて踊った曲も覚えている。彼の妻になるのだと思って礼儀も領地経営も学び、侯爵家の親族の誕生日まで頭に入れた。
それが、たった一言で終わる。
寂しいし、悔しい。
けれど泣きたいかと聞かれれば、答えは不思議なくらいはっきりしていた。
クラリスはアルマンではなく、その隣に座る妹を見た。
ミレーユは十七歳。淡い金髪と大きな青い目を持ち、幼いころから「姉より愛らしい」と褒められてきた少女だ。その妹が今、恋する乙女には到底見えない顔でアルマンを見ている。
嫌そうだった。
ものすごく嫌そうだった。
クラリスは危うく笑いそうになり、唇に力を入れた。
「ミレーユ。あなたは、アルマン様と結婚したいの?」
アルマンが少し驚いたように眉を上げる。
おそらく彼は、もっと別の問いを想像していたのだろう。どうして私を裏切ったの、とか。いつからなの、とか。
ミレーユは一度瞬きをしてから、きっぱり答えた。
「まったく」
父が咳き込み、アルマンの母が「まあ」と小さく声を漏らした。
クラリスは肩の力を抜く。
「そう。よかった」
「……何が?」
「いえ、こちらの話です」
「クラリス、君は混乱しているんだと思う。無理もない。だが私は逃げずに君と話すつもりだ。私はミレーユを愛している」
「それは先ほど伺いました」
なおも何か言おうとしたアルマンを、今度はミレーユが遮った。
「アルマン様。私、まだ一度もあなたを愛していると言っていませんけれど」
再び、食堂から音が消えた。
その夜、日付が変わる少し前に、ミレーユがクラリスの寝室へやって来た。
ノックの音が妙に小さかったので扉を開けると、妹は胸に葡萄酒の瓶を抱えている。
「お父様に見つかったら怒られるわよ」
「もう怒られました」
「何をしたの?」
「アルマン様との婚約は絶対に嫌だと言いました」
クラリスは吹き出した。
ミレーユも笑い、胸の瓶を少し掲げる。
「お姉様も明日の話し合いで、婚約を元に戻さないって言うんでしょう?」
少しだけ間を置いて、クラリスは扉を大きく開けた。
「入りなさい」
瓶は半年前、二人で伯母の葡萄園を訪れたときに買ったものだった。庶民向けの安い酒で、伯爵令嬢の部屋に置いておくには少々似つかわしくない。
瓶の首には細い紐で紙札が結ばれている。
――自由になった日に開けること。
そう書いたのはミレーユだった。
「あのときは、今日になると思ってなかったわ」
クラリスが言うと、ミレーユは栓を抜きながら鼻を鳴らした。
「私も。まさかあの人、自分からお姉様との婚約を壊すなんて。しかも私を選ぶなんて、何をどう勘違いしたらそうなるのかしら」
小さなグラスに葡萄酒を注ぐ。色は少し薄く、香りも高級品ほど華やかではない。それでも二人には、どんな年代物より特別な一本だった。
ミレーユがグラスを掲げる。
「お姉様の婚約解消に」
「あなたの婚約拒否に」
「「乾杯」」
グラスの触れ合う澄んだ音がした。
口に含むと、思っていたより酸っぱい。ミレーユが顔をしかめた。
「すっぱ」
クラリスはとうとう声を上げて笑った。
こんなふうに妹と笑うのは、いつ以来だろう。
幼いころは毎日のように一緒にいた。庭で泥だらけになって叱られたこともあるし、怖い夢を見たミレーユがクラリスのベッドへ潜り込んできたこともある。妹が熱を出せば心配で眠れず、クラリスが家庭教師に叱られれば、ミレーユは自分の菓子を半分くれた。
それが、いつの間にか互いを比べるようになった。
クラリスは勉強ができる。ミレーユは愛嬌がある。姉は礼儀作法が完璧で、妹は音楽と絵が得意。大人たちは悪気なく「妹君の方が可愛らしい」「ミレーユも姉を見習って勉強しなさい」と言った。
一つ一つは小さな言葉でも、小石が靴の中に入り続ければ歩き方は変わる。
そこへアルマンが加わった。
「ミレーユは愛想がいいな。クラリスも少し見習えばいい」
そう言ったかと思えば、妹には、
「君の姉は優秀だ。君も負けてばかりでは悔しいだろう?」
と言う。
クラリスが領地の帳簿を読んでいれば、
「侯爵夫人になれば、そんなものは家令に任せればいい。もっと女性らしいことを覚えた方がいいんじゃないか」
と笑った。
姉妹は少しずつ話さなくなった。
クラリスは妹を見るたび、自分にはない明るさが眩しかった。ミレーユは姉を見るたび、自分にはできないことばかり数えた。
それが半年ほど前、突然ひっくり返った。
その日、ミレーユは一通の手紙を持ってクラリスの部屋へ来た。
そこには見慣れた筆跡で、君と話していると心が安らぐ、クラリスは何でも理屈で考えすぎるが君は素直で可愛らしい、もし最初から君と出会っていたなら――といった言葉が並んでいた。
読み終えたとき、最初に湧いた感情は怒りではなかった。
恥ずかしさだった。
自分の婚約者が、自分の妹にこんな手紙を送った。その事実が情けなくて、惨めだった。
そしてクラリスは、最も言ってはいけないことを言った。
「あなたは、どう返事をしたの?」
自分でも分かるほど、責める響きが混じった。
ミレーユの顔が強張る。
「私が喜んだとでも思っているんですか?」
「そうは言っていないでしょう」
「言っているのと同じです」
昔なら、そのまま喧嘩になっていた。
ミレーユは泣いて部屋を出ただろうし、クラリスは腹を立てながら、妹に嫉妬した自分を何日も嫌悪したはずだ。
けれど、その日のミレーユは逃げなかった。
手紙を机に叩きつけるように置き、目に涙を溜めたまま言った。
「だから持ってきたんじゃない! 私、お姉様の婚約者なんていりません。こんなの欲しくない。私が欲しかったのは……お姉様に勝ちたかっただけ」
「……私に?」
「だって、ずっと言われてきたもの。お姉様みたいにしなさい、お姉様はできる、お姉様は立派だって。私が絵を描いても、ピアノを弾いても、最後には『でもお姉様は』って。だから一つくらい、お姉様より上のものが欲しかった」
「それがアルマン様だったの?」
「違う!」
あまりの即答にクラリスは目を瞬いた。
「最初は、あの人に褒められると嬉しかった。お姉様より私の方が話しやすいって言われて、ちょっとだけ勝った気になったこともあります。でも、この手紙をもらって気づいたんです。こんなのに勝って、何になるのって」
こんなの。
五年間の婚約者を妹に「こんなの」と言われた。
普通なら怒るところかもしれない。けれどクラリスの口から出たのは、思いもしなかった笑い声だった。
「ちょっと、お姉様」
「ごめんなさい。だって……こんなのって」
「だって、こんなのでしょう」
「ええ。今となっては否定できないわ」
しばらく笑ってから、ミレーユが恐る恐る聞いた。
「お姉様は、私が嫌いですか?」
クラリスはすぐに答えられなかった。
嫌いだったと言えば嘘になる。嫌いではなかったと言ってしまうのも、きれいごとに思えた。
「嫌いになろうとしていたのかもしれない」
「どうして?」
「あなたを好きなままだと、負けるのが辛かったから」
ミレーユがぽかんとする。
「お姉様も?」
「私だって人間よ。あなたは誰とでもすぐ仲良くなれるし、お父様にもお母様にも甘えるのが上手でしょう。私にはできないことばかりだった」
「私は、お姉様みたいに何でもできた方がいい」
「私はあなたみたいに可愛げがあった方がいいと思っていたわ」
二人は顔を見合わせた。
先に吹き出したのは、どちらだったか。
「馬鹿みたい」
ミレーユが目元を拭う。
「本当にね」
「私たち、何を競っていたのかしら」
クラリスは考えた。
勉強、ダンス、母の褒め言葉、父の期待、ドレス、縁談。
それから。
「アルマン様?」
言ってから、自分でも首を傾げる。
ミレーユも同じ顔をした。
「……いらなくない?」
「そうね。いらないわね」
その一言で、二人はまた笑った。
それから半年、姉妹はこっそり準備を始めた。
クラリスは、自分が何をしたいのか初めて真面目に考えた。侯爵夫人になりたいと思ったことは、実のところ一度もなかった。
十五歳で婚約が決まり、周囲が喜び、母が「これで安心ね」と抱きしめてくれた。だから自分も喜ぶべきなのだと思っていた。
本当に好きだったのは、父の書斎にある領地の帳簿だった。
麦の収穫量が去年より減ったなら原因は何か。橋を一本直せば、街道を使う商人はどれだけ増えるか。羊毛をそのまま売るより、領内で布にしてから出荷した方が利益は上がるのではないか。
数字の向こうに人の暮らしが見えるのが面白かった。
アルマンは一度もその話を聞きたがらなかった。
「そんなことは家令に任せればいい」
いつもそう言った。
ところが、亡き母の姉である伯母は違った。
夫の死後、自ら葡萄園を切り盛りしている伯母に相談すると、すぐに返事が来た。
――成人したら、いつでもいらっしゃい。人の妻になる前に、一人の人間として働いてみるのも悪くないでしょう。
その手紙を王都から届けてくれたのが、幼馴染のレオンだった。
ベルナール領の隣にある男爵家の次男で、今は王都で文官をしている。子どものころは三人でよく遊んだが、彼が王都へ出てから会う回数は減っていた。
「伯母上のところへ行くのか?」
「まだ決めていないわ」
「ふうん。君なら三日で葡萄園の帳簿を全部覚えて、四日目には伯母上と喧嘩していそうだけど」
「どういう意味?」
「褒めてる」
クラリスは久しぶりに気楽に笑った。
レオンは昔から、クラリスが帳簿の話をしても嫌な顔をしない。むしろ途中で口を挟み、話をややこしくする。
アルマンとは違う。
そう気づいた瞬間、クラリスはその考えを胸の奥へ押し込んだ。まだ婚約者がいる。比べるべきではないと思った。
まさか、その婚約者の方から半年後にすべてを壊してくれるとは思わなかったが。
翌日の午後、両家の話し合いが改めて行われた。
父の書斎にはクラリスとミレーユ、両親、アルマンと侯爵夫妻が揃っている。侯爵は息子にかなり腹を立てているようだったが、家同士の縁を完全に切ることにも抵抗があるらしい。
「クラリス嬢には本当に申し訳ない。ただ、もしミレーユ嬢本人も望んでいるのであれば、婚約相手を妹君に改めることで――」
「望んでおりません」
ミレーユが即座に答えた。
アルマンが妹を見る。
「昨日は混乱していたんだろう。君は優しいから、姉への罪悪感もあるはずだ」
「ありません」
「え?」
「お姉様に申し訳ないとは思っています。でも、あなたを愛しているのに姉へ遠慮して身を引こうとしているわけではありません。アルマン様との婚約は、お断りいたします」
アルマンは本気で分からないという顔をした。
「なぜ? 君は私に好意を持っていただろう」
ミレーユの眉間に皺が寄る。
「いつですか?」
「夜会ではいつも笑って話しかけてきた。私が贈った菓子も喜んでいたし、手紙だって受け取った」
「夜会で不機嫌な顔をして姉の婚約者を無視する方が問題でしょう。お菓子はおいしかったから喜びました。手紙は勝手に届きました」
侯爵夫人が扇で顔を隠した。
笑ったのかもしれない。
「だが、君はクラリスと張り合っていただろう!」
今度こそ、ミレーユは理解できない顔をした。
「姉妹ですから」
「……は?」
「姉妹なんて、くだらないことで張り合うものです。ドレスの色でも、試験の点でも、どちらがお父様に褒められたかでも。昔は最後のお菓子一つで喧嘩したことだってあります」
「だから私のことも――」
「どうしてあなたまで賞品だと思ったんですか?」
クラリスは俯いた。
今笑ったらさすがに失礼だ。
隣を見ると母も口元を押さえている。父だけは笑っていいのか分からないらしく、妙に難しい顔をしていた。
アルマンの頬が赤くなる。
「では、あの手紙を見て君は何とも思わなかったのか?」
「思いましたよ」
「なら――」
「姉の婚約者がこんな手紙を妹に送るなんて、最低だなって」
今度こそ侯爵夫人が小さく吹き出し、侯爵が低い声で息子を制した。
「アルマン」
しかしアルマンは引かなかった。
「クラリス。君はそれでいいのか? 五年だぞ。私たちは五年も婚約していたんだ」
その言葉だけは、クラリスの胸に刺さった。
何もかもが嫌だったわけではない。若かった二人で将来の話をしたこともある。誕生日に彼が選んでくれた青い耳飾りは、今でも大切にしまってある。
けれど、長く続いたことと、これからも続けるべきことは同じではない。
「私も、あなたを好きだったわ」
アルマンの表情が動く。
「だったら――」
「だからこそ、もう終わりにします」
クラリスは自分でも驚くほど静かに言えた。
「五年を無かったことにはしません。楽しかったこともありました。でも私は、妹と比べられながら妻になるのは嫌です。私が好きなことを『女には必要ない』と言われ続けるのも嫌。何より、私と婚約したまま妹に心を寄せた人を、もう一度信じる自信がありません」
「やり直すことはできる」
「できるかもしれません。でも、私はやり直したくないんです」
それで終わりだった。
侯爵が息子を見る。
「もうよせ。お前はクラリス嬢との婚約を自分から終わらせ、ミレーユ嬢を望んだ。そのミレーユ嬢がお前を望まない。それだけのことだ」
アルマンは、ようやく黙った。
侯爵家が帰ったあと、父が長く息を吐いた。
「それで、クラリス。お前はどうするつもりだ」
「伯母様の葡萄園へ行きたいと思っています」
「葡萄園?」
「伯母様のところで働きます。領地経営をもっと実地で学びたいんです」
父の眉が寄った。
「しかしお前は二十だ。婚約がなくなった今、次の縁談も考えなければならない。私はお前の将来を心配しているんだ。女が一人で生きていくのは簡単ではない。良い相手に選ばれることは――」
「お父様」
クラリスが父の話を途中で止めるのは、ほとんど初めてだった。
「私、もう選ばれるために生きるのはやめます。もちろん、いつか結婚したいと思うかもしれません。でもそのときは、私も相手を選びたい。選んでもらえたから幸せなのだと思い込むのは、もうやめたいんです」
「私も」
ミレーユが続けた。
「私は王都の美術学院を受けます」
父が振り向く。
「お前まで何を言い出すんだ」
「前から言ってました。お父様が聞いてくれなかっただけです。試験に落ちたら諦めます。でも受ける前から諦めるのは嫌」
父はしばらく姉妹を見つめた。
横から母が静かに言う。
「いいんじゃありませんか」
「君まで」
「二人とも、こんな顔で自分のやりたいことを話すのは初めてよ」
父は天井を仰ぎ、やがて諦めたように肩を落とした。
「……好きにしなさい。ただし、途中で泣きついてきても知らんぞ」
「お父様。そういうときは普通、『困ったら帰ってきなさい』って言うんですよ」
「うるさい」
その後、婚約解消の手続きは淡々と進んだ。
クラリスは侯爵家から預かっていた品を返し、アルマンから贈られた青い耳飾りだけを手元に残した。
嫌いになったからと捨てるのも違う気がした。昔の自分が喜んだことまで恥じる必要はない。
アルマンからは一度だけ手紙が届いた。
――改めて考えた。やはり君との婚約を元に戻すことが、皆にとって最善なのではないか。
そこまで読んで、クラリスは手紙を畳んだ。
ちょうど部屋にいたミレーユが聞く。
「何て?」
「元に戻したいそうよ」
「いる?」
「いらない」
「私も」
二人で笑い、返事は書かなかった。
紙に罪はないので、裏側を買い物の計算に使った。
後になって聞いた話では、アルマンはしばらく社交界で気まずい思いをしたらしい。
「姉妹を争わせた色男」ならまだ格好がついたのだろうが、実際に広まったのは「姉妹の間で押し付け合われ、結局どちらにも断られた男」という評判だった。
クラリスは少し気の毒だと思った。
ほんの少しだけ。
三か月後、クラリスは伯母の葡萄園にいた。
朝は早く、靴は泥だらけになる。伯爵令嬢だからと手加減してくれる人は誰もおらず、初日に渡された帳簿は数字が合わなかった。
最高だった。
「今年は南の畑の収量が落ちています。土の問題かもしれませんけど、去年から運搬用の馬車が変わっていますよね」
朝食の席で言うと、伯母はパンに山羊の乳酪を塗りながら答える。
「葡萄が傷んでいると?」
「まだ分かりません。畑ごとの収穫時の数字と、醸造所へ入った時点の重さを比べたいです」
「じゃあ調べなさい」
「はい」
そんな会話が楽しかった。
誰も「女なのに」と言わない。間違えれば叱られ、正しければ採用される。
それだけだ。
ミレーユからは週に一度、手紙が来た。美術学院の試験には無事合格した。
――先生が厳しいです。お姉様より怖い。
そう書いてあったので、
――私より怖いなら、相当ね。頑張りなさい。
と返したら、次の便には一言だけあった。
――そこは否定して。
ある日の午後、クラリスが倉庫で在庫表と格闘していると、伯母が顔を出した。
「客よ。王都から。ずいぶん長い付き合いらしいけれど」
外へ出ると、見慣れた青年が馬車の横に立っていた。
レオンだった。
「久しぶり」
「どうしてここに?」
「仕事。この近くの街道整備について伯母上に話があってね。ついでに顔を見てこいとミレーユに言われた」
「どちらがついで?」
「さて」
レオンはクラリスの作業着を見ても何も言わなかった。裾についた泥を見て、ようやく一言だけ言う。
「楽しそうだな」
「ええ」
クラリスは素直に答えた。
「とても」
レオンは少し目を細めた。
「なら、よかった」
仕事の話の前に葡萄園を見たいと言うので、二人で畑を歩いた。
クラリスは今年の葡萄の出来を説明し、運搬路の問題を話し、新しい圧搾機を入れるか伯母と揉めていることまで喋った。
レオンは相槌を打ちながら、ときどき質問を挟む。
しばらくして、クラリスはふと気づいた。
「私ばかり話してるわね」
「いつものことだろ」
「失礼ね」
「褒めてる」
「前も同じことを言ったわ」
「便利な言葉だから」
丘の上まで来ると、葡萄畑が一望できた。遠くの道を荷馬車がゆっくり進んでいる。夏の終わりの風には、土と葉の匂いが混じっていた。
レオンが不意に言った。
「一つ聞いてもいい? 今の君は、何を選びたい?」
以前なら困ったかもしれない。
侯爵夫人になること。父を安心させること。家の役に立つこと。正しい答えを探したはずだ。
でも今は、思いついた順でよかった。
「まず、仕事。この葡萄園でもっと覚えたいことがある。できれば来年は、うちの領地の帳簿も見直したい」
「うん」
「それから、ミレーユと旅行したい。あの子、美術学院を卒業したら海を見に行きたいって」
「いいね」
「それから……」
クラリスはレオンを見た。
妙に緊張した。
アルマンと婚約したときには、自分から誰かを選んだ覚えがない。両親に話を聞かされ、悪くない縁談だと思い、相手も自分を気に入ってくれたから頷いた。
今度は、自分で言うのだ。
「あなたと、もう少し話してみたい」
レオンが目を瞬く。
珍しく、返事が遅かった。
「それは」
「嫌?」
「まさか。光栄です」
いつもの調子で言ったくせに、耳が少し赤い。
クラリスはそれを指摘しないことにした。
秋になり、葡萄の収穫が終わるころ、ミレーユが休暇を使って葡萄園へやって来た。
再会して一刻もしないうちに、妹は姉の顔をじろじろ眺める。
「何よ」
「別に。レオン様も来るんですって?」
「伯母様と街道の話があるの」
「へえ」
「その顔やめなさい」
その日の夕方、伯母が地下の貯蔵庫から一本の葡萄酒を出してくれた。
「前より少しはましなものを飲ませてあげる」
庭の卓に三つのグラスが並んだ。
ほどなくしてレオンも加わり、夕暮れの葡萄畑を眺めながらグラスを持つ。
ミレーユが楽しそうに聞いた。
「ところで、お姉様。今度は何に乾杯するの?」
半年前は、失ったものに乾杯した。
婚約がなくなったこと。望まない婚約を拒んだこと。二人を縛っていたものが消えたこと。
けれど今日は違う。
クラリスは妹を見て、それから隣のレオンを見た。
「そうね」
グラスを少し高く掲げる。
「私たちが、自分で選んだ未来に」
ミレーユが笑った。
「それ、いいわね」
レオンもグラスを上げる。
三つのグラスが軽く触れ、澄んだ音が夕暮れに響いた。
今度の祝杯は、何かを失った祝いではなかった。
最後まで読んで頂きありがとうございます!
作者のペンギンの搾り汁(Tiho)です。
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