ミルとわたし
時計の針は、七時三十五分をさしていた。
そう、今でもはっきり思い出せる。
あの頃のわたしは、時計ばかり見ていた。
玄関のドアが「バタン」と閉まる。
その瞬間、家の中から音が消えた。
静か、というより、なにかに「閉じ込められた」みたいな静けさだった。
「……今日も、早い」
キッチンのテーブルに座ったまま、冷めたハンバーグをつつく。
わたしはまだ、七歳だった。
両親はフランスにいて、二週間、帰ってこない。
シッターは、約束を守らなくなっていた。
八時までいるはずが、七時半に帰るようになった。
理由は、いつも軽い。
「もう大丈夫そうだから」
その「大丈夫」は、誰のことを言っているのか。
あの頃のわたしには、よくわからなかった。
皿を流しに運ぶ。
踏み台にのぼって、水を出す。
冷たい水が、指にしみる。
約束だったのに。
小さくため息をついた。
そのとき、窓の外に気配を感じた。
庭の木の下に、黒いかたまりが、いた。
目だけが光っている。
じっと、こちらを見ている。
ミル。そう呼ぶ事にした。
いつから来るようになったのか、わからない黒猫。
でも、わたしは知っていた。
この子は、毎晩ここにいる。
ミルクを小皿に入れて、外に出る。
夜の空気は冷たくて、静かすぎた。
小皿を置いても、ミルはすぐには近づかなかった。
じっと、わたしを見る。
それから、ゆっくりと近づいてきて、ミルクを飲みはじめた。
「ねえ、ミル」
わたしはしゃがみこんで、小さな声で話しかける。
「佐伯さん、また早く帰ったの」
ぺちゃ、ぺちゃ、と音がする。
「お皿も洗ってくれなかったんだよ」
ミルは、顔をあげない。
「ずるいよね」
その言葉を言ったとき。
ミルの飲む音が、ぴたりと止まった。
静寂。
それから、ゆっくりと顔があがる。
目が、光っていた。
さっきよりも強く。
まるで、なにかを映しているみたいに。
ぞくり、とした。
「……ミル?」
呼ぶと、ミルは小さく鳴いた。
にゃあ。
それは、いつもより低くて、どこか重たい声だった。
でも、そのあと。
何事もなかったかのように、またミルクを飲みはじめた。
わたしは、そのまま頭をなでた。
あたたかくて、やわらかい。
でも、その奥に、なにか別のものがある気がした。
翌日、時計は、七時二十分。
「今日は用事があるから」
佐伯さんは、わたしの顔も見ずに帰っていった。
バタン。
ドアの音が、やけに大きく響く。
家の中は、昨日よりも静かだった。
皿を洗う。
水の音だけが、やけに響く。
そのとき、サイレンの音が聞こえた。
遠くから、近づいてきて、家のすぐ近くで止まった。
わたしは目の前の空間を見つめた。
なぜか、わかってしまったから。
それが「誰のための音」なのか。
窓の外を見る。
庭の木の下に、いない。
ミルが、いない。
昨日まで、必ずそこにいたのに。
その日の夜。
ミルは来なかった。
佐伯さんが、歩道橋の階段から落ちたのは、七時四十分。
後でそう教えてもらった。
骨は折れなかったが、ひどい捻挫だったらしい。
そして、こんなことも言っていたと。
「黒猫がまとわりついてきた」
笑い話として、処理されたらしい。
でも、わたしは知っている。
あの夜、ミルは、わたしの言葉を、聞いていた。
ミルは二度と来なかった。
あれから何年も経つ。
夜、台所に立つと、ときどき思い出す。
あの静かな夜。あの光る目。
そして、あのとき、わたしが言った言葉。
「ずるいよね」
もしも、あれが願いだったのだとしたら。
ミルは、それを叶えただけなのかもしれない。
今でも、ときどき思う。
もし、あの夜、わたしが違うことを言っていたら、
なにが起こったのだろうかと。
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