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ミルとわたし

掲載日:2026/04/22

 

 時計の針は、七時三十五分をさしていた。

 そう、今でもはっきり思い出せる。


 あの頃のわたしは、時計ばかり見ていた。


 玄関のドアが「バタン」と閉まる。


 その瞬間、家の中から音が消えた。


 静か、というより、なにかに「閉じ込められた」みたいな静けさだった。


「……今日も、早い」


 キッチンのテーブルに座ったまま、冷めたハンバーグをつつく。


 わたしはまだ、七歳だった。


 両親はフランスにいて、二週間、帰ってこない。


 シッターは、約束を守らなくなっていた。


 八時までいるはずが、七時半に帰るようになった。


 理由は、いつも軽い。


「もう大丈夫そうだから」


 その「大丈夫」は、誰のことを言っているのか。


 あの頃のわたしには、よくわからなかった。


 皿を流しに運ぶ。


 踏み台にのぼって、水を出す。


 冷たい水が、指にしみる。


 約束だったのに。


 小さくため息をついた。


 そのとき、窓の外に気配を感じた。


 庭の木の下に、黒いかたまりが、いた。


 目だけが光っている。

 じっと、こちらを見ている。


 ミル。そう呼ぶ事にした。


 いつから来るようになったのか、わからない黒猫。


 でも、わたしは知っていた。


 この子は、毎晩ここにいる。


 ミルクを小皿に入れて、外に出る。


 夜の空気は冷たくて、静かすぎた。


 小皿を置いても、ミルはすぐには近づかなかった。


 じっと、わたしを見る。


 それから、ゆっくりと近づいてきて、ミルクを飲みはじめた。


「ねえ、ミル」


 わたしはしゃがみこんで、小さな声で話しかける。


「佐伯さん、また早く帰ったの」


 ぺちゃ、ぺちゃ、と音がする。


「お皿も洗ってくれなかったんだよ」


 ミルは、顔をあげない。


「ずるいよね」


 その言葉を言ったとき。


 ミルの飲む音が、ぴたりと止まった。


 静寂。


 それから、ゆっくりと顔があがる。


 目が、光っていた。


 さっきよりも強く。

 まるで、なにかを映しているみたいに。


 ぞくり、とした。


「……ミル?」


 呼ぶと、ミルは小さく鳴いた。


 にゃあ。


 それは、いつもより低くて、どこか重たい声だった。


 でも、そのあと。


 何事もなかったかのように、またミルクを飲みはじめた。


 わたしは、そのまま頭をなでた。


 あたたかくて、やわらかい。


 でも、その奥に、なにか別のものがある気がした。


 翌日、時計は、七時二十分。


「今日は用事があるから」


 佐伯さんは、わたしの顔も見ずに帰っていった。


 バタン。


 ドアの音が、やけに大きく響く。


 家の中は、昨日よりも静かだった。


 皿を洗う。


 水の音だけが、やけに響く。


 そのとき、サイレンの音が聞こえた。


 遠くから、近づいてきて、家のすぐ近くで止まった。


 わたしは目の前の空間を見つめた。


 なぜか、わかってしまったから。


 それが「誰のための音」なのか。


 窓の外を見る。


 庭の木の下に、いない。


 ミルが、いない。


 昨日まで、必ずそこにいたのに。


 その日の夜。


 ミルは来なかった。


 佐伯さんが、歩道橋の階段から落ちたのは、七時四十分。


 後でそう教えてもらった。


 骨は折れなかったが、ひどい捻挫だったらしい。


 そして、こんなことも言っていたと。


「黒猫がまとわりついてきた」


 笑い話として、処理されたらしい。


 でも、わたしは知っている。


 あの夜、ミルは、わたしの言葉を、聞いていた。



 ミルは二度と来なかった。


 あれから何年も経つ。


 夜、台所に立つと、ときどき思い出す。


 あの静かな夜。あの光る目。


 そして、あのとき、わたしが言った言葉。


「ずるいよね」


 もしも、あれが願いだったのだとしたら。


 ミルは、それを叶えただけなのかもしれない。


 今でも、ときどき思う。


 もし、あの夜、わたしが違うことを言っていたら、


 なにが起こったのだろうかと。


いつも読んでいただきありがとうございます!


誤字、脱字を教えていただくのもありがとうございます。

とても助かっております。

楽しんでいただけましたら、ブックマーク・★★★★★をよろしくお願いします。

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