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『黒ヤギさんがごま油食べた』

作者: 月白ふゆ
掲載日:2026/02/04

 この話は、最初はとてもくだらない思いつきでした。

 黒ヤギがごま油を舐めたら、毛艶が良くなりそうだな、という程度の。

 動物ふれあい広場と香ばしい匂い。どう考えてもコメディです。


 けれど、匂いというものは、記憶よりも先に人の奥へ入り込みます。

 笑って受け流したはずの違和感が、夜になって戻ってくることもある。


 本作は、なるべく最後まで「大したことが起きていない顔」をしています。

 読み終えたあとで、ふと匂いを思い出してしまったら、

 それがこの短編の正解です。


 どうぞ、気楽にお読みください。

 黒ヤギさんがごま油を食べたのは、だいたい「事件」と呼ぶには平和すぎる午後だった。


 うちの施設の片隅にある小さなふれあい広場には、ヤギが二頭いる。白いのが白ヤギさん、黒いのが黒ヤギさん。名札までそのままなのは、子どもが勝手にそう呼び始めて、職員も面倒で訂正しなくなったからだ。白ヤギさんは礼儀正しく、干し草をゆっくり反芻する。黒ヤギさんは落ち着きがなく、柵を舐め、靴紐を狙い、こちらの名札をやたら齧ろうとする。どこかに「紙なら何でも食べる」の歌の呪いでも背負っているような個体で、注意書きの紙を貼れば貼るほど、貼った先から消える。


 その日も、子どもたちの見学が終わったあと、私は掃除用のバケツを片手に広場に戻った。床の藁を片づけ、餌桶を洗い、最後に柵の外にこぼれた干し草を拾っていると、鼻先をくすぐる香ばしい匂いがした。


 ごま油だ。しかも、揚げ物屋の厨房みたいに濃い。


「なんだこの匂い……」


 視線を落とすと、柵の内側の土に、艶のある黒い染みができている。黒ヤギさんがその染みを見つけた瞬間、まるで水たまりに口を突っ込む犬みたいに、ぺろぺろと舐め始めた。


「おい、やめろやめろ」


 柵の外から追い払おうとしても、黒ヤギさんは目を細めて恍惚とした顔をする。舌の動きがやけに器用で、舐めるたびに匂いが濃くなる。白ヤギさんは少し距離を取り、首を傾げてこちらを見る。黒ヤギさんの口元は、妙に光っていた。


 私は急いでバケツの水を土に流して薄め、雑巾で拭き取りながら、原因を探した。ごま油なんて、ここで使う理由がない。食事の残飯を持ち込むことも禁止している。誰かが弁当のドレッシングをこぼした? 子どもがふざけて持ち込んだ? いや、それならもっと騒ぎになる。


 それでも、しばらくは笑い話だった。


 夕方、事務所に戻ると、同僚の佐伯が「あ、匂いの犯人それじゃない?」と指差した。私の机の横に、小さな紙袋が置いてある。中には新品のごま油が一本。ラベルも剥がれていない。封も切られていない。


「誰の?」


「知らない。さっきからここにある」


「いやいや、勝手に置くなって……」


 袋の口をのぞくと、油の瓶の下に一枚の封筒が入っていた。白い封筒に、黒いペンで宛名だけが書かれている。私の名前だ。


 差出人は書かれていない。切手もない。投函印もない。なのに、封筒の端がわずかに湿っていて、ごま油の匂いがする。


「手紙まで付いてる。ちょっと洒落てるじゃん」


 佐伯は笑っていた。私は笑えなかった。封筒の湿り気が、紙の汗みたいで気持ち悪い。


 中身は、便箋一枚だった。


『黒い子は、香りを覚えました。良い油です。もう少し、ください。』


 字は丁寧で、整っている。文の最後に、丸がひとつ。まるで、先生が採点につけるみたいな、あの丸。


「なにこれ。誰のいたずら?」


「さあ。子どもじゃない? 最近、変に大人びた子もいるし」


 私は便箋を指でつまんだ。紙の裏から匂いがする。油を吸った紙の匂いだ。封筒も、便箋も、どこか脂っぽい。笑い話にして片づけたいのに、手のひらに薄い膜が残る感じがして、どうしても落ち着かなかった。


 その晩、私はごま油の瓶を鍵付きの棚にしまった。もらい物を勝手に処分するのも気が引けたし、かといって、広場に置いておくのも嫌だった。


 翌日、黒ヤギさんはいつもより機嫌が良かった。いや、良いというより、艶があった。毛並みがやけに黒々して、光が滑る。近づくと、ほのかに香ばしい匂いがする。まるで、黒ゴマプリンみたいな匂いがヤギからする。そんなこと、あるか?


 子どもたちは喜んだ。


「黒ヤギさん、ツヤツヤ! 美容院行ったの?」


「ごま油だよ、ごま油。昨日食べたからだよ」


 どこから聞きつけたのか、噂は一日で広がった。私は「食べてない、舐めただけ」と訂正しながら、なぜそんな噂が広がるのかのほうが怖かった。佐伯が裏で面白がって話したのだろうか。いや、それならまだ分かる。分からないのは、私の机に置かれた油と手紙だ。


 その日の午後、掃除をしていると、また匂いがした。昨日とは別の場所に、小さな艶のある染みができている。黒ヤギさんが見つけて、迷いなく舐める。まるで、最初からそこにあることを知っていたみたいに。


「またかよ……」


 私は水を流し、拭き取り、周囲の床を確認した。誰かが持ち込んだ形跡はない。染みは土の奥まで染みこんでいて、表面だけではない。油が、上からこぼれたというより、下から滲んだような染み方だった。


 その夜、棚の鍵を開けて油の瓶を確認した。封は、切っていない。なのに、瓶の底のほうに、ほんの少しだけ空間ができている気がした。気のせいかもしれない。新品の瓶だって、少しは隙間がある。でも、昨日より減っているように見える。


 私は指で瓶を撫でた。ガラスは冷たいのに、指先がぬるっとした。見れば、蓋の縁に、ごく薄い油膜がある。誰かが触った痕だ。


 ぞわりと背中が粟立った。


 翌朝、机の上に封筒があった。昨日と同じ白い封筒。切手も差出人もない。湿っている。


『ありがとう。黒い子は、よく眠れました。油は、夜に歩きます。もう少し、ください。』


 読み終えた瞬間、笑いが出そうになった。夜に歩く油。そんな馬鹿な。でも、笑いの直後に、喉の奥が冷たくなった。棚の鍵は、私しか持っていない。合鍵は事務所に封印してある。だとしても、誰かが鍵を盗んだ? そんな大胆なことを、油のために?


 それから数日、私は油の瓶を持ち帰った。家に置けば安全だと思ったからだ。広場には油が湧くように染み出す。黒ヤギさんは、日に日に落ち着きがなくなる。草を食べる量が減り、紙を食べる量も減り、代わりに、床や壁の「匂いが残っている場所」を舐める時間が増えた。子どもが落とした飴の包み紙ですら、匂いがないと分かると吐き出す。あれほど何でも食べたヤギが、香りで選り好みをするようになった。


 そして、夜。


 私は夢を見た。玄関の鍵が、勝手に回る音。誰かが入ってくる足音。台所の戸棚が開く音。瓶が、ガラスの上で小さく鳴る音。


 起きようとすると、体が動かない。夢だ、と自分に言い聞かせるのに、鼻だけがはっきり匂いを拾っていた。ごま油の匂い。濃くて、香ばしくて、胃がむかつくほどの匂い。匂いが部屋の隅から隅まで行き渡り、息を吸うたびに喉の奥が油で滑るような錯覚がした。


 夢の中で、誰かが言った。


「もう少し、ください」


 声は、柔らかい。優しい。お願いの声だ。なのに、拒否できない重さがあった。断れば、何かが壊れる。そんな感じがした。


 朝起きて、台所へ行くと、瓶の封が切れていた。切れ目は綺麗で、刃物で切ったような切れ口だった。私が切った覚えはない。なのに、封は開いている。瓶の口に、油が薄く滲んでいる。


 私はその場に座り込んだ。


 家の鍵は閉まっていた。窓も閉まっていた。侵入の形跡はない。だったら、私が夜中に起きて、封を切ったのか。夢遊病みたいに。そんな馬鹿な。私は酒も飲んでいないし、疲れてはいたが、そこまでではない。


 それでも、封が切れている現実は変わらない。


 その日、私は瓶を持って施設へ行った。今すぐ捨てようと思った。もらい物だからとか、失礼だとか、そんなことはどうでもいい。とにかく、これは気持ち悪い。気持ち悪いものは、消す。


 ところが、事務所のゴミ箱に瓶を入れた瞬間、背後で「めぇ」と鳴いた。


 広場にいるはずの黒ヤギさんが、廊下の突き当たりに立っていた。柵を越えてここまで来るはずがない。扉だって閉まっていた。なのに、黒ヤギさんは当たり前の顔でそこにいて、私の手元、つまりゴミ箱の方向を見ている。


 毛並みは、黒い。艶が、異様に強い。光が滑り、まるで濡れているみたいだった。鼻先がひくひく動き、匂いを探っている。眼が、笑っていない。口元が、妙に湿っている。


「どうやって……来たんだよ」


 声が震えた。黒ヤギさんは、一歩、こちらへ踏み出した。その蹄が床に触れた瞬間、床に小さな黒い染みができた。艶のある染み。ごま油の染み。


 私は後ずさった。背中が壁に当たり、逃げ道がなくなる。黒ヤギさんは、私を見ているというより、私の持っている匂いを見ている。私の手の匂い。私の服の匂い。私の呼吸の匂い。


 そのとき、ふと気づいた。


 私は昨夜、夢の中で油の匂いを吸っていた。吸い込んだ匂いは、体の中に残る。息に混じる。汗に混じる。つまり、私は油を持ち歩いている。


 黒ヤギさんは、私の匂いを嗅いでいる。


 背後から佐伯の声がした。


「え、黒ヤギさん? また脱走? 器用だねえ」


 佐伯は笑いながら近づき、黒ヤギさんの頭を撫でようとした。黒ヤギさんは、佐伯の手を避けた。避けたというより、無視した。視線は、私から外れない。私の匂いから外れない。


 私は喉を鳴らした。口の中が乾いているのに、舌の先がぬるっとする錯覚があった。


「佐伯、そのヤギ……」


「なに、怖いの? 油のせいでツヤツヤだから?」


 佐伯は冗談めかして笑った。その笑い声が、廊下で薄く反響する。反響の中に、別の音が混じった気がした。ぺとり。ぺとり。液体が床を歩くような、柔らかい音。


 佐伯が首を傾げる。


「……なんか、匂い濃くない?」


 その瞬間、黒ヤギさんが低く鳴いた。いつもの「めぇ」じゃない。喉の奥で唸るような、引きずるような声だった。佐伯の顔から笑いが消え、私の肩越しにゴミ箱を見る。


「あれ、何捨てたの」


 私は答えられなかった。答える前に、ゴミ箱の中から、ふわりと香ばしい匂いが立ち上がった。まるで、そこに油が「まだいる」みたいに。


 黒ヤギさんが一歩進む。床に染みが増える。染みは、蹄の形ではない。丸く、柔らかく、滲む。油が歩いている。


 私は反射的にゴミ箱を抱えた。瓶を掴み、蓋を締めようとする。指先が滑る。油膜がついている。瓶が、私の手から逃げようとするみたいに滑った。


 そのとき、耳元で誰かが囁いた。


「もう少し、ください」


 声は、私の頭の中ではなく、耳のすぐ後ろから聞こえた。熱い息がかかった。なのに、振り返っても誰もいない。


 佐伯が青い顔で壁に張り付いている。黒ヤギさんは、目を細めた。嬉しそうに。ようやく待っていたものが来たみたいに。


 私は瓶を握りしめた。捨てる。捨てるんだ。今すぐ外に持っていって、遠くに捨てる。土に埋める。燃やす。海に流す。どれでもいい。とにかく、ここから消す。


 そう思ったのに、足が動かなかった。


 頭のどこかで、妙に冷静な声が言った。


 油は、夜に歩きます。


 油は、人の手を使います。


 油は、香りで道を作ります。


 私は、その道の上に立っている。


 それから、どうやって広場まで戻ったのか、はっきり覚えていない。気づいたときには、私は柵の中にいた。鍵も開いていないのに。黒ヤギさんと向き合って、瓶を両手で捧げるみたいに持っていた。


 白ヤギさんが、少し離れたところで震えている。黒ヤギさんは、瓶の口に鼻先を押し当てた。私が蓋を開ける。開けたくないのに、指が勝手に回る。蓋が外れ、油の匂いが空気を満たす。


 黒ヤギさんは、ゆっくりと舐めた。


 舌が瓶の縁をなぞるたび、油が減っていく。減っていく、というより、吸い上げられていく。瓶の中に、何かが口を開けているみたいだった。黒ヤギさんの喉が鳴り、目が細くなる。幸せそうに、眠る前の顔みたいに。


 私はその場で泣きそうになった。怖いからじゃない。悔しいからでもない。理由のない、ただの崩壊だった。自分の中の線が、一本切れた感じがした。


 黒ヤギさんが舐め終わったとき、瓶は空だった。ガラスの内側は、綺麗に乾いている。油なんて最初から入っていなかったみたいに。


 黒ヤギさんは口元をぺろりと舐め、私の手を見た。私の指先を見た。そこに残った薄い油膜を見た。


 そして、私の指を舐めた。


 熱い。柔らかい。ぬるい。舌が触れた瞬間、私の指から匂いが抜けていく感覚がした。匂いだけじゃない。何かが抜けていく。昨日までの「嫌だ」という感情。捨てたいという意志。境界線。


 白ヤギさんが、小さく鳴いた。助けを求めるみたいに。私は白ヤギさんを見た。目が合った瞬間、白ヤギさんが後ずさった。私の匂いを嫌がるように。


 私は、自分の手の匂いを嗅いだ。


 ごま油の匂いがした。さっき空になったはずなのに。私の皮膚の奥から、香ばしい匂いが立ち上がっている。まるで、私が瓶になったみたいだった。


 その夜、施設は何事もなく閉まった。佐伯は「もう二度と油を持ち込ませない」と言って、笑えない笑い方をした。私は「そうだね」と頷きながら、手を洗っても洗っても、指先のぬるさが取れないことに気づいていた。


 帰宅して、玄関の鍵を閉めた。窓も閉めた。台所に立ち、空の瓶を見つめる。瓶は確かに空だ。なのに、瓶の底に、黒い染みがある。艶のある、小さな染み。土の奥から滲んだみたいな染み方。


 それが、ゆっくりと広がった。


 私は息を止めた。止めたのに、匂いが入ってくる。ごま油の匂い。香ばしくて、濃くて、胃がむかつくほどの匂い。


 背後で、台所の床が、ぺとり、と鳴った。


 振り返ると、床に艶のある点がいくつも並んでいた。足跡じゃない。油の、歩いた跡だ。点は、まっすぐ私に向かって伸びている。夜に歩く油が、私の家まで道を作ってきた。


 耳元で、あの柔らかい声がした。


「もう少し、ください」


 私は、答えた。


 声に出したかどうかは分からない。ただ、喉の奥が勝手に動き、唾液がぬるりと増えた。口の中に、香ばしい匂いが満ちる。


 ごま油は、夜に歩く。


 そして、油は、今夜から私の中も歩く。黒ヤギさんの毛艶みたいに、私の皮膚も少しずつ光り始める。


 翌朝、施設の広場の土には、新しい染みができているだろう。黒ヤギさんは迷いなく舐め、白ヤギさんは遠ざかる。子どもたちは笑って「ツヤツヤだ」と言う。


 そして誰かの机の上に、白い封筒が置かれる。


 切手も差出人もない封筒が、湿って、香ばしくて、やけに丁寧な字でこう書いてある。


『黒い子は、香りを覚えました。良い油です。もう少し、ください。』

 最後までお読みいただき、ありがとうございました。


 書いている途中で何度も意識したのは、「これは怪談ではない」という顔を崩さないことでした。

 原因不明の現象が起きても、誰もが笑って流し、説明を探し、日常に戻ろうとする。その態度自体が、一番安全で、一番危うい。


 黒ヤギさんは、特別な存在ではありません。

 ただ、香りを覚えただけです。

 それだけで行動が変わり、周囲の距離が変わり、役割がずれていく。

 それを“怖いこと”だと認識するまでに、少し時間がかかる――そこを描きたかった話です。


 重たいホラーを書こうとして重くしたわけではなく、

 軽く扱い続けた結果、最後に逃げ場がなくなった、という構造になっています。

 もし読み終えたあと、しばらく匂いのことが頭から離れなければ、

 それは作者としては、してやったりです。


 なお、この作品に登場するヤギ、ごま油、施設、人物はすべて架空です。

 ……たぶん。


 それでは、またどこかの短編で。

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