傾国の寵妃は皇帝の娘を決して離してやらない。
──年老いた父が新しく側室に迎え入れた女は、今まで見たことがないほど、そしてこれから見ることなどないと断言できるほどに、大層美しかった。
「玉嫄と申します」
そう言ってたおやかに微笑み、腰まである艶やかな黒髪を揺らしてゆっくりと頭を垂れるその立ち振る舞いは洗練されていて、女がここにやってくるまではどこの馬の骨とも知れぬ、と笑っていた宮中の者たちも、皆が瞬きを忘れてその女に魅入っていた。
誰もが、そう、皇帝の末の娘である姫君もそうであった。
姫君は皇帝の十番目の子どもで、亡くなった正妻の最後の娘でもある。
仲睦まじかった母と、皇帝である父親に愛されて育った彼女は、年老いた父親がこの年になって新しく妃を迎えたことを内心のところ祝福をしてはいなかった。
上の兄や姉たちは皆成人し、国に帰ってこないときもほとんど。
そんな中で一人残された幼い姫君は、建物の暗がりからそんな女をじっと睨みつけていたのだ。
──果たして、父の懐に入り込んできたのはどのような女狐であるか、そう思いながら。
けれども、女の顔を見た姫君は他の皆と同様に、瞬きすることすら忘れてしまった。
新しい妃は黒く長い髪をさらさらと風にたなびかせながら、少しつり目がかった黒目の大きな瞳で宮中をゆっくりと見回す。
蠱惑的な色を孕んでいるその瞳は、太陽の光で赤く輝いて見えた。
そして、鮮やかな衣にも負けぬほどの紅が引かれた唇はまるで熟れた果実のようで、その場に居たものたちすべての視線を釘付けにする。
姫君がこれまで生きてきた中で見た何よりも、誰よりも美しい女を老いた父親は愛おしげに、かつて母親に向けていたよりも熱っぽい瞳で女の身体を抱き寄せる。
くすぐったそうに笑った女はしなだれかかり、ゆっくりと目を細めてそれに艶やかに微笑み返す。
そんな姿を、姫君はじっと、遠くから見つめるだけであった。
***
皇帝の新しい妃となった玉嫄という女は、美貌だけではなく、才にも優れていた。
歌、楽器、詩、古典にも通じ、語学も堪能。
蝶よ花よと育てられたが、特別何かに優れていると言うわけでもない姫君は、広間で悠々と琵琶の素晴らしい演奏をする女の姿を見て唇を噛みしめることしかできない。
優秀な兄や姉たちとは違い、姫君に期待されているのはこの国にとって『良い』相手に嫁ぎ、子どもを産むことだけ。
姫君にとって、皇帝の機嫌をとるためにやってきたぽっと出の女が自分よりも優れた才を持っているというのは、自分が劣っていると見せつけられているようで我慢ならなかったのだ。
そんな中、姫君が夜にこっそりとでかけたのは、そんな女の弱みを暴いてやろうという悪戯心から。
けれども誰もが寝静まった深夜に見張りのいない隠し通路からこっそり出て、女の部屋の扉を少し開けた先で、姫君は凍り付く。
「──ふふ、そのように焦らなくとも、わたくしはここにおりますわ……」
聞こえたのは、男の荒い息遣いと、女の甘くとろけるような声。
「わしのだ、お前はわしのものだ! 離れることなど許さぬ!」
「ふふ、愛らしいこと……」
男の声は、姫君の敬愛する父親の、皇帝のそれだった。
父親は、彼女も聞いたことがないほどに切羽詰まったような、どこか怒ったような色を孕んでいた。
男は女に覆いかぶさると、まるで貪るように、衣から零れた肌に顔を近づける。
あまりにも刺激的な光景に、姫君はふらふらと数歩下がって、床にへたり込む。けれども、その光景から目を離すことはできなかった。
その時だった。
女は少し顔を上げると、扉の外にいる姫君に向かって視線を合わせたのだ。
──そして、女は笑った。
にい、と扉の外にいる姫君に向かって、愉快そうに、揶揄うように。
まるで、姫君がそこにいることなど、最初からわかっていたかのように。
けれども顔を真っ赤にして口を抑え、床にへたり込んだ姫君が女のそんな顔を見たのは一瞬のこと。
女はすぐに情事に没頭するかのように姫君から視線を移し、老いた男に口づけを施す。
それすら、まるで一枚の絵画のよう。
姫君はぎゅっと己の腕で自身の身体を抱きしめながらその光景を見つけていたが、しばらくするとずるずると床を這いつくばるようにしてなんとかその場を離れる。
──駄目だ。
姫君は心の底からそう思った。
なぜ、皇帝である父が、良き為政者である男が、あの女に夢中になったのかという理由を理解できてしまったからだ。だって、姫君にも男と同じ血が流れているのだから。
あれは魔性だ。微笑み一つで人狂わせ、国を傾かせ、民を跪かせる。
抗う術などない、どうしようもない災害であった。
そして、その恐ろしき魔の手から自分が逃れることも到底不可能なのであると、恐ろしいほどに脈打つ胸を、姫君はぎゅっと握りしめた。
***
この国の皇帝の子どもたちの誕生日は、毎年盛大に祝われるのが常。
他の子どもたちのほとんどが他国に嫁いでしまった今、成人を迎えていない唯一の子である姫君の誕生日は、これまでのものよりも盛大に祝われることとなった。
「何か欲しいものがあるなら何でも言ってみなさい」
お前は私の娘なのだから、と皇帝は玉座に座りながら穏やかな顔で微笑んで見せる。
父親であり皇帝である男の前に、頭を垂れて跪いたままの姫君はその言葉にぴくりと小さく身体を震わせた。
その問いかけは、毎年誕生日に父親からかけられるものであった。
「……お父様、私、とってもほしいものがあるの」
だが、誕生日でなくても、姫君が強請れば大抵のものは手に入った。
だから、この誕生日の問いかけについても、いつも姫君は惰性のようなものを抱きつつ、適当に答えているのが毎年の常であった。
そんな姫君であったが、今年はどうしても手に入れたいものがあった。
誰よりも何よりも、今までにないくらい。
「ああ、何が欲しいんだ?」
珍しく末娘が欲を浮かべた顔を見て、子どもに甘い皇帝は笑みを深める。
その表情を見て、少しだけ迷ってから、姫君は徐に口を開いた。
「──玉嫄さまを一日私にちょうだい」
姫君は皇帝の傍に控えていた妃を勢いよく指差す。けれども、そんな姫君の声を聞いていた周りの人々は顔を見合わせた。
皇帝の妃に対する寵愛っぷりは度を越していると言ってもいいほどのもの。
片時も傍を離したくないとばかりに、常に己の近くに侍らせ、他の誰かが彼女に話しかけることすら許さないのだ。
「ほお」
案の定、皇帝がいい顔をするわけもない。いくら実の娘からの要望と言えど、自身の寵愛する妃を一日でも己の傍から離すことなど許せないと言わんばかりに表情を一変させる。
眉を顰めた皇帝は憤りを隠せない様子で荒々しく立ち上がると、姫君の前へと降り立つ。
「我が娘と言えど、言っていいことと悪いことの分別もつかないと見える」
姫君は心臓がばくばくと恐怖で高鳴り、身体が強張るのを感じた。
この国の絶対的支配者に対して、自分はなんという口を効いてしまったのだろう、という気持ちはあった。
父が、そのようなことを許さないということもわかっていた。
けれども、それを口に出すことを止めることはできなかったのだ。
汗がとまらぬ手で、姫君は手を握り直し、再び口を開こうとした。
「──いいではありませんか、わたくしはよろしくてよ」
けれども、そんな皇帝に対して声をかけたのは、ほかならぬ玉嫄本人であった。
しずしずとやってきた彼女は男の身体にしなだれかかり、紅を引いた唇に弧を描きながら男の顔を覗き込む。
「陛下の大事な姫君ですもの。わたくしももっと仲良くなりたいですわぁ」
女の甘い声に、静かに怒りを募らせていた皇帝はしばし黙り込む。そして、「お前がそう言うのならば」と返事をするのを見て、周りがさらにざわついた。
そんな周りの反応など意に介してもいない様子で、玉嫄は皇帝ににっこりと微笑み返すと、跪いたままの姫君に視線を移した。
「──姫様は、わたくしとそんなに一緒に過ごしたかったのですか?」
皇帝との謁見が終わり、姫君が宮中の庭に出ると、いつからついてきていたのか、後ろから音もなく玉嫄が姫君の顔を覗き込んだ。
玉嫄はこの国の女にしては背が高く、すらりとした体躯をしている。
そんな彼女は、いつものように顔に微笑みを浮かべながら揶揄うような声を出す。
まるで幼子に話しかけるような甘い声に、ぎろりと姫君は妃を睨みつける。
「……何が言いたいの?」
「いいえぇ? 随分と愛らしいことと思っただけですわ」
玉嫄は手を伸ばして姫君の頭を撫でようとするが、姫君はその手を乱暴に払いのけ、逆に掴んでみせる。
「ええ、そうよ。そうだと言ったら? 私は皇帝の娘よ! だから、お前は黙って私のいうことを聞いていればいいの!」
姫君は苛立ちを隠すこともなく、玉嫄の美しい瞳をまっすぐ見遣る。
痣がつきそうなほど強く、その細腕を握りしめたと皇帝が知ったら、きっと姫君といえどただではすまないことだろう。
それでも、姫君はその手を離すこともなく、玉嫄もその手を振り払うこともない。
「あは」
姫君のそんな行動に、しばしきょとんとした表情を浮かべていた玉嫄は、掴まれていないもう一方の手を自身の口に当てて、けらけらと面白そうに笑い出した。
「何がおかしいの!?」
そんな玉嫄の姿にあっけにとられたのは今度は姫君の方であった。
意を決して口に出したと言うのに、それをまるで心底面白い喜劇を見たかのように腹を抱えて笑われたのだ。
耳元まで一気に赤く染めた姫君はわなわなと唇を震わせながらそんな玉嫄を怒鳴りつける。
「いいえ、いいえいいえ……」
未だ肩を小さく上下させている玉嫄は、頬をうっすらと桃色に染め、両手で姫君の小さな手を包み込む。
「暖かいですのね、姫君の手は」
「……あなたの手は冷たいわ」
姫君は、玉嫄の手を見つめる。それはひんやりと、まるで魚の肌を撫でているかのようであった。
「姫さまを、」
ぽつりと、玉嫄は呟く。
「姫さまを食べたらきっと、口の中で溶けてしまうのでしょうね」
それは誰に言うものではなく、まるで独り言のようであった。
先ほどまでの笑みはどこへやら、女はじっと、包み込んだ姫君の手を瞬きもせずに見つめていた。
「……え?」
姫君は顔を上げる。
女の口からちらりと覗くのは真っ赤な舌であった。それが、まるでご馳走を前にした獣のように、その唇を濡らしていく。
どくん、と姫君は自身の心臓が大きな音を立てるのを感じた。
「なんて、冗談ですわ。姫さま。もっとわたくしと仲良くしてくださいまし」
玉嫄はまたにこりと笑って、ぱっとその手を離す。
「……仕方ないわね」
離れていくその体温を少しだけ名残惜しく感じながらも、姫君はぶっきらぼうにそっぽを向いて返事をする。
赤くなった耳を隠すように空を見上げると、そこには雲一つない晴天があった。
「ふふ、姫さまとお話しするのは楽しいですわ」
そんな姫君の表情を見て玉嫄はまたけらけらと笑った。
──そんな不器用な姫君のことを妃は気に入ったのか、玉嫄との逢瀬は幾度となく続いた。
気まぐれな玉嫄は、鍵をかけたにもかかわらずどうやってか姫君の部屋に入りこみ、いつのまにか姫君の寝台で添い寝をしていることもあった。
それに気づいた姫君が悲鳴を上げて驚く姿を見て、玉嫄はけらけらと楽しそうに笑って去っていく。
それはまるで姫君を揶揄うのが楽しくて仕方がない、と言わんばかりの様子。
姫君も最初はそんな玉嫄の行動に動揺していたけれど、そのうちに慣れてきて、彼女がやってくる頃には茶を淹れて待っているようになった。
不器用で何も才などないと自負していた姫君であったが、茶を淹れることだけは人よりも上手くできた。
その腕前を誇っていたわけではないけれど、玉嫄が香りの高い茶を好むと聞いてから、彼女の部屋には香しい茶葉がこっそりと取り寄せられるようになった。
そんなことを知ってからしらずか、玉嫄は部屋にやってくるとちらりとだけその茶葉のある棚を見て唇に弧を描き、何も言わずに姫君が淹れた茶を飲む。
そんな女の姿を見ると、姫君は心臓が締め付けられるような気がした。
***
「おやまあ、お姫さま。ご機嫌麗しゅう」
いつものような、くすくすというからかうような微笑み。
玉嫄が皇帝に嫁いで早数年、皇帝はほぼ寝台で寝ていることが多くなった。
彼女はそんな皇帝に呼ばれて、一日中それに寄り添っている日々。
そして、皇帝が眠りにつくと、こうして音もなく姫君の元へとやってくるのだ。
妃は嫁いだ頃から何も変わらぬ美しさを誇っている。
皇帝が誰よりも寵愛する妃は、この国の実権を握っているも同然。
けれども魔性ともいえるその女に、意見する者などこの国にはもういなかった。
「嫁ぐことになったわ」
──そして、姫君は少女から女になった。
「あぁ、月日が流れるのは実に早いもの。姫さまももうそのような年ごろとなったのですね。ふふ、お相手は聞いておりますわ」
姫君の言葉を聞いて、しゃらん、と豪華な髪飾りを揺らしながら、玉嫄は首を傾げて笑う。
今宵も、彼女は姫君の寝台にゆったりと座っていた。
もはやここが彼女の部屋とでも言わんばかりの態度。姫君は寝台に近づくと玉嫄の顔を見下ろす。
「明日から婚礼の準備に入る、忙しくなるわ」
彼女が嫁ぐことになったのは隣国の王の皇子だ。
父親に決められた結婚であり、彼女がいつかは来ると覚悟していたものであった。
そこには大して驚きも、嬉しさもない。
ただそれが自身に与えられた役割であり、彼女の生きる理由をこなすための仕事であった。
少しだけ迷ってから、姫君はぽつりと小さな声で言った。
「……お前と会うことも、もうなくなるでしょう」
「ええ、そうですわね」
玉嫄は変わらず微笑んだままだ。姫君の心にある感情のことなど、気づきもしないかのように。
いや、気づいているのだろう。
けれども、それはこの妃にとって、大したことではないのだ。
玉嫄は寝台からゆっくりと立ち上がると、手を合わせて恭しく姫君に礼をする。
「では、行ってらっしゃいませ、お姫さま。どうかお幸せに」
ふ、と最後に姫君を一瞥し、まるで何事もなかったかのようにそのまま姫君の部屋を去っていく。
残っているのは、女の蠱惑的な香の匂いだけ。
その匂いを深く吸い込んで、姫君はその場に立ち尽くすことしかできなかった。
その背中に声をかけることも、引き留めることも、彼女にはできない。
それが、姫君と妃の最後の逢瀬であった。
──ふと、そんなことを姫君が思い出したのは、つつがなく進んでいく式の最中。
大勢の参列者が並んだ、二国の姫君と皇子の婚礼の儀式。
伝統的な婚礼衣装を身に纏い、先日会ったばかりで、名前ぐらいしか知らない伴侶となる男の傍に立ちながら、思い出すのは、あの女の顔ばかりであった。
産んでくれた母でも、敬愛する父でも、愛すべき兄姉たちでもない。
あの赤の似合う女は、今頃何をしているのだろう。
そんなことを考えて、姫君はぼんやりと少し空を見る。
そこにあったのは曇り空だ。今にも雨が降りそうなほどの、灰色の空。
──所詮、あの女はどうせ私のことなど、思い出すこともないでしょうけれど。
ふ、と彼女が自嘲するかのような笑みを浮かべて、式に集中すべく、皇子の方へと視線を向けた、その時だった。
ごぼ、と皇子の口からおびただしい量の血が零れ落ちる。
「──え?」
姫君が声を出すよりも先、皇子は言葉にできないうめき声を出しながらがくがくと身体を痙攣させて白目を剥く。
その間にも止まることなく口からあふれ出た血は婚礼衣装を汚し、地面を汚し、大きな血だまりを作っていった。
皇子は膝から地面に崩れ落ちると、その血だまりの中に倒れ込む。
観衆たちから悲鳴が上がり、皆が皇子に駆け寄る中、姫君は呆然とその場に立ち尽くすことしかできない。
いつの間にか、空は雲一つなく晴れ渡っていた。
皇子は謎の死を遂げ、婚礼は取りやめになり、姫君は国に帰されることとなった。
隣国に来てからほとんど部屋に閉じ込められていた姫君が犯人であると決めつけられることはなかったが、周りから彼女を見る目はまるで化け物を見るようなそれであったことは間違いない。
しかし、それは何度も続いた。
代わりとして他の皇子と姫君との縁談の話が上がっても、式を挙げるたびにその相手や家族が同じように口からおびただしい量の血を吐き散らしながら彼女の目の前で死んでいく。
そのたびに、姫君の婚礼は破談となった。
──あの姫が嫁いだ相手は呪われる。
隣国だけではなく、自分の国の者たちからも、そんな噂が囁かれた。
末の娘には魔が取りついているに違いない、と国に戻ってきた姫君が聞いたのは、そんな囁き声だけ。
彼らが彼女を見る目は、怯えを含んだものばかり。
姫君は下を向いたまま、周りにいた召使たちの手を振り切り、自室に向かって走っていく。
「あぁ、おかえりなさいませ。遅かったですわね、呪われたお姫さま」
扉を開けた先、妃はそこで微笑んでいた。
紅色の唇に弧を描いて、いつものように姫君の寝台に腰かけたまま、姫君に笑いかける。
悪戯っぽく、そして優雅に。
そんな妃の元に、姫君は荒っぽく大股で近づくと、その細腕をぐっと強く掴む。
「お、お前が、やったの? そうなんでしょう!?」
姫君は妃を勢いよく寝台に押し倒すと、絶叫するかのような声でそう言い放った。
その細く白い首を、姫君は両手で締め付ける。
「私にはこれしかないのよ! これしかないの! こうするしかないのよ! どうして奪う! お前はなんでもできるのに! なんでも手に入るのに!」
それはまるで首を斬りおとされる寸前の獣の絶叫であった。
姫君は唇を噛みしめながら眼下の美しい女に呪詛を吐く。
「あはは!」
けれども、玉嫄は首を絞められても顔色一つ変えることはない。
それどころか、目を細めてけらけらと心底楽しそうな笑い声をあげる。
「何が、おかしいの……!」
女の顔を見て、姫君は身体から力が抜けてしまい、ゆっくりとその手を離す。
だって、その顔があまりに美しかったのだ。
幼子のように無邪気に、娼婦のように妖艶に。
玉嫄という女は、そんな風に笑う女だった。
誰よりも姫君が、そんな笑顔を知っていた。
姫君は力なく縋りつくように女の身体に倒れこみ、くぐもった嗚咽を漏らす。
そんな姫君の頭を、女はゆっくりと優しく撫であげる。
「ほら、わたくしに顔を見せて。お可哀想なお姫さま」
そう言いながら玉嫄はぐいっと姫君の顔を上げさせた。
そして涙と鼻水に塗れ、ぐしゃぐしゃになったとても綺麗とはいえない姫君の顔を見て、どこか恍惚とした表情を浮かべる。
「……あぁ、愛らしいこと。お前はずっと愛らしいよ」
玉嫄はまるで歌うようにそんなことを言うと、噛みしめすぎて血が溢れた姫君の唇に、己のそれを重ね合わせた。
姫君の血が、まるで上等な紅のように女の唇を汚す。
玉嫄は唇を離すと、人差し指で姫君の唇をなぞっていく。
それはまるで、何かを刻み込むかのようであった。
「──お前はもうわたくしから離れてはいけないのよ」
そして指に付いたその血をぺろりと舌で舐め上げてみせたのだ。