第5話 キェルトの伝授書
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大司教アドネルは、中央教会の中にいた。殺人鬼が一度侵入すれば、どこにいようが同じ事。安全は物理的に頑丈で警備の堅い、中央教会の内部が一番だった。避難用の馬車には替え玉を乗せ走らせていた。
「殺人鬼エレナを見つけた。袋小路に追い詰めたようだ」
エレナたちを取り囲んでいる刺客部隊から連絡を受けたカールが報告した。
「誰の部隊ですかな?」
アドネルは安堵の息を吐いて尋ねた。
「もちろんゴーツだ。一早く情報をつかんでいたのは俺だからな。後はいつも通り粛々と仕事を片付ける。お前は与えられた役回りを熟せ」
カールは足早に執務室を去り、ゴーツのもとへと戻った。カールの靴には野草が絡み付いていた。
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猫たちの情報をまとめた結果、アドネルは中央教会から出ていない事がわかった。教会から町の外に出た馬車は一台だけ。そこにアドネルの匂いのする人物は乗っていなかったし、いつも同じ場所でアドネルを見かける猫が、今日は一度も姿を現さなかったと言った。
白猫は激しい雨に打たれながらも情報を一刻も早く伝えるため、暗闇の中を駆け抜けた。
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豪雨と闇がエレナを後押しする。刺客の集中力が途切れる隙を狙い、エレナの研ぎ澄まされた知覚が反応し、長尺の剣を生き物のように振るった。近づく者は例外なく切り裂かれ、串刺しにされ、周囲が血の色に染まった。
「フフ、ハハッ、ははは」
エレナは返り血を浴びながら、恍惚の表情を浮かべた。
「化け物め! 火あぶりにしてやる」
刺客たちは距離を取って松明に火をつけ始めた。
「エレナ、眼鏡をかけて!」
私は急いでエレナの両目を隠した。
「ここからは私の番ね」
大量の油をつけた松明が一斉に投げつけられた。強烈な熱と光が私とエレナを取り囲んだ。
エレナは私の背に隠れ、強くしがみついた。
「*バルクメス*キナーレ***」
私が呪文を唱えると、刺客たちの体がみるみる腐っていく。土砂降りの雨に打たれ、数十人いた残党が白骨死体となって残された。松明の炎は消え、白い煙が燻っていた。
白猫を抱いた男は集めた情報を私に話した。
「エレナ、まだ動ける?」
エレナは無言で頷いた。
「中央教会へ行くわ。あなたはどうする?」
「見届けさせてもらってもいいか?」
男は震える白猫を胸の中で温めながら言った。
宿で手に入れた予備の服に着替え、私たちは中央教会へ足を運んだ。雨は小降りになり、雲の切れ間から仄かな月明かりが射していた。教会周辺は張り詰めた空気に覆われ、門の前には武装した厳つい衛兵たちが睨みを利かせていた。
「*メルスキーナル*カナルーク***」
呪文を唱えると、衛兵の動きが止まる。エレナがギュッと私の腕をつかんだ。白猫を抱いた男はギョッとした表情を浮かべた。
背の高い観音開きの扉を開けると、荘厳で広大な礼拝堂が目の前に広がっていた。
「ここに用はないわ。アドネルはこっちよ」
私は司教の付き人に絡まった野草の痕跡を頼りに、執務室へ繋がる狭い廊下を進んだ。
執務室の扉を開けると、四人の司教らしき男たちがいた。
「だ、誰だ、お前たちは!」
ノックもせず唐突に入って来た私たちに、四人とも仰け反るように驚いた。
「アドネルに会いに来たの。あなたたちに用はないわ」
「大司教様は外遊されている。不在だ!」
聞き覚えのある声の司教が杖の先を突きつけて言った。
「*メルスキーナル*カナルーク***」
私が呪文を唱えると、エレナが両耳を塞いだ。 執務室の奥に堅牢な扉があり、その前で、屈強な衛兵が睨みを利かせたまま固まっていた。
私は衛兵を押し退けて扉を開けた。
「だ、誰だお前は!」
再三かけられる台詞にうんざりした私は、冷めた口調で答えた。
「用が済んだら大人しく帰るわ。私はアドネルに用があるの」
「わしに何か用か?」
初老の男が、私とエレナを交互に見ながら言った。側にいた付き人は、鋭い目の動きで状況を分析している。
「後ろの本棚にある【キェルト】の伝授書が欲しいの。渡してくれたらすぐに出ていくわ」
私が言うと、アドネルは本棚を探したが、どんな本かも判らないようだ。
「*バルクメス*ステート***」
私が呪文を唱えると、側にいた付き人が立ったまま静止した。ドンと音を鳴らして床を踏みつけると、付き人の体が崩れ、砂の山が出来た。
「伝授書はここにあるわ」
私は付き人が着ていた服をどけ、砂の中から掌に収まるくらいの本を取り出した。
「あなたにはウィッチの血が流れていない。無用の長物よ」
腰が抜け、狼狽えるアドネルに私は言った。
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宿の主人は意識を取り戻した。さっき血塗れの客が来たはずだが、目の前には誰もいなかった。念のために客室を覗くと、ベッドの上に血塗れの白い服、そして小さな囚人服が脱ぎ捨てられていた。