第1話 光と闇
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その女はクレアと言った。線のように細く艶やかな黒髪が、生温い夜風で靡いていた。視線を合わすと身動きが出来なくなる。吸い込まれるような漆黒の円らな瞳。透き通るような白い肌に、小悪魔のように愛らしい唇が浮かんでいた。だけど純白の着衣は返り血がべっとりとこびり付いて、微かな死臭が漂っていた。
「私はあなたの事を何でも知っているわ。暗闇の殺人鬼エレナ。殺した数は、分かっているだけでも数十人。町中を恐怖の渦に巻き込んだわね」
クレアは乱れる黒髪を大儀そうに抑えた。
「何が言いたいの? あたしをどうするつもり?」
苛立たしく言葉を吐くと、クレアは視線を湖に移し、勿体つけるようにしばらく黙り込んだ。
「……エレナ。見ての通り、私はあなたと同じ人殺し。だけど明白な目的があるの。その目的を果たすためには、あなたが必要なの。私に協力して欲しいのよ」
「面倒はごめんだわ。どこの誰だか分かんない奴に、協力なんて出来ない」
あたしは気づかれないように周囲に目を走らせた。手頃な石があれば、ぶつけて仕留める自信があった。
「ふふっ、石をぶつけるつもりね。私を殺そうとしても無駄よ」
クレアは髪を束ねて後ろで括った。狼狽えるあたしを見透かしたような仕草だった。
「ど、どうして? どういう事?」
「あなたの心の中は、私に筒抜けなの。意識を集中すると、あなたに限らず全ての人間の心が分かるわ」
突き刺すような視線をあたしに向け、クレアはぼそりボソリと言った。
「う、うそよ。そんな事出来るわけない!」
あたしは身動きが出来なかった。震えて、そう叫ぶのがやっとだった。
「まさか、あんたは……」
絞り出した声に微笑を返して、クレアはあたしに言った。
「エレナ、あなたは私から逃げられない。日が昇ればあなたは盲目。見つかれば町中の人間に、なぶり殺しにされるわ」
どんよりと濁った夜空が、薄暗い草原をぼんやりと照らしていた。あたしは沈む心を癒す術をひたすら考えていた。前を進む女の、朧げな影を目で追いながら。
◇
夜明け前に町を抜け出した私たちは、港町ソマリナに足を踏み入れた。エレナは辿々しい足取りで私の袖口をつかんでいた。
「ソマリナに着いたわ。そこに宿があるから、休ませてあげる」
ソマリナは貿易が盛んで豊かな町。この町のどこかに標的がいる。大司教アドネル。癒しの魔法【キェルト】の伝授書は、アドネルの懐にある。何としても手に入れてみせる。
「さあ、ついて来なさい。入るわよ」
「で、でもあんた、服に血が付いてる。きっと怪しまれるわ」
エレナは蚊の泣くような声で言った。
「ふふっ、私を心配してくれるの? ありがとう」
「違う! あんたのせいで、また檻の中に入るのが嫌なだけ!」
エレナは顔を真っ赤にして言った。
立ち止まったままのエレナを無理矢理引っ張り、私は宿の扉を開けた。
「いらっしゃい! ――?!」
言葉を切った宿の主人の表情が固まり、目が見開いた。私の服にべっとりと付いた返り血に驚いたのだろう。
「*メルスキーナル*カナルーク***」
呪文を唱えると、時が止まったように主人の動きが止まった。
「何? どうしたの? クレア! あんた何をしたの?」
エレナは震えながら、私の腕を強くつかんだ。
「殺したわ。これで文句は無いわね」
◆
恐ろしい悪魔、クレア。人を迷いも無く、まるで虫のように簡単に殺した。逃げ出せるものなら、すぐにでも逃げ出したい。こんな事になるのなら、あのまま牢獄で死刑を待っていた方がよかった。この女の機嫌を損ねたら、あたしはすぐに殺される。怖い、どうしようもなく怖い。
「ふふっ。エレナ、あなたを殺したりしないわ」
クレアはあたしの髪を撫で、ゆっくりとした口調で言った。
「ほんとに? 本当に信じていいの?」
「その代り私に協力してくれる? 強制はしないけど」
クレアは強制という言葉を強調して言った。
「……出来る限りの事はする。でも、あんたはそんなにおっかないのに、どうしてあたしが必要なの?」
あたしが問うと、クレアは含み笑いを漏らして言った。
「誰だって弱点はあるわ。あなたが闇だとすると、私は光。私の魔法は光の力が必要なの。強ければ強いほど威力が上がる。反対に――暗闇だと力は半減するわ」
「へぇ……いい事を聞いた」
「まあ、どんなに暗い所でも人の一人や二人なら、簡単に殺せるけどね」
付け足すようにクレアは呟いた。
◇
私がそう言った途端、エレナの顔がこわばった。今の彼女をつなぎとめるには、そう言うしかなかった。実際の私は暗闇に無力。今は弱っていて頼りないけど、どうしてもエレナの力が必要だった。
「この町に来た理由はただ一つ。【キェルト】の伝授書を手に入れること」
「キェル……伝授書?」
「キェルト。癒しの魔法よ。呪文を唱えれば、どんな傷も癒えていくというわ」
「それを読んだら、あたしにも出来るの?」
エレナは興味津々な顔つきで言った。
「残念ながら無理よ。あなたにはウィッチの血が流れていない。諦めるのね」
私が言うと、エレナは頬を膨らませて押し黙った。
「よく聞いてエレナ。伝授書は、この町のどこかにいるアドネルという男が持っている。そいつはこの町の権力者で、手荒な部下も沢山いるわ。そいつらを全員殺してでも伝授書を奪うの。分かったわね」
「どうして? そこまでして必要なもの? そんなもの、怪我をしてまで手に入れる価値があるの?」
「私の目的、それはこの世にある全ての伝授書を手に入れること。そのためにはどんな事でもするわ。人殺しでも何でも」
「全ての伝授書を手に入れてどうするつもり? その先に、一体何があると言うの?」
エレナは大の字になってベッドに寝転がった。
「それは全てが揃った時に分かるわ。私がこの世に存在する意味が分かる。エレナ、人は皆、何かの意味を持って生まれてくるの。だけど大概の人間は、それを知らずに死んで行くわ。私の目的は自分のためじゃない。誰のためでもない。何か大きな力が――私を突き動かしているのよ」