第11話 自虐の沼
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私は扉を開け、足を踏み入れた。その瞬間に扉が消え、全てが暗闇に包まれた。虚無の黒。私自身の姿も闇に飲み込まれ、存在が消える。空虚な無の中に私の意識だけが漂っている感じがした。
背中に耳障りな羽音が聞こえた。闇の中に断続的に続いて鳴り止まない。しかしその音も次第に気にならなくなった。
私は浮遊感に似た感覚を浮かべながら、意識を整えた。今は試練の最中。この気持ちをしっかりと保っておかないと乗り越える事が出来ない。
闇の中に仄かな赤い光が燈った。光量は弱いが唯一の光に誘われるように意識がそこへ向かう。しかし近づくにつれ、私の呼吸が苦しくなった。喉が焼け付くほど痛い。でも苦し過ぎて嗚咽さえも出なかった。
背中の羽音は弱まり、私の意識は急降下した。暗闇の地面に激突し、全身がバラバラになるほどの衝撃が走る。気絶しそうな意識を必死に堪えて体勢を立て直した。暗闇は徐々に明け、周りの情景が明らかになっていく。
仄かな光の正体は線香だった。見上げると薄暗い天井に、ゆらゆらと揺れる息苦しい煙が漂っていた。私の手は足を除けば四本あり、無数の硬い鱗に覆われ鋭い二本の爪が飛び出していた。左半身は地面に衝突した衝撃で、手足が根元から折れていた。
私は自分の姿を悟った。早くこの場から離れないと酷い目に遭う。右半身を必死に動かしたけど、無駄な足搔きだった。
遥か上空から暴風とともに巨大な手がゆっくりと舞い降りて来た。もどかしい時間が流れた後、私はゆっくりとその手に押し潰されていく。全身が破裂し、地面の上に皮だけになった私の姿が残った。
例えようも無い痛みと恐怖が私を襲う。挫けそうになりながらも意識を整えた。
再び暗闇が晴れると、水の中にいた。次は魚だ。左右の目を使って、辺りを警戒する。泳ぐスピードは自分の意識よりもかなり反応が遅い。弱肉強食の宿命なのだろうけど、巨大魚に飲み込まれて奥歯で噛み砕かれるのは御免蒙りたい。
私は仲間と一緒に海藻の茂みに逃げ場を求めた。そこへ突然、三叉の銛が飛んで来た。胴を撃ち抜かれ、反対の腹にかえしが引っ掛かる。傷口から血とともに肉がこぼれ出していた。骨は砕け、文字通り死ぬほど痛い。
私は串刺しにされたまま引き上げられ、生き血を抜かれた。再び目と胴体を串に刺され、火炙りにされた。肉体は既に死んでいるが、私の意識と痛みはずっと続いていた。腹を空かした男に貪り食われた後、私の意識はまたもや暗転した。
エレナは大丈夫かしら。現実逃避をするように、私はエレナの面影を思い浮かべた。
エレナと旅をするようになってから、まだ日は浅い。けれど伝授書を手に入れる事と比べられないくらい彼女の存在が大きくなりつつあった。
【ロゼルティ】の伝授書を手に入れるため? それもあるけど……私はエレナに再び会うために、この試練を必ず乗り越えてみせる。
◆
ようやく夕闇が訪れた。あたしは茂みの陰に隠れたままアイマスクをずらし、薄目を開けた。黒い山肌に視線を合わせ、紫がかった鈍い光の夜空を垣間見る。あと少しで不安材料が一つは取り除ける。四角い鞄を開けて、酸っぱい林檎を齧った。
切り株の辺りから人の気配がした。ひょっとしてクレア? もう試練を克服したの?
薄目を開け息を呑んで見守っていると、切り株の上に白い霞みが掛り、腰の曲がった老婆が現れた。
クレアの同業者? 伝授書の管理者かも。徐々に目が慣れ、マスクを外して様子を窺う。老婆の瞳孔は鋭く隙が無い。深く刻まれた皺が、長年狡賢い事を考えてきた歴史を物語っていた。
あたしは気づかれないように息を潜めた。老婆は杖を突きながら、町の方向へゆっくりと足を進めた。安心して息を吐き、林檎を齧ったその時、突然目の前に老婆が現れニヤリと笑った。
驚く間も無く体が反応していた。後ろへ下がって老婆と間合いを取り、鞘から抜いた刀を右手に持っていた。
「こんな所にただの娘がいるなんて珍しい事もあるもんだねぇ」
老婆は薄笑いを浮かべて私を眺めた。腰は曲がっているが油断出来ない。あたしの知覚が警告していた。
「あたしに何か用? 何も無いなら、早く町へ行って」
「フッフッフ。あんたからあの娘の匂いがするねぇ。その鞄の中身は何だろうねぇ?」
老婆は刺すような眼でクレアの鞄に焦点を合わせた。あたしは鞄を背中にずらし、林檎を捨てて両手で刀を構えた。
「クレアは無事なの?」
「ヒッヒッヒ。冥土の土産に教えてやろう。【三つの試練】は長年築き上げて来た獲物を誘うための罠さ。甘い汁に引き寄せられた世間知らずが、今頃【自虐の沼】に嵌って悶え苦しんでいるだろう。三日もすれば廃人になってゴミ箱行きさ。捨てるのは面倒だが、わたしの役目だから仕方がないねぇ」
老婆から笑いが消え、目には殺気が宿った。