第10話 森の中
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私とエレナは、パルミー公国の中央から北に上り、人里離れた深い森に入って行った。
ここに来るまでに、中央の町で道具や食料を手に入れていたので、目的の場所までゆとりを持って行けそうだ。
「エレナ、疲れていない?」
「問題ないわ」
私が問うと、エレナは鳥打帽の鍔を整え、短く答えた。武器や道具はそれぞれ気に入ったものを各自で持っている。着替えや食料は底に車輪が付いた四角い鞄に入れ、私が引きずって運んでいた。左手は黒いアイマスクをつけたエレナの右手をしっかりとつかんでいる。
「次に手に入れたい伝授書は、管理している人に取りに行くと手紙で伝えてあるわ。知り合いではないけど、まぁ同業者と言ったところね」
森は奥に行くほど風が止み、静かな、張りつめた空気が漂って来た。緩やかな上りの道なき道を進むと、目の前に大きな切り株が見えた。表面には私にしか見えない複雑な魔法陣が刻まれていた。
「目的地に着いたわ。よく聞いてエレナ。ここからは別行動よ」
「どういう事?」
エレナは私の手を強く握り締めて尋ねた。
「目の前に魔法陣が刻まれた切り株があるわ。ウィッチの血を引く者しか通れない結界の入り口。私は今から中へ入って、三つの試練に立ち向かう。それを乗り越えた者に【ロゼルティ】の伝授書が与えられるの」
「その言い方だと、今までに乗り越えた奴はいないみたいね」
エレナは私の手を握ったまま言った。
「失敗した人がどうなったか誰も教えてくれない。どんな試練が待っているのかも。伝授書の管理者は、三日で結果が出ると言ったわ。それまで預かってほしい物があるの」
私はエレナに斜め掛けの鞄を渡した。
「これは?」
「私の一番大事な物よ。中に今まで集めた伝授書が入っているわ。試練は挑戦者の公平を図るため、伝授書の持ち込みは禁止されているの」
私は屈んでエレナの顔に目線を合わせた。
「伝授書は同業者に知られると必ず奪い取りに来る。私のようにね。昼間目が見えないあなたを危険に晒すけど、いざとなったら捨てて逃げてもいいわ。また必ず取り戻すから。三日後に私がここにいたら試練を乗り越えたという事。それまではしばらくお別れよ」
「あたしがこのままどこかへ逃げるとは考えないの?」
エレナは再び私の手を強く握って言った。
◆
あたしに鞄を渡したクレアは微かに笑った。
「この国にいれば一応お尋ね者ではないけれど、あなたを殺したい人は山ほどいるわ。明るい時間帯は特に気をつけて。お金と食べ物は車輪の付いた四角い鞄に入っているから、自由にしていいわ。じゃあね」
クレアはあたしの帽子を整え、軽く撫でた。手を離すと気配が消え、残されたあたしは手を伸ばしたまま、しばらく動けなかった。
◇
切り株の上に立ち、呪文と名前を囁くと、目の前の風景がゆっくりと変化していった。
辺りは一面真っ白で、果てが無く、まるで雲の上に浮かんでいるような感覚だった。
背後から穏やかな追い風が吹き抜け、目の前の霞みが晴れると、背丈ほどの白いドアが姿を現した。真鍮製のドアノブが無ければ気づかないほど純粋な白だった。
ドアを叩こうと手を伸ばすと、カチリと僅かにノブが回りドアが開いた。
「お入り」
ドアの奥から静かな声が聞こえた。
私を迎え入れた伝授書の管理者は、歳を重ねた老婆だった。眼光は鋭く敵意とも取れるような眼差しで私を見つめた。背後の扉が閉まり、同時に鍵が掛った。
「後戻りは出来ないよ」
老婆はニヤリと気味の悪い笑みを浮かべて言った。私は無言で頷き、大きく息を吐いた。
「これから三つの試練を課す。全ての試練を克服すれば【ロゼルティ】の伝授書を授けよう。挑戦者の公平を図るため、手持ちの伝授書は全て預かる。差し出せ」
老婆は皺だらけの右手を前に出した。
「持ってない。次の挑戦者のエサにされるのは御免だから」
私が言うと、老婆は舌打ちをして壁際の椅子に座った。
「この部屋の奥に試練を課す結界がある。一度中へ入ると、試練を克服するまで外へは出られない。この意味が分かるな?」
老婆はキセルを吹かし面倒臭さそうに言った。伝授書を持っていない私に、あからさまに興味を失ったようだ。私は頷き、奥の扉へ向かった。
「フッ、失敗する事を祈ってるよ」
背後で軽薄な老婆の囁きが聞こえた。
◆
あたしは切り株に腰を掛け、パンを齧りながらクレアのいない三日間をどう過ごすか考えていた。
目の見えない日中に動くのは危険だ。見つかると、クレアのような同業者が目の色を変えて襲って来るかも知れない。
伝授書が入った鞄をどこかに隠して逃げる? クレアは逃げたあたしをどこまでも追いかけて、猫にしてしまうかも。いや、きっと裏切り者として殺される。
一体どうすればいいんだろう? どうすれば……。