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怒涛の波のあとに沈黙が流れ、草が囁く声だけが微かにする。それぞれが驚愕や喪失を抱くその中で、誰かが乾いた笑いを溢した。
「まさか、そんな下らない理由の計画を、神からの大命だと思い込んでいたとは」
笑いを溢したのは、アブディエルだった。
「アブディエル」
「神の意志と人間の意志の区別も付かないとは、とんだ笑い種だ……私は一体、何をしてきたのだろうな」
その笑いは、自分への嘲笑だった。
アブディエルは、揺るぎない自信を持っていた。ルシファーを堕とした時から指導力を更に磨き、求心力を向上させ、神への忠誠をそれまで以上に誓い、実直なまでに職務に邁進してきた。天界を支える主柱として。あるいは、親に愛されたいが為に振る舞う子供のように。
ルシファーよりも神に愛されること。それがアブディエルが望んでいた自分のかたちであり、存在する意味だった。その為だけに邁進してきた。周りからどんな目を向けられようとも、愛されるべきは人間よりも自分たちなのだと信じて。その信念のもと積み重ねてきたものの殆どが、おもちゃのブロックだったのだ。
「神からの大命だと思って素直に従っている私たちを見て、さぞ愉快だっただろう。私怨を果たせると思って爽快だっただろう」
ブロックに乗せられている人形としての時間が、アブディエルの幸福な時間だったのだ。
「……しかし、お前の計画は失敗だ。メルキゼデク。皆に帰還を伝達しろ」
「畏まりました」
命を受けたメルキゼデクは、速やかにその場を離れた。
「アブディエル。お前……」
「神の大命でないのなら、遂行する意義も従う理由もありません。計画は中止します」
手段を選ばず遂行してきたアブディエルだったが、計画中止を即決した。計画の価値も大義名分もなくなってしまえば、遂行する意味はない。
「ありがとう、アブディエル」
目を覚ましてくれたアブディエルに悠仁は礼を言うが、アブディエルは一瞥しただけで謝罪も何もしない。過誤と責任感とプライドが押し合っている最中で、謝罪よりもポーカーフェイスを維持するのに精一杯のようだ。
「私ならルシファー……いえ。ルシファー様以上に議長を務められると思っていたのですが、信頼を損ねる大失態を犯すなんて……自分を過信し過ぎていたようですね」
アブディエルは、永い間ずっと張っていた肩を少しだけ落とした。
「……私は、議長には向かなかったんでしょうかね。こんな私情を挟んだ独善的な考え方では、まともな舵取りもできないことすら気付かないとは……やはり天界には、ルシファー様のような方が必要なのかもしれません」
「アブディエル……」
アブディエルは、ようやく自身の器量を自覚した。自分の身の丈に合わない、広く立派過ぎた舞台だったと。しかし、例え三流役者だったとしても一度でも華々しい舞台に立てたことは、何物にも変え難い価値あるものとなったに違いない。
計画中止の決定に、悠仁たちは心から安堵した。何か大事なことを忘れているような気がしたが、あとは大団円を迎えるだけだと気持ちに晴れ間が見えていた。
「───何をしている。アブディエル」
幕引きに向かおうとしていた一同の側で、絶望に打ちひしがれていたメタトロンがゆらりと立ち上がり、ゾンビのごとき足取りと虚ろな瞳でアブディエルに近付いて行く。
「計画の中止など許さん。続行しろ。人間を一人残らず世界から消すんだ。それがお前の役目だ……忠誠心を示せ。計画を完遂させろ。でなければ意味がない……私の願いが叶わないだろ」
「メタトロン。やめて。」
諦め悪く足掻くメタトロンを、サンダルフォンは制止しようとする。
「消せ……今すぐ計画を実行しろ!」
「メタトロン!」
欲望の飢えに我慢ができなくなり、メタトロンは叫んだ。サンダルフォンは止めようと必死になる。
「殺すんだ!全人類を殺せ…殺せ!そして、私を罰しろ!殺せぇ……!」
「もうやめてメタトロン……!」
飢えを満たせろと叫ぶメタトロンを、サンダルフォンは抱き締めた。
「もうやめようよ!わたしたちが間違ってたんだ……何もかも……!」
メタトロンを止めるサンダルフォンも本当は、やり切れない思いに痛哭してしまいそうだった。彼の叫びは、今も何処かにあるかつての自分の望みだった。
手遅れだと知りながらも自分のいた場所に縛られ、縋り、手繰り寄せたかった往昔。普通の人間でいられた幸福。捧げた大き過ぎる代償は、今の運命から逃れない限り取り戻せない。それを知っているから、メタトロンが足掻いている。
「背負うから!君の分もわたしが!」
自分はそれを知っている。思いが同じだからシンクロする。
苦労して殺してきた腹の底が、蘇りそうだった。だから一層強く、苦しむ友を抱き締めた。縄で首を締め、心中しようと言うように。
「ころせ……ころしてくれ……」
虚空を見つめ、誰へでもなくメタトロンは切望した。どこか悲愴を漂わせて。
天使たちは、二人に憐れむ視線を向けた。見るに堪えなくなったミカエルは、二人を離れた場所へと誘導した。
悠仁は、連れて行かれるメタトロンを見つめた。
「……何でだよ」
何で言わなかったんだよ。そうやって、もっと早く素直に心の内を打ち明けていれば、どうにかできたかもしれないのに。そうすれば、誰も傷付かなかった。誰も苦しまなかったのに……。
置かれた立場による自尊心が原因なのかはわからないが、環境的にも精神的にもメタトロンは閉塞状態となり、抱え込ませてしまったのだろうか。一度は身勝手さに憤った相手なのに、悠仁は歯痒く思った。
「やれやれ。見苦しいものを見てしまいましたね。未だに愚かな族の血が流れているのか、憐れでなりませんでした」
アブディエルは、憐れみの視線を外して嘆息した。その言葉を聞いた悠仁は、不信の目を向ける。
「……お前。何も思わなかったのかよ」
「あれを見て何を思うのだ?」
「何って……天使なんだから、人間だったあいつに情けをかけるとか」
「同胞に情けはかけない。理由が何であろうと罪は罪。処遇は後々決めさせてもらう」
「アブディエルッ」
「悠仁。やめておけ」
戻って来たミカエルが無駄だと止めると、悠仁は仕方なく口を閉じた。
アブディエルは計画をやめたが、人間の存在を認めた訳ではない。大命を下したのが、愛し遵奉する神ではないからだ。彼が神から愛されることに満足し、人間が神の愛を受けることを許さない限り、人間に心を向けることはない。
「話がだいぶ脱線してしまいましたね。当初の目的に戻しましょう」
「……あぁそうだった。黒幕を暴きに来たんじゃなかったんだよな」
衝撃の連続のおかげですっかり忘れてしまっていたが、悠仁とミカエルはアラボトに来た本来の目的であるルシファーの再審を思い出した。
「でも。再審て言ったって、今さら神様は出て来るのかよ」
「もう姿は現さないだろう。と言うか不可能だ。そもそも、そう簡単に謁見が認められないのに、直々に審判を下して頂けるなどあり得ない」
「じゃあ、何で今回は許されたんだよ。ルシファーだからか?」
「容疑者が誰であろうが、神が直々に下すことはない。神に頼んで審判してもらえるなら、最初から裁判所も裁判官も必要ない」
もしも神が全てを治めるつもりなら、統御議会も公安部も存在せず、天界は現在の形に構築されていないとミカエルは言った。
「そう考えると、結構手放しにしてるのに、ルシファーの再審だけ関与しようとしたのはおかしいよな」
「取り次ぎは、側用人のメタトロンの筈だ。大方、ルシファーの再審なんかどうでもいいって感じで、アブディエルに適当に返答したんだろ」
ミカエルの推測通り、メタトロンは最初から適当に追い払うつもりだったのだ。アブディエルの性質を理解して、アラボトへ呼ばなければ繰り返し謁見の申請をされるだろうと考えたのだろう。ただでさえ汚点を残し早く名誉挽回したいのに、アブディエルはばつが悪くなる。
「じゃあ、どうするんだよ」
「アブディエルは、まだやる気か?」
「やるべきだと思います。全てを聞いた訳ではありませんから」
少しへこんだアブディエルは、何とか統御議会議長の顔を取り戻した。今のアブディエルの優先順位は名誉挽回が一番だが、それよりも、全ての天使の代表としてはっきりさせなければならないことがあった。ルシファーが企図して大罪を犯した全貌を。
「ルシファー様。もう隠すのは無駄だとおわかりの筈です。貴方には、罪の詳細を明白にさせる義務が発生しているんですよ」
アブディエルは真相の開示を求めた。しかし、さっきよりも咎める気は薄れていた。
計画の黒幕を暴き目的を果たすことができたルシファーは、やるべきことがひと段落し、肩の力を少し抜いた。
「……そうだな……話そう。包み隠さず、全てを」
そして観念したかのような面持ちで、最後の役目を全うする覚悟を決めた。
「それでは、然るべき場所へ行きましょう。裁判所へ」




