4
清澄な空気。爽やかな風。清冷な小川。鮮緑の大地。そして、聖域を秘するオーロラのカーテン。
天界最上層にして、この世で唯一穢れに侵されない絶対なる聖域、アラボト。一同は、粛然とした足取りでその大地に降り立った。
アブディエルを先頭に、小川にかかる橋を渡る。既に場の空気に負けている悠仁には、小川のせせらぎや小鳥の囀りに耳を傾け心を安らげる余裕など、一切なかった。
アブディエルは、オーロラのカーテンの前で足を止めた。
「我らが善導者、神よ。熾天使アブディエル、拝謁賜りたく参上致しました」
代表してカーテンに向かって片膝を突き、最敬礼した。悠仁たちは一層緊張する。
神の姿は、誰も見たことがない。統御議会議長のアブディエルとかつて務めたルシファーは、大命を賜る際に玉音は聞いているが、神のものだと思っている声が本当に神の声かはわからない。存在自体がヴェールに包まれていて、誰も真の神を知らないのだ。
その神が、寵愛したルシファーの再審ではあっても姿を見せるとは思えない。恐らく、カーテン越しの対話となるだろう。身も心も引き締めて、一同は待ち構えた。
「……誰か来たようですよ」
メルキゼデクの言葉に反応して注視すると、カーテンの向こうにぼんやりと人影が見えてきた。悠々と歩いて、こちらに近付いて来る。もしやと、一同の緊張感が急速上昇する。
その人影は幾重にも重なるカーテンを捲り、うっすら姿が見えるようになってきた。最後の一枚になりそこで足を止めるだろうと誰もが思ったが、手は端を掴み、最後の一枚が捲られた。そしてとうとう、一同の前にその姿を見せた。
「……………」
一同は茫然とする。全員がシンクロして、同じ疑問を頭に浮かべた。
これは誰だ、と。
現れたのは、明らかに神ではなかった。本当に神ならば圧倒的なオーラを前に全員が本能的にひれ伏してしまうところが、全くそんな気は起きなかった。
白い布を身に纏った謎の人物はそんな一同の困惑を無視し、尊大な口振りで一言目を発する。
「これはまた、大所帯で来たものだな」
「……あ……貴方は?」
立ち上がったアブディエルは、名を尋ねるのに精一杯だった。
「私は神の側用人。メタトロンだ」
彼らの面前に現れたのは、神に仕えているというメタトロンだった。ルシファーが疑惑を持つ天使だ。口振りだけでなく態度も尊大なメタトロンは、腕を組んで問う。
「それで。何の用だ」
「あの。神に拝謁賜りたく参上したのですが……」
「神は忙しい。私が代わりに用件を聞く」
「で…ですが、私は……」
「私も暇ではない。言う気がないなら帰るが」
アブディエルは話が違うと言いたいが、神の側用人では不用意に文句は言えない。その態度も気に食わないが、仕方がないと諦め、渋々対応してもらうことにした。
「……事前に上啓させて頂いておりましたが、ミカエル様たちが堕天使ルシファーの罪を改めて審議してほしいと申しておりまして。神に厳正な審判を下して頂きたく、ルシファーを連れて参上した次第です」
「何だ。そんなことか」
メタトロンは吐き捨てるように言い、アブディエルの要求を一蹴した。
「今はそれどころではないだろう。人間界の転機の時なのだぞ。その計画の指揮官のお前が、こんな所で油を売っている場合か」
もっともなお叱りだ。メタトロンの物言いに、あのアブディエルがたじろいでいる。聖域は、三流の役者が上がるには早過ぎる舞台だったようだ。しかし、神に自分のいいところを見せて擦り寄りたいアブディエルは、再審をしてもらう為に粘る。
「し、しかし!ミカエル様は堕天使たちと手を組み、ルシファーを天界に復帰させようとしているのです。堕天使と手を組むなど、何か企んでいるに違いありません。天界に不穏分子を入れることを阻む為にも、どうか!」
「下らないことで神を頼るな。呆れて嘆息も出ぬわ」
粘ったが、アブディエルの二の句は続かない。何としてでも押し通したいところだが、いつもの舞台とは勝手が違い下手なことは口走れない。
「今、最優先すべきことは何だ。統御議会議長アブディエル」
「……『第二次方舟計画』を、完遂することでございます」
高圧的なメタトロンに負け、最終的には借りてきた猫のようになってしまった。間違ってもそんな可愛げはないが、流石に下手に出るしかなかった。
「わかっているではないか。用件は以上だな」
メタトロンは一方的に話を切り上げ、カーテンの向こうに帰ろうと踵を返した。その時。
「待て」
毅然と立つルシファーが呼び止めた。呼ばれて立ち止まったメタトロンは、密かに溜め息を吐いて仕方なさそうに振り返る。
「堕天使ルシファーか。堕天使ごときが、許しもなしに立ち入り口を聞いていい場所ではないぞ」
「聞きたいことがある」
「堕天使の質問に答える義理はない」
「お前にしか聞けないんだ。満足したら帰る」
ルシファーに対してもその口の聞き方かよ。神様の側用人て、そんなに偉いのか?
肩透かしを食った悠仁はすっかり緊張も解れ、かつての偉大な天使に畏れを抱かないメタトロンに少しイラッとする。アブディエルでさえ、敬称は取り払ったものの敬語を続けているのに、堕天使だからと見下した言い方をしている。
「……いいだろう。元天使長という身分に配慮して、特別に聞いてやる。さっさと言え」
温情と見せかけて、面倒臭そうにメタトロンは催促した。
ルシファーは何を聞くのだろうと、悠仁たちは注目する。催促されたルシファーは、質問を簡潔に投げかけた。
「単刀直入に聞く……お前は、人間なのか?」
唐突かつ核心を突いた質問に、その場にいたメタトロン以外の全員が仰天する。計画の概要を読んで気になっていた悠仁も、ただの疑惑でしかないことを本人にこんなストレートに聞くのかと驚いた。そんな一同の中でも、アブディエルは何を言っているんだと一番動揺を見せた。
「神の側用人に何を聞いているのですか。確かにそんな噂がありましたが、」
「そうだが」
アブディエルが否定をしようとしている途中だったが、一切の誤魔化しもなくメタトロンはあっさりと認めた。アブディエルの口が開いたままになる。
「正しくは、元人間だ。エノクという名だった」
嘘だろ。本当に元人間!?
悠仁は信じられずに驚くが、ただの噂だと信じていたミカエルたちは驚きのあまり声も出ない。
「しかし、誰から聞いた?私を天界に招いた神以外、一握りの者しか知らない筈だ」
「人間界にいる間、私は多くの天使から議会の動向を収集した。その情報と大命の違和を元に推断したまでだ」
「流石は元天使長。明敏な頭脳は健在か。ならば、タネは既に見つけているのかな」
「大命はお前が下していたと、認めるのだな?」
「なっ……」
ルシファーとメタトロンの会話の意味を理解したアブディエルは、動揺を隠せない。
「一体どういうことですか!?」
「私の推断が正しいのなら、アブディエル、お前はメタトロンに弄ばれていたんだ」
訝しく思う眉と困惑の瞳で、アブディエルの顔に表れる感情はごちゃ混ぜだ。メモを解読したことで既に疑惑を知っていたミカエルでも、動揺と当惑を露にする。
「ち……ちょっと待て。大命が、このメタトロンから下されていたと言うのか!?」
そんな二人を追い詰めるように、ルシファーは自分の考えを明かす。
「冷静になって思い返してみろ。『不品行になった人間を戒める方法を講じて実行せよ』という大命があっただろう。私はあの大命を聞いた時、身体の隅を針でチクリと刺されたような、気になるようで気にならない程度の引っかかりを覚えた。それは何故だったのだろうと、あとになって考えてみた。恐らく本当の神の大命だったなら、『方法を講じて実行せよ』という丸投げはしない。大命は必ず『何をどのようにせよ』という、神の意向が推し量れるものだった。なのにあの大命は、違和感のない程度に変わっていたのだ」
指摘されたアブディエルは、考えるまでに時間がかかっている。と言うか、考えたくもない問題を前に思考力が鈍くなっていた。
「ミカエル。それ以降の大命は?」
「えっと、確か………『私たちが不寛容であることを人間に教え、中でも悪徒には罰を与えよ』。『首悪を見つけ、不敬虔を正すよう教えよ』。『以後の物質界を良くする為に、善人と悪人を把握させよ』、とか」
「一つ目と二つ目は違和感はないようだが、三つ目はまたこちら側に方法を任せる内容だったのだろう?アブディエルは、大命を聞いて何の疑問もなかったのか」
「私は特に……私たちは神の意志に従うのが当たり前なのだから、気になることなど……」
アブディエルは恨んでいたルシファーの話を鵜呑みにしたくないのか、あるいはただ混乱しているのか。その両方かもしれないが、自分の中の何かが壊されるような気がして認めるのを拒んだ。ミカエルも、指摘された点に一応は納得するが。
「ルシファー。お前を疑う訳ではないし、大命を撤回されたり撤回した大命をまた下されたり、確かに首を傾げたくなることもあった。だが、当人の肯定があったとしても俄には信じ難い。それは、お前の推断てだけじゃなかったのか!?」
胸中の動揺が消えた訳ではない。神ではなかった上に元人間からの大命だったなど、これまでの行動の意義が根幹からひっくり返されることを認める訳にはいかない。悠仁ですら、からかわれているんじゃないかと思っているのだから、ミカエルたちがするりと飲み込める筈がない。




