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「人間は天界を聖域だと考え、オレたち天使を特別な存在と思っているかもしれないが、人間界の方が豊かで、人間の方がよっぽど自由だ。確かに、辛いこともたくさんあるだろう。性根が腐る程に泥を浴び、食ってきただろう。それでもお前たちが生きて来られたのは、先祖が守ったこの世界があったからだと思う。
今の人間界があるのは、お前の先祖のおかげだ。それなのにオレたちは、礎を築いた一族に対して酷薄だった。人間を救う立場にありながら無責任だった。何もできなかったのは、到底謝り尽くせない。だから恨み続けてくれて構わない。だが、一度だけでいい。受け入れてもらえないかもしれないが、謝罪はさせてくれ」
ミカエルは椅子から立ち上がり、
「申し訳なかった」
頭を下げた。それには、悠仁もベリアルも驚いてしまった。上位の身分でありながら人間に頭を下げて謝罪するなど、あり得ない姿だった。悔悟を固めた面持ちは、それだけ責任と罪過を重く受け止めていた。
「もし今の人間界が危機に陥ったら、オレができることなら何でもする。罰を受ける覚悟を持って立ち向かう。今度こそ、己の信念のもと天使としての使命を果たすと、君に誓おう」
ミカエル……。
「……ノアさん。天使も色々と事情があるんです。ミカエルの気持ちを、少しだけでもいいので理解してもらえませんか」
ミカエルだけに背負わせられないと思った悠仁は、一緒に責任を引き受けることはできないが少しばかり助けに入った。ミカエルを通してルシファーの思いが心に沁み、満足に使命に従事できない悔恨に日々奥歯を噛み締めていることに、同情を禁じ得なかった。
しかし、それとこれとは話が別だとノアは思っているだろう。彼からしてみれば、遺恨を作らされた天使の方が非情なのだから。悠仁たちは半分仕方なしの心持ちで、ノアがしゃべるのを待った。
ずっと口を閉ざしていたノアは、口を開いた。
「……もう大丈夫です」
「ノアさん。恨みたくなる気持ちはわからなくもないですけど、ミカエルたちは決して薄情でも冷酷でもないです!悪いのは、こいつらを縛ってる天界の掟で……」
悠仁は理解してもらおうと必死に弁護するが、途中で「そうじゃなくて」と遮られた。顔を上げたノアからは、排斥も眉間の皺も消えていた。
「……オレ、何も知らずに失礼なことばかり言いましたよね」
「ノア……」
「一族の無念や怒りを一体何処に、誰にぶつけたらいいのかわからなくて、ずっと胸に燻ってたんです。皆さんが絶好の的だと思ったら、ぶつけずにはいられなくて……」
「いや。寧ろ言ってくれてよかった。渦中の人間の胸中など、滅多に聞けることではないから」
「でも、感情に任せて言い過ぎたと思います。すみませんでした」
気不味そうにしながら、ノアは浅く頭を下げた。どうやら本来は、心根がまっすぐな青年のようだ。ミカエルも悠仁も、わかり合えて胸を撫で下ろした。
「でも面と向かって言っちゃうってことは、相当溜まってたんだね」
「オレたちが不干渉過ぎたのかもな」
「いいえ。事情は理解したので、気にしないで下さい。それに、もう誰もあのことに触れることはないので。遥か昔のことはもうきっぱり忘れようってなったからなんですけど、みんな、諦めてるんです。しょうがなかったって」
ノアの表情に、僅かに悔しさが滲み出た。ずっと立っていたがようやく椅子に腰を下ろし、その原因を話した。
「神様に従った祖先の行いは正しいけど、誰もが神様を信心していないんだから間違いなのも確か。だから、それに正しい答えを求めるのは端から間違ってる。あれに正答はない。百歩譲ってそれはわかります。でも、そのあとの一族への仕打ちは間違ってる。直接関係ない者も、連帯責任だと言って理不尽な理由で……けれどそれも、今更どうにもできない。仕返しもできない。なら残されたオレたちは、密かな悔しさを胸に仕舞い続けるしかないんです」
「ノアさんは、一族の苦しみも悔しさも忘れちゃいけないって思ったんですね」
「でもそろそろ、忘れた方がいいんですかね。きれいさっぱり」
本当は、早く忘れて自由に生きたかった。けれど現在では、祖先の栄光は語られても一族の迫害は全く知られていない。それなのに子孫の自分が忘れてしまったら、誰が一族の苦しみを覚えているのだろう。そう考えたらどうしても吹っ切れず、昔のしがらみを抱え続け、生きづらくなってしまった。
自分は普通より寿命が短い所為で生き急ぎ、長命で自由にできる時間が自分の倍ある周りが憎い。誰かに自分の人生を変わってほしい。生き急ぐ人生をわからせたい。そう思い続けるのも、疲れてきてしまった。自分はただ、自分の人生を全うしたい。人生を楽しみたい。邪念に支配されずに生きたい。
すると、ノアが忘れようとしているのを聞いた悠仁は言った。
「……俺は、辛いことは忘れてないですよ。家族のことだから、絶対に忘れられない。死ぬまでずっと覚えてます」
悠仁も、影響を受けた父親の死は最初は認められず、受け入れられなかった。だから一歩も進めなかったし、過去に留まろうとした。辛い記憶は人生の枷になる。しかしルシファーの助けがあったおかげで、悠仁は枷を追い風に変えられた。辛い記憶は忘れた方がいい。けれど覚えておきたい、覚えておかなければならない辛い記憶もあると、今は思っている。
「……そうですね。家族なら、覚えてないとダメですよね」
ノアの辛さは、振り返っても遠過ぎて見えない家族との繋がり。会ったことも話したこともなく、他人のような希薄な繋がりかもしれないが、覚えていることで絆が残る。ノアが抱く思いが、一族が懸命に生きた証となる。それだけで、報われるものもあるのではないだろうか。
「……じゃあ。そろそろ本題に入らない?」
他人の感傷には浸らないベリアルが、話は終わったと判断してばっさりと空気を断ち切った。
「あ。そう言えば、オレに用があるんでしたね。頼みたいこととは?」
「実は、協力してもらいたいことがあるんです」
悠仁はリュックからPCを出して例のメモを見せ、いきさつを説明する。これはある天使が、長い時間をかけて得た情報を知る為のパスワードが隠されているメモであること。四つの短文があり、それぞれの答えを書き出しその答えがパスワードになると思っていたが、躓いたままだということ。ある人物に、ノアが関わっているから協力してみるようアドバイスされたことを言った。
「バチカン市国に行かなきゃならなくて、ならその途中に寄ってみようって話になって来たんです。すみません、急に」
「いいえ。自分が関わっていると言われると、気になってしまいますね……あの。その情報というのは、天界に関することなんですか?」
「それはわからない。天界のことなのか、それとも人間界のことなのか」
「ファイルが開けない限り、その重要性もわからない。でも確かに、重要な情報がここに詰まってる。俺は……俺たちは、それを知らなければならないんです」
悠仁たちは真剣な面持ちで、遊びではないことを伝えた。彼らの話の信憑性と熱意を信じたノアは、協力を快諾してくれた。
悠仁は隣のノアにもわかるよう、日本語で書いてある短文と答えを英語に訳した。
「《Gather(集める)》《Human(人間)》《Paradise(楽園)》《Original sea(原初の海)》……うーん。確かに、これは解読が難しそうですね」
「英語の他にもフランス語やラテン語とか色々な言語にしてみたんですけど、それでもわからなくて」
「もしかしたら、よく使われる言語は避けたのかと思ってマイナーな言語にもしてみたけど、全然ダメ。白旗を挙げる寸前だよ」
と言いつつ、頬杖を突きながら出されたお茶を飲むベリアルの表情は、既に白旗が挙がっている。
「ノアは、人間界の言語に詳しいか?」
「詳しくはないですけど───あ」
「何か思い当たる言語があるのか?」
「いいえ。あの、これは?」
ノアは、四つ目の短文の下に数行空けて書いてある単語に気付いて、指差した。
「何て書いてあるんですか?」
「『ゴフェル』です」
「もしかして、これもヒントでは?」
「俺たちもそうだと思ったんですけど、全くわからなくて放置してたんです」
悠仁たちも最初からそれには気付いていたが、メモの解読を優先して触れるのを後回しにしていた。それを見つめたノアはこう言った。
「あの、恐らくですけど。このメモが示してる答えは、方舟じゃないでしょうか」
「方舟?」
「さっきノアが言ったでしょ。大洪水の時に初代のノアが造った舟のこと」
全くわからない悠仁のオウム返しに、ベリアルが若干苛ついた口調で補足した。
「方舟がパスワードってことですか?でも、何でその単語からわかるんです?」
「ゴフェルは、方舟を造った時に使われた木の種類なんです。一族に語り継がれてる話の中でも聞きましたし、実際に聖書にも記述されてるので、間違いありません」
「じゃあ、ファイルを開けるパスワードは《方舟》ってことか」




