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人間が一掃されたあの大洪水ののち、唯一生き残ったノアの一族は全てを浚われた大地を再び潤すべく、再び長い時をかけて生命を増やしていき、同時に一族も繁栄を続けた。
更に時が経つと、人間が遭遇した神の叡智と奇跡の伝承を書き記した書物が残された。『聖書』と呼ばれたその聖典は世界に広まり、多くの人々の目に触れ、拠り所を求めていた人々に魂を撃ち抜く程の深い感銘を与えた。人々は神を讃え、神に選ばれし者たちを崇めた。
聖書にはノアの事柄も記された。書見した人々は、素晴らしいと称賛した。ところが書見した一部の人々から、ノアを冷酷な人物だと非難する声が上がった。“反ノア”を掲げる人々は「ノアは他の人間を見捨てた」「多くの人間を見殺しにした」「神に従ったのではなく悪魔に魂を売った」「人間の裏切り者だ」と言い広め、一族を見つけ出すと迫害した。女、子供、老人関係なく暴力を奮い、命を奪い、繁栄を続けていた一族は一転して衰退していった。
「僅かに残った現在の一族は、迫害から辛くも逃れて生き延びた唯一の直系一族なんです。名を変え、住む場所を変えながら、逃亡する極悪人のように息を潜めてひっそりと生きてきた。そのおかげで“反ノア”の声もいつしか消え、風評もなくなりました。追われることがなくなった今は、普通に平和に暮らしています」
一族は方舟を造った先祖を崇めていたが、その出来事があって以来、彼がしたことは正しかったのかという賛否が一族の中でも分かれた。当然である神への忠誠は本当に正しかったのか。人道的な選択を抗言することはできなかったのか。その衝突の中で一族を離れていく者たちもいたが、残った者で正否を探り、子孫が背負うものを考えた。
その答えとして、「ノア」という名前が現在受け継がれている。何故見捨てなければならなかったのか、その理由は現在の人々には通用しない。あの迫害は、この世界に生きる人間の総意なのだと受容し、祖先のしたことを生涯忘れない為に、代々長兄か長女が受け継ぐこととなっている。
しかし、名前を継いだ者はいずれも五十歳になるまでに亡くなっていた。原因は病気や事故などバラバラで、ノアの父親も四十代半ばで病で亡くなっている。短命となったのは見捨てられた人間たちの呪いだと、一族では言われ続けている。
「オレも名前を継いだから、早くに死ぬんだと覚悟してます。だから、自分のベーカリーを開く夢を早く叶えたいんです。時間を無駄にできないんです。簡単に縁故が切れる訳がないと思うでしょうが、そういう理由で天使様の頼み事は聞けません」
「いや。こちらこそ、何と言ったらいいのか……」
人間界に満たされた水が引き、大地が蘇った時、神はもう二度と同じようなことはしないと“誓いの虹”を空にかけた。その約束通り、人間が神の怒りに触れて滅亡の危機に晒されることはその後なかったが、神に贔屓されたノアの一族は滅亡に匹敵する危機に追いやられた。
ミカエル自身はその危機に手を出すべきだと思ったが、人間界の自然の流れだと神が判断され、ついに手を加えられることはなかった。自らが救った命だと言うのに。痛ましい出来事を見ているだけだったのは、胸を締め付けられる思いだった。
「何もできなかったのは、すまないと思っている」
「今更、謝罪はいりません」
ノアは冷淡に突き放した。影が落とされた彼の顔に、一族の歴史が映し出されていた。
悠仁は、二人と一緒に静かに話を聞いていた。悠仁が天界にいた頃に大洪水は起きたが、聖書を読んだこともなければ触ったこともないので、ノアとあの大洪水が関係していることは知らなかった。だから、グリゴリ事件の顛末にショックを受けた。そして、ルシファーと同じだと思った。
会う前に、ノアはさぞ立派な家系の人物なのだろうと想像した。神から特別扱いをされたのだから、まさに誇り高い家柄と言える。しかし、名誉とかけ離れた壮絶な歴史は、隠されるように明らかにされなかった。彼が話してくれなければ、これからもノア一族の歴史を知らないままだった。確かにノアの方舟の一連は、神に傾倒しない者なら疑問を抱くだろう。命は平等に扱われるべきだと考える人が多ければ多い程、迫害はされるべくしてされたとしか言いようがない。
しかし、誰も知らない。祖先のノアが、最初から神の命令に素直に従ったのかも。どんな気持ちで方舟を作ったのかも。悪魔に魂を売ったと言った人を始めとした迫害をした人たちでさえ、ノアの人となりも何も知らないのだ。
そのまま話を終わらせることはできないと思ったミカエルは、話を続けた。
「ならば、ただの言い訳を聞いてくれ……オレたち天使は、神の命令によって動く。それがどんな命令でも、神の意志を推重する為に。つまり神の命令がなければ、人間界で何があろうとも何もしない」
「自分の意志で行動しないんですか」
「人間界に法律があるように、天界にもいくつかの掟がある。その中に、『人間に必要以上の介入を禁ずる』とある。オレたちが介入したことによってその人間の人格形成に影響が及ぼされたり、未来を変えてしまえば罰せられる。どんなきっかけであれ、人間界で起こる事象は自然的な理によって発生しているという考えなんだ。だから勝手に、不自然に人間を助けてはいけないんだ」
「それはその掟の所為でしょう?」
「そうだ。だが、掟を破れば堕天もあり得る。だから自分の意志で自由に動けない。深く人間に関われない。心の底から助けたいと思っても、罰があるからできない。罰を受ければ、天使としての役目を果たせなくなってしまうから。人間を助けることができなくなってしまうから」
ミカエルは言いながら、ルシファーが独立をしたがった理由がわかった気がした。
天使である限り、人間や人間界に対してしてやりたいことやもっと助けたいと思ったことがあっても、掟があり、神の命令でしか動けないという縛りがある。この目で見ているのに、差し出す手もあるのに、限定的にしか解錠されない枷を付けられている。その所為で、自分の意志とは無関係にたくさんの悔しい思いをしている。そんな理不尽を全て捨てたくて、ルシファーは天使を辞めたがったのだろうかと思った。
「……昔、とても素晴らしい天使がいた。皆から敬愛され、必要とされる存在だった。だがその天使は、自ら望んで天界を去った。それは彼が、掟という煩わしい枷を外し、天使でも何でもないただ一つの存在として人間と関わりたかったんだと思う。漫然と大命を果たし続ける自分よりも、本当の自分を忘れない為に。その為に持っていた全てをかなぐり捨てて、堕天を選んだんだ」
悠仁とベリアルは、ミカエルの言葉でルシファーが言っていたことを思い出した。
「自分の意志で全てと関わりたい。天使とも、堕天使とも、人間とも。天界の常識や、既成概念に囚われない生き方をしてみたい」
いくつも悔しい思いをしたからそう考えるようになったんだと想像すると、彼は正しい選択をしたんだと思えた。
そう思ったら、もしも自分にルシファーの意志を曲げる力があったら、彼は永遠に掟に縛られ苦しみ続けていたのかもしれないと、悠仁の無力さと安堵は複雑に絡み合った。




