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長らく混乱した天界だったが、統御議会の指揮による各施設への迅速な人員の充当、僅かに残ったルシファー派の統括、再出発に向けた全体の意思統一を経て、天界は平穏を取り戻した。
停止された大命も再開され始めた。善人と悪人の系譜把握の大命は何故か停止されたままだったが、代わりに、悪人には罰を与えよと度々下されたり、特に敬虔な人間には富を与えたり天界に招かせようとした。しかし天界に招くのは断念され、また別の大命が下された。
議会は賜った大命を遂行するのが責務だが、議員の中には転変する神の意志に戸惑う者もいた。しかしアブディエルだけは、
「神も心をお持ちなのだ。人間を良き道へ導く為に、難儀されることもある」
と、ひたすらに従順だった。
大命が何も下されないこともあったが、議会は人間界の経過を監察しつつ、それまでと変わらない姿勢で職務にあたった。
今日もサンダルフォンは、メタトロンに会いにアラボトにやって来た。ここはいつ来ても、全く風景は変わらない。天界中が混乱していた間もどこ吹く風というように、小川のせせらぎも風の冷たさも、木の枝の長さすら変わらなかった。
「メタトロン。君の分、持って来たよ」
サンダルフォンは風に揺れるカーテンの前まで来ると、持って来た紙袋を下に置いた。
「……ねえ。もうずっと会いに出て来てくれないけれど、君は元気なの?君と話ができなくて、わたしは寂しいよ」
話しかけても返事はない。そこにメタトロンはいなかった。
「……あのね。最近わたし、少し調子がよくなってきたんだ。何とか職務にも支障がない程度には回復したよ。メタトロンも、わたしと話せるくらいになってないかな……ねえ。久し振りに話そうよ」
メタトロンが出て来てくれるように、サンダルフォンは訴えかけた。近頃は全く会話をしていない。出て来てさえくれていなかった。元々面会は制限されているが、メタトロンの体調不良を心配し毎日でも来たいくらいだった。
向こうからの返事がないまま、サンダルフォンは暫く待った。すると、カーテンに人型のシルエットが浮かんできた。
「……久し振りだな」
「メタトロン……!よかった。元気そうで安心したよ……あ、これ。君の分だよ」
久し振りに声が聞けてサンダルフォンは安堵し、笑顔になった。置いていた紙袋を差し出すと、中から手が伸びて紙袋を受け取った。
「お前も元気そうだな」
「うん。メタトロンに会えたら、更に元気になった」
「何だそれは。私が気力をなくしていては、何も始まらないだろう」
話ができるくらいに体調は回復したようだが、以前のような覇気はまだ取り戻していなかった。ただ、何かしらの精気はあるようだった。
「……そうだね?神の側用人なんだし」
「私の命は特別だ。依然として好き勝手に生きる人間と違い、選ばれた命だ」
「その通りだと思うけど……急にどうしたの。メタトロン?」
「それなのに何故、違うことにこんなにも大差を感じるのだろう。当然のことなのに。私は特別なのだ。選ばれたのだ……」
会話はできている。けれどサンダルフォンは、微妙に擦れ違っているような気がして、会話が成立していないと感じた。
「なあサンダルフォン。どんな正当性のある方法なら、人間にわからせてやれるだろう」
「人間にわからせる……?」
「私はずっと考えているのだよ。どうしたらこの気持ちが晴れるのか。こんな薬に頼ったままで本当にどうにかなるのか。私を解放する為には、私自身が何かしなければならないのではないのかと」
「解放……?」
カーテンに遮られてはいるが、そこにいるのがメタトロンなのは間違いない。それなのにその存在が、水面を通して見ているように感じる。彼の言葉の全てが、目の前の自分ではなく誰へでもない問いかけのように聞こえて、サンダルフォンの安堵が心配に裏返る。
「ねえ、メタトロン。顔が見たいな。出て来て話そうよ」
「人間の矯正と私の解放を、同時にできないだろうか。人間を在るべき姿にする。そうすれば人間界も在るべき姿になる。それが見届けられれば、私も……」
「メタトロン。どういうこと?」
カーテンに透けていたメタトロンのシルエットが、すうっと薄くなっていく。そのまま帰してしまってはいけない気がしたサンダルフォンは、メタトロンを引き止めようとする。
「待ってメタトロン。もう少し話をしようよ」
「大丈夫だサンダルフォン。私は何も諦めてはいない。未来への糸口が見えそうなんだ」
「メタトロン待って!行かないで……!」
サンダルフォンの引き止めには応じず、メタトロンは神の元へ戻って行ってしまった。それ以上足を踏み入れることが許されないサンダルフォンには、手を伸ばすのが限界だった。
それからまた暫く、メタトロンはサンダルフォンの前に現れなかった。
更に年月が経過した。
統御議会議事堂の会議室に、議員たちが集まっていた。メンツが少し変わり、補佐官だったザフキエルが辞めたあとに新たな者が席を埋めていた。
かつてサンダルフォンが次期議員候補だったが、補佐官の役職に就いたのは彼ではなく、アブディエルの勤仕を務めていた力天使のメルキゼデクだった。中級位階の天使が議員になるのは異例だったが、神の側用人であるメタトロンから神の推薦だという言伝があり、アブディエルからも能力を買われて推薦された。一瞬首を傾げた議員たちだったが、二つのお墨付きがあるのなら従うまでと受け入れた。
そして今回。再開された善人と悪人の系譜を調査中だった議会に、新たな大命が下された。
「議長。賜った大命とは」
「『人間の存在価値を審査する。改心した人間を試験し、船出の時に備えよ』と賜った」
「船出とは?」
「……まさか」
ミカエルは疑問形を口にしたが、ヨフィエルは察知し、彼の一言にアブディエルは一つ頷いて答える。
「神が英断される日が近い。“計画”を実行に移す可能性が出てきた」
「私たちの苦労が、ようやく実を結ぶのですね」
「本当に永い間、よく頑張ってくれたな。ヨフィエル」
アブディエルからの労いにヨフィエルは感慨に浸り、目を瞑って首を横に振る。彼はこの瞬間の為に職務に励んでいるようなものだ。
相変わらずの二人の世界には、未だミカエルは全面的な立ち入りを許してもらえていない。不平不満を抱きいつでも辞めることもできたが、所属している意味が全くない訳でもなかったので、特別顧問として議員を続けていた。
根性というよりも、寧ろ意地で議会に席を置くミカエルは、大命について疑問を呈する。
「だが、ずっと何も指示をされなかったのに、何故またそんな命を。人間界は落ち着いているじゃないか」
「しかしそれは、権天使がよく働いたおかげでしょう。彼らが人間の国王やらに助言をしたから、人間界は混沌から脱したのです。だから神は人間を試すのです。与えられた至治の中で、彼らの誓約がしかと生きているのかを」
確かに現在の人間界の平和は、天使の働きによるものが大きかった。与えられた幸福と知らずにいる人間は、息をするのと同じように当たり前の今を生きている。この与えられた環境が、なあなあになることを懸念してのことだろう。ミカエルもそれは周知しており、成る程と腕を組み、アブディエルの解釈を落とし込む。
「それで、我々は何をしたらよいのでしょうか?」
おかっぱ頭と微笑みがまだこの場に馴染んでいないメルキゼデクは、ヨフィエルの横から聞いた。
「まずは、中断していた邪天使の投入を再開する。調査の結果を元に人間を揺さぶり、対象の絞り込みを始める」
「調査と今回の反応に違いが出た場合は、どう致しましょう」
「思想が遺伝されていることを考慮し、少しでも反応が見られれば対象とする。縁者を揺さぶっても変化が見られない場合もあるだろうが、継続してそれでも変化がなかった場合も不穏分子と見なし、迷わず対象として構わない。悲願の為だ」
全ては、神の願いの為に。新たな大命を成し遂げようと、議会は一団となる。
議長のアブディエルは徐に立ち上がった。そして両腕を広げ、お得意の舞台役者調で場を締める。
「今こそが、我々の存在意義を果たす時。我々が、何より神が永年望んでいた美しい世界が生まれる日が、とうとう来る。それをこの手で導こうではないか!」
会議が終わり、アブディエルたちも居館に帰って行ったそのあと。メルキゼデクは、熾天使しか入室することが許されない託宣の間にいた。
「ええ。動き出しましたね。このような機会に私を議会に入れて頂いて、感謝しています………いいえそんな。最後まで付き合わせて頂きますよ。世界が変わる瞬間を、この目で見てみたいですから………ええ勿論。貴方の望みが叶うその時を、見守らせてもらいますよ」
そう言って目映い陽光に目を細めるように、メルキゼデクは笑みを湛えた。




