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閉じた目蓋を開くと、目の前は異国情緒が溢れる景色に変わっていた。
石造りの建物が並び、どれもドーム型の屋根をしている。写真か何かで似たような建造物を見たことがある気がする。確か、地中海方面の国だった。しかも、道を行き交う外国人ぽい人々は、ファンタジー風の装束を着ている。
やけにリアル過ぎて、知らない間にVRゴーグルでも装着したかと思って顔の上半分を触ったが、普通に裸眼だった。髪と頬を撫でる風も、周りから聞こえる声や音も生のものだと感じる始めると、自分の状況が徐々にわかってきた。
「……ここ何処!?」
わかってきたと言っても、自分の状況がわからないことにだ。見知らぬ場所にいることだけは理解できる悠仁は、呆然と立ち尽くす。口を半開きにし、瞬きをしきりに繰り返して、目は何度も右往左往する。
俺、確かに駅の地下道にいたよな?猫の真人さんと話してたよな?……真人さんは!?
足元や周囲を見回すが、さっきまで話していた黒猫の姿は何処にもない。悠仁だけが違う場所に飛ばされていた。
困惑してキョロキョロしていると、往来する人々が悠仁に視線を向けてきた。挙動不審さが目に留まっていることに気付いた悠仁は、慌てて近くの建物の陰に隠れる。
い、一体どうなってんだ!?
混乱し過ぎて、悠仁の頭はもはや停止しかけている。状況が説明できる相手がいない上に、完全に孤独だ。これでは身動きが取れない。
ふと、横にあった窓ガラスに顔を向けた。そこには自分が映るはずなのに、全く見たことのない人物が映り込んでいた。
「こっ……これ、俺!?」
思わず顔と髪を触る。顔付きも髪色も髪型も、見慣れた自分ではなかった。首から下も今朝着ていたパーカーとズボンではなく、周囲の人たちと同じようなファンタジー風の服装をしていた。
えっ?何で!?どういうことだ!?何で俺が俺じゃないの!?特殊メイク?一瞬で?どんなスゴ技だよ!て言うか誰が?猫の真人さんが?じゃなくて、猫のルシファー?ルシファーだった真人さんが乗り移った猫?真人さんの声でしゃべる猫になったルシファー?て言うか、猫が特殊メイクできる訳ないだろ!
「……あーもう。本当にどういう状況なんだよ……」
脳内に怒涛にクエスチョンマークが押し寄せた悠仁は、頭痛の気配がして頭を抱えた。
本当に何処なんだここ。海外?にしては、人が着てる服が現代ぽくない。じゃあ何処かのテーマパーク?日本にこんなテーマパークあったっけ?だとしても、いつ移動したんだよ。瞬間移動なんてできる訳ないし。
「て言うか、真人さん……じゃなくてルシファー?と何話してたっけ。確か、助けてほしいとか何とか言ってたよな。何て言ってたっけ?」
混乱しながらも何とか頭を整理しようとしていると、誰かの足音が聞こえてきた。悠仁は何故か「ヤバい」と思い、隠れる場所もなかったので、意味がないとわかりつつその場に蹲った。
その音は段々と近付いて来る。神経を尖らせると、身体は硬直した。
接近した足音は、目の前で止まった。ありえないくらい悠仁の心臓はバクバクする。怖くて顔を上げられない。少し様子を見たが、相手が立ち去る気配はない。
悠仁は根負けして、覚悟して恐る恐る顔を上げた。
「……こ……こんにちは……」
悠仁は笑顔を引き攣らせながら、取り敢えず挨拶した。
英語の方がよかったかな……。
現れた人物もやはり似たような装束だったが、少しテイストが違った。彼は、長い髪を前で編み込んだ個性的な髪型をしていた。前髪が長い所為で片目しか見えないが、眠たそうにした面構えだった。
ぼーっとして何を考えているのか計り知れない彼は、悠仁の目線に合うようにしゃがんだ。
「……あ…あの……」
「オレは…キミを…わかってる」
「え?」
しゃべりも、その風貌を裏切らないマイペースな話し方だ。ミステリアス過ぎて、何を言っているのかもよくわからない。
すると、ゆっくりと両手を伸ばして悠仁の頭を持った。そして頭を近付け、額を合わせた。
え?え??
戸惑う悠仁は、脳内に何かが入り込んでくる感覚を覚えた。と同時に、混乱していた頭は不思議とクリアになっていく。
五秒程で額と手は離れた。もう一度彼を見ると、その正体が天使だと自動的に理解できた。今の自分が人間ではないことも。ここが「天界」という場所だということも。
「大丈夫…?」
「は…はい……」
「キミ…名前……」
「あ。俺の名前ですか?菅原悠仁です」
名前を聞かれたと思った悠仁は名乗った。しかし彼は、ぼーっとしながら見つめてくるので、悠仁はまた戸惑ってしまう。
やはり何を考えているのかわからない。いや。そう見せかけて、頭の中ではものすごい早さで何かを考えているのだろうか。
「……ハビエル」
「え?」
「キミの、名前……ハビエル……」
どうやら、この世界で名乗れる名前を考えてくれていたらしい。
「ハビエル……それが、俺の名前?」
彼はコクリと頷いた。
「あと…これもあげる」
名付け親は、懐から出した一通の書状をハビエルに渡した。
「これは?」
「これを持って…ゼブルの役所に行くといいよ」
何の書状かわからないまま、ハビエルは取り敢えず受け取る。役所で必要ということは、事務的な手続きを申請するものだろう。
「あ、ありがとうございます……あの。貴方は」
顔を上げると、謎の名付け親天使は消えていた。始終ミステリアスオーラを浴びたおかげで、幻か、見てはいけないものでも見たのかと思ってしまいそうだった。
一体何だったんだろうあの人。俺が困ってるのを見て、助けてくれたのかな。でもどうして……。
恐らく、お礼の言葉も聞いていないだろう。ハビエルは、またいつか会えた時にお礼を言うことにして、彼に言われた通りにゼブルに向かった。
人間が天国とも呼ぶ、天使や神が住まう場所。天界。
天界は七つの層で構成され、人間界に一番近い層が第一層となり、各層それぞれの働きをしている。悠仁改めハビエルがいたのは、第二層のラキア。主な施設は、軽度の罪を犯した天使の更生施設や、植物や生物の遺伝子研究が行われている施設がある。そして、大天使、権天使、能天使の住居がある。
ハビエルが目指すゼブルとは、天界の第六層の名称だ。そこへ行くには、最下層から繋がっている透明なエレベーターを使う。翼はあるが、天使たちは基本的にエレベーターで上層と下層を行き来している。
ハビエルもエレベーターを使い、ゼブルまで来た。到着した目の前は、楕円形に広がる広場だった。周囲は列柱廊に囲まれ、広場のど真ん中には一本の石柱が直立している。
エレベーターホールにしては大袈裟な広場を横切り正面の立派な門を潜り抜ければ、そこが真のゼブルだ。
ここには、議事堂、裁判所、役所、公安部など天界の主要機関が集まっており、まさに天界の中心部と言える場所だ。主に上級天使の熾天使、智天使、座天使たちが職務に従事しており、熾天使と一部の大天使たちの居住区も存在している。
「すげぇ……」
建物は、どれを取っても荘厳という言葉しか当て嵌まらないくらい、芸術品のように装飾や造りが美しい。初めて訪れ建物に目を奪われるハビエルは、観光客の気持ちで役所までの道のりを進んだ。
役所も例外なく美しかった。二つの尖塔を構えたその大きさにまず圧倒されそうになるが、その外壁・屋根・扉の細部に至るまで繊細な彫刻が施されている。単なる事務処理庁舎にしておくのはもったいない。
ハビエルは、美しい彫刻が彫られたブロンズの扉を押し開けた。一歩入った途端、空間の広さに口を開けた。
「すげぇー……」
ホールは吹き抜けで、天井はアーチ状のリブ・ヴォールト仕様になっている。ステンドグラスからは光彩が射し、役所らしからぬ神秘的な雰囲気を醸し出している。
数秒呆けてしまったハビエルは頭を振り、正面のカウンターにいる職員に謎の天使からもらった書状を見せた。受け取った職員は、書状の文言を頭から最後まで一文字も漏らさず目を通す。
すると職員は沈黙し、不可解極まりないと言わんとする表情でハビエルを見た。
「あんた、下級天使だよね。どういう繋がりで紹介されたの」
「いや。俺、それを渡されて、言われるがまま来ただけなんで……その紙、何なんですか?」
「紹介状だよ。中級以下の天使を、上級天使に勤仕として紹介する書状。推薦状ほど効力はないが、それなりに有効なものだ」
上級天使の中には、身の回りの世話や、職務で他のことに手が回らない自分の代わりに、雑務を任せる者を側に置いていたりする。上級天使から直接声がかかることはなく、大抵は職務で世話になっている中級天使に“仲立ち”してもらうのが一般的だ。種類は紹介状と推薦状がある。
そんなのくれたんだ。と言うことは、俺は誰かの所で働くのか?
「それで。俺は誰に仕えられるんですか?」
「幸運だなお前は。全ての天使が羨むぞ」
そう言う職員も言葉に羨望を滲ませて、書状の内容をハビエルに見せた。
「熾天使ルシファー様だ」
「ルシファー様って……あのルシファー!?」
ハビエルの仰天する声がこだました。最上位天使を呼び捨てにした下級天使を、その場にいた全員が睨み付けた。