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第七層アラボト。ここは神の玉座がある、天界の最上層。ごく限られた者しか足を踏み入れることが許されない、この世の中に存在する究極の聖域だ。
どんな世界が広がっているかは、入った者にしか知り得ない。それは、まるで秘密を守るかのようにオーロラのような巨大なカーテンがほぼ全てを遮っているからだ。カーテンは途切れることなくどこまでも続き、聖域を汚されんとばかりにアラボトを囲んでいる。
その真の聖域の手前には清流が流れ、神に近付ける唯一の木製の橋がかけられている。その川岸に、ゆったりと腰かけている者がいた。
「いいなぁ。わたしは主に罪人が相手だから、もっと気分が上がることをしたいよ」
彼は、大天使サンダルフォン。柔和で保育士が似合いそうな雰囲気だが、これでも第五層マティの牢獄の管理者だ。靴を脱いだ長い足を川の中に投げ出し、カーテンの向こう側にいるシルエットしか見えない相手と話していた。
「全くない訳じゃないだろう。この前は、マコノムの大草原で大の字になって寝転がって気持ちよかったと言ってたじゃないか」
「開放的で気持ちよかったよ。メタトロンも、今度一緒に行く?」
サンダルフォンは上半身をひねって聞いた。話し相手をするメタトロンは、できるならとっくにその橋を渡っていると言った。
メタトロンは神の側用人だ。常にカーテンの内側にいて、アラボトから出ることはない。サンダルフォンとは、何気ない日常会話をするくらい気心の知れた間柄だ。その言葉遣いは、どんな地位よりも名誉な職務に就きながら権高にならず、自彊の意志を窺わせる。その顔は、サンダルフォンを含め指折り数える程もない人数しか知らない。
「そうだ。聞いてくれよメタトロン。前に、ちょっとおかしなことがあったんだ」
「何だ。罪人が賄賂を使って、早く出してくれとでも言ったのか?」
「そんなことしてたら、わたしはここに来られてないよ。そうじゃなくてさ。知ってると思うけど、グリゴリの指導者のアザエルが逃走した事件があったでしょ?その時、急に公安部が来て、牢獄に収容していたグリゴリを数回に分けて全員連れて行ってしまったんだ」
「急にか。アザエルを捕まえたいのなら、仲間をエサにすればよかっただろうに」
「わたしもそれはちょっと思ったけど、アザエルと接触させない為だって言ってたよ。まぁ、二百人近くいて、こっちも管理しきれなくて困ってたからいいんだけど。それからすぐ、二回目の裁判をやったみたい」
「公安部も、捜索にだいぶ手こずったようだな」
「そうらしいね。わたしのところにも、アザエルが現れなかったかとか、仲間の脱獄の手伝いを持ちかけられなかったかとか話を聞きに来て。待ち伏せもしてたから、わたしも見張られてるんじゃないかって怖かったよ」
「脱獄の共犯の疑いをかけられたのか。災難だったな」
メタトロンは同情をする言葉をかける。けれどサンダルフォンは、見えないその口元は薄ら笑っているんだろうと何となくわかる。本音じゃない同情と過ぎた気苦労に、サンダルフォンは溜め息を漏らした。
「過去最大の罪を犯してるんだから、最初から監視役で公安部から何人か来てくれてもよかったと思うんだけどね。で、公安部が連れて行ってくれたのは助かったんだけど、裁判所の移送許可書を持ってなかったんだ。普通なら、証明として裁判所から持たされる筈なのに。しかも、議会の意向だと言っていたし」
「統御議会が移送指示をするのも珍しいな」
「そうでしょ?犯罪者の移送とか出所許可とかは、いつも裁判所とのやり取りですんでると思うんだけど。でもまぁ、裁判を急いでいたし、そんなこともあるのかなと思ってそのまま引き渡したんだ。それでね」
「まだ続くのか」
メタトロンのシルエットが、腕組みをするように動いた。メタトロンは、他愛のない会話に少し飽きてきていた。毎回、日常的なネタしか提供されないので、正直、もう少し刺激的な下層の話題が聞きたいと思っている。
「本題は次。公安部が来た時に、白衣を着て腕章を付けた人が三人くらい一緒にいたんだ」
「それは……シェハキムの研究施設の職員か?」
「やっぱりそうだよね。腕章を付けてるのは、あそこの人だよね」
「何故か研究員も来たと言うのか」
どうやら日常的ではなさそうな話題に、刺激を求めたメタトロンの興味は少しだけ反応した。
「そう。来た時に疑問には思ったけど、流石に聞けないし。でも、何で研究施設の職員までいたのか、気になってしまうんだ。だって、刑の執行に全く関係ないでしょ?」
「そうだな……議長から、帯同するように言われたんじゃないのか。あそこは議会の管轄だろう。変わった処刑方法でも試したんじゃないのか?」
「そうかなぁ……」
メタトロンの適当な推測では腑に落ちないサンダルフォンは、首を傾げる。
「まぁ気になるだろうが、お前はもう関係ないのだからあまり詮索するな」
「わかってるよ。だけど、メタトロンはそのへんの事情は知らないの?」
「神が知っていることなら、私も知っていることもあるだろう。だが、必要なことしか“下”には伝えられない」
「それって知ってるってこと?知ってても教えてくれないんだ?」
メタトロンは無言で答える。どうやら知っていることはありそうだが、カーテン越しに伝わる雰囲気から教える気はなさそうだった。
周知させる必要性がない不要な情報だと判断されれば、それは下ろされることはない。グリゴリの刑は執行したと公表された筈が、一部が研究施設に連行されていたその理由を知っていても、立場的な義務から黙秘した。
「そっち側では、情報公開の制限が議会以上なんだね。わかったよ。情報の重要性は関係なく、わたしたちに公開される情報は精査されている、ということだと理解しておくよ」
「助かる」
サンダルフォンは、川から長い足を上げた。靴を履き立ち上がると、パリコレモデル並の体躯はシルエットのメタトロンよりも頭一つ分高い。
二人の交流時間は制限されていた。サンダルフォンは、そろそろ職務に戻らなければならない。
「ねえ。そっちは快適?神の側にいられて幸せかい?」
「勿論だ。普通に生きていた私をこんなに特別な存在にして頂いて、本当に夢のようだ。未だに心が満たされている」
「いいなぁ。マティは華やかさに欠けるから、神に仕えてるメタトロンが羨ましいよ」
「神のご意向に不満でも?御前だぞ」
「そちらにいらっしゃるの?」
「当たり前だろう。すぐ側にはおられないが、玉座に座して全てを見聞きしていらっしゃる」
そんなことを言われても、サンダルフォンは実感がない。過去に一度だけ玉音を聞いたことがあるだけで、それ以降の接触はない。それに、とてつもない神のオーラはカーテンで遮られていて、存在を感じることさえできない。しかしこのカーテンがなければ、メタトロン以外は神のオーラに圧倒されこの場に立っていられなくなる。
「そのお姿を、一度でもいいから拝謁させて頂きたいなぁ。どうしたら叶うのかな」
「お前のやるべきことを果たせ。神は人間を見るように我々も見る。奉仕し随順すれば、見放すことはない。そうすれば、その希望もいつか叶うだろう」
「メタトロンの希望は叶っているの?」
「心が満たされているのは、神が私の希望を聞いて下さったからだ。恐らく私は天界で……いや、全ての世界で一番恵まれている、幸せ者だ」
顔が見えなくても、サンダルフォンはメタトロンが今どんな表情をしているかは想像できた。一日の殆どを罪人くらいしか相手にしていない自分よりは、幸福を湛えているだろうと。
彼は間違いなく、この世の誰よりも幸せ者だ。




