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その後も何度か会議が重ねられたが、慎重派のルシファーと性急な意見を通そうとするアブディエルの対立は、平行線のままだった。
ルシファーは頭を悩ませた。
調和。共済。協調……。
齟齬。摩擦。軋轢……。
ルシファーの中に芽吹いた意志が、その鼓動を始めた。
そして唐突に、統御議会議長の辞任を決意した。
陶器が割れる音が響いた。ハーブティーを淹れようとしたベリエルが、珍しくティーカップを落とした。
「統御議会を辞めた!?」
それは、ルシファーのサプライズの所為だった。居館に帰って勤仕の二人に辞任を報告すると、驚愕された。驚かせてしまうとは思っていたが、愛用していたティーカップが犠牲になることは予想していなかった。こんな突然の別れが来るとは考えてもいなかったが、忙しい合間に癒しをくれる手伝いをしてくれた労いを密かに送り、潔く諦めた。
「本当ですかルシファー様!」
「ああ。ついさっきアブディエルたちに言って、辞表を出してきた」
「何バカなことを!正気なの!?」
バカ!?べリエル今、ルシファーにバカって言ったか!?
ルシファーの突然の辞職報告も驚いたが、べリエルの口から飛び出した一言はそれ以上にハビエルに衝撃を走らせた。上級天使に言うなど以ての外の罵倒の言葉を言ってしまう、べリエルの神経が知れなかった。
べリエルは驚きのあまり口を滑らせた訳ではない。と言うことは心からの本音なのだが、こんな時に辞める無責任な自身に似合った言葉だと、ルシファーは罵倒を受け入れる。
「ベリエルは、私が正気の沙汰でないところを見たことがあるのか?」
しかし、一時の感情に流された訳ではないことは証明できる。
「ないけど……ルシファーはいつも冷静に判断してるから、ボクは何の不安もなく貴方に付いて行けると思ってけど」
「正気で冷静だと仰るんですね」
「やっぱり正気じゃない!今すぐ撤回してきて!」
思考回路は正常だと言って納得するベリエルではなかった。平静を取り戻したハビエルも、意見は右に同じだった。
「そうですよ。その方がいいと思います。それに、勝手に決めてしまったんですよね。神が議長に選んで下さったのに、それはまずいのでは……」
「天使の長だから選ばれただけだ。議長になりたいなどと願ったことはない。そんなことよりも、床を片付けてくれないか」
未練は残すまいとルシファーが床を指差す。気付いたハビエルは、素早く割れたカップの破片も残らず片付ける。その間にべリエルは辞職の理由を聞いた。
「ルシファー。どうして急に辞めたの。神は許して下さったの?」
「託宣の間で玉音を拝聴した時に、ついでに申し出た。私のできることは議会ではもうありません、と」
「ないなんて、そんな訳ないでしょう。貴方にはやるべきことがたくさんある。貴方でないとダメなのは自分でもわかるでしょう?」
「わかる。わかるが、ダメなんだ。どうしようもなく歯車が合わなくなってしまったから」
「それは……アブディエル様のこと?」
あぁとうとう、とベリエルは心の中で思った。
ルシファーはもう一度お茶を淹れてくれと頼み、ベリエルは新しいティーカップでハーブティーを淹れた。
片付けを終えたハビエルとベリエルは、ルシファーの机の正面の一人掛けソファーにそれぞれ座り、一緒にお茶を飲みながら話を聞いた。
「前から言ってたよね。アブディエル様と反りが合わないって」
「問題を抱えていらしたんですか?」
初耳だったハビエルは意外に思った。以前ちらりとそんな話を聞き何となくの雰囲気を感じさせられたが、ルシファーが自ら辞職する程重症化していたとは思ってもみなかった。
「アブディエルが議会に入ってきた時は、特に問題はなかった。反発意見が出始めた時も可愛げのある程度だったから、見込みがあると思っていたんだ。だが、どうやらそんなものではなかったようなのだ」
「反発が意気込みからくるものではなかった、ということですか?」
「あぁ。そして、ある時から急に様子が変わった。それから次第に意見の食い違いが起こり始めて、この前はついに言い争いになってしまった」
「だいぶお疲れの様子でご帰宅された時がありましたけど、それが原因だったんですね。でも、きっかけは何なんですか?」
「私もそれがわからない。アブディエルが何故、急にああなってしまったのか」
アブディエルが議会に入って来た当初はごく普通の上司と部下の関係で、ルシファーものちに自分の後を任せてもいいと思える働きだった。それが何をきっかけに錆び付いてしまったのか、噛み合っていた歯車が少しずつ軋んでしまった。修復を試みようにも、向こうがそれを望んでいないようだった。
「辞めるのを止めてくれる方も、いらしたんじゃないんですか」
「いなくはなかったが……」
「それよりも、我慢の限界だったってことだね」
惜しまれたシーンも少なからずあったようだが、顔をしかめたくなる背景が辞職の決定的な理由だった。勤仕の辛口を広い心で受け止められるルシファーでも、我慢できないことは人並みにある。
ベリエルはお茶を飲み、深く短い溜め息を吐いた。
「それならまぁ、しょうがないよ」
「べリエル様」
「ギスギスした相手と上手くやっていこうって努力するエネルギーを消耗することが無駄だと思うし。ルシファーがそう決めたんなら、それでいいよ」
さっき罵倒したばかりのベリエルがルシファーの意思を尊重すると、ハビエルは本当にそれでいいのかと不安を浮かべた視線を向ける。
「統御議会の議長って、議会の柱みたいな存在じゃないですか。そんな簡単に辞めていいものではないですよ」
「私が柱だなんて、そんなめっそうもない」
ルシファーは謙遜するが、ハビエルとべリエルの右耳から左耳へ真っ直ぐ通過した。
「みんなルシファー様に期待しています。辞めたことを公表すればがっかりして、復帰を望むと思います。ですから考え直された方が……」
「言いたいことはわかるよ。みんながルシファーの一挙一動に注目してる。でもルシファーの能力は、議会でしか発揮できないものじゃない。議会じゃどうしても限定されるし、もっと広く発揮できなきゃ無駄にするだけ。そしたら、ルシファーはルシファーじゃない」
「まぁ、そうかもしれませんけど。でも、議会でしかできないこともあるんじゃ……」
ハビエルは、自分のやるべきことを探る為に取り敢えず粘ってみたが、不透明な動機ではこれが限界だった。勤仕の彼が主の為にできることは限られる。
「ボクらは主に従うだけ。肩書きが一つなくなったとしても、ルシファーは愚かな人間とは違うから将来的な不安はないし」
「ありがとうベリエル。すまない」
「謝るなら、事前に相談して下さい」
ベリエルの表情は怒っていて、声音は呆れている。ルシファーは、勝手に大事なことを決めてしまった自分に尽くしてくれる勤仕に申し訳なくなり、眉尻を下げた。




