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全てを見届けて間もなく、悠仁も人間界に帰る時が来た。久し振りに帰って来た感じもあり、縁のある場所を少し見て回りたかったが、思い出に浸って帰れなくなってしまいそうだったからやめておいた。
エレベーターホールまで見送りに来てくれたのは、ミカエルだけだ。寂しいが、そもそも見送ってくれる知人が現在の天界にはいなかった。
「記憶のことだが、天界に関する全ての記憶は抹消することになる。こちらも今後一切、お前に関与することはない」
「本当に、全部忘れちゃうのか?」
「そうだ。関わった間の何もかもを、お前は忘れる。一生思い出すこともない」
「そっか……寂しいな。天界の掟だってわかってるけど」
大切な繋がりを忘れてしまうなんて……。
一番大事なルシファーの記憶だけでなく、一緒に勤仕を務めアブディエルの手から守ってくれたベリアルや、計画を止める為に協力してくれたミカエル。天使になった自分に名前をくれて、ルシファーのところに導いてくれたアスタロト。数えられる程ではあるが、関わった天使たちには感謝しかない。誰一人として忘れたくはないのに、悠仁は忘れなければならない。
悠仁は、ルシファーがくれたリボンを見つめた。
「よかったな、それ。ブレスレット程の価値はないが、大切にしてくれ。オレたちの友好と絆の証に」
「うん。宝物にするよ。それに、物は変わったけど、どっちも同じ価値だよ。ルシファーと繋がってる証になるなら」
ルシファーが託したかったもののどれくらいを受け取り実現できたのだろうと、悠仁は考えた。人間の自分ができることはしたが、満足してくれただろうか。理想の希望になれていたのだろうか、と。
「……なあ、ミカエル。今後、人間界がまた混沌とした世界になった時は……その時は、修正するのか?」
「それはわからないが、今回の後始末として多少の調整はするだろう。やったとしても、現在の延長線上の歴史まで影響するような、大きな変革はさせない筈だ」
「じゃあ、急激に世界が変わることもないよな」
「安心しろ。調整で少しは安定する筈だ。その後は天界は手を出さない。天使には改めて天界の理念の教育がされ、議会の在り方の見直しや、議員の教育もし直される。オレも引き続き議会に属することにしたし、公安部が公に監視しているとなればバカな考えは起こさないさ」
「役職を兼任するのか?」
今回の一件で、ミカエルの肩書きが公安部の最高責任者だと知られた。機捜班として議会に潜入する際に、仲間に迷惑をかけられないと勝手に脱退した七大天使にも、この度籍を戻すことになった。ミカエルを一方的に嫌っているガブリエルだけは、嫌な顔をしたが。
めでたいようでそうでないことに、ミカエルは大きな溜め息を吐く。
「公安部に七大天使に特別顧問。三足のわらじは議長よりも多忙だぞ」
「大変だな。でも、ミカエルなら大丈夫だよ」
「お前。他人事だと思ってるだろ」
ミカエルはモニュメントに埋め込まれた操作盤を出し、人間界への道を開く準備を始めた。
「あ。そう言えばさ。地獄に悪魔がいないって言ってたじゃん。マジで驚いたけど、あれって本当なのか?」
「ああ。ルシファーが言っていた通りだ。オレもこの目で地獄を見たことあるから、嘘じゃないぞ」
「地獄が更生施設みたいな所だなんて、思ってもみなかった。全部人間の創造だったなんて」
「人間はその創造力が素晴らしいな。オレたちにはない能力だ」
「でも天界は、大体イメージ通りだった。最初に来た時、本当に存在してることに驚いたんだ。天使も実在するしさ。ここは創造された世界じゃないんだな」
悠仁は最初に抱いた印象と共に、何となく安堵して言った。操作盤を弄っていたミカエルは少し口元を緩めると、間を空けてこう言葉を返した。
「……さあ。どうだろうな」
「どうだろうなって……実際今いるし、しゃべってるし。存在してるじゃん」
「お前が聞いた通り、悪魔は人間の創造で、地獄もイメージと全く違った。なら、オレたち天使や天界も、創造じゃないのか?」
「……何言ってんだよ」
ふいに行雲が陽光を遮り、悠仁の安堵に影を落とした。ミカエルは悠仁の中の不安を悪戯にくすぐるように、話を始める。
「表と裏。光と影。正義と悪。世界は、正反対のもの同士が存在することで成り立っている。もしもどちらか片方がなくなれば、当然もう一方が残留する。だがそうすると、アンバランスになってしまう。残留した方をそのまま残すのは、不自然だ」
「ミカエル。何の話をしてるんだよ」
「議会の中心人物だったルシファーとアブディエルは、対照的だった。だがルシファーが抜けたことで、議会のバランスは崩れた。片方がいなくなったからだ。そしてユージンが選択したのは、正義と悪どちらも存在する世界。正義のみが存在する世界を選ばなかった。世界がアンバランスになることを避けたんだ。自分の深層にある理論的な意識に、無意識に基づいて」
学者のように、説き伏せるようにミカエルは言う。突然始まった話に戸惑いながら、悠仁は取り敢えず首を傾げる。
「そ…そうなのかな……」
「悪魔はいないと言った。ならば、対極の存在である天使がいるのは、アンバランスにならないか?」
「えっ……いや。そう…言われると……」
「どちらか片方だけが存在するのは、あり得ないんだ。対極であったものの片方がなくなってしまえば、アンバランスだと感じて新たに作ってしまう。それが人間の心理だと思うんだ」
ミカエルの言うことは正しいように聞こえるけれど本当にそうなのかと、悠仁は自分に問いかける。しかし、今の論説を肯定してしまえば……。
「……そ、それじゃあ……天使もいないって言うのか?」
「そうなのかもしれない。悪魔がいないのなら、天使も同じなのかもな。もしかしたら、天界も地獄も」
示唆しておきながら、ミカエルは曖昧な答えを続ける。しかし悠仁に向けた表情は、答えを示しているように見えた。それが余計に悠仁の不安を駆り立てる。
「じゃあ。俺が今まで見てきたものは?ルシファーやベリアルは、本当はいないのか?」
「そうだな。元々、天使は人間の目には見えないし。幻なのかもな」
「幻……?な、何言ってんだよ。だって、地獄にもいるってさっき……」
「ユージンは、夢を見ていたんだ」
「夢……?」
「そうだ。全てが、現実のように見せかけた夢だったんだ。だから、もう夢から覚めなければならない。そうしたら、何でもない、いつも通りの日常に戻るんだ」
ミカエルは悠仁に近付くと、彼の頭を包むように両手を添えた。その次の瞬間から、シャボン玉が空へ飛んでパチンと割れるように、天界に関する悠仁の記憶が、新しいものから一つずつ消えていく。
「……やだよ。やっぱり、忘れたくない。俺が経験したことは全部本物だ。ルシファーも、ベリアルも、みんなここにいた」
恐れた悠仁は、無意識に空中に手を伸ばした。
「ここにみんながいた。みんないたんだ!」
「ユージン。もう夜が明けている。太陽が昇っている。もうすぐ目覚ましが鳴って、お前は大学に行くんだ。失った夢、ちゃんと見つけてくれよ」
「やめてくれミカエル。辛かったけど、それだけじゃなかったから」
消えていくシャボン玉を、掴もうとしていた。
「そうだ。約束していた謎解きイベントは、他の友達を誘ってくれ。本当は、少しだけ行ってみたかったけど」
「俺は大丈夫だから。望まない未来だとしても、一人だけ逃げたいとか思わないから。だから……!」
次々と、シャボン玉は消えていく。
「ユージン。お前が忘れてしまっても、オレたちは忘れない」
「忘れたくない!」
「お前のこれからの人生が、豊かで幸福に満ちていることを、願っている」
「待ってくれ……!」
最後に残ったのは、真人との記憶。
「さあ。目覚めの時だ、ユージン。一緒にいて楽しかったよ」
「まさとさ……」
「さようなら」
シャボン玉は全部、弾けて、消えた。




