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重苦に侵された悠仁の表情も心も解きほぐされ、精神的に落ち着いた。その様子を見たルシファーも、重なった不安が解消したことに安堵して、表情から緊張がなくなった。乏しかった陽光もいつの間にか明るさを増して、法定内に差し込んでいた。
もう少し話そうと思ったルシファーは隔たりの柵の扉を越え、悠仁と一緒に座った。
「あの、聞きたかったんですけど。どうして俺に、こんな大事な選択を託したんですか?」
「それは、議会の計画を知った時、この未来は人間が決めなければならないと思ったからだ」
「人間界のことだから、ですか?」
「その理由もあるが、そうするべきだと思ったんだ。変わり始めた今の世界を人間がどう見て、どう感じているのかを知りたかった」
「それなら、俺じゃなくてもよかったじゃないですか」
「そうだな。だが私は、どうしても悠仁に託したかったんだ。きっと君なら、“正しい”選択をしてくれると信じていたから」
「“正しい”選択……」
悠仁は一度、自分の選択を振り返った。けれど、悪を排除しない現下の世界の継続は正しいのかわからない。悪がいる世界は、正しい世界なのか。
「それって、何を基準に“正しい”ことになるんですか?」
ルシファーは明確な答えを持っているんだと思い、悠仁は聞いた。苦しめられた重苦はもうすぐ忘れられるが、この先の世界に希望があることを確かめて安心してから忘れたかった。しかしそこにあるのは、今はほのかな明かりしか灯せない光だった。
「正直、それはわからない。だが、何を“正しい”と決めるのは、これからの世界を生きる人間だ。今の世界を認め、受け入れることが正しいのか。作られた平和を正しいと思い込んで生きるのか。もしも、亀裂が生じた世界で生き続ける覚悟を持てたのなら、それは正しさと同時に得た強さだと思う」
「強さ?」
「さっき言っただろう。誰も死にたくないし、誰も殺したくはない筈だって。その思いが全ての人間に今も生きているなら、現状をものともしないだろう。幾度もの戦争を乗り越えた者たちの遺伝子を受け継いでいるんだ。受け入れ、立ち向かうことができたなら、いずれ亀裂を埋め、まっさらにしてしまうこともできる」
「必ずしも、悪化の一途を辿る訳じゃないってことですね」
「だが、すぐに全てが元通りになる訳じゃない。拗れてしまえば、それだけ時間はかかる」
それは半年か、一年か。それとも、もっと時間が必要になるのか。亀裂の深さを測ってみなければわからない。深さを目測できない悠仁は、希望と不安を半分ずつ両手に握る。ところが平等に分けている筈なのに、意地悪にも不安の方が重かった。
「ルシファーは、議会の計画を止めようとしたじゃないですか。それに迷いはなかったんですか?」
「迷い?」
「ずっと人間界にいて、人間の色んな面を見てきたと思います。いい面もたくさん見たと思うけど、同じくらい邪悪な面も目の当たりにして、人間を嫌いになったり見放したくなったりしなかったんですか?」
「それなんだけど……私も最初、見たくない面を目の当たりにしたら嫌いになるんだと思ってた。嫌悪して、アブディエルのように見下して、独立したことを後悔すると思った。正直、嫌いになりそうだった。でも結局、嫌いになれなかった」
「どうして?」
「だって、一生懸命だから。働くことにも、遊ぶことにも、誰かを思ったりすることにも、大切な人を愛することにも。生きることに一生懸命に見えたから、嫌いにはなれなかった」
表面的に観察するのではなく、フィルターを取り除いて心の奥深くの深層まで見つめ感じた、一生懸命さ。それは命あるもの全てに共通する、生きることへの無意識な直向きさの表れのようにルシファーには見えた。
「悠仁は?」
「え?」
「悠仁は、人間が好きか?信用できる?」
「俺は………」
命を守ってくれる法律があるから、平和な世界の中で安心して日々を過ごしてきた。だから、家族や友達、バイト先の人、時々行くお店の人や、信号で隣に立つ人、街でただ擦れ違うだけの意識しない知らない誰かを、明日の敵だと思うことはなかった。
「……わかりません。わからなくなりました」
けれど今は、自分の周りにいる誰かが、明日の敵になるかもしれない。見えない何かの囁きで、突如、悪が生まれるかもしれない。僅かな可能性でも、大きな脅威となるかもしれない。
「そっか。そうだよな」
それを考えると恐ろしい。でも悠仁は、そんな対象として他人を見たくはない。嫌いになりたくないし、信じていたい。
「ルシファーは、人間の一生懸命なところ以外に、肯定できることってありますか?」
「肯定できることか……」
ルシファーは腕を組む。すぐに答えられるのだが、明答するのを少し躊躇した。
「……多分、悠仁が人間の嫌な部分だと思ってるところかな」
「それって……無関係な人を傷付けたり敵を攻撃したりすること、ですか」
まさかの答えが返ってきて、悠仁はルシファーを差別的に見てしまいそうになる。自分の味方ではなかったのかと、幻滅する寸前だった。
「肯定とは少しニュアンスが違うけどな。でもそういうところも、人間的だと思うんだ」
悠仁がその答えを厭わしく思っているのは、ルシファーにもわかる。だから自分の考えを押し付けるのではなく、悠仁がいつも見ている景色を違う方向から見た印象を話した。
「人間はよく対立するけど、それはきっと、進化を望む向上心を育て続けているからじゃないかと思うんだ」
「向上心が、対立する原因てことですか?」
「原始を捨て、よりよい社会を築こうと、仲間の為に、家族の為に、民の為に、自国の未来の為に。数々の失敗を繰り返しながら、良い意味での欲望を求めたが故の対立と衝突なんじゃないかな」
「そんな前向きな捉え方ってあるんですか」
「だからこれは、ただの個人的見解。元天使の戯言だと思ってくれていいよ」
「じゃあ、話半分に聞いておきます」
悠仁は厭う気持ちを残し、自宅のリビングで話していた時のように少しリラックスしながら、半分だけ傾聴した。
「個々に貫きたい強い思いがあるのは、誇りに思っていいことだと思う。だから、異なる理想を持つのは否定することじゃない。理想も大切なものだからね。私も昔は、自分が抱いた理想を大切にしていた。アブディエルも、自分の理想を大切にしていた。でもお互いに自分の理想を守ろうとした所為で、擦れ違ってしまった」
「ルシファーは、そのことを後悔してるんですね」
「後悔している。だいぶ。気付くにはあまりにも遅過ぎたから」
「間違いに気付かないって、誰にでもありますよ。きっと何回もある」
「大切なものを守る為に、意固地になっていたのかもな」
「大切なものを傷付けられないように、守ろうとしたんですよ。これまでの人間と同じように」
「……そうだな。自分の大切なものの為に戦っていたのかもな……」
そう。ルシファーは戦っていた。アブディエルが寵愛する彼の理想と。しかし、擦れ違う理想と理想を結ぼうとしても絡み付き、やがて自身の義務と理想に齟齬が生じた。だがその絡まりと齟齬は、なるべくしてなったのだ。ルシファーもまた、自身の理想を寵愛していたからだ。
「私とアブディエルは、大切なものの守り方がわかっていなかったから、道を分かたれた。だから悠仁も、そういう場面になったら大いに対立してくれ、という訳じゃない。大切なものの守り方は、それぞれだ。ただ、何も知らないと対立という結果になる。そうならないように、自分の大切なものだけを守ろうとしないでほしい」
「俺は本気の喧嘩とか苦手だし、多分、大丈夫ですよ」
「でも天界にいた時は、ベリアルとちょっと仲悪かったよな」
「あれはベリアルが悪いんじゃないですか。あとから来た俺を邪魔者扱いして、わざと嫌な言い方するから。再会した時も相変わらず可愛げなかったし」
「会ったのか」
「はい。ミカエルと一緒に、俺の護衛をしてくれました。最後はちょっと、後味悪い別れになっちゃいましたけど」
「また嫌なこと言われたのか?」
「……喧嘩しました。あんな口喧嘩、人生で初めてだったと思います」
二人が喧嘩をしたと聞いて、ルシファーはいささか意外そうな表情をした。
「……あいつは、何だかんだ言いながら俺を守ってくれて、言い方はきついけど真っ直ぐな気持ちをぶつけてくれた。悔しいけど、いいやつの印象の方が強くなっちゃいました」
「そうか」
私の他に、心を開ける相手だったのかもな……。
悠仁の話を聞いて、二人が同じ世界で生きられたらよかったのにと、ルシファーは思った。
ベリアルとのことを話した悠仁は、ふと何かに気付いた。立ち止まっていた場所から何処へ行けばいいのか、わかりそうだった。
「……そっか。ルシファーの言う通り、対立することはそんなに悪くないのかも」
最初の印象がどんなでも、お互いに取り繕ったり忖度したりしないで素直な気持ちを曝け出せば、喧嘩になったとしても結果いい方向にいくこともある。だから対立は恐れることじゃない。相手は自分じゃないんだから、対立は当たり前なんだ。寧ろ対立しなきゃ、相手のことがわからないことが多いのかもしれない……。
悠仁が迷い込んだ樹海に、一筋の光が射した。特別な能力が君たちにはあるじゃないかと。その能力で未来への舵取りができるじゃないか。万事上手く進むとは限らないが、何処かで同じ理想を見つけられればあとは風が運んでくれるよ、と。
しかし、運命だけは操れない。待ち受けている姿を想像するしかない。悠仁は、これから訪れるかもしれない未来を知らないから恐れた。過去の出来事を連想して恐れた。しかしそれは、一つの未来しか見ていないからだ。もう一つの未来を見据えれば恐れは消え、希望を目指して歩み出せる。
道に迷ったのも同じことだ。役目を終えたあとの未来を、想像できなかったからだ。それも一つの道しか見えていなかっただけで、脇の草木を掻き分ければ違う道を見つけ出せるのだ。




