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サンダルフォンは、メタトロンのように引き摺りはしなかった。顔を覆った手を退かすと、メルキゼデクに助け舟を求めた。
「……ねえ。メルキゼデク。わたしたちがこれからもここで生きるには、どうしたらいいかな」
「私のように人間を見下してみては。気持ちがいいですよ?」
「それはちょっと……」
「嫌ですか?では、そうですね……既成概念を取り払ってしまえばよいのでは?」
「既成概念を、取り払う?」
「貴方たちの中に、“寿命”という既成概念が生きているんでしょう。だから死を望んでしまうんですよ。それをなくしてしまえばいいんです」
「なくせばいいって……そんな簡単に言うけど無理だよ。寿命があるのが当たり前だったんだから」
「では。これは飽くまでも私の持論ですので、何となく聞いて下さい」
メルキゼデクが立ち上がると、何となくではなく心して耳を傾けようと、サンダルフォンは正座をした。元司教で国王は、演説するように饒舌に話し始めた。
「命とは、自然の摂理とは異なった次元のものです。もしも同じような世界が並行して存在していたとしたら、その世界では命の既成概念が覆されていると私は考えます。命とは本来、自分にも、他人にも、誰にも操れない、自分の中に存在するもう一つの世界。そして、もう一つの自分の意志。故に、命が外界の身体との接続の切断、つまり、肉体の終わりと継続を選べるのです。
命には意志がある。そして、外界と己の意志を繋いでいる。その繋がりが、私たちの人生と寿命となっています。その命が紡いだ糸が丈夫なら人生は長く続きますし、ほつれた糸なら人生はぷっつん。つまり死です。私たちの命が紡いだのは、錆びない鋼でできた極太のワイヤーだったんですよ。だからこんなに永く生きている。そう考えたら私たちは、優れた命の持ち主なのですよ。これまで生まれ死んでいった人間の、誰よりもね」
真面目に正座で聞いていたサンダルフォンだったが、思っていた斜め上を行く内容にぽかんとして目をぱちくりさせた。
「前半の話はよくわからなかったんだけど……つまり、わたしたちがここにいるのは間違いじゃない、ってことでいいのかな?」
「そう言うことです。私たちの中の世界がくれた、贈り物なのですよ」
メルキゼデクは、一層口角を上げて頷いた。また昔のクセが出ていた。メルキゼデクはその自覚がないまま、話を続ける。
「それに、今の人間界を見てご覧なさい。私たちが追い付けない程の進化を遂げているではないですか。こんな面白い発展をするなんて、あの頃は夢にも思いませんでしたよ。もしも人間として生きていたら、こんな光景は絶対に見られませんでした。そんな世界、見応えしかないと思いませんか?」
「……そうだね。知らないものが多くて、見ているだけでも楽しいかもしれない」
「でしょう?なら、先人として見届けてあげようじゃありませんか。禁断の果実と、グリゴリの知恵を得て数千年。これからも更なる発展を遂げるのか。それとも、塵に積もった原罪の代償で実を腐らせていくのか」
メルキゼデクは、微笑を浮かべて言った。常に浮かべている何を考えているのか伺い知れないものではなく、侮蔑を覗かせた微笑みで。
「……ねぇ。世界は、昔に戻ってしまうのかな。また、争いばかりの世界になってしまうのかな」
「さぁ、どうでしょう。人間は平和を愛していますが、争いも好きな生来の浮気性ですからね。これで眠っていた種が再び芽吹いたのなら、それもまた人類史の必然なのかもしれません。他人を傷付けるのは、もはや不治の病でしょうね」
我感せずなメルキゼデクは、とうに縁が切れた場所だから関係ないと完全に他人事にしている。反してサンダルフォンは、瞳を下げ何かを思案する。
今までずっと、過去に縛られていた。自分で縛り付けていた。その所為で、後悔やら憂慮やら罪悪感やらで負担をかけ過ぎて、心はだいぶ疲れていた。しかも全てを悟ったおかげで、何もかもを投げ出してしまいたいような気分だった。それなら思い切って、今の職務を辞めようと思った。辞めて、新たな一歩を踏み出すべきだと。ずっと示され、直視していなかった道を、真っ直ぐに見据える時だと。
変わる。存在も意識も天使として半端者だった自分を変える。違う自分になる。未練や後悔を断ち切り、これからも天界で生きる為に根を張ろう。そして、天使の本分を果たす自分に誇りを持つようになる頃には、何の障害もなく人間界とも向き合えているだろう。
サンダルフォンは立ち上がった。
「……メルキゼデク。わたしも議会に入りたい」
「おや。貴方からそんな言葉が聞けるとは、少々意外ですね」
「意外、かな」
「確か以前は、議員候補でしたよね。私が横入りしてしまった所為で加入の予定が保留となり、結局は白紙になったと聞きましたが。どうして今になって」
「本音を言えば議会なんて興味ないし、議員なんて向かないだろうって思ってた。今でも思ってるけど。でも人間界が……故郷が岐路にあるのなら、進む道を間違わないように何かできないかと思うんだ。多分わたしも、岐路に差しかかったんだ」
この選択は、メタトロンの暴走を止められなかった罪悪感を消す為の償いでもあると、自覚している。ただの自己満足かもしれないし、故郷と繋がっている実感がほしいのかもしれない。半端者には「統御議会議員」の肩書きは重いだろう。けれど、利己的な力を利他的な力に変え、背負った全てを糧に人間界と人間の未来を考えようと決意した。
「いいのですか。今回の件の後始末で、統御議会はこれからバタバタですよ?」
「そうだよね。それに、私にも処罰があるだろうし。だから今すぐじゃなくても、そのうちでいいから議会側とその話をしたい。メルキゼデクから、そのことを伝えてくれないかな」
「わかりました。いいでしょう。話を通しておくくらいはできますので、私からサンダルフォンの意志を議長に伝えておきましょう」
「ありがとう、メルキゼデク」
この永遠の時間の流れの中で、精魂尽きるまで責務を全うする。罪過の色が、生まれたての命の色になるまで。
「さて。私たちも帰りますか」
メルキゼデクは歩き出した。それを見たサンダルフォンも帰ろうとしたが、そのまま行くことはできなかった。放っておいたら、ずっと硬い石に座りっぱなしになって石と同化してしまいそうな友に、一言声をかける。
「メタトロンは、これからどうするの?」
「……私は……」
精神的ダメージでキャラクターがすっかり陰鬱化してしまったメタトロンは、蚊が鳴くような声で一人称だけ呟いてまた沈黙した。サンダルフォンは顔すら上げない友に対し、今度はこう問いかけた。
「……ねえ。メタトロンはさ、人間界のこと本当はどうしたかったの?人間が憎いなら、神と同化させたままにすればいいじゃない。どうして復活させてもいいと思ったの?」
「行かないのですか。私は先に降りますよ」
陰鬱が移ってしまいそうだと思ったメルキゼデクは、一足先にエレベーターで降りて行ってしまう。迷うサンダルフォンは、メタトロンを一人にしてあげることにした。
メタトロンは、鬱々となりながら思い出し、考えていた。人間だった時のこと。天界に来られた時のこと。幸福だと感じていた時のこと。辛いと感じた時のこと。憎いと感じた時のこと。楽になりたいと思った時のことを……。
命は自分と繋がっている。人生は命と繋がっている。けれど、自分は誰とも繋がっていない。
命は世界。自分の中の世界。自分と自分の命は繋がっている。なら、自分と人間界は繋がっているのか……?
人間界は、生まれた世界。生きた世界。大切な人がいた世界。
もう、誰もいなくなった世界。何もない世界……。
……本当に……?
本当は、何もなくなっていない。生きた記憶がある。忘れられない記憶がある。記憶が残る世界。自分と繋がっている世界。唯一繋がっていたい世界。
自分が、自分でいられた世界。
今は……自分はここにいるのだろうか………。
───……ねえ。メタトロンはさ、人間界のこと本当はどうしたかったの?
本当は………。
物思いに耽けていたメタトロンは、顔を上げた。そして、揺れるオーロラのカーテンに───その向こう側に意識を向けた。
「───……」
ふと、メタトロンの目の前を一羽の蝶がひらひらと横切った。蝶は不安定な羽ばたきで横切り、川の向こうへ飛んで行った。
追った視線の先に、一人立っていた。どんな時も心まで寄り添ってくれていた友が、これからの道を一緒に歩み出そうと待ってくれていた。




