第百四十四話 学園への撤退
悪いこととは続くものである。
地上でダンジョンのボスと数十人の犠牲者が出るまで戦ったのだ。戦いに参加しなかった人間にも影響を与えずにはいられない。
「私たちは学園に帰ることにしたから」
あっさりとアーステラは俺たちにいった。
部下たちもうなずいている。研究室全員の合意のようだ。
「……学園に帰る? 何の成果もなしに?」
俺は思わず聞き返していた。
信じられない。
まだアーステラは本当に何もしていない。
ここで帰ったら、ダンジョンに観光旅行に来ただけだ。
いや、観光ですらない。ほとんど外にも出ていないからだ。派手に金をばらまいただけだ。
「あなたの研究が生きるのは、むしろこれからでは?」
そう。アーステラの研究。
ダンジョンの構造の研究は今こそ使えるのではないか。
現状俺たちはダンジョンに一歩も入れない。敵に操られる可能性があるからだ。
アーステラの研究を用いれば、ダンジョンに入らずとも中の様子を探れるようになるかもしれない。
少なくとも他のダンジョンとの違いをみつけられる。そうすれば、ダンジョンのボスを倒す糸口を発見できる可能性があるのだ。
もちろんアーステラは冒険者ではない。学園の教授である。
それでもここで手柄を立てれば、冒険者ギルドに貸しが作れる。学園の方が組織として大きいとはいえ貸しが作れるのは大きい。
学園内での評価も上がるはずだ。
それなのに……学園へ帰る?
「だって、死にたくないもの」
アーステラは震えながら答えた。
その言葉に……俺は何も言葉を返せない。
これから先、死ぬ可能性は大いにある。
「怖いじゃないの! ダンジョンのボスが出てきたんでしょ? 私たちは研究者だから戦えない。命は大事よ。あなたも学校で習ったでしょ!?」
気づかされた。
俺の思考はあくまで冒険者側の正論である。
アーステラにはアーステラの正論があるということを。
自分を守り、部下を守るためにはここで引くのも、間違ってはいない。
何も得られないが、これ以上何も失わない。
大金をばらまいたのもアーステラにとってはそれほど痛くはない。大貴族であり、生まれながらにして大金持ちであるからこそ取れる選択だ。
「で、でも! これからたくさんの人が死ぬかもしれないんですよ!? それを放置したまま帰ってしまうだなんて!」
「よせ、ソフィーナ。アーステラは間違ってはいない」
文句をいいたくなる気持ちもわかる。
だが、他人の言葉でアーステラが意思を変えるとは思えない。
もしこれから俺たちが全滅するようなことがあれば、アーステラの選択は正しくなる。
臆病さは短所ではない。特に臆病さこそが生き延びるための武器になるのだ。
そもそも……だ。
逃げ出そうとする人間を引き留めても戦力にはなるはずもない。
今回は集団戦。心を一つにしなければならない。心が折れた人間はどれだけ貴重な技術を持とうとも、仲間にはなれない。
俺は大きく息を吐く。
様々な思いを飲み込んだ。アーステラを引き留めることは不可能だ。
俺は学園の後ろ盾を失った。
ここからは俺個人の能力と発想で名もなき科学者と戦うしかない。
「だが、このまま帰ったら学園内での評価が下がるのでは?」
「うっ……」
この場は命が助かるとしても、学園も甘い場所ではない。
何も得るものがなく帰れば、厳しく追及されるに違いない。下手すれば権力争いに巻き込まれる可能性すらある。あそこは貴族の権力も大金も通用しない場所だ。
アーステラを引き留めることは不可能だが、俺たちは自分の行動だけは選択できる。
名もなき科学者を倒すまでは絶対に引き下がれない。他人に理解されずともかまわない。選択が間違っていてもかまわない。
これは冒険者としての誇りの問題なのだ。
「だから俺たちだけはダンジョンに残らせていただく。この事件の結果を報告すれば、最低限の格好はつくでしょう。」
「……いいの? 死ぬかもしれないのよ?」
「死ぬことよりも大切なことがあるのですよ。ここで引き下がったら、一生後悔するに違いありません」
アーステラは信じられない表情で俺の目をみている。
絶対の価値観の違いがあった。良い悪いではない。ただ、違うだけだ。
やがてアーステラはぽろぽろと涙をこぼした。
……え?
なぜ泣く?
「私たちのためなのね。私たちのために身を犠牲にしようとしているのね。ありがとう。恩は一生忘れないわ」
違うのだが。
俺は俺のために戦おうとしているにすぎない。
なんだが怒りや悔しさを通り越して、笑えてきた。臆病者だがどこか憎めないところがある。アーステラは決して悪人ではない。
育ちから考え方まで何もかも違うだけだ。
考え方が根本的に違っているだけ。
この世界にこれほど合わない人間が存在するとは思わなかった。
30年近く生きていても、まだ新しい発見がある。人生とはまったく面白いものだ。
アーステラは俺たちの前から去ることになった。
何もしないままに。
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