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地獄のような夏休みも明け、俺の成績は順調に伸びていった。全体の偏差値四十三。そして勉強の仕方も大分分かってきた冬の初め、俺は模試を受けた。いつも以上に手応えを感じて、意気揚々として家に帰り、その日、由香に何かしらの科目は偏差値五十に届くかもしれないと告げた。由香はその時、あまり俺に今の時期は大きな期待はするなと釘をさしてきた。この時の俺にはなんのことやらわからない。後々知る事になるのだが、この時期は所謂天才や秀才がこぞって模試を受け始める時期だという。その分成績も上がらないことが多いんだとか。
そんなことをこれっぽっちも知らなかった俺は釘を刺されたにも関わらず、模試の成績返却日を今か今かと待ち望んだ。そしてそれが今日だった。
そうそれは俺にとって初めての怒りに近い、悲しみを感じた日になったんだ。
「成績が……落ちてる」
学校で返却されたそれを見て、俺は絶望を感じた。
なんでだ。あんなに勉強したのに。なんで落ちてるんだ。意味がわからない。いくらなんでもこの仕打ちは酷過ぎる。
わなわなと震えてくる手を必死に抑えようとしたが、どうにも止まらなかった。これが現実なのかと、どうにも現状を受け入れられずにいた。
勉強の意味ってなんだったんだ。
俺はこの日初めて、由香にこう連絡を入れた。
『成績が下がってた。今日は勉強する気になれない。来ないでくれ』
この気分が一日だけで済んだなら良かったんだが、どうにもそうではなかった。俺はそれから一週間余り、全てのやる気を失ったんだ。
さすがに休んで一週間くらいになると、由香が俺の家を訪れてきた。何度かチャイムを鳴らされ、やっとのことでインターホンに出ると、彼女の声が届く。
『おい、扉を開けろ』
「帰ってくれ」
そうして追い返すこと数回。今度は扉を叩き、そして玄関の外で何か叫んでいた。
俺はしぶしぶ玄関先に行き、扉越しに由香に物を言う。
「帰れと言っただろう!」
「開けろ。たった一度の失敗で挫折するんじゃねえ」
そんなこと言われたって……。
勉強なんて無意味なんだ。
馬鹿な俺がいくら頑張った所で、頭のいい奴らの足元にも及ばない。そんなのわかりきっていたはずだ。なのに俺ときたら妙に期待なんかしちまってた。アホだ。
何も返事をせずにいると、もう一度扉を叩く音が聞こえてくる。
「とにかく開けろ。話しはそれからだ」
「うるせえ、うるせえ! この役立たず家庭教師が!」
それだけ言うと、シンとした。そしてしばらく沈黙が続いたかと思うと、ガンっと扉を蹴られた音がし、カツカツと足音が離れていく――
俺は、部屋に戻りベッドに横になった。
知らねえ。もう何もかも。どうでもいい。
それ以降、家庭教師が訪問してくることも連絡してくることもなかった。俺は惰性で勉強を続けたが、その年、俺が大学に受かる事はなかった――
俺は高校を卒業した。親友裕也は見事に第一志望に合格。大学生活が始まればきっとあいつとも連絡が取れなくなるんだろう。そう。俺はこれから一年ぼっちなんだ。
金は、使ってなかったので貯まる一方だった。金の使い方まで忘れてしまったようだ。
俺はこれからどうしたらいいんだ。
最後に受けた偏差値は、五十止まり。それから伸びる気配もなかった。
金があっても、偏差値がなければどこにもいけない。俺は一生このままなのだろうか。
初めての大学受験が終わり、俺は何もせず、ただ横になるだけの生活を二ヶ月続けた。そろそろ四月になろうとしている。
「俺はこのまま腐っちまうのかなあ……」
狭い部屋でぼそりと呟いてみるも、当然誰からも返事はない。
俺は寝返りをうつと、スマホをなんとなしに覗いた。
誰からも連絡はない。誰にも連絡を取ってないんだ。来るはずもなかった。
連絡先をスクロールしてみる。と、随分と下の方に、由香の名前が出てきた。最後に送ったのはもう何ヵ月も前だ。
俺はこのまま腐っていく未来と、そうでない未来、両方を頭に描いた。その分岐点が今である気がしている。
送るべきか……。
俺は目をつむる。追い返したのは俺だ。しかも役立たずとまで言ってしまったんだ。また戻って来てくれるなんて甘いのだろうか。
他の家庭教師を頼むか……?
そう頭を過ぎるも、他の奴でこんな俺のことを面倒見切れる奴がいるとは到底思えない。由香はそういう意味ではかなり面倒見がいい奴だった。頭が良いだけじゃない。出来ない奴の言い分もちゃんと分かっていた。
俺は息を飲んで、一言送ってみた。
『こんにちは』
もうこれで返事がなければ、色々諦めよう。そう思った。大学受験も、俺の後継ぎ計画も、贅沢三昧な日々も。所詮俺みたいな奴にはできすぎた未来だったと、そう思うことにしよう。そんなことを考えながら、しばらくそわそわと返事を待っていた。何度見ても返事は来ない。終わったかな、俺の人生。目をつむり時間の経過だけを感じる。そうこうしているうちに、いつの間にか眠りに入っていた――
俺は夢を見た。部屋は真っ白で、あるのは机とパソコンだけ。誰かがパソコンに向かって、何やら独り言を発している。よく見ると、俺自身だった。髭を伸ばし、髪もぼさぼさで、不潔極まりない中年の俺だ。テーブルの上には食べかけのカップラーメン。
そうか、俺は腐ってしまったんだ。もう一年、がむしゃらに受験を頑張っていたら、俺の人生は変わったのだろうか。あの時、由香を追い返してなければ……。今更後悔しても仕方なかった。
それにしても、俺はなぜ転落したんだ。世の中金だと思っていたのに。金なら充分あった。なかったのは、そうだ、俺の頭だ。俺が馬鹿だったばかりにこうなったんだ。
なんでお前は勉強しなかったんだ。
俺は俺自身に問い詰めた。返事はなかった。相変わらず、パソコンに向かって何か呟いている。
嫌だよ。こんな。
俺は俺自身を見ながら、頭を抱えてしゃがみこんだ。
こんなことになるなら……俺は諦めなかったのに――
チャイムが鳴る音がして俺は目が覚めた。今、何か凄く嫌な夢を見ていた気がする。
時計を見ると、午後六時を指していた。一時間程寝ていたようだ。
ぼんやりとしているうちにまたインターホンが鳴り響く。重くだるい体をひきずって、俺は玄関へと向かった。
「はい、今開けますよ」
俺はそう言って鍵をあけた。その瞬間に、扉が自然と開いた。
え? と思い顔を上げると、そこにはあの姿が。
「その顔寝ていただろう」
「え? え?」
「その様子じゃ返事も見てないな」
懐かしいジャージ姿に、眼鏡女子。これは、見間違えることなんてない。そう、由香だ。
「あれ、なんで……」
俺はふと手に持っていたスマホを見てみる。
『やっと連絡よこしたか。今からお前の家に向かう』
そう返事が来ていた。俺が寝落ちしてからすぐくらいの時間だ。
なんで、と言葉が出てこなかった。
もう返事なんて来ないものだと勝手に思っていたから。
由香はそんな俺の横をすり抜け、家の中へと入っていく。まだぼんやりとしている俺の腕を掴むと、勉強部屋へと連れて行かれた。
「お前の最後の模試の成績を見せろ」
「え? あ、はい」
由香は机の前の椅子に座ると、俺の差し出した成績に目を通す。
その横で未だ混乱している俺はゆるりゆるりと覚醒に向かっていた。
「あの……由香……先生」
「由香でいい。なんだ」
「また勉強教えてくれるのか?」
「そのつもりだ。それ以外に何の用がある」
邪魔するなと言わんばかりに彼女は俺を睨みつけてきた。
まさか、本当に戻ってきてくれたのか。あんな酷いこと言ったのに。
模試を見終わると、由香は俺に向き直ってこう口を開いた。
「私がいなくてもそこそこ頑張ったようだな。よくやったよ。この成績なら春先の模試なら偏差値五十前半はいってるな」
この時、由香が初めて普通に笑った。もしかして、ずっと気にかけてくれてたのか。
そう思うと、俺は抑え込んでいたものが溢れてくるように感じた。
まだ、諦めなくてもいいのか? 俺には未来があるのか? 一人じゃないのか?
「おい、何泣いてんだ」
「な、泣いてるわけじゃない。あくびだ!」
俺は溢れてきたものを腕で拭い、大きくあくびを一つしてみた。どう考えても演技だが、そうやるしか俺にはできなかった。
何度も何度も大口を開ける真似をした。しかし、それも空しく、しまいにはとめどもなく溢れてきやがったので、俺はもう演技を諦めた。
「あーあ。ったく、泣くなよこんなことで」
由香が、戸惑っているのがよくわかった。俺だって止められるものなら止めたい。だけどそれも難しい。声を出さないで泣くだけでも精一杯なんだ。
「由香、あのさ……」
涙を拭って、俺はやっと口を開く。
今言わないといけないと、そう思った。
「役立たずなんて言っちまって本当に悪かった。戻ってきてくれてありがとう」
一瞬由香がきょとんとしていたのがわかった。しかしそれも一瞬の事で、彼女はまた不敵な笑みを見せる。
「そんなことか。気にすんな。私だって途中で来なくて悪かったな」
由香が俺の頭に手を乗せて、ぽんぽんと撫でてくるのがわかった。恥ずかしいからやめろよ、と振りはらうと、今度は彼女はけらけらと笑いだす。
「さ、泣くのは受かってからでも遅くない。やるぞ」
そう言って彼女は机をぽんっと叩いてみせた。
俺もそれに頷く。
そうだ。頑張ろう。まだ終わってないんだ。
俺は自分の顔をぱちりと一回叩く。
「よろしくお願いします。由香先生」
――それから一年の間。
由香の大学が忙しくなり、週に四回ほどに訪問日は減った。だけど出された宿題も言われた通りこなし、自分のわからないところがどこか、はっきりと言えるようにもなっていた。勉強自体はもう苦痛ではなくなっていたし、勉強の効率もかなり上がっていた。
じわじわとだが、成績も伸びていく。そしてついにその時が訪れたのだ。
全体偏差値五十八。英語六十一。
はじめて六十台を見た瞬間だった。秋口のことだ。
この時から勢いがついた俺の成績はうなぎ登り。一年前では考えられないくらいに、問題が手に取るようにわかるようになっていた。
そして迎えた本命当日。
大学の校舎前で由香は俺の背中をぱしりと叩いた。
「お前はよくやった。よくついてきた。あとは自分を出しきれ。これが最後だ」
この時既に四つ受けた中で合格は三つ獲得していた。心に余裕もある。それに自信もあった。
「おう、任せろ!」
それだけ言うと俺は由香に背を向けた。
『結果? ふん、そんなもん聞くんじゃねえ。野暮だろ。この俺様が失敗するとでも?』
「何格好つけてんだよ」
「あ、ちょっと覗くな」
俺は書き終えたワードを急いで閉じる。嫁が隣で覗きこんできたからだ。
「誰もお前の自伝なんか読まねえよ」
「いや、読んでくれる奴がいるかもしれないだろ」
読んでほしいならもっと本を読め、そういって嫁は俺を小突いた。その後ろを子供がハイハイして追いかけている。
俺の実家の大きすぎる家に不満を持った嫁が、マンションを借りた。居心地はそう悪くない。まあ子供が増えたら実家に戻るかな。それでもいいだろう。
おっと、このことはまた別の話だったな。失礼。それではまたの機会にでも――