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「よう、たつみ。また今日も家庭教師か?」
学校の帰り際、親友の裕也が、俺の肩をばんと叩いた。
俺は裕也を睨みつけるも、怒る元気もなく深い深いため息を吐く。
そう、あれから毎日。本当に毎日だった。休みの日なんて、朝十時から夜九時までみっちり勉強だ。それが既に五ヶ月経ち、真夏の日差しを感じさせる七月になっていた。しかも明日からはついに夏休みだ。いつもなら楽しみな時期なのだが、休みになれば勉強量も増える。元気なんて出るはずもなかった。学校にいる時間だけが唯一の俺のオアシスタイムだったのに。
たまには休みたくて「先生は大学の勉強しなくていいんですか」って聞いたら、「ああ、私はお前といない時間は自分の時間に当ててるから問題ない」なんて模範解答が返ってくるんだもんな。もう何も言えない。
その代わり、と言っちゃあれだが、既に小学校レベルは卒業。今は中学三年レベルを勉強している。近々高校範囲になるだろう。予定よりやや早い事に当の由香も驚いていたが、正直一番驚いているのは俺自身だった。
学校の数学や英語も……まあ、まだわからないことだらけだが、以前よりは少し聞く気にはなっていると思う。
「俺も頑張らなきゃなあ」
そういう裕也は優等生組だ。なんでこいつと仲良くなったのか自分でも不思議なくらいだ。俺の成績と比べれば天と地くらい差がある。それ以上頑張ってどうすんだよ、本当。
「あ、そういや、センター模試どうだったよ」
思い出したように裕也は手を叩く。
センター模試か。先日学校で受けたばかりだった。五ヶ月前は全く解けなかったが、かろうじて手を出せる所が増えた、と言ったところか。
「全体の偏差値は三十五」
これでも頑張った方だ。きっと以前の俺なら偏差値二十台ばかりだっただろうに。
「そっか。前かなり悪かったもんな。頑張ってんな」
「裕也はいくつだったんだ?」
「俺は五十九だったかな」
もうここまで差がついてると何も感じなくなる不思議だ。素直に尊敬してしまう。
「すげえなあ。俺が裕也だったらすぐに家に戻れるのにな」
俺がそう言ってると裕也は苦笑する。
「親が医者ってことは、継ぐには俺が医者にならないといけないってことだからな。医者の道選ばなくてもどっちみち、いい大学入らないと就職できないんだ」
そう裕也の家は医者家系だ。裕也自身は医学部には入るつもりはないらしいが、そうなると自分で仕事先を見つけないとならない。同じ金持ちとは言え、俺とは環境が違うようだ。
しばらくして裕也と別れると俺は重い足取りで家へと向かう。そう、今日もこれから勉強だ。
家に戻り、時計を眺めた。今日は夏休み前で早く終わったおかげで、始まる時間までまだ三時間くらいはありそうだ。久しぶりに時間ができた。さてどうしようか。
「ゲームか、寝るか、それが問題だな」
そんなことを呟きおもむろにパソコンを起動させる。そして五か月前までは毎日やっていたゲームを立ち上げた。
が、しかし、この時違和感を覚えた。
――全然やりたいと思わない。
いざゲームを始めてみても、全くもって楽しさがわからなくなっている。何が起きてんだ?
結局三十分も経たないうちにゲームを閉じる。どうにも落ち着かなくて、今度は横になってみる。やはり落ち着かない。
いつもなら帰宅して三十分もしなうちに由香がやってきていたからか、空いた時間に何をすればいいのかわからなくなっているようだった。
「くそ、マジか」
ベッドに座り、呆然とする。同時に、今すべきことが頭の中をぐるぐると回っている。
ふと、机を見た。
そしてまた呆然とする。
「勉強をしたい?」
そんな馬鹿な。俺は頭がおかしくなったのか? 趣味、勉強だなんて気持ち悪いだけじゃねえか。
そう思うも体は勝手に机に向かっていた。そしてやりかけの数学を開いてみる。そういえば、昨日やったところでよくわからなかったところがあるんだった。
それを思い出すとうずうずが止まらなくなっていた。
おいおい、まさか由香が来るまで俺は勉強する気か。
もう一人の俺がそう囁いているように思えたが、もう遅かった。俺は由香が来るまで、勉強することを選んだのだ。
そうこうしているうちにあっという間に三時間が経っていた。由香のチャイム音で我に返ったくらいだ。今から四時間びっちり勉強だというのに、なんてことしてしまったんだ、俺は。
後悔してもしきれない。由香を部屋に入れてからもなおため息を吐いた。
「どうした?」
「いや、それがよ」
起こった事を話す。由香が途中からにやにやとしているので、気味悪く思いながらも後悔していることを言うと、「何故後悔するんだ?」と尋ねてきた。そんなの聞かなくてもわかるだろうが。
「お前は勉強が楽しくなってきている。それが嫌な事なのか?」
「俺が? 勉強を?」
思わず眉間に皺を寄せる。楽しいなんて思ったことないぞ。苦痛なだけだ。だけどそれは言えない。何せすすんで勉強してしまったんだ。説得力がない。
俺がもんもんとしていると、由香がやりかけの数学を手に取る。そしてしばらくそれに目を通すと、何やら頷いた。
「確か明日から夏休みだよな」
「ああ、そうだけど」
「ちょうどいいタイミングだ。英語と数学以外もはじめてみるか」
は? 思わず俺はすっとんきょうな声をあげる。今なんて言いました? まだ増やすと?
「いやいや、待ってくれ。俺は今のままでもいっぱいいっぱいだ」
「ああ、そうだろうな。だけど英語と数学だけで受験なんてそうそうできないぞ。それにだ。そろそろ高校数学、高校英語に突入する。きりがいい」
それだけ言うと由香は俺が以前渡したマーク模試の結果を引っ張り出して広げてくる。それからトンと、数学と英語の偏差値を指さした。
「この短期間で数学四十、英語三十八。まだ基礎しか教えてないっていうのに本当良くやってるよ。お前にはいったん始めたらやりきる集中力がある。全体の成績が伸びないのは他の科目をやってないからだ。当然の事だ。これからはやる気の維持のためにも他の科目も伸ばしていきたい」
そして、と彼女は一呼吸置いた。
「明日からに備えて今日は理系か文系かそろそろ決めよう。でないと科目も絞れないからな」
それだけ言うと今度は違う冊子を出してくる。なになに? 『大学受験のための理系文系の指針』?
由香はその冊子を開くと、何やら細かい文字がびっしり書いてある表を広げてみせた。
「これは大学の偏差値表だ。学部ごとに偏差値も変わってくるからな。あると便利だ」
由香は偏差値六十ラインを指でなぞると「ここから上がお前が目指す所だ」と大学を示す。その下のラインにはかなりの大学と学部が載っていたが、六十以上となるとその数も随分と減ってくるようにみえた。俺はこんな上位を目指さないといけないのか。改めて、絶望を感じる。ついでにいうと、その表には『理系』と書いてあったので、恐らく文系バージョンもあるのだろう。
「で、どうすんだよ。その理系が文系か決めるのって」
俺はため息をついた。もうここまできたら流れに乗るしかない。
正直自分としてはどっちでもいい。六十以上の大学には入れれば、問題がないんだ。そう思っていた。
「お前は将来何をしたい?」
こんなこと聞かれるまではな。
将来? 突然の事に眉間に皺を寄せる。寄せるなってのが無理な話だ。考えたこともなかったんだからな。
「客観的にいえば、物の考え方、記憶力、トータルでは理系向きだと私は思う」
「じゃあそれでいいじゃねえか」
「だがお前は親の会社を継ぎたいんじゃないのか?」
「まあ、そうだけど……」
「会社を動かすにはそれ相応の知識が必要だ。大企業となれば絶対だ。お前にはその知識がない。そのまま継いでどうなるかお前にもわかるだろ?」
俺はこくりと頷く。まあ確かに、なんの知識もなしに後を継げるとは思えない。
「経営学、経済学、商学……これらを学ぶのは基本的には文系の学部だ。さあ、どうする」
それを言われて思わず言葉を飲み込んだ。どうするって言われてもどうしたらいいんだ。
「いいか。大学受験も、大学での勉強もただの通過点であり手段でしかない。大学に入る事をゴールにだけはするな」
どきりとした。大学に入ったらそれでいいと思っていたからだ。痛いところを突かれた気がした。
しばし悩んだ後、もう一度先程の偏差値表を見てみる。
「なあ、里香。理系ってのは、偏差値六十以上になるとほとんど医療関係なのか?」
「まあ医療系は多いな」
医療系……縁もゆかりもない話だと、裕也と話しながら思っていたが、俺自身が理系だと思うと視野に入れざる得ない。だけど確か医療系ってずっと勉強しなきゃいけねえんだよな……。それを思うと、やはりないな。勉強なんてやってらんねえよ。
そう思い、今度は文系の偏差値表を引っ張りだす。六十以上の欄には色んな学部があって正直面白そうだった。選べる物は多い方がいい。だけど文系って……国語? あんなに活字だらけのやつを読みまくるのか? それも俺には向いてない気がする。英語だけでいっぱいいっぱいだってのに。
俺は二つの偏差値表を見比べながら、ずっと頭をひねっていた。それからふと顔をあげると由香と目があったので、思いきって聞くことにした。
「そういや、由香はどの大学でどの学部なんだ?」
由香は突然の質問にぱちりと目を数回瞬きさせる。
「言ってなかったか?」
「ああ。聞いてない」
「聞いて参考になるようなことないぞ」
由香は苦笑して、それから理系の偏差値表を手に取ると、ここだ、と指をさした。
「なになに……T大学医学部……偏差値七十四?!」
何者?! こいつ!
俺は一瞬引いた。頭はいいとは思っていたが、こんな奴が? いや、ていうか、医学部だったのかよ。忙しいって噂では聞いてるけど、いいのか。毎日バイトなんかしてて。
俺が偏差値表と由香を交互に見ていると、彼女は偏差値表を取り上げ、「私の事はどうでもいいんだよ」と、呟く。
何やらあまり自分の事は触れられたくないらしい。その反応に俺は興味を示してしまった。由香には謎が多すぎる。理系文系を決める事より、こいつの話を聞く方がよっぽど楽しそうだ。
「由香さ、年間契約って言ってたろ。もしかしてだけど相当貰ってんじゃないのか? 学費に困ってるとかか?」
俺はにやにやとして由香を肘で突く。しかし彼女は表情を変えずに、横目で俺を睨んだ。
「それを聞いてどうする」
「いや、まあ興味があってさ」
「……」
彼女は黙ってそれから大きなため息を一つついた。
「ああ、そうだよ。私の家は貧乏なんだ。医学部六年間の学費でさえ苦しい。そんな時にお前の家のバイトを知った。一年間四百万円。合格させれば更に四百万。二年間と合格費合わせれば千二百万だ。充分過ぎる額だ」
淡々と由香は続ける。成果を出さなければ解雇されること、家庭教師のために休学しようか考えていること、そして国公立の医学部に入るために一年間浪人したことも話してくれた。
はあ、こいつもそれなりに悩みやらが多いんだな。そう思うとなんだか親近感が湧いてくる。
「はい、終わり。そろそろお前の話に戻るぞ」
由香は机を数度叩き、話を締めた。俺も満足して、相変わらず偏差値表と向かい合う。
「国公立か、私立かでも大分変わるんだな」
そう俺が言うと、由香もこくりと頷く。だが、その後の言葉が衝撃だった。
「お前は私立を受けた方がいい」
「え?」
国公立の方が響きがカッコ良かったから俺もなんとなく私立ではなく国公立を考えていたんだけど、どうして俺は私立の方がいいんだ?
「理由は二つ。一つ目はお前の家が金に困ってないからだ。親に金があるなら今はそれに甘えろ。働いて返せばいい。それもお前のステータスだ。私の家は金がなかった。だから国公立しか受けられなかった。だがお前は違う。親が出すと言ってくれてる。幸せなことだ、感謝しろ。つまらないプライドにしがみつくんじゃないぞ」
プライド……まあ確かに。カッコいいとかそれだけで国公立志望にしようとしてたんだもんな。プライドと言えばプライドなのか。
由香は続ける。
「二つ目だが、私立の方がセンター試験を受けなくて済む分、勉強する科目をかなり絞る事ができる。お前にとっても良い話しだと思うぞ」
勉強する科目が少なくなる、これはいいことを聞いた。そこまで頭が回ってなかったからな。
それだけ聞いて俺もすんなり納得すると「じゃあ俺私立でいいや」と返事をした。
あとは理系か文系か決めるだけなのだが、さて困ったな。
「なーやっぱり文系は国語やらねえとダメか」
「そうだな。必須なところが多い」
「国語やりたくねえよ……」
横で愚痴愚痴と文句を垂らす俺を、由香は黙って見ている。そして一言放った。
「将来家を継ぐ気でいるなら文系にしろ。継ぐ気がないなら理系でもいい」
それを聞いて俺はぐっと奥歯を噛みしめる。継ぐ以外の選択肢なんてなかったからな。しぶしぶ俺は文系を選択することにした。ああ、また地獄の日々だ。
よし、わかった、と言って由香は手帳を取り出して何やらメモを取る。それからしばらくそれと睨みあいを続けた結果、彼女はうん、と一人で勝手に頷き、手帳を閉じた。
「社会は世界史、日本史どちらか好きな方を明日までに考えておいて。国語は明日から勉強を始めるぞ。とりあえず今日は数学と英語やるか」
俺は今日何度目かのため息をついて、勉強を始めたのだった。