表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
7/20

07

 三人で改めて乾杯をして、缶ビールを飲む。

 津木くんは、そのままぐびぐびと一本目の缶ビールを飲み干してしまった。

 「津木くん、大丈夫か?」

 隅市さんが驚いて尋ねた。その横で私も目を見開いていた。

 「大丈夫ですよ。二杯目買ってきます」

 早足でその場を去ると、津木くんは立ち止まることなく缶をゴミ箱へ捨て、そのままの速度でまたコンビニへ入っていった。津木くんはアテも食べず、ビールだけを腹に入れたのだ。

 「どうしたんでしょうか?」

 「さあ。我々に追いつこうとしているのかも。でもさっきの言葉……」

 「飲まずにはやってられません――ですか?」

 「そう。なにかあったんだろうなぁ」

 コンビニの自動ドア付近を見つめながら会話する我々二人の視線の先に、すぐに津木くんの姿が確認できた。彼は走ってこちらに来た。

 「すみません」

 謝りながら津木くんは力強くプルトップを引いた。

 「どうした、なにかあったのか?」

 隅市さんが尋ねた。

 「家でちょっとね……」

 と言った津木くんは、二本目の缶ビールに口をつけ顎を素早く上げた。

 全部飲みきることはしなかったが、それでも大分――少なくとも半分は一気に飲んだようにみえた。

 「ふう」

 と一息入れた津木くんが喋り出した。

 「――嫁と、喧嘩してきたんです」

 と始まった彼の話の内訳はこうだ。

 彼の職場の勤務形態は四勤二休。文字通り、四日働いて二日休みを、昼勤夜勤交互にこなしていく。今日はその夜勤あけの最初の休日だったようだ。 津木くんは朝帰って来て、シャワーを浴びご飯を食べて、そのまま寝たらしい。奥さんは、化粧品の販売員をしているらしく、娘さんを伴って彼との帰宅と入れ違いで家を出る。そして保育園に娘さんを送ってそのまま出勤。奥さんもシフト勤務のため多少の前後はあるが、津木くんが夜勤の場合、大抵右記のような生活リズムらしい。津木くんはこの日、昼過ぎに起きて、少しぼぉっとしてから、昼ごはんにラーメンを食べて、テレビを見たり、漫画を読んだりして夕方まで過ごしたみたいだ。四時ぐらいにベランダに出て、洗濯物を取り込りこもうとする。風に揺れる洗濯物を見て彼は思うらしい。奥さんの服に関してだ。

 「――派手になったんです」

 彼の感想としては、ここ最近、奥さんの服の種類が増えたように感じたのだという。しかも露出が激しい服、らしい。

 「――ピンクが多くなったんですよ」

 あっ

 と、おもわず声がでそうになった。

 この時よく声が出なかったと、胸を撫で下ろしたのをよく憶えている。

 私は思い返す。記憶としてはこの時のこの瞬間までほぼ忘れていた、先週の土曜日に行ったショッピングセンターで自分の目で見たことをだ。私の脳裏に鮮やかに浮かび上がる、ピンクのワンピース。背中の大きくあいた丈の短いワンピース。私の中では疑惑でしかなかったのに津木くんの口から「ピンク」という単語が出た時、自分の中での疑惑は鮮明をもって解決した。いや、してしまった。やはり妻の言ったことが正しかった。あれは、津木くんの奥さんだったのか。そして――。

 そして、そのピンクのワンピースを着ていた女性の横にいたのは――津木くんではない誰か。

 もう、津木くんが何に対して、もっと言えば、何を勘ぐっているかこの時点でわかってしまった。

 奥さんを怪しんでいるのだろう。この段階では、隅市さんは、津木くんの奥さんが服を買いすぎて、それに対して津木くんが立腹しているという、どこの家庭でも日常茶飯事に繰り広げられている愚痴の一つと思っていたに違いない。でも私は違った。津木くんはつまり、奥さんが浮気しているんじゃないのかと疑っているのだろう。

 飲み始めはそこまで具体的には発言しなかったが、ショッピングセンターでの出来事を知らない隅市さんでも次第には察知できるだろう。津木くんの怒り方が異常だ。服買い過ぎ云々でここまで怒る男とは思えない。まだ一回しか飲んだことなかったが……。それにしても――と瞬間湯沸かし器のような津木くんの隣で冷静に考える私がいた。奥さんも、大胆なことをする、と。 自分の住まいがある地元で旦那と違う男性と人目の多いショッピングセンターを歩くか? やはり違うのか? 私が見たピンクのワンピースを着ていた女性は津木くんの奥さんではないのか?

 「マイホーム購入のため金貯めてんのに、次から次へと服買いやがって。しかも今まで、ピンクなんて色買ったことなかったのによ」

 という津木くんの言葉の裏には、確かに奥さんに対しての疑惑が渦巻いていた。異常にピンクの色を憎悪していた。

 「だからね、服買い過ぎだろって言ったらむこうも反論してきて。私だっておしゃれしたいとかたれやがって」

 この日の津木くんは、飲めば飲むほど、目が据わり、タチの悪い若者(二十八歳だが)へと変貌していった。

 「浮気してんですよ! きっと!」

 津木くんが合流しから三十分ほど経って、ついに出た「浮気」の言葉。もう三本飲んでいた。しかも二杯目からは500ml。

 「そんなことないだろう、思いすごしだろ?」

 隅市さんは、冷静に、あくまでも冷静に諭すように津木くんに語りかける。私といえば、喋ればなにかいらぬことを言いそうで、発言を躊躇していた。

 「いいや、絶対そうだ。あいつは浮気している。携帯だって、最近は、俺の目の届かないところに隠すように置いているし」

 もう何を言っても無駄だった。隅市さんがなだめても、語気を強めて反論してくる。

 「おかわり買ってきます」

 そう言って、四本目の缶ビールを買いに行こうとした津木くんを、隅市さんは止めた。

 「やめておけ。飲み過ぎだ、津木くん」

 私が、ビクッとした。隅市さんからこんな低音で威厳ある声色が発せられるなんて。でも津木くんは驚く様子もなく、親に反発する息子みたいに言い返す。

 「いいやろ、もう一本だけやって。二人の分も買ってきますから」

 口元だけを吊り上げ、津木くんは、肩で風を切りながらコンビニへと歩いていった。

 「やばいですよね、彼」

 私は隅市さんに尋ねずにはいられなかった。

 「やばいですね。まぁ次の一本は飲ませて、そのあともしもう一本とか言ったらそれは止めさせ今日は私の家にでも連れて帰ります」

 「えぇ? 隅市さんの家にですか?」

 「うん。このまま家に帰してもろくな事はないはず。少し頭を冷やしてから明日の朝にでも帰そうと思います。娘さんが不憫だ。どうせまた夫婦喧嘩になるでしょう」

 「泊めるんですか?」

 「そうですね。時間も時間ですし。とりあえず、彼の奥さんに電話をかけさせます。今日は知り合いの家に泊めてもらうとか言ってもらって……。もし話がうまく進まないなら私が彼の奥さんと電話をかわり説明します」

 いい人、とは、もうとっくに気がついていたが、ここまでやれる人なのかと、私は羨望の眼差しで隅市さんを見ていた。私には到底できない。

 津木くんがコンビニから出てきた。こちらに来るまでの間、後ろを気にしながら何やらブツブツいいながら歩いてくる。

 「なんやあいつら、ボケ!」

 私たちが飲む定位置に着くや否や、後ろを振り返り、暴言を吐く津木くん。

 「どうした?」

 隅市さんが間髪を入れず聞いた。

 「あいつらですよ! あのコンビニ前でたむろしてる連中」

 見ると、私はずいぶん前から気がついていたが、コンビニ前で車座で地べたに座り込み喋くりあっている若者数人がいる。

 「邪魔なんじゃ!」

 鋭い目つきで彼らを睨む津木くんは、もう正常ではない。

 「落ち着け、津木くん」

 隅市さんはあくまでも大人な対応だ。だが隅市さんの眼光からもただならぬものが発せられていた。こわい、と私は思った。

 「津木くん、君も色々あるんだろうが、それを他にぶつけてもいいことないぞ。もう帰ろう。今日は私の家に来い。私の家で飲もう」

 「出輪さんの家で?」

 「私は隅市だ。とりあえず携帯で奥さんに電話をかけろ。繋がったら私がいきさつを説明するから電話をかわれ」

 「あんなやつに電話? イヤだね。それより飲みましょう」

 津木くんは、たむろする若者のことはもう忘れたのか、だらしない笑顔を我々に振りまきながら袋から缶ビールを取りだす。袋の中には500の缶ビールがなぜだか四本入っている。

 「よし、津木くん。これを飲んだらもう帰るぞ」

 隅市さんは、素早く袋の中から缶ビールを取りだすと、荒々しくプルトップをめくり飲みだした。

 「あぁ、あぁあ」

 私の喉から声が漏れる。

 隅市さんは、一息入れることなくそのまま一気にビールを飲み干した。そして空になった缶を津木くんが持つ袋の中に入れ、入れ替わりに新しい缶を取り出し、またプルトップをめくり飲みだした。

 津木くんも呆気にとられている。

 「どうした? 飲まないのか津木くん? ――出輪さんも折角です、いただきましょう」

 隅市さんは再び袋に手を突っ込み缶を掴んで、それを私に差し出しながら自分はまた缶に口をつけた。私はあいた手でそれを無言で受け取った。私が受け取ったすぐあとに隅市さんは、缶を口から離した。

 「さぁ、飲んだよ。続きは我が家だ。津木くん、たらふく飲ませてやるぞ」

 空の缶を細かく揺らしながら笑みを浮かべ、津木くんを見下ろすように隅市さんは言う。

 恐るべしと思った。隅市さんは、普段は温厚で人当たりが柔らかい印象だが、この時はわざとそうしたのかわからなかったが、声色と目つきを変えると、ここまで凄みが出るのかと、私は恐縮した。体格がごついことも一因していると思われるが、威圧感は絶大だった。さっきまで殺伐とした雰囲気を漂わせていた津木くんも、隅市さんの迫力に怒気をそがれたのか、急におとなしくなった。

 「――すみません。少しイライラしてました」

 隅市さんの凄みで我を取り戻し、少し冷静になれたのだろうか、津木くんは自分の暴走行為を反省し、素直にあやまった。

 「隅市さん、俺、大丈夫です。自分の家に帰ります。出輪さんもすんませんでした。折角の飲み、俺の憂さ晴らしみたいなのになっちゃって」

 私は首を横に振った。

 「津木くん、本当に私の家に来てもいいんだぞ」

 隅市さんは普段の優しい目に戻っていた。なんだか私がホッとした。

 「いいえ、大丈夫です、本当に。俺今日はもう帰ります。――これ」

 津木くんは、持っていた缶ビールを隅市さんの胸に押し込むように手渡した。

 「飲んで下さい。――じゃ」

 ポケットに手を突っ込み津木くんは歩きだした。

 「津木くん!」

 私は呼び止めた。

 「また来いよ」

 津木くんは頷き、再び歩きだした。数歩歩いたのち、立ち止り、煙草に火をつけ、彼はコインパーキングを左に曲がり、我々の目の届かないところへと消えていった。

 「悪い事したかな?」

 「何がです?」

 「彼に対して」

 「何でですか。隅市さんは彼のことをすごく考えていましたよ。俺なんか……俺なんか、ただ見ていただけ」

 二人してコインパーキング付近に目を当てていた。

 「どうします? 解散しますか?」

 隅市さんが言った。

 「――この一本だけ」

 隅市さんの手と私の手には、津木くんが買ってきた缶ビールがまだある。

 「これだけ飲んだら帰りませんか?」

まだ帰りたくなかった。だれかに――隅市さんに言っておきたいことがある。

 津木くんの奥さんのことだ。




 私は、ショッピングセンターでの目撃談を伝えた。

 隅市さんは、話を聞き終わると、

 「間違いないですか?」

 と尋ねてきた。

 「はい、間違いないと思います」

 「……そうですか」

 隅市さんは開けた缶を殆ど飲むことなく、手に握ったままだった。

 私といったら、話す前に半分ぐらい飲んだ。目撃談を話すのに酒の力に頼りたかったからだ。だがあまり効果はなく、酔いを感じながら喋るということはなかった。

 「我々がどうこうできるわけじゃないけど、心配ですね」

 「はい……」

 沈黙が流れる。

 金曜日の雑踏はとどまることをしらない。人々は、我々の前をひっきりなしに往来する。その中で、私と隅市さんがいる場所は亜空間のように外界と切り離されているが如く静かだった。風も通っていない。暗いし。

 「彼、直情型っぽいから……」

 「そうですよね」

 ――また沈黙。

 ドラマやニュースで知る不倫劇は、対岸の出来事という感じで、好奇の目で見てほくそ笑んでしまうことすらある。

 津木くんとの関係は昨日今日できた仲だ。でも、真剣に考えてしまう。この日合わせて二回しか飲んだことないのに、考え込んでしまう。

 やんちゃそうだが、娘と奥さんを養うために必死に働いているのが、この前の飲みで重々わかった。私だけでない。隅市さんも彼のひたむきな態度を知ったので、この時は真剣に彼の暴走に対したのだろう。

 「とにかく、私たちは平静を装いましょう」

 その日は、それで解散した。

 なんとも酔えない日だった。

 家に着いたのは、午後九時を少しまわったぐらいだった。

 もう結人は寝ていて、妻だけがリビングでテレビを見ながらお茶を飲んでいた。

 私はこの日のコンビニの出来事を報告した。

 「やっぱりぃ」

 妻は、眉間にしわを寄せた。

 「ね、私の言った通りだったでしょ。やっぱりそうだった。津木さんとこのママだったんや、あの人」

 「他のママ連中にいらんこと言うなよ」

 「言わないよ。言えるママ友もいないし」

 「ママ友じゃなくても、職場とかでも言うなよ」

 「言わない」

 そのあと私はシャワーを浴びて寝ようとしたが、なかなか寝つけない。

 酔ってはいないのだが、アルコールが体にあることが原因か、体が変に熱を帯びていて、暑苦しくて布団の上をのたうち回っていた。扇風機はまわっていたが、それだけでは、ものたりない。クーラーをつけようにも、この和室の部屋にはまだ取り付けていなかった。精神を冷静に保ち、天井を見ながら寝ようと心に決めるが、次に頭をよぎるのが、津木くん夫婦のこと。

 考えても仕方がないと意識を遮断しようと試みるが、ふたたび全身が暑さを感じ取って、眠れそうにない。

 私の七転八倒を結人の向こうで気がついた妻が、

 「どうしたの?」

 と聞いてきた。

 「暑い」

 とだけ私が言うと、妻はむくりと起き上がり、洗面所の方に行き、その足で台所に寄り、なにやら持ってきた。

 「はい」

 手渡された物は、タオルにくるまれた氷枕だった。

 それを枕の上に置き、頭をのせ目を閉じた。

 この日あったことは背中よりさらに下に沈んでいき、嘘のようにすぐに眠れた。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ