表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/20

06

 それから六日が経って、金曜日になった。

 その間、隅市さんとの出会いによって少しは元気になっていた私の精神力は、日に日にまた暗黒の底辺へと沈殿していくのだった。なんとか自分を安定させるため、六日のあいだ自分を叱咤した。だが、元気な自分の心を取り戻すべく追えば追うほど元気な心は逃げていく。具体的に言えば、プラス思考を連想させる言葉を心の中で唱えれば唱えるほど、元気な心はどんどんしぼみ手からすり抜けていくよう。発端はやはり、先週土曜日のショッピングセンターでの出来事だ。

 息子に二百円の玩具が買えなかったということが、自分の心の中で憤りと情けなさでどうしようもなくなっていた。しかも百円は遊具で見つけたお金。人さまの物。人さまのお金を無断で拝借してそれを加えても買えなかった玩具。

 返却口の百円玉をすばやく財布に入れた時の後ろめたさ。湧きおこる無職の罪悪感。

 土日は、妻と息子と過ごしていたので、そんなにクヨクヨと考えはしなかった。

 だが、週が明けて月曜日。妻は仕事。息子は保育園と家からいなくなり、朝独り、洗濯物のしわのばしを薄暗い洗面所でしていると、洗面所の鏡にうつる自分。このろくでなしが自分なのか。吐き気を催した。それで洗濯物のしわのばしは一旦やめた。

 次の日の火曜日。朝、息子を保育園に送る気力もなく、妻に行ってもらった。迎えも頼んだ。その日は何もしなかった。皿洗いも、米研ぎもお風呂掃除もなにもかも。

 水曜日。少しは元気が出てきて、一応いつも毎日自分がしていることは、ゆっくりだができた。そういえば、保育園でも隅市さんには出会えず仕舞い。いや、保育園に隅市さんはいたのかもしれない。でも、かすれた視界で、しかも鈍った脳ではそれは定かでない。濡れたバスタオルが頭のてっぺんから全身を覆えているようで体が重い。

 木曜日も同様。

 そしてこの金曜日。

 午後を過ぎ気分はいくらか晴れる。妻も週末。結人も明日は保育園休み。 無職な私はいつも休日なのだが、彼らが週末となると自分のことのように嬉しい。明日はみんな休みということを共有できるからだろうか? 本当に身勝手な嬉しさだ。

 この日の夕方、結人を保育園に迎えに行って、帰宅後すぐ彼と一緒にお風呂に入った。

 結人の背中を洗いながら、今日はコンビニへ飲みに行くのやめておこうかなと考えていた。それは驚くことだった。やめておこうと判断したことに驚いたのではなく、もしかしたら行くかもしれないという含みがあるのかと自分で自分に驚いたのである。おい、おまえどうかしているぞ、と自分を戒める。

 行く行かないという選択肢すらこの時の俺にはなかったはずだ。おまえは昨日まで、無職の罪悪感にとらわれ苦しんでいたんじゃないのか? それが週末金曜日になった途端、気楽な道楽者に逆戻り。いい加減にしろと自分を叱りたくなった。何様だ。奥さんが怒らないからって、誰も叱らないからって。

 「パパ?」

 洗う手を止めている私を不審がったのか、結人が顔だけを肩越しにこちらに向け見つめている。

 結人はミニカーを手にしている。この外車のミニカーはお風呂で遊ぶ用にと常置されていた。

 このミニカーも妻の収入で買ったもの。横を見れば湯船にたまるお湯。この湯をためるための水道代も電気代もガス代も妻が働いた給料で支払っている。

 ――俺はなにもしていない

 こだまする。頭のなかでなのか胸のなかでなのか、わからないが、こだましている。

 「パパぁ」

 「え?」

 また意識が飛んでいた。

 息子の声で我にかえり彼の背中をさする。

 結人はミニカーでまた遊び始める。

 無邪気に遊ぶ息子を見ておもう。この子はどうする? 妻だけの収入では、やがて今の生活も破綻するだろう。その時、この目の前にいる子はどうなる? 我々三人、路頭に迷うかもしれないぞ。将来もない。それはわかっている。でも言葉でわかっているだけで、心には響いていない。そのことが致命的だった。

 「パパ?」

 「……」

 「どうしたんパパ?」

 「ん? なんでもない…………」

 私は息子の背中をさする。




 お風呂から上がると丁度妻が帰ってきた。

 「私がするわ」

 と、妻は手洗いうがいを済ますと、結人の体をバスタオルで拭いてくれる。私は自分の体を拭く。

 「今日も行くんでしょ?」

 「え? どこに?」

 「コンビニ」

 「あ、ああ……。今日はやめとく」

 「なんで?」

 「ん? なんかな、なんかそんな毎週毎週行ってられへんやろ。働いてもいない俺が」

 「いいよ、気にせず行っておいで。今週の広ちゃん、なんか元気なかったし、景気をつけに行っておいでよ」

 「ええ、でもなぁ。隅市さんは、医者で貯金とかもいっぱいあってそんなに不自由してないと思うけど、俺はなぁ……」

 「大丈夫。まだ、うちも大丈夫よ。ずっと広ちゃんが無職だったら困るけど、まだ大丈夫。そんなこと気にせず行っておいで。隅市さんもきっと待ってるわよ」 

 「そうかぁ?」

 結局その日、私は、妻の言葉に甘えコンビニにむかった。晩御飯ができるまで結人と一緒に遊び、午後七時半ぐらいに家を出た。

 家を出たものの、なにか釈然としない。飲むテンションではない、ということは承知していたが、コンビニで気分が多少でも変わればと自分を納得させた。

 外に出ると、幾分暑さが和らいでる。風が、さっき結人を保育園に迎えに行った時よりも涼しい。

 涼しさに心地を良くしたままコンビニへ。

 いつも隅市さんと飲んでいる定位置の場所に彼の姿はなかった。少し落胆しつつ、その場を横切り、コンビニに入った。

 店に入ってすぐ

 「出輪さん!」

 と声をかけられた。

 隅市さんが何かの雑誌を手にこちらに顔をむけていた。

 「隅市さん」

 私は笑顔で彼に歩み寄った。

 「来てたんですか?」

 「ええ。少し待って、もし出輪さんが来なかったら、一本ぐらい飲んで帰ろうと思っていました。さあ、ビール買いましょう」

 隅市さんは雑誌を棚に戻し、リカーコーナーへとむかった。

 私も彼の背に追いすがるように着いていく。

 ビールとアテを買い定位置へ。

 「おつかれっす」

 いつも通り缶ビールを掲げ、飲み始めた。

 「出輪さん」

 「はい?」

 「火曜日か水曜日、体調悪かったんですか? 保育園の記入用紙に奥さんのサインが入ってたような……」

 「あー、ええ……。火曜日ですね。そうです。ちょっと体調が悪くて子供の送り迎え、奥さんに頼みました」

 「風邪ですか?」

 「そんなもんです」

 と私はとりあえず済ました。

 「精神的な疲れからダウンしました」

 と言いたかったが、その時すぐさま吐露するのには、酒量がまだ足りない。

 「今は、大丈夫ですか?」

 「ええ、だいぶマシになりました」

 「病み上がりだったら無理しない方が……。今日は一本でやめときますか?」

 心配してくれている隅市さんにはやはり適当にはぐらかすことはできそうにない。

 「隅市さん、実は風邪じゃないです。火曜日は色々あって気が滅入って、寝込んでいました」

 私はそれからショピングセンターで息子に玩具を買えなかったことと、それについて今の自分の無力を思い知らされ、何もしていない自分にこれまで以上に罪悪感が芽生えている、ということを告げた。

 彼は私の話を始終聞くと、一回頷いた。

 そして缶ビールを口元に運び、唇を濡らす程度に飲んでから口を開いた。

 「出輪さんって、本当に何もしていませんか?」

 「え?」

 「朝は毎日結人くんを、職員や保護者の視線を気にしつつも保育園に送り、夕方になったら迎えに行き、お風呂に一緒に入ってから遊ぶ。それ以外でも、家事で言えば、洗濯物を洗い、干してたたむ。米も研ぐ。掃除機もたまにはかけるでしょ? 奥さん、助かっていると思います。そりゃ、いずれは出輪さんには働いて欲しいなぁって思っておられるでしょうが、とにかく今現在、助かってるなぁってきっと実感していますよ、奥さん」

 「…………」

 私は黙って聞いていた。めがしらが熱くなってくるのが感じられた。こんなしょうもない俺を隅市さんは褒めてくれている。褒めてくれていると私はとった。そうなのか、妻は助かっているのか? そうなのか? 俺にも多少価値はあるのか? 

 「出輪さん。あなたはかならず今の現状から抜け出せます。同じような現状の私が言っても説得力はないですが、私はそう思います。あのね、私おとといの水曜日、教会に行ってきたんです」

 「教会?」

 「うん。ここから山の手に十分ぐらい歩いたところに教会があるの知ってますか? そこへ行ってきました」

 地元の駅の改札の真向かいにある道案内にその教会の外観が写真付きで載っていたのを通りすがりに何回か見たことがあった。場所は、我々が今飲んでいるロータリーから線路を越えさらに南へ行くとなだらかな丘陵が広がっている。そこには閑静な住宅街が斜面にそって集まり、その中腹にひっそりと、隅市さんが出向いたであろう教会はあった。

 「どうして教会なんかへ?」

 「どうしてだろう? 自分でもよくわかりません。ただ最近日頃の生活に変化をつけたいと思い始めました。夕食時の妻との会話も一辺倒。そりゃあ、毎日毎日家の中にいては変わった話題も見つかりません。外出するっていうことに抵抗はまだありますが、ちょっとずつ慣れていこうと決心して出かけました。行ってよかった」

 「よかった?」

 「ええ。元々その教会を知ったのは、ここへ引っ越してきてすぐに、家族三人でここら周辺のことを知るために散歩している時だったんですが、その時見た教会のことがおとといふと頭によぎりまして、昼過ぎに赴いたんです。汗をダラダラ垂らしながら坂をのぼり、教会の前に辿り着きました。教会の門は開いていたので、少し中に入りました。でもクリスチャンでない私は、教会に入るための手続きとか作法なんかも知りません。意気地が無くなって門を出ようとした時、「どうされましたか?」という声が後ろから聞こえ、振り返ると初老のシスターが立っていたんです。私の萎えた心はもたげ、教会の中に入ってもいいですかと尋ねました。シスターは快く了承の返事をしてくれ、私はシスターに導かれ聖堂へと歩いていったんです。シスターは、聖堂の出入口に置かれた水盤に指を入れて十字をきってから内部へと入っていきました。私も同様に見よう見まねで十字をきってから中に入りました。内部に入ると、そこはまるで外界から遮断されているようでひんやりしていました。シスターは来訪の理由などは私に聞かず、心ゆくまでいらして下さいといって、どこかに行かれました。教会の中は私ひとりだけ。一番後ろの長椅子に腰を下ろしてから私はゆっくり首をめぐらせました。私が想像していたより教会の中は質素でした。一番前には祭壇、その隣にはオルガンが置かれていて――――あ、すみません出輪さん、夢中で喋ってしまって」

 「いいえ、続けて下さい。話聞きたいです」

 隅市さんは本当に夢中に話していたのだろう。目線の先にはすでに私はおらず、話の途中から駅の方に段々向いて、一心に教会での出来事を思い出し話しているようだった。

 「中は、祭壇とオルガンだけだったのですか?」

 私は、隅市さんの話の続きを聞きたく促した。

 「ええ。周囲を見渡しても、聖堂にありそうなステンドグラスの窓もありませんでした。照明は点いてなく、上部にあった天窓からの自然光が、淡く中にあるものをうつし出し、それを見ていると心が落ち着いてくるのが、まざまざとわかりました。少し時間が経つと、私は眠るように目を閉じていました。私もね出輪さん、日常は心がざわついています。不安や焦燥でやりきれない思いで生活しています。でも、教会の誰もいない空間で目を瞑り座っていると、雑念が和らぎ、心が穏やかになってきたんです。長椅子の背もたれに体重をのせ、全身の力を抜くと、本当に寝てしまうんじゃないのかっていうぐらいリラックスした気分になりました。風も穏やかに入ってくる。小鳥のさえずりも私の心を穏やかにしてくれました。このぐらいから私は、浅い眠りについたと思います。夢を見たんです。まだ鮮明に覚えているのが不思議ですが、その時、私が執刀したのち亡くなった患者さんのおだやかな表情が瞼の裏に浮かんだんです。私は夢のなかで驚き、そのまま目を開けました。なにせ、その患者さんの表情がよみがえればいつも苦悶の表情で、そんなおだやかな顔なんて見たことありませんでしたから。それから夢で見た患者さんのおだやかな表情を思い返しました。その表情は手術前に見たものでした。手術前日、病室で彼と彼のご家族を交えて談笑した時のもの。――――私は泣いていました」

 「えっ?」

 「なんだか頭の中に当時の様子が一瞬に駆け巡って、その効果で私の涙腺は緩んだようです」

 隅市さんは、笑みを浮かべた。思いすごしかもしれないが、この時ネオンに照らされた彼の眼は潤んでいたように見えた。

 「私ね、出輪さん。その患者さんのことなんか、この街へ引っ越してきてから一度も考えたことなどありませんでした。いや、引っ越す前からもだ。さっきもいった通り、頭の中で彼の苦悶の表情は浮かびます。でもそれだけ……。彼が亡くなってから……彼が死んでから、一回も彼の死を受け止めていなかった。私が関係した人がこの世からいなくなっているのに、その死について悼んでいなかった。お葬式にも行っていない。自分が愚かに思えました。でも同時に、自分がなぜ苦しんでいたのかもほんの少しかもしれませんがわかったような気がします。彼に私の思いを伝えたかった。私自身、私の執刀で彼――良川さんが亡くなったのか本当にわかりません。わからないんです。彼の血管を傷つけたのちの対処も完ぺきだったと自負しています。ただ傷つけたという事実があるのです。良川さんの体にいらぬ負担をかけたのは事実です。だから、あやまりたかった。とにかくあやまりたかったんです。近いうち、良川さんの遺族に会いに行こうと思っています」

 「行く? 行くんですか隅市さん」

 「はい。先方の住所は知らないけれども、なんとか調べて行きたいと思っています。以前勤めていた病院で教えてもらうことができるかもしれません。でも最近は、個人情報の取り扱いにうるさいので駄目かもしれませんが。それに病院の方も要らぬことはするなと住所を快く教えてくれるかどうか……。でもとにかくあやまりたいんです。所在がわかって行くことができても面会は拒否されるかもしれません。でもどう対応されようが、私は良川さんの遺族に会いたいし謝罪したい。そしてもし許されるなら良川さんの墓前で手を合わせたい。私が前に進むには、このことが必要です」

 決意の目がそこにはあった。隅市さんは、しばらく佇み、缶に口をやった。私も反射のごとく缶に口をつけた。

 「すみません、出輪さん。喋りすぎた。どうかしている」

 隅市さんは頭を掻きながら笑い、話を続けた。

 「えぇっと結局何が言いたかったというと、出輪さんもきっと考え方や行動が好転する時が来るってことを言いたかったんです。私の考え方が教会へ行って少し変わったのと同じように、出輪さんもいい方向にむかう時がかならず来ます。といっても私はまだ、動いてもなく、結果は出していないですけど」

 私はこの時、笑顔を浮かべる隅市さんを見て、おいていかれたような感じがした。寂しさを感じたと言い換えてもいい。本当に隅市さんはふっきれたんだろう。笑顔に余裕が見て取れた。隅市さんの言うように、私も……私の日常も変化するのか。この時はまだわからなかった。不安は残るものの、先に進みつつある隅市さんを応援はしたかった。

 「遺族の方と対面できたらいいですね」

 「はい。来週月曜日、早速病院に行こうと思っています。親しくしていた同僚にメールで用件は伝えていて、さっきも言った通り、個人情報の規制で所在の取得は難しいようですが、もし無理でも、良川さんとの会話の中で、住んでいるとこを聞いたりしていたんで、その界隈を一軒一軒調べて探すつもりです」

 人間というのは、短時間でここまで行動的になれるのかと、私は感嘆した。正確に言うとこの時点では隅市さん自身も言っていたが、行動は起こしていない。が、来週にはきっと、自らの人生を前進させるために病院に足を運び、行動を実現させているだろう。もはや彼の脳内では、血がグルグル血流し、目的達成のためフル活動しているのがよくわかる。それぐらいこの日の隅市さんは、躍動感にあふれていた。

 「じゃあ、今日は決起集会だ。隅市さん、飲みましょう!」

 無理矢理にもおいていかれたさみしさを腹の底に押し込め、さらに大声を出すことで、私は高揚感を呼びだそうとした。でないとやり切れない自分がいた。酒を飲んで、さみしい気持ちをなくしてやろうという気になった。

 アテを平らげ、残りのビールを飲みきり、二人してコンビニに闊歩しようとした時だった。

 「隅市さん、出輪さん」

 我々を呼び止める声がした。

 振り返ると、津木くんがこちらに小走りにやってくるところだった。

 「津木くん!」

 と、私と隅市さんは声を合わせて迎えた。

 「よかった、飲んでたんですね」

 「一本はもう飲んで、今から二本目を買いに行くところ。津木くんも飲みに来たんだろ?」と私。

 「ええ。飲まずにはやってられません」

 「えっ?」

 「買いに行きましょう」

 津木くんは我々のあいだを無表情に通り過ぎ、もう歩いている。もちろんコンビニへ。

 私と隅市さんは顔を見合わせたのち、彼のあとに続いた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ