05
私が大酒を喰らってから一週間が過ぎた。――つまり今日は、金曜日。
昼ぐらいから、晩御飯の用意をしてみた。献立はカレー。冷蔵庫を確認すると、牛肉と人参があった。パントリーには、玉葱はあるが、ジャガイモがない。よく探していないのだがカレー粉もないようだ。仕方なく、近所のスーパーに赴いて、必要物品を購入。帰宅後、料理を開始した。結婚する前、実家で遊び感覚でカレーを作ったことはあった。しかし、何十年も前のことで、包丁なんて、ここ最近握ったことすらない。でも隅市さんの言う通り、食材を切る行為にしても、人参、ジャガイモの皮むきはピーラーという器具で上から下へ何回かおろすだけで出来たし、包丁で切ることに関しても、野菜を細かくみじん切りにする必要がないから指を切ることもない。あとは切った野菜を鍋に入れて牛肉も加え煮て、カレー粉を入れるとしばらくして出来あがった。味見をすると、良くできたカレーだった。
料理をしたのには、もちろん理由がある。この日、コンビニに飲みに行きたかった私は、妻に快く承諾してもらおうとおこなったのだ。なにせ先週は酩酊して、妻と結人に迷惑をかけてしまった。その張本人が、また飲みに行くとなれば、やはりポイントを稼がねばならない。
夕方、結人を保育園に迎えに行き、家に帰ってお風呂に入って、妻の帰宅を待つ。
妻が帰って来て、飲みに行くことを告げると
「あまり飲み過ぎないように」
と釘を刺された。
が、了解は得られた。
「もう、日本酒は飲まないよ」
と妻に言って出掛けた。
コンビニに着いた私は、辺りをキョロキョロした。
隅市さんがいない。
コンビニの中をのぞいて確認したがいないようだった。
(どうする?)
思案した。一人で飲むかをだ。
夏本番に近づきつつある夕暮れの空は、午後七時十五分現在でほんのりと朱色。行き交う人の表情を十分に照らす落陽の力は健在だった。
(この状況で飲めば、面をさす。コンビニで時間を潰そう)
コンビニに入り、書棚へと歩く。別段読みたい雑誌はないが、もし隅市さんが来ればロータリーに面しているから、ガラス越しに彼のことをすぐ確認できるし、それに時間を潰すには最適な場所だ。
身なりのことなんて気にもしなくなっていたが、ファッション雑誌を見ながら、隅市さんが来ないか店内の蛍光灯に強く照らされた見にくいガラスの外へとくまなく目を凝らす。
十五分もすればすっかり日が落ちた。
でも隅市さんは来ない。
(どうしたんだろう?)
雑誌を見開いたまま、街灯、ネオンに照らされたロータリーを見る。
もしかして、もう来ている隅市さんを私が見落としていたのではと、雑誌を無造作に棚に戻して、缶ビールだけ購入し、コンビニを出た。
でも隅市さんは来ていなかった。
定位置に進み、暗闇に身を包んで缶を開け一口飲んだ。
(そのうち来るだろう、今日は遅れているのかな?)
この日のレジ担当はいつもの若い女の子ではなかった。
独り飲む缶ビールの味は喉につっかえる。いくら暗い場所といっても、人がいることは、周囲の人にもわかっている。ビールを飲んでいることもわかっているだろう。だが当然、誰も私に声をかけず素通りしていく。
寂しくなった。
隅市さんは来ないし、はてはコンビニの店員も知った女の子ではなかった。その事情でか、私の心は、か細くなってしまっていた。
携帯は持ってきているが、前に壊れたと言ってから、携帯電話の話題にはなるべく触れずにいたから、電話番号、アドレスの交換なんてものもしていなかった。
えぇいくそ、やけくそ気味でビールを喉奥へと流し込む。
500mlを一分半ぐらいで飲み終えた。
――初めは羞恥と闘ってください
隅市さんの声がリフレインされる。
たたかった。
闘った結果、陽気な俺が出てきたと感づいた私がいた。
缶ビール二本目が終わろうとしていた。寂しさは、空夜に飛んでいき、熱い熱い熱情が私の裡から湧きおこっていた。
隅市さんはいないし、レジの子も知らないコ。でももうよかった。
私の前を通り過ぎる人を見るたび、俺の方が幸せ、と訳のわからないことを考えていた。
オレンジに光る街灯、煌びやかなネオンの光が美しい。
――思った。家で一人で飲むより美味しい酒だ、と。
隅市さんがどういう経緯で、このコンビニ飲みを始めたのかまだ聞いていなかったが、癖になったわけはわかったような気がした。
「酔えば、独りじゃない」
行き交う人も仲間だぜ、そんな心境だ。
さっきの『俺の方が幸せ』という他人に対して敵意ある発言と矛盾する滅裂な心境だが、これは、人を区別しているからだ。第一印象で、辛気臭そうな人、高慢ちきな人を見ると、自分を高くしたくなる。気高くなりたくなる。
逆に、肩を落として歩く人、下を向いて進む人を見ると、元気出そうぜ、肩くもうぜという気概が出てくる。
あと、私を興奮させたのが、綺麗、可愛い女性を見たときだ。
「おお!」
と小さくうなる。
酒の友になってくれる。
テンションが上がる。酒が美味しくなる。
るるる、るぅ! だ。
私はどちらかというと、女性に対しては奥手だ。しかし酒が入ると、日頃では考えられないくらい女性に対しても饒舌にもなるし自ら接してもいく。それが功を奏したのか、今の妻を娶ることができた。退社した会社の先輩に酒の席で紹介してもらったのが縁だ。でも会社を辞めてから、もっと言えば結人が誕生してから、酒を飲んでも弾けることが少なくなった。人の親となったから自重しているのか私自身もよくわからないでいた。この時もテンションは上がるが、声はかけない。家の近所の誰が見ているかわからない所では当たり前の話だが、昔の私ならこの時の高揚気分なら声をかけていたかもしれない。それぐらい、この日の私は一人、上機嫌だった。
三本目を買うため、コンビニへ。
レジを確認してもあのコはやっぱりいない。相変わらず若い男の子がぶっきら棒に接客していた。
(日本酒?)
自問した。
ここで飲めば、覇王の心地になれるだろうと予想した。
が、やめた。先週の一件もある。缶ビールにした。
この辺も、子を持つ親の心境なのか。でも気分がいいのには変わりない。
自動ドアの前に立ち外に出ようとした。
「あっ」
ガラス越しに互いに言った。
隅市さんだった。
「出輪さん、いらしてたんですか?」
「来てましたよ! とっくの昔に」
「外で待ってて下さい、すぐに買ってきます」
そう言い残すと、隅市さんはリカーコーナーへと急いでいった。
とりあえず先にいつもの場所で彼を待った。
隅市さんはすぐに店から出てきてこちらにくる。
「ふぅ、すみません」
隅市さんは、すぐさま袋から缶ビールを取りだし、プルトップをめくる。
同時に私も人差し指を動かす。
「おつかれっす」
缶を合わせ、互いの口へ。
「はぁ」
隅市さんが大きく息をついた。
「今日は遅かったですね、隅市さん」
「ええ、将吾をね、耳鼻科に連れて行ってて。今日どうしようかなって思ったんですけど、妻が行ってきたらって言ってくれて。それで来ました」
「それはご苦労様でした。将吾くん、鼻大丈夫ですか?」
「鼻の奥に相当鼻水が溜まっていたみたいで……。でもドクターが機械で吸い取ってくれましたし、あとは薬を飲んでいたら大丈夫でしょう――ところで出輪さん、それ何本目ですか?」
私は指だけで示した。「3」と。
「おお」
隅市さんの目が輝いた。少なくとも私にはそう見えた。
「独り飲みはどうでした?」
「始めは、羞恥と緊張がありましたけど、今はもう、楽しいです、でへへ――」
だらしなく笑う私の表情が真顔に戻る。
「どうしました?」
私の急な変化に隅市さんも驚いたのか、頬張ろうとしたチキンを持つ手を止めた。
「それですそれ。僕、アテもなしで飲んでいた。――すみません、買ってきます」
口の中に唾が湧き出てくるのを感じながら、私は缶を地面に置きコンビニに向かった。
コンビニから戻ってきた私を見て隅市さんは驚いているようだった。
それもそのはず、私が手にぶら下げている袋の中には、チキンの他に缶ビールが二本入っているのだから。
「なんで二本なんですか?」
「おかわりですよ。隅市さん、キュッと早く飲んで下さいよ。僕もキュっといきます」
と言いつつ、私はビールは飲まずチキンにかぶりついた。そしてすかさずビールを飲む。
「はぁ! やっぱチキン最高ですね。ビールにあう」
「出輪さん、あてなしで三本飲んでたんですか?」
「ええ。夢中で飲んでたみたいです」
それからは、とりとめのない話に終始した。
前みたく、重いテーマの話をあてに飲むことはなかった。二人とも意識して立ち入らないようにしていたと思う。
時間は、午後九時に近づきつつあった。私はこの時点でヘロヘロになっていた。
「出輪さん、もうお開きにしましょうか?」
私の状態を見ての発言だろう。隅市さんは、最後の一適まで飲み干すために缶を真上にあげた。
「ううん……」
なおも飲み続けたかったが、この前のこともあるし、これ以上飲めばやばいと、かなり酔っていながらその部分は考えられた私が、渋りながら、
――そうしましょう
と、言おうした時だった。
「あ」
と、目線を変え、少し大きな声を上げたのは隅市さんだった。
「え?」
私も頭をめぐらせ反応する。
「あの人……たしか……パンダ組の……」
「どの人ですか?」
「ほら」
隅市さんは、缶を持ったままの手で指をさす。
「コンビニに入っちゃった」
「ありゃ。出てくるまで待ちましょうよ」
我々は無言でコンビニの出入り口を見続けた。
「あの人ですよ、出輪さん」
対象の男性は三、四分で外に出てきた。
「ああ、あの人……」
コンビニの光に照らされた人物を私は認知できないでいた。見たことあると言えばそう言えるし、でも知らないようにも思えた。ただこの時の対象の人物の服装は、ゆったりダボダボの上下で、ラッパーを思わせた。コンビニの光に照らされた服の色も派手なようで、私見としては、少しやんちゃな人が着るようなものと認識していた。
男性は出入口を出てすぐに立ち止り、コンビニ袋から何かを取りだした。
煙草だった。彼はそれに火を点けると一吸いし、煙をはき、くわえ煙草で歩きだした。
「こ、こっちに近づいてきますよ」
私はなぜか動揺した。隅市さんに顔を戻し、彼の視線で煙草の男性の位置を探った。
隅市さんの黒目が段々と動く。彼の両方の黒目が右端に寄った時だった。
「ああ」
隅市さんが声を漏らした。
「――あっ」
と私の右側からも声があがった。
私は、声の方を見た。
煙草の男性は、恐るおそるこちらに近寄ってきていた。
「あっと、ええっと……保育園で……」
男性は、そう呟いた。
「そうです。パンダ組に息子を通わしている者です」
「やっぱりぃ!」
煙草の男性の表情が晴れた。
「保育園で出逢ってますよねぇ? いやね、はじめは、暗いところからこっち見てるヤツがおるなって、不審に思っていたんですけど、近づくにつれ、よく見りゃなんかどっかで会ったことある人だってなぁって思って……。俺、津木っていいます」
「津木さんですか。わたしは隅市っていいます。こちらは出輪さん。二人ともパンダ組に子供を預けています」
「えぇ? うちの娘と一緒のクラス? たまにしか娘を送ったり迎えに行ったりとかしないんで、知らなくてすんません。で、お二人はここで……」
と、津木くんは、我々の持つ缶を見る。
「そこのコンビニで買ったビールを飲んでたんですよ、ここで。立ち飲み会です」
と隅市さんは缶を振りながら言った。
「いへぇ? すごいっすね。うわっ、俺も飲みたくなってきた。俺もいいですか仲間に入れてもらって」
隅市さんと私は顔を見合わせながら頷いた。お開きにしようとしていたところだったので、互いに了解をとったのだ。
「じゃあみんなで買いに行きましょう」
私の号令で、全員でコンビニに向かった。
一見軽薄な雰囲気を漂わせている津木くんだが、喋ってみると、意外としっかりしている。少なくとも当時の私よりしっかりしていた。年齢は二十八歳で某有名食品会社でヨーグルトの製造を担当しているらしい。この日はその会社の同僚と仕事後軽く飲み、同僚と別れてからコンビニに寄ったところを我々と出逢ったというわけだ。
仕事も勤続八年目を迎え、娘さんを授かってからは、より一層仕事に励みだしたらしい。その娘さんだが、保育園に入れた時期は隅市さんとほぼ同じで、それまでは奥さんが専業主婦として子育てしていたのだが、マイホーム購入のため、奥さんが働きにでるということになり、娘さんを幼稚園でなく保育園に入園させたらしい。
「毎週金曜、ここで飲んでる?」
津木くんは自分の経歴を語ったあと、我々に対していつもこの場所で飲んでるの? と質問し、隅市さんと私がいつもじゃないけど毎週金曜日この場所で飲んでいるということがわかるとそう言って驚いた。
「仕事帰りにですか?」
当然の質問だろう。
隅市さんと私は互いに目を合わせ、どうしたものかと沈黙した。
「どうしたんですか?」
津木くんは妙な間を感じたのだろう。隅市さんと私を交互に見て様子を見ている。
「正直に言いましょうか隅市さん」
酔っていたことが大きく要因していたと思うが、無職なことがばれてももういいやとやけっぱちになった私が提案した。
「そうですね」
隅市さんはそう言うと、我々が無職であるということを津木くんに告白した。
津木くんは、「いい!」と言って驚き、
「お金は大丈夫なんですか?」
と心配してくれた。
「預金を切り崩しながらなんとかしてるよ」
と隅市さんは答える。私も頷いた。
「大変っすね」
津木くんは缶を見つめながら言った。
「ああ、でもなんとかなるだろう」
私は津木くんに言うというより、自分に投げかけるように呟いた。
「すんません、なんかしんみりするような質問して……」
「なんで津木くんが謝る必要があるんだ。我々二人が無職なのがいけないんだ、ね? 出輪さん?」
隅市さんは笑い声を出しながら、私に言ってきた。
「そうだよ。謝ることなんてないよ。――そうだ、津木くんもしよかったら、きみも金曜日仕事終わり暇だったらここにおいでよ。多分大抵俺ら九時ぐらいまでここで飲んで、子育てのことや、しょうもない話して日頃の憂さ晴らしてるから。どうです、隅市さん?」
「いいね。仕事の付き合いもあると思うけど、パパ友同士でも飲もうよ。ここだったら安くて済むし」
「マジっすか? はい、金曜日空いてたらここ来ます。俺、休日が土日祝日じゃなくて、シフト組まれて勤務していて、しかも夜勤もあるんです。だから来れる日と来れない日があると思うけど、都合ついたらまた来ますよ」
この日は、時間も時間だし、津木くんも次の日仕事ということでそのままお一缶を飲み干したのちお開きとなった。
二人と別れ帰宅した私は、まだ起きていた妻に津木くんと出会ったことを話した。
「津木さん……? ああ、あのパンダ組の懇談会で新入の紹介があった人ね。たしか、娘さんがいたと思うけど……」
妻が言った懇談会とは、保護者懇談会のことで、毎年保育園でクラスが進級する間近、もしくは進級してからすぐに行われる話し合いの場のことで、こういう会には妻に出席してもらっていた。
「隅市将吾くんのママは、同じ列の席にいたから顔とかはよくわからなかったけど、津木さんの顔とかは見たわ。若くて綺麗で今風の人だったと思うけど……」
「そうなんや。旦那も今風やったよ」
話はそれで終わり、私はシャワーを浴びて就寝。
次の日の土曜日の快晴の午後、二日酔いがマシになった私は、妻と結人と自転車で近くのショッピングセンターに出かけた。
結人の体と服とが、成長にともない合わなくなってきたので、新しい服を買うために出かけたのだ。
妻は結人を後ろに乗せママチャリを運転。私はタイヤの小さい、長時間乗り続けてたらしんどくなる、でも愛着のある自転車をこいだ。
陽に照りつけられ、汗まみれになりながらショッピングセンターに到着。 わずか十分たらずの運転だったが、アルコールは大量の汗とともに流れきったように思えた。それぐらい汗が出た。結人も顔を赤く火照らせ自転車から下ろされていた。妻は涼しげな顔だ。
ショッピングセンターの中がひんやりしていることを期待しながら入店したが、外れた。出入口付近は常時、人の出入りでドアがほぼ開けはなたれているため外気が入り暑い。店の奥には涼があるだろうと歩を進める。しかし空調は効いているのだろうが、この日の店内は人がごった返していて、どこまで行っても蒸し暑い。
「暑い。まだ六月やろう? なんでこう暑い」
「異常気象もあるからね。でも、あなたが言うほどそんなに暑い?」
「暑いわ! 見てよ、結人もこんなに顔赤して」
「子供は、汗もよくかくからね」
「ふん」
私は妻には偉そうに口をきく。気をつけて喋ろうと心掛けるのだが、つい妻が私に対して反論や同意してくれなかったら、私の口調は荒れる。結局は妻に甘えていたのだろう。
それはさて置き、我々は来店の目的である子供服売り場を目指した。
子供服売り場は二階にあり、エスカレーターに乗って二階へ。人はあまりおらず、そのせいか二階は一階よりも涼しげに感じられた。
いつもこのように三人で買い物に来たら、結人をともない私は妻とは別行動する。「探検」と称し、結人と店内をウロウロするのだ。その間妻はゆっくり買う物を探す。
「結人、探検行こうか」
「うん」
結人も慣れたように私の手に自分の手を絡ませてから引っ張る。何回も来ているこの二階。探検はし尽くしているはずなのだが、結人は飽きもせず楽しそうに歩く。私はその姿を見るのが好きだった。可愛いからだ。
「パパぁ、これなにぃ?」
「これ? これは、あれ、生ゴミを捨てる三角コーナー。まぁ言うなればゴミ箱やね」
「小さいゴミ箱やね」
「そうやね」
二人でまた歩く。
「なにあれ?」
「あれ? あれは風鈴。風になびくと涼しげな音が鳴るの」
「どんな?」
「チリン、チリンって。――あ、今鳴ってる――」
もちろん、風もなく、やや斜めながら垂直に立つ板に画鋲で紐をとめられている風鈴が鳴るわけもなく、板の後ろを覗けばわかるが、床に置かれているカセットデッキから川のせせらぎとともに風鈴の鐘の音が聞こえてくるのだ。ごくたまに、ししおどしの竹が石にあたる音も聞こえ、情緒を醸し出している。こんな夏を感じさせる音専門のカセットがあるのかと私は驚いた。
風鈴を見上げていた結人は、おもむろに三階に行こうとせがむ。
(やばい)
私は焦る。
三階には、ゲームコーナーやおもちゃ屋という、子供が大好きな場所があるのだ。ここに行くと長時間滞在することになるのは必至だ。
「行こうよ」
結人が手を引っ張る。
「わかったわかった」
仕方なく三階に行くことに。なるべく三階には行かないように、階段、エスカレーター付近には近寄らず「探検」していたのに……。
三階に着くと、結人は真っ先にゲームコーナーへ。
そこで息子は、本当はお金を入れて遊ぶ乗り物の遊具――パトカーに乗る。 ハンドル、スイッチ、レバーを乱暴に回したり、押したり、動かしたりして楽しそうだ。これは、お金を入れなくてもできる。店員にとしては迷惑な客なんだろうが……。
私は彼の横に座らされ、身を縮めながら息子の興奮を見ている。――と、私は気がついた。
200円投入口と書かれた穴の下にある、返金受けに光る百円玉を。
私は咄嗟に百円玉を指で摘むと、手の中におさめた。ぎゅっと握った。
息子は私の動作など気がつかず横で熱狂している。
その後も結人は、ゲームコーナーを堪能していた。電車の乗り物、バス、赤い車、馬の遊具と、ことごとく制覇した。そしてまたパトカーへと乗車。きりがない。そこへ妻からの着信。
「ちょっと、服どっち買うか迷ってるの。こっちに来てくれる?」
「わかった、そっち行くわ」
電話を切り、妻がいる子供服売り場へ行くため、遊ぶ結人に声をかける。
「結人、ちょっとママが呼んでるから遊ぶのやめて行こか?」
「いや!」
予想はしていたが、やはり返答はNO。
私から離れ、電車の遊具に乗り込んだ。
歩を進め、私は電車の中を覗きこみ再び説得を試みた。
「いや! まだ遊ぶ!」
こういう時の息子は怪物に見える。
「結人」
「……」
息子は返事もせず、夢中にレバーをガチャガチャ動かす。
「結人」
私の声も段々と大きくなる。
「もうちょっとする!」
これでも自制はできるようになったと自分で自分に感心する。一年前なら、すぐに声を荒げ怒鳴って、無理矢理にでも電車から引きずり下ろしていただろう。怒りっぽいことはマシにはなったが、しかしやっぱりずっと私も精神を平常にはできない。だから結人に歩み寄る。
「じゃあ、この電車で遊んだら、ママのとこ行こうか?」
「うん」
息子はしばらく――一分ぐらいレバーを動かし、並ぶボタンを掌でバンバン叩き、堪能したのか席を立つ。
「よし、ママのとこ行こうか」
そう呼びかける私の脇を勢いよく通り過ぎ、結人は続いて赤い車に乗り、ハンドルをグルグル回す。
大きく息を吐きながら、私は息子に近寄る。
「結人、約束は?」
「……」
もう限界だ。さすがに怒りが沸々と湧いてくる。ううぅと、感情がむき出しになりそうな時、一計が浮かび上がった。
――物で釣るしかない
これだ。これなら、大声を張り上げず、周囲の注視を集めることもない。だが、私の財布には常時、札は当然ない。昨晩の飲み代の残りもそんなにもないだろう。
だけど……、さっきすばやく財布に入れた返却口の百円玉がある。いくら昨晩の飲み代がそんなに残っていないといっても百円玉一枚は確実にあるだろう。それと返却口の百円を合わせて二百円。これだけあれば、ガチャガチャ――カプセルに入っている玩具が出てくる自販機――はできる。
ハンドルを一心不乱に回し、遊びに興じる結人の耳元に
「ガチャガチャしてからママのとこ行こうか」
と言った。
さっきまで私の声には抵抗的だった彼が、「ガチャガチャ」という言葉を聞くと魔法からさめた子供のように動きを止め、無邪気に私を見る。そして頷いた。
「よし、じゃあ行こう」
「うん!」
とても気持ちのいい返事だ。
私と結人は手を繋いで歩いた。
ガチャガチャは、ゲームコーナーから少し離れたおもちゃ屋さんの前にズラリと並んでいる。
「どれがいい?」
ガチャガチャの前に立って、財布を開けながら結人に尋ねる。
「これ」
結人はミニカーが出てくるガチャガチャを指さした。
「よし」
ガチャガチャにはデカデカと、200円とプリントされたシールが貼られている。
私は財布から百円玉を一枚取り出し、続いて、もう一枚百円玉を探した。
「あれ?」
私は財布を上下に軽く揺すった。百円玉がない。
財布の小銭入れのポケットには、あと十円玉四枚と一円玉が三枚、それに五十円玉一枚しかない。一円玉を人差し指で動かし、百円玉ではないのかと確認するが、色は似ていても一円玉はやっぱり一円玉だった。
「ふぅぅ」
息を吐きながら私は、一歩後ろに下がった。
並ぶガチャガチャの表にはどれにももれなく「200円」と印字されたシールが貼られている。
私は大きく息を吸い、吐いた。そして結人に、
「ママにお金貰ってから来ようか」と冷静に言ってみた。
「厭ぁあ、今買う!」
「今ね、パパお金無くて――」
「いやぁ!」
「結人、お願い、あとで買いに来るから」
「いやぁ! 今欲しいの」
「結人!」
「買うの!」
「だからあとで――」
結人は泣きだした。
私は泣く息子を脇からかかえ抱っこした。
「買う!」
私は、私の両手の間で身をよじらせながら叫ぶ息子に心の中で謝りながらその場を去った。
三階から二階に行く間、結人は、私の顔を引っ掻き、叩き、私の髪の毛を引っ張り、掻き毟り、感情を爆発させていた。
「どうしたのっ?」
子供服に着いた息子と私を見て、妻は仰天していた。
結人は、子供服売り場に着いた頃には少し落ち着いていたが、彼の顔は涙、鼻水、よだれでまみれていて、ぐちゃぐちゃになっていた。そう言う私も、髪は乱れ、引っ掻き傷が赤く頬に残り散々な面だったらしい。
結人を床に下ろし、とりあえずゲームコーナーでの出来事を妻に説明した。妻は私の話を聞き終わると、泣き疲れて佇む結人の肩に手を置いてしゃがんだ。
そして結人の服を買ってからガチャガチャ買いに行くねと約束した。結人は静かに頷いた。私は、妻が魔法使いのように見えた。
結人説得後、すぐに妻は、ハンガーに吊るされた子供服二枚を持って私の前に突き出した。
「この二枚のどっちかか?」
「そう」
「二枚とも買ったら」
「でも両方で、三千円超えるよ」
「うぅん」
給料を稼いでいる身分だったら景気よく、「両方買お!」となるのに、私は無職。さっきは二百円の玩具すら買えなかった。私はまた落ち込んだ。
「どっちにしよう?」
妻は聞いてくる。
「うぅ」
と、頬のひりひりした痛みをさすりながら悩む私の横で唐突に妻が声を上げた。
「そういえば、津木さんの奥さんらしき人見たわよ」
「えっ? どこで?」
「さっきこの子供服の前を歩いてた。横にいたのが旦那さんかぁ」
「え? でも津木くん、今日も朝から仕事って言ってたのにな。何分ぐらい前に見たの?」
「えぇっと五分ぐらい前かな? でも一瞬しか見てないし、津木さんの奥さん本人かどうかは断言できないよ」
「そうか。まぁ見間違いってこともあるやろうからな。――さてどっちにするか……」
結局、結人の服は、デザイン云々よりも二枚のうちで安い方を購入した。
そのあと我々は、ゲームコーナーに赴き、ガチャガチャをしてから遅めの昼ごはんを一階にあるレストランで食べた。
昼食を食べ終わり、レストランを出てすぐ妻が私の肩を叩いてきた。
「広ちゃん、あの人、あの人津木さんよ、津木さんの奥さんよ」
「え? どれ」
妻の視線を追うと、私たちの少し前に、寄りそいながら歩く一組のカップルがいた。
顔は前を向いているので確認できない。できないが横にいる男は……。
「違うやろ。横にいる人津木くんちがうで」
「でも、そうよ。奥さんあの服だったもん。背中のざっくりあいたピンクのワンピース。印象強いもん」
「背が明らかに違う。津木くんあんなに背高くなかったぞ。それにもっとガッシリしてた。あんな華奢な――」
「私、顔見てくる」
「お、おい。やめ――」
私の制止など聞かず、妻は、小走りにカップルに近寄っていき追い抜き、少し経って、踵をかえしカップルの横を通り抜けこちらに戻ってきた。
「やっぱりそうよ。津木さんよ。間違いない」
「おまえ、懇談会でもそんなに奥さんの顔見てないんやろ? 見間違いやって。それに子供は? 娘さんはどこにいてるの? いないやん」
「それはなんでかわからないけど、あの化粧映えする顔、絶対そうよ。津木さんママよ」
「ええ? マジか」
私たちが立ち止って話していたから、カップルはそのまま離れていきやがて人ごみに紛れた。
私も一応男性の方が津木くんかどうか確認するため、妻といっしょの行動をとろうとしたが、やめた。するまでもなく、あれは津木くんじゃないと断言できたからだ。