第十一章 障壁(続き) 第十二章 欠けた残月
第十一章 障壁(続き))
3
久山俊彦は、犯行をあっさり自白していた。
贖罪の思いが強く、勾留された後は、一貫して、警察側に調子を合わせるような供述をしていた。
捜査陣が『視野狭窄』の状態に陥っていたとすれば、そのためだ。
久美が言ったことは、全てが、直感と推測に頼ったものだった。
その上、捜査陣や検察がほぼ固めていた久山と藤田の起訴内容の大半を、ご破算にしなければならないようなことだった。
公判になると、民間人には想像もできないほど、裏付けの捜査段階での瑕瑾が許されない。原則は、完全に証拠主義だ。直感と推測だけでは、どうにもならない。
牧山は、厄介な問題がいろいろ出て来ることがわかっていながら、事件を見直してみることにした。
牧山自身、久山が犯行時の供述をした時の内容が、最初に殺害現場を検分した時の印象と違っていて、どことなく違和感を覚えたことを、今さらながら、思い出していた。それをとことん突き詰めなかったのは、捜査陣の鋭い嗅覚が、久山の迎合的な態度によって鈍らさてしまった結果だろう。そう考えるしかなかった。
牧山は、捜査資料の中から、殺害現場の写真を取り出した。
床をほぼ真上に近いところから撮したカラー写真が何枚かあった。その中から床が鮮明に撮っている一枚の写真を選んで、改めて、それに見入った。
コンクリートの床に大量の血が流れている。
血が広がっている中に、白いところがある。
やや細長いものと、半円形のものだ。
細長いものは、倒れたガイシャの体の部分で、その周囲に血が流れたり、滴り落ちたことがわかっていた。
半円形のものは、そこに何があったのか、確証が得られるところまでは至っていないのだが、久山の供述後は、そこはナップザックが置かれていた場所だと推断されていた。丸い底部の片半分の形と大きさが、ほぼ、一致していたからだ。久山も、問い詰められた末だったが、それを否定しなかった。
牧山は、押収した証拠物の検証記録を見直した。
ナップザックの鑑識では、閉じ口や閉じヒモのあたりからはルミノール反応が出ていたが、その下の本体からは出ていなかった。
牧山は、ナップザックを改めて鑑識に回し、再度、本体と底辺のあたりを入念に調べてもらった。
鑑識の結果は、最初の鑑定結果と同じだった。
牧山は、捜査記録や供述調書の見直しを始めた。犯行時と犯行後のトイレの灯りのことを記載してある個所に、特に、注意した。久美に指摘された時、すぐに閃いたことがあった。
記録をあらためて見直してみると、藤田は、トイレの灯りは消えていた、と供述している。
事件後の周辺の聞き込み捜査で、塾帰りの高校生・松岡大樹が犯行当日の午後十一時過ぎに公園のトイレの灯りを見た、と言っている。
警察に通報した廣森秀雄が、早朝、犬を散歩に連れ出して、途中でトイレに入って、肝を潰した、と言っている。
その時まで、トイレに入った者がいなかったことは明白だ。
トイレに入った者がいたとすれば、灯りが必要だったはずだし、灯りがついていたとすれば、廣森と同じように、肝を潰して、警察に通報したか、少なくとも、大騒ぎになったはずだ。
早朝に廣森から通報があって、牧山ら捜査陣がトイレに急行した時にも、トイレの灯りはついていた。
牧山は、藤田の供述には嘘がある、それに、隠していることがある、と確信した。こうなると、不審なところがいろいろ出て来る。
久山俊彦は、犯行時、血を見て動転して、握っていた包丁を放り出してしまった、と言っている。
廣森秀雄は、トイレの床に包丁が落ちていた、とは言っていない。
廣森の通報で直ちに駆けつけた捜査陣も、トイレの内外で、凶器を発見していない。
包丁を持ち出した者が久山でないとすると、誰が包丁を持ち去ったのか。
トイレの入り口が見えた途端に、赤い血らしいものを見た、と藤田は供述している。
牧山は、若い刑事を伴って、夜の公園に出かけた。
灯りを消しておいて、男女共用の入り口の近くから、コンクリートの床を見た。五、六メートルほど離れたところに立っている水銀灯の灯りは、幅の広いコンクリートの外壁に遮られて、男女トイレの入り口周辺の床は暗闇に近い状態だ。
目を凝らしたとしても、『赤い血らしいもの』が見えたはずがない。
見えたとしても、『赤く』見えたはずがない。
さらに、何か黒い物体を見たとしても、仰向けに倒れていた、などいう供述は、灯りがついていなければできないことだ。
この段階で、死んでいた、とも供述している。こうも簡単に、人の生死の判断ができたとは思えない。
ほぼ暗闇に近い状態で死体を運び出した、というのも考えられないことだ。
後の状況を知って供述したとも考えられるが、供述したときの状況を思い出すと、全部ではないにしろ、藤田の供述には嘘が潜んでいる、明らかに隠していることがある、牧山はそう確信した。
被疑者が、このような虚偽の供述をする時には、必ず裏に大きな真実が隠されている。これは牧山の長年の経験則だった。
事件全体を見直す必要があったので、藤田は、再度、大南署に留置されることになった。
取り調べ室に入ってきた藤田は、青ざめて、面窶れがひどくなっていた。
宮原弁護士から、罪は死体遺棄だけで、それも、関わった状況から判断して、執行猶予がつくだろうと言われていたはずだ。
それにしては、落ち込み方がひどかった。
藤田は、“真犯人”が逮捕されたことを知って、おそらく、青くなったに違いない。逮捕された者の供述から、遠からず自分の嘘が明らかになるかもしれない。それを恐れて、生きた心地がしなかったはずだ。取調室に入って来た藤田を見て、牧山は、そう推察した。
確信を深めた牧山は、藤田を厳しく問い詰めた。
藤田は、最初から、牧山の目を見ようとしない。
久美の推理の内容と、牧山自身が明らかにした事実を、次々に突きつけると、藤田はしどろもどろになった。
こうなると、落ちるのは時間の問題だ。
決定的だったのは、トイレの床に流れていた血のことを訊いた時だった。
「この写真を見てみろ」
「・・・・・・」
「何か気がついたことはないか?」」
「・・・・・・」
藤田は、怯えた目で写真を見たが、すぐに目を逸らした。
「しっかり見ろ! ここに白い部分があるだろう。何か思い当たることはないか?」
藤田は目を向けたが、顔から血の気が引いている。
「この白い部分は、ガイシャが刺されて、血が噴き出した時、ここに何かがあったということだ」
「・・・・・・」
藤田は、俯いたまま、黙秘を続ける。両肩と、両膝に乗せて突っ張った両腕が、小刻みに震えている。
久山の供述からは、この白い部分の説明がつかない。ナップザックが置いてあったとすると、その本体の片側から、底辺にかけて、かなりの血が付着したはずだが、鑑識の結果は、そうでないことを証明していた。
「久山がここを出たときまでは、なかったものだ」
「・・・・・・」
「おまえの車の運転席のシートの右側と左側から、ガイシャの血が検出されている。なぜだかわかるな?」
「・・・・・・」
「言ってやろうか・・・・・・おまえのズボンの尻の両側に血が付いていたんだ!」
「・・・・・・」
牧山は、立って行って、写真を藤田の目の前に突きつけた。
半円形の個所を指先でつつきながら、厳しい口調で言い切った。
「これは、おまえの尻の跡だ! おまえがここに座ってたんだ! それも、血溜まりの中に腰を据えたんじゃない! 大量の血が噴き出す前だ!」
「・・・・・・」
「それに、おまえの靴の跡はあるのに、久山の靴の跡がない。意味がわかるか? 久山は、血が大量に噴き出す前に、ここを出ていたんだ!」
大南署に再々留置されてから、わずか二日目に、藤田は全てを自白した。
藤田が自白した内容は、想像もできないような、驚くべきものだった。
4
藤田は血を流して倒れている恵美を見て、心臓が止まるほど、驚愕した。それでも、立ち竦んでいたのは一瞬で、すぐに駆け寄って、恵美を抱き起こした。
すると、なんと、恵美が虚ろに目を開けた。
藤田の顔に目を向けた途端に、口が悲鳴を上げる形になった。
声が出ない。
引き吊った目が、明らかに、狂っていた。
激痛にも襲われていたはずだ。
恵美は、突然、暴れ出して、藤田の手から逃れようとした。
藤田は、腰を床に落として、暴れる恵美を後から羽交い締めにして、動きを止めようとした。
恵美の抵抗は、女とは思えないほど激しいものだった。
完全に自分を失っていた藤田には、一瞬、何か得体の知れない生き物が暴れているように思われた。
誰か来るかも知れない、どうにかしなければ、このままでは、自分が恵美を襲った犯人にされる。
藤田は完全にパニック状態になっていた。
恵美は、突然、悲鳴を上げ始めた。
恵美を大人しくさせること、これだけが、藤田が次に取る行動を決めてしまうことになった。
完全に自分を失ってしまった藤田の視線の先に包丁が落ちていた。
藤田自身にも全く説明のつかない行動を取った。
手を伸ばして、包丁をつかんだ。
何をしたか自分でも覚えていない。
血が噴き出して、はっと我に返った。
牧山は、頸動脈を切ったのは、この時だったのだろうと思ったが、藤田が供述したことを、そのまま、鵜呑みにすることはできなかった。
ストーカー行為をするほど好きで、死体から血を拭き取ってやり、死体を遺棄することに耐えられなかった人間が、いくら自分を失っていたとはいえ、こんなことをするだろうか。結果が、あまりに残酷で、無惨だった。
何か動機があったのではないだろうか。
そう思った牧山は、藤田を問い詰めた。
藤田は、しばらく口を開こうとしなかったが、やっと、こんな意味のことを言った。
ストーカー行為を始めてしばらく経った頃、先回りして、自販機の前で、缶コーヒーを買うふりをしながら、待ち伏せていたことがあった。
恵美が近づいて来たので、実際に缶コーヒーを買って、それを手にしたまま、向き直って、胸をひどくどきどきさせながら、近づいて来た恵美に顔を向けた。恵美は、確かに、藤田の顔を見た。しかし、すぐに顔をそむけると、歩速を早めて、通り過ぎて行ってしまった。その時のショックは大きかった。やっぱり、おれのことなんか・・・・・・
牧山の顔に冷笑が浮かんでいる。
そんなことで、殺意が生じたというのか。
牧山は、その思いを、こんな言葉で言い換えた。
「それで、ちくしょう、今に見てろ、とでも思ったのかね? そんなことで人を殺したと言われて、信じる人間がいるとでも思ってるのか。それに、周囲の気配は完全に夜だったはずだ。明るい自販機を背にした状況では、同級生だったにしろ、高校時代以来会ってないんだから、一瞬のうちに、君を識別できたとは思えんのだがね」
藤田は、反論できずに、項垂れた。
藤田が黙秘を始めたので、それ以上、藤田の心の中に立ち入ることはできなかった。
人間の複雑な心の中の動きは、他人にはわからない。
当人にもわからないことだってあるだろう。
それに、こんな会話の結果で、藤田の犯行そのものが覆るわけでもない。
牧山は、後味が悪かったが、尋問を打ち切ることにした。
5
藤田の一連の異常な言動については、供述を基にして、次のような解釈がなされた。
自首した時は全てを正直に話すつもりだった。
しかし、八時間以上にも及ぶ、容赦のない尋問が、連日、続いた。
その後も、殺人容疑者として、過酷な扱いを受け、その状況が変わることはなかった。
初犯の藤田は、人間扱いされていないような屈辱と恐怖を味わっているうちに、殺人という重罪を犯すことがどれほど恐ろしいことか、身をもって知ることになった。
殺人犯になりたくなかった。同時に、自分をこういう状況に追い込んだ男が許せなくなった・・・・・・
藤田の新たな自白後も、凶器の発見という難題が、またもや、捜査陣の前に立ちはだかることになった。
藤田は、凶器の包丁は、廃車置き場に車を放置したとき、遠くの藪の中に投げ捨てた、と自白した。
廃車置き場の周辺の灌木や藪の中が徹底的に捜索された。
藤田の車が発見された場所から四、五メートル先の雑草に覆われた土の中から、ボロボロになった木綿製の下着が出て来た。
死体から血を拭き取った時の藤田のものだとわかった。
凶器の包丁は、二日間の捜索では、見つからなかった。
藤田に虚言癖があると思っている牧山は、藤田の感情の動きに気を遣いながら、改めて、慎重に問い詰めた。
藤田は、今度は間違いない、と、涙ながらに、繰り返し明言した。
藤田が現場に連れて来られた。
大中小三つの包丁を準備して、包丁を投げ捨てた時と同じ方向に、同じ力で投げろ、と指示して、投げさせた。
包丁は、三つとも、二,三十メートルも飛んだ。
藤田が投げた三つの包丁が飛んだ先の樹木や灌木や藪が、草苅機や大鉈や電動鋸などを使って、二、三十メートル四方にわたって、徹底的に切り払われた。
三十名を越える警官たちが、横に隙間なく並んで、靴で土をかき分けながら、亀のように、蝸牛のように、往復することになった。
強力な磁石も使われた。
捜索隊が、どよめいた。
見つかったのだ!
錆び付いて、ほとんど土の中に埋もれていた。
雨の日もあった。夏の間に豪雨も降った。
土が跳ね上がって、泥の中に埋もれてしまったものと思われた。
久美は、その日のうちに、凶器発見の知らせを聞いた。
竹添が、現場から、久美のケータイに電話を入れてくれたのだ。
久美は、様々なことが思い出されて、涙が止まらなかった。
包丁に付着した血の痕跡からルミノール反応が出た。
包丁を見せられた久山が、犯行時に使ったものだ、と証言した。
竹添が、なぜ発見現場にいたのか。
竹添は、どうしても、凶器の発見現場にいたくて、県警本部からの捜索隊に加わっていたのだ。
第十二章 欠けた残月
1
検事の峯崎は、改めて、久山俊彦は強盗並びに殺人未遂、藤田克也は殺人と死体遺棄、がそれぞれの主たる罪名で、起訴内容もそうなると判断していた。さらに、藤田の事例は、いわゆる、『未必の故意』が適用される事例だろうと考えていた。
峯崎は、牧山と同じように、藤田の動機に疑問を持った。
藤田のやったことは、恋い焦がれていたはずの女性に対するものとしては、あまりに残酷で、異常だった。藤田が取った行動は、犯行前と後では、同一人のものとは思えなかった。
藤田の起訴内容そのものに影響はなかったが、公判を前にして、この疑問を払拭しておきたいと思った。
峯崎は、犯行時と犯行前後の行動を一つ一つ確認し終わってから、藤田に言った。
「しかし、君も残酷なことをしたもんだな。すぐに救急車でも呼んで、助けてやろうとは思わなかったのかね」
「・・・・・・」
「ストーカーをするほど好きだったんだろう? 通りがかりに気づいてもらえなかったぐらいで、こんな残酷なことをするもんかね」
「・・・・・・」
藤田は、俯いたまま、口を開かない。
「他に何か動機があったんじゃないのかね?」
藤田は、見るも無惨に憔悴して、血の気の失せた顔が紙のように白くなっている。峯崎が、その様子を見て、もうこれくらいにしておこうか、と思い始めていると、藤田が俯いていた顔を上げた。
「佐々木のやつに・・・・・」
「えっ! 今、何と言った!」
「・・・佐々木・・・」
「佐々木? 佐々木、って、誰のことだ?」
「・・・同級生・・・」
「えっ! 同級生? ・・・どこの同級生だ・・・高校か?」
「・・・はい」
「君が殺した薗田恵美も高校時代の同級生じゃなかったのか」
「・・・はい」
「その、佐々木、って・・・男か?」
「女、です」
「えっ! 女? 佐々木、何と言う名だ」
「佐々木・・・やよい・・・」
「その、佐々木、やよい、が、どうしたんだ? ・・・その女に、薗田恵美を殺せ、とでも頼まれたのか?」
曖昧だったが、真っ赤になった目に涙を溜めた藤田が、頷いたように見えた。
峯崎は、なんてことだ、と思った。
驚いた峯崎が問い詰めていくと、藤田は、驚くべきことを言った。
藤田の供述を基にして、以下に、場面や状況を再現する。
2
佐々木弥生とは、一年半年ほど前の同窓会で会った時に、お互いのケータイの電話番号とメールアドレスを教え合っていた。
佐々木は、そう美人とは思わなかったが、出るべきところが出た魅力的な体つきをしていた。
同窓会で会って以来、佐々木のことを忘れることができなかった。
ケータイに登録してある佐々木の電話番号を画面に出しては眺めていることが多かったが、実際に電話したことはなかった。
佐々木は、一流企業のシグマ車体に勤めている、と言った。
藤田は、卒業後の自分に誇りが持てなかった。
男ばかりの職場で、仕事にも追われ、女性と交際した経験がなかった。
女性に好かれるとも思っていなかった。
そんな藤田に、今年の正月二日に、思いもよらず、佐々木弥生から電話が入った。どこかで会いたいんだけど、会ってくれないか、と言う。
夢ではないかと思いながら、藤田が承諾の返事をすると、佐々木は、明日(一月三日)の午後二時に、名鉄のK駅前で待っている、と言った。
翌日、午後になるのを待ちかねて、車を飛ばした。
K駅前に早めに着いてしまったので、午後の二時になる頃まで、駅の周辺を走り回った。
来るはずがない、と半分諦めながら、何度目かにK駅前に近づくと、佐々木がタクシー乗り場の近くに立っていた。
薄紫の上品な色をしたコートのウエストが形よく絞られて、胸や腰のふくらみが目についた。背丈がほどほどあって、プロポーションも悪くない。肌色のストッキングの両脚が、コートの下にすんなり伸びて、真珠色の形のいいハイヒールの上に乗っていた。
パワーウインドウの窓を開けて、車を寄せた。
声をかけようとして、それほど目立つこともなかった同級生が、こんなに魅力的できれいだったかな、と驚いた。たぶん正月用なのだろうが、きれいに化粧していた。睫毛とアイシャドウが涼しげで、長い髪の毛が顔の両側で微妙にカールしていて、アイドル系の美人に見えた。
助手席に乗り込んできた佐々木から、えも言われぬ香水の香りが漂ってきて、頭がクラクラした。
ちょっと遠いけど、海の見えるところへ行きましょう、と佐々木が言ったので、南の方へ向かった。
胸がドキドキして、あまり、口がきけなかった。
佐々木は高校時代の思い出話を始めたが、途中で、
「薗田恵美さん、覚えてる? 二年生の時、同じクラスだったでしょう?」
と、言った。
「薗田・・・恵美・・・? あー、薗田恵美、ね。男子生徒は、たぶん、みんな覚えてるはずだよ」
「へえー、そうなの」
佐々木は、不服そうな声で言った。
「・・・薗田が、どうかしたの?」
「今、同じ職場に勤めてるの」
「えっ! そうなの? ・・・会ってみたいな。同窓会には出て来なかったもんね」
「お嬢様育ちで、人付き合いが苦手みたいね。大南駅に行けば、見かけるかもしれないわよ。電車で通勤してるから、駅前で待ってたら、降りてくるわ」
「何時頃?」
会話の流れで訊いただけで、他意はなかった。
「退社時間になったら、まっすぐ家に帰ってるみたいだから、六時頃から六時半頃の間なら、たぶん、会えると思うわ」
「会える、って? 会ったって、おれのことなんか覚えてないよ」
「試してみたら?」
「・・・でも、そんなことしたって、意味ないよ」
「恵美、って言えば・・・話は違うけど、私、正社員じゃないのよ。シグマ車体には、恵美のお父さんの口利きで、派遣で入ってるの。正月が明けたら、辞めなきゃいけなくなると思うわ」
「大企業でも派遣切りがひどくなってるみたいだね。でも、シグマは違うんじゃないの」
「そうじゃないのよ。もう、派遣社員の大半が辞めさせられてるわ」
「薗田のお父さんに、辞めなくていいように、頼めないの? 系列だから、今度も、なんとかしてくれるんじゃないの?」
「私も、そう思ったの。二年生と三年生の時、恵美と同じクラスで、気も合って、何度か家に遊びに行ったことがあったから、お母さんを知ってるし、お父さんにも、ご挨拶くらいしたことがあったの」
「そう言えば、仲がいいように見えたな。二年生の時は、おれも同じクラスで、薗田のことが気になってたから、わかるんだけど・・・・」
「好きだったのね」
「・・・・・・」
「あっ、赤くなった」
「そんなこと、いいよ。今では、何とも思ってないよ。それで、薗田の家に頼みに行ったの?」
「年末に連れて行ってもらったわ」
「どうなったの?」
「お父さんが会ってくれて、話は聞いてもらえたわ・・・派遣で入れたのも、恵美のお父さんの口利きがあってのことだったから、同情はしてくれたんだけど・・・大南工場も、期間従業員の解雇が終わって、派遣切りの最中で、一月中には、派遣社員はいなくなる、正社員も、就業時間の短縮だけではすまないだろう、シグマ車体は、もっと深刻なことになってる、なんて話を聞かされたわ。ストレートな言い方じゃなかったんだけど、結局、そんな状況じゃ、系列他社の人事に口出しできない、というようなことを遠回しに言われたわけね」
「・・・今度の不況は、半端じゃないもんな」
「そうね・・・今ごろ、辞めることになったら、まともな仕事先なんか見つかりそうもないわ」
「残った方がいいよ。あんな大企業が一人や二人の人件費をけちるなんておかしいよ。なんとかなるんじゃないの?」
「残れるとすれば・・・恵美が問題になってくるわね」
「えっ、どういうこと?」
「入社したてのころは、あの人、私がいなければ、使い物にならなかったのよ。だけど、最近は、違うわ・・・。あの人は正社員で、私は派遣、私が辞めさせられるしかないのよ。でも、資材関係のコンピューター管理は、そう誰にでもすぐにできることじゃないし、シグマ車体と言ったって、分工場の一つだから、この部署には、限られた人員しかいない・・・だから・・・」
佐々木は、ちょっと言葉を呑んでから、続けた。
「恵美のお父さんは、私には、あんなこと言いながら、自分の娘を辞めさせる気はないのよ。自分は高額のお給料を貰っていながらよ。派遣社員なんか、どうなってもいいと思ってるのよ。世の中って不公平だわ」
藤田がちらっと横目を向けると、佐々木の目尻に涙が光っていた。
藤田は、おぼろげながら、佐々木が自分を呼び出した理由がわかったような気がした。
「・・・薗田恵美、が・・・会社に・・・出て来なくなればいいんだな」
「そんなつもりで言ったんじゃないわよ。そんなことできっこないもの・・・でも、そういうことにでもなったら・・・あなたと・・・」
あなたと、ホテルへでも、どこへでも行くつもりよ、と、佐々木が呟いたような気がした。
藤田が驚いて目を向けると、佐々木は顔を赤くして、俯いた。
3
藤田は、佐々木弥生の話を真に受けて、ストーカーまがいの行為を始めた。本気で薗田恵美をどうかしようという気はなかったし、それができるとも思っていなかった。それでも、機会を窺っていた。仕事がなくなって、時間を持て余していたからだ。高校時代の恋心も蘇っていた。
そんな状況で、不運なことに、久山の犯行の現場に行き会ってしまった。全くの偶発的な出来事だったはずだが、藤田は、その機会を利用した。
峯崎は、そう、思った。
立件できるようなことではなかった。
佐々木を見つけ出せば、任意の事情聴取はできるだろうが、その結果、たとえ、藤田が言った事実を認めたとしても、打つ手がなかった。佐々木は、恵美を殺せ、とは一言も言っていない。藤田が勝手にやったことだと言い張れば、それですむことだった。
峯崎は、佐々木の立件どころか、事情聴取の指示さえ出さなかった。
これを聞いた牧山は、さすがに、開いた口が塞がらなかった。
これほど厄介な事件は、牧山も、初めてだった。
事件発生当初、牧山は、聞き込み捜査で、佐々木には何度も会っている。
ひどく衝撃を受けているように見えた佐々木は、社内の聞き込みでは、捜査員の案内役を自分から買って出てくれたりした。
牧山は、薗田恵美の事件後ほどなくして、佐々木がシグマ車体を辞めたことを知った。その当時は、佐々木も派遣切りの対象になったと理解して、疑念を持たなかった。しかし、このような事実が明らかになってみると、佐々木は逃げ出したのだ、藤田の知らないところへ姿を眩ます必要があったのだ、と考えざるをえなかった。
藤田克也は、薗田恵美が帰宅時に乗る電車の時間を誰かに聞いたと言った。誰に聞いたか、頑なに口を閉ざして、言わなかった。
牧山も、そのことを深く追求しなかった。
今になって思えば、恵美の帰宅の習慣を知っていて、藤田に教えることができたのは佐々木以外に考えられないのだ。
牧山は、藤田との再尋問や再々尋問の過程での微妙な綾や駆け引きを知らない峯崎と違って、簡単に結論を出してはいけない立場にあった。
藤田の周辺で佐々木らしい女を見かけたと思われる情報は、黒っぽいワゴンタイプの軽自動車が大南駅の近くに停まっていて、その車の中の人物に外から話しかけている若い女を見かけた、というタクシー運転手の証言があるだけだった。
牧山は、この女が、様子を見に来た佐々木だったかもしれない、と思った。
この運転手の所属営業所がわかっていたので、駅の近くの営業所に出向いて、この運転手の所在を訊くと、駅前で客待ちをしている、と言う。
当の運転手から話を聞くことができたが、結局、次のような事実が判明しただけだった。
軽自動車が停まっていたところは暗がりで、場所も離れていた。若い、と思ったのは服装から判断しただけで、実際は、服の色も、女の年齢もわからなかった、と言う。
運転手が見たという若い女が佐々木弥生であるという証明はできない、たとえ、それが佐々木であったとしても、意味がない、牧山は、そう、判断せざるを得なかった。
一月三日の午後二時頃、名鉄のK駅前のタクシー乗り場の近くに、若い女が立っていて、濃紺のワゴンタイプの軽自動車が迎えに来て、その車に、その女が乗り込んだ、という証言を得ることができるかもしれない。その女は、目立つ化粧をし、派手な服装をしていたと思われるからだ。
しかし、たとえ、その女が佐々木であるという証言が得られたとしても、佐々木が藤田に殺人教唆をしたということにはならない。
牧山は、佐々木弥生の捜査を断念した、
藤田の周辺に、藤田の母親以外に、女っ気を感じなかった。
佐々木は、その影さえ見せなかった。
藤田が佐々木に裏切られていたことは明白だろう、と牧山は思った。
牧山は、久美に電話して、このことを伝えた。
久美が、どんなに驚いたか、想像に難くない。俄には信じることができなかった。
しかし、久美は、やっと、事件の全貌が理解できたような気がした。
久美の頭の中には、藤田の再々自白後も、痼りとなって残っていることがあった。
藤田がやったことと、その犯行前後に取った行動との落差は、同じ人間とは思えないようなもので、久美の理解の範囲を超えていた。
恵美の喉を刺した時の藤田には、明らかに、殺意があった。佐々木に教唆されたことによる殺意だ。殺した後になってから、本来の藤田に戻った、久美は、そう、思った。
牧山が再尋問した時、藤田は、女に相手にされない、と言って、涙を流していたが、その時も、佐々木のことは一言も言わなかった。
自首するまでの間に、佐々木を抱く機会があって、佐々木によほど未練を残していたのだろうか。それとも、佐々木のことを持ち出しても、証明する手段がないので、諦め切っていたのだろうか。
恵美が殺されたことが報道された時、佐々木は、藤田がやった、と、即座に思い至ったはずだ。
当時、テレビや新聞が、連日、過熱気味に報道していた。ワゴンタイプの濃紺の軽自動車が藤田のものであることも知っていた。
震え上がった佐々木は、藤田との接触を断とうと、必死になったはずだ。
恵美を殺すことになってしまった藤田の方は、泣き寝入りするしかなかったはずだ。佐々木と連絡が取れなくなっても、犯行の発覚を恐れて、身動きができない状態に陥っていたに違いない。
4
久美は、世の中には藤田のような凶運に見舞われる人間もいるのかと思って、暗澹とした気持ちになった。
それにしても、わからないのは佐々木弥生だ。
新しい就職先を見つけることが困難な状況だったにしろ、それだけの理由で、同僚であるばかりでなく高校以来の無二の親友だったはずの姉を抹殺しようと考えるだろうか。姉を殺すことを藤田に示唆してまで、シグマ車体に残らなければならないような事情が、他に何かあったのではないか。
藤田の供述から判断する限り、佐々木に殺人を教唆するほどの強い意図があったと考えるのは酷なような気がしたが、結果的に、佐々木は、ただ姉を裏切ったばかりでなく、藤田という若者の人生を狂わせた。何の罪にも問われずに、事件の外にいるのは、理不尽なことじゃないのか。それに、佐々木の“本当の動機”は何だったのか。
久美は、佐々木弥生を立件する方法はないものか、少なくとも、任意出頭だけでもさせられないか、と考えた。
それなりの証拠がなければ立件できない。
このことは、骨身に浸みて、わかっていた。
久美は、いろいろ考えた末に、突破口が開けそうな方法は一つしかない、それでダメなら諦めるしかない、と思った。
久美は牧山に電話を入れた。
先ず、牧山たち捜査陣の労を心からねぎらうと、牧山は、事件が解決したというのに、元気のない声で、こう言った。
「いや、こちらこそ。久美さんには、ほんとに、ご苦労をかけました。事件が解決してほっとしています。ただ、これで、亡くなったお姉さんやお母さんが喜んでくださるかどうか・・・後味の悪い結末になりましたからね。・・・しかし、これで矛を収めるしかないでしょう」
「そうですわね。姉や母は、もう二度と、この世に戻ってくることはありませんが、事件は解決したのですから、納得しています。・・・でも、これは、牧山のおじさんでなければ、どなたにも言えるようなことではないのですが、やっぱり、何か、こう・・・・・」
牧山は、久美の言いたいことは、わかっていた。
「お気持ちはわかりますが、佐々木弥生を立件することはできません。方法がないのです。峯崎検事も、同じような判断をしています」
牧山は、努めて、反論する余地がないような言い方をした。
「よくわかっておりますわ。これ以上、ご迷惑をかけてはいけないと思っております・・・ただ・・・」
「ただ? ・・・ただ、何ですか?」
「一つだけ、念のために、調べていただきたいことがあるのです」
牧山はどきっとした。この事件では、事あるごとに、久美に振り回されてきた。それは、決まって、事件が解決へ向かって、歯車が大きく回転するような時だった。
「われわれが見落としていることが、まだ、何かある、ということですか? 久美さんに、そういう言い方をされると、正直、心臓にこたえます」
「すみません。それほどのことではないと思いますが、ふと思いついたことがあるものですから・・・実は、藤田のケータイのことなんですけど・・・」
「ケータイ? 藤田の携帯電話のことですか?」
「はい」
「・・・確か、押収品の中に入っていたはずです」
「交信履歴とか、そういうものは調べておられますか?」
「交信履歴? ・・・そう言えば、精査した記憶がありませんね。事件の解決に関係がない、と言うか、支障がない、と判断した結果だろうと思います」
牧山は、またもや、どきっとしたが、そう答えるしかない。
「こんなことを言っていいか、迷ったんですけど・・・藤田のケータイのメールの内容を調べた方がいいとお思いになりませんか。調べても、事件に関係のありそうなことは何も出て来ないかもしれませんが、一応・・・・・」
「それは、事件の解明とは別に、当然、やっておくべきことです。早速、精査してみることにします」
牧山は、久美に皆まで言わせず、あっさり、そう言った。
藤田の携帯の内容を調べてもあまり意味がないとは思ったが、なにしろ、藤田は殺人事件の紛れもない被疑者だ。身辺のものは一つ残らず調べておくべきであって、迂闊さを認めないわけにはいかなかった。
久山と藤田が犯行を自白して、物証も完全に揃って、事件は解決していた。考えが及ばなかったとしても責められない。それに、牧山の頭の中には、佐々木の立件はできない、という結論の方が先にあった。
しかし、牧山は、久美がケータイのメール、と言った途端に、その意味がわかっていた。
5
藤田の携帯電話は、押収品の中にあった。
牧山は、交信履歴の精査を、その方面の専門家に依頼した。
藤田の携帯電話の交信記録は、ほとんど音声によるもので、それも、調べてみると、仕事関係のやり取りが主で、時折、実家や、二、三の特定の知人とのものが入っていた。
メールによる発信記録は見当たらず、あるのは着信のみで、それも、携帯電話会社からの連絡や、一方的な宣伝(迷惑メール)と思われるようなものばかりで、私信に類するものはなかった。
関心がなかったのか、操作が苦手だったのか、藤田には、今時の若者にしては珍しく、メールでのやり取りの習慣がなかったものと思われた。
私信に類するメールは佐々木からのものと思われるものだけだった。
その着信メールは、一月三日午後九時十六分付けで、余分なことば、顔文字、ハートマーク、などを取り除くと、概略、次のような内容のものだった。
「今日は、うれしかったわ。あのことで、本気になってくれたみたいね。そんなに期待してるわけじゃないけど、うまくいったら、また、会いましょう。秘密のあの場所でね。私も彼氏がいないと寂しいの。好きよ。ほんとよ」
佐々木からと思われるメールも、この一回きりだった。
音声による通話も、履歴を調べれば、交信相手も、連絡を取り合った日時や回数もわかる。
このメールの後、音声通話の着信・発信記録の中に、佐々木とのものと思われるものが、何回か、あったが、無論、交信内容まではわからない。
藤田の携帯電話に残っていた、ただ一回のメールが、唯一、佐々木弥生が残した証拠と思われるものだった。
牧山は、念のために、藤田の携帯に残っていた佐々木のものと思われる番号に電話を入れてみたが、通じるはずもなかった。
牧山は、課長の水之浦を飛ばして、捜査本部長の大川に直談判して、大川が了承してくれるようなら、単独で、捜査してみようと思った。
牧山は、大川に、久美から電話があったことから説き起こして、その後の経緯を話してから、自分の考えを言った。
大川は、複雑な表情を浮かべて、牧山の話に耳を傾けていた。
大川は、杓子定規な考え方に拘泥らない。それに、こうと決めたら、決断が早く、責任は自分が取ればいい、と考える方だ。
大川は、自分の判断を牧山に伝える前に、傍らの電話機から送受器を取り上げて、地検に電話を入れて、峯崎検事を呼び出した。
前置きをほとんど省略して、牧山警部補が行くから、相談に乗ってくれ、という意味のことを言った。
牧山は、法務関係の出先機関が入っている合同庁舎に出向いて、峯崎と会った。峯崎は、牧山の話に、予想していたよりも興味を示した。
牧山が、最後に、
「立件できるような内容でしょうかね」
と尋くと、峯崎が、
「佐々木が自白して、その内容と藤田の供述が完全に一致すれば、面白いことになるかもしれないね。あくまでも、佐々木の自白が前提だが・・・」
と、言った。
6
佐々木弥生の居所がわからなかった。
単独行動が許されない聞き込みには、若い刑事を同行させた。
牧山は、佐々木弥生が勤めていたシグマ車体のM分工場に出向いた。
社内を震撼させ続けていた恵美の事件が解決して、それが大々的に報道された後だったので、佐々木のことを訊いても、事件と結びつけて考える者はいないはずだ、と牧山は考えていた。
佐々木が勤めていた資材管理課で、佐々木のことを訊いて回ったが、一月の月末を待たずに辞めた後、どこへ行ったのか、知っている者はいなかった。
人事部で、佐々木が派遣されて来た時の書類や履歴書を見せてもらった。
本籍地と現住所の欄に、同じ大南市内の所番地が記されていたので、そこが、多分、佐々木の実家で、親元だろう、と見当をつけた。
佐々木の実家は、大南市の東郊外の住宅地にあった。
母親が応対に出た。
牧山は、『OL殺人事件』が解決したので、ご報告にまいりました、と前置きしておいて、弥生さんには、いろいろご協力をいただきましたので、一言、お礼を言っておきたいと思いまして、と言った。
警察手帳を見せられて、おどおどしていた母親は、牧山が、そう言うのを聞いて、安心したような顔になった。
それから、急に顔を曇らせて、
「恵美さんは、うちにお見えになったこともありまして、よく存知上げておりました。あんな、おしとやかで、優しいお嬢さんがあのような事件に巻き込まれて・・・私どももそうでしたが、娘が受けた衝撃は大変なものだったようで、それは、もう、慰めようもないほど落ち込んでおりました。ほんとに、恐ろしい世の中になりましたね」
「まったく、おっしゃる通りで・・・われわれも、今までとは違う覚悟でいなきゃいかん世の中になってしまっているようです・・・ところで、お嬢さんに、直接、お礼を言っておきたいのですが、今、どうしておられますか?」
「弥生は、派遣の仕事がなくなりまして、その頃から、福岡の専門学校に行っております」
「福岡? 九州の福岡ですか?」
「はい」
「それは、また、遠いところへ・・・・・」
「派遣時代の貯えがあるので、好きにさせてくれ、学生時代の親しい友だちが福岡にいるので、そこでしばらく暮らしたい、と申しまして・・・止めても、聞きませんでした」
「専門学校に行っておられるということですが、何という専門学校ですか?」
「それが・・・コンピューターのソフト関係というだけで、はっきり教えてくれないのです」
「どこに住んでおられるかは?」
「・・・・・・」
母親は、さすがに、不審に思ったようで、不安そうな表情を浮かべた。
牧山は、事件発生当初、薗田恵美の部屋の捜索をした時、返し忘れていたのか、佐々木弥生の名前が入った文庫本が何冊かあったことを思い出した。
「・・・実は、恵美さんが、生前、弥生さんから預かっていたものがありまして、ご家族が、それを、返したいと申し出ておりまして・・・」
「・・・ここへ持ってきておいていただけば、帰ってきた時、本人に渡せば、それでいいんじゃありませんか? ・・・ご面倒をかけるようであれば、取りにうかがってもかまいませんが・・・」
「お嬢さんの居所がわかっておられないのですか? 娘さんがどこにおられるかもわからないようじゃ、年頃の娘さんの親御さんとしては、無責任じゃありませんか」
牧山は強く出た。
気の弱そうな母親は、悔しかったのか、黙って奥に駆け込んで、宅急便の袋を持って出て来て、それを牧山に見せた。
「娘から、五月の母の日に、こうやって贈り物が届いております。父親や私の誕生日にも、贈り物が届いています。様子を見に行きたいと言うと、大丈夫だから心配しなくていい、と言います。その代わり、週に一度は、電話をくれます。その度に、生活費や専門学校の学費のことを心配して、送金するから、と言ってるんですが、自分でなんとかするからいい、と申しまして・・・とても親孝行な、いい娘なんです。親の責任は果たしてきたつもりですし、娘も、親に対する感謝の気持ちは忘れておりません」
母親は、目に涙を浮かべている。
その目元が佐々木弥生に似ていた。
身嗜みに気を使う余裕をなくしているのか、顔が窶れて、髪の生え際に白髪が目立っている。
痩せた顔が老けて見えるのは、心労が重なっているせいだろうか。
それでも、牧山は、上着の内ポケットから、手帳を取り出さざるを得ない。
刑事の仕事というのは、因果なものだ、と思った。
「いや、失礼しました。・・・社内の聞き込み捜査の時には、献身的に協力していただきました。・・・おっしゃる通り・・・よくできた娘さんです」
牧山は、そう言いながら、宅急便の送り主の住所と電話番号を、手早く、メモした。
母親は、目に涙を溜めたまま、その様子を見ていたが、何も言わなかった。
7
大南署は、佐々木弥生に、任意出頭を求める文書を送った。
宅急便の袋に記載してあった福岡の住所宛だ。牧山は、任意出頭の文書に反応がなかった場合は、福岡に出向くつもりでいた。
佐々木は、警察からの出頭要請に動転したらしく、文書を発送して一週間も経たないうちに、大南署に出頭して来た。
佐々木は、藤田の携帯電話のメールの内容を問われても、空とぼけて、そのような意図はなかったと言い張り、その他のことも、知らぬ存ぜぬで貫き通せば、警察側は無罪放免にするしかなかったのだ。
ところが、佐々木は、すっかり観念して、覚悟を決めて、出頭したようだ。
取調室に入った佐々木は、尋問が始まる前に、泣き伏した。
親友の恵美が実際に殺されてみると、その衝撃は計り知れないほどのもので、身も世もないほど後悔して、生きた心地がしなかった、という意味のことを言いながら、しゃくりあげた。
聞き込みをした頃の佐々木は、女子学生風の清楚な雰囲気を持っていた。
出頭してきた佐々木は、短期間のうちに化粧やけでもしたのか、面貌が見違えるほど変わっていた。面窶れがひどく、受ける印象が荒んで見えた。
福岡にいた理由を問われると、藤田から逃げようと思った、専門学校というのは、親を安心させるための口実で、バーやスナックで、夜の仕事をしながら、事件への関心が下火になるのを待つつもりでいた、と供述した。
藤田の携帯メールの中にあった言葉、あのこと、とは、どういう意味か、と問い詰められて・・・殺してくれ、と言う意味ではなかった。でも、藤田が、そういう意味に取ったとしたら、言い訳はできないし、言い訳する気もない、自分があんなことを言わなければ、藤田は、あんなことはしなかったはずだ・・・
職場に残りたいという思いだけで、藤田に、あんなことを言ったのか。
高校以来の無二の親友だったはずの薗田恵美に対するものとしては常識では考えられないような冷酷な仕打ちだと思われるが、他に何か動機があったのではないか。
尋問しているのは、無論、牧山。
久美が一番知りたかったことだ。
佐々木は、次のような意味のことを言った。
高校時代、家庭が裕福で、男子生徒たちのマドンナのような存在だった薗田恵美に対して、羨望・・・羨望というより、嫉妬心を燃やしていたような気がする。それなのに、恵美と親しくしていることで、男の子たちの関心を集めようとしていた自分が惨めだった。
社会人になって、そんな思いはなくなったと思っていた。
ところが・・・恵美が同じ会社の同じ課に入って来て、そうじゃないことがわかった。
同じ課に、立石徹という男性社員がいて、恋心を懐いていた。 時々、デートに誘われるほどの仲になっていた。
恵美が入社して来てしばらくして、立石が恵美に親しげに話しかけるところを見かけるようになった頃から、立石との仲がうまくいかなくなったような気がしていた。
派遣社員切りが始まった。派遣社員の自分は必要がないと判断されれば、いつでも切られる。そうなれば、確実に正社員の恵美に立石を奪われる。不安定な職場の状況が、根拠のない理不尽な思いを募らせた。
今になって、一方的な思い込みだったことがわかるような気がする。
恵美は、人見知りする方で、晩熟だった。
恵美は立石のことなど眼中になかったはずだ。
そんな恵美のことを思うと、死んで詫びても、詫び切れない。
高校時代に起因する自分の理不尽さが、自分をこんな状態に追い込んだのだから、こうなったのも仕方がない・・・・・
佐々木は、見ているのも気の毒なほど、激しくしゃくり上げながら、途切れ途切れに、そんな意味のことを言った。そして・・・泣き崩れた。
久美は、この時の様子を知って、佐々木弥生を追い詰めてよかったのか、と思った。
佐々木は、藤田が事件に関わったと知ってから、生きた心地がしなかったに違いない。心の中で、自分に対して厳しい制裁を加え続けていたに違いない。
そんな佐々木が、起訴されてもいないのに、厳しい社会的制裁を受けることになった。興味本位の加熱したマスコミ報道に曝されることになったからだ。
新聞やテレビの連日の報道に加えて、週刊誌の中には、センセーショナルな見出しをつけて、ドキュメント風の記事を掲載し始めたところもあった。
刑法六十一条に、他人を教唆して犯罪を実行させた者には、正犯の罪を科す、とある。
佐々木に、これに該当する条件や証拠があるとは思えなかった。
たとえ、そういうものがあったとしても、情状酌量の余地が十分にあると思われた。
ところが、佐々木は、社会的には、再起不能と思われる償いをさせられることになった。
* * *
久美は、父親の伸吾と、真新しい墓石の前で手を合わせながら、鹿児島で見上げた南国の晩秋の空を思い出していた。
あの時、高く澄んだ青空に、美しい筋雲が流れていた。
そして・・・その先に、小さくて丸い薄雲のような残月が浮かんでいた。
その月は一部が欠けていた。
久美は非科学的なことを信じる方ではなかったが、あの欠けた残月は、何かを暗示していたような気がしてならない。
太陽があるうちは、昼間の月は目立たない。
藤田のやったことは、久山の大きな影に隠れて、見えなかった。
久美も捜査陣も、藤田の供述を鵜呑みにしてしまい、事件の全容解明が大幅に遅れる結果になった。
牧山たち捜査陣は、藤田の凶器持ち出しという、ごく自然と思える発想さえできなくなっていた。
藤田は、あの残月だったのだ。
そして・・・あの欠けていた部分が、佐々木だったのだ。
尾形恵一も、久山俊彦も、未曾有の不況に伴う、理不尽で無慈悲な雇用情勢の中で生まれた犠牲者だ。
藤田克也も、その一人だ。
佐々木弥生も、そうだ。
でも、お姉ちゃん、お姉ちゃんは、誰が許せない?
久山? 藤田? 佐々木? それとも、こんな世の中?
お母さんは、どう思う?
久美の頭の中を去来している一つの言葉があった。
高校時代に読んだ『野菊の墓』の最後の文章の冒頭の言葉だった。
幽冥はるけく隔つとも・・・お母さん、お姉ちゃん、今でも、一緒よ。死んだなんて思ってないわ。いつのことになるかわからないけど、また、一緒に暮らそうね。
【了】