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リーマンショック殺人事件(全編)  作者: 松島 圭(本名・成尾五邦)
6/7

第十章 直接対決   第十一章 障壁

     第十章  直接対決


      1


 久美は、牧山、竹添に伴われて、機上の人となった。

 午前八時、中部国際空港発、九時三十分鹿児島空港着の早い便だ。

 一旦、大南市に帰省したので、慌ただしい出立になった。

 松嶋に鹿児島行きの話をしてから、二日しか経っていない。

 久美は着る服に気を遣った。

 捜査の関係者の一人ということになっていると言われていたからだ。

 結局、姉の恵美が入社式の時に着た仕立てのいい紺青色のスーツを着て来ていた。因縁いんねんめいているが、恵美が殺された時に着ていた若草色のスーツの色違いだった。

 十一月も半ばを過ぎて、南国の空も秋めいて、澄んだ青空に、きれいな筋雲が流れている。

 空気が澄んで、遠望がいた。

 飛行機が高度を下げ始めると、はるか眼下に、きらきら光る内海の中に、テレビの映像でしか見たことのない桜島が見えた。山頂近くから南東方向に雲が流れているように見えるのは、噴煙だろうか。久美は、はるばる鹿児島まで来たんだ、という実感が湧いてきた。

 飛行機がさらに高度を下げると、霧島連山が間近に迫って見えた。久美は、その雄大な眺めに、思わず、見とれた。胸中に、ある感慨が湧いていた。小さな窓越しに見える霧島の連山を、地上から、改めて、見てみたいと思った。

 空港ビル一階の到着出口を出ると、背広にネクタイ姿の三人の男たちが待機していた。

 その中で、一番背丈のある若い男が、薗田久美様、と書いたプラカードのようなものをこちらに向けている。

 無論、鹿児島県警の刑事たちだ。

 久美はプラカードに驚いたが、署長の大川の下工作だろうと察した。

 「お出迎えありがとうございます」

 牧山と竹添が、姿勢を正して、丁寧に頭を下げた。

 久美も二人を真似た。

 出迎えた刑事たちも、ご苦労様です、と、鹿児島訛りで答礼を返したが、体格のいい年配の刑事が、いきなり、

 「こんヒトが、薗田久美さん、ですか?」

 と、聞いてきた。眉毛の濃いごっつい顔が驚いている。

 戸惑った久美が牧山に助けを求めるような視線を送ると、牧山も、一瞬、面喰らったようだが、言葉に詰まってはいられない。

 「・・・あ、そうです、こちらが薗田久美、それに、竹添、私が牧山・・・事情がありまして、薗田久美も捜査に関わっております。若いですが、これでも、刑事コロンボのような推理をします」

 牧山は、久美を紹介する言葉に困って、急遽、大川が言ったことを思い出したのだろう。久美は初めて聞いたが、牧山が慌てて言った言葉が傑作だったので、笑いをこらえていた。

 「こげなわけ(若い)よかオゴジョが捜査をしやったっげな」

 年配の刑事が、他の二人の刑事を振り返って、鹿児島弁で言った。

 牧山も竹添も、なんとなく言ってることはわかったが、苦笑を浮かべているしかない。久美には、この刑事が、自分をめているのか、けなしているのか、わからなかった。少なくとも事件の捜査に関しては、久美を信用しているようには聞こえなかった。

 それぞれ、名乗り合うだけの、簡単な自己紹介をした。

 年配の刑事は鮫島、三十代半ばと思われる刑事は前山、二十代後半と思われるプラカードの刑事は杉尾、と名乗った。

 中肉中背の前山は、筋肉質で、顔は精悍だが、どことなくとぼけた味がある。

 背丈のある杉尾は刑事には見えない。目つきが鋭いところを除けば、どこにでもいる普通の青年に見えた。

 制服の警官が二人やって来て、お荷物を車に積んでおきましょうか、と標準語で聞いた。

 鮫島が、「そげんしてください、車は覆面パトですから」と言ったので、預けることにした。

 警官たちは、久美の旅行用のショルダーバッグと牧山と竹添のボストンバッグを預かって行った。

 牧山と竹添のバッグはかなり大きいものだ。鹿児島滞在がすぐに終わることになるとは思っていないのだろう。

 久美は、機上から見た霧島連山を、もう一度、見てみたいという思いが消えていなかった。

 身軽になったので、思い切って、鮫島に頼んでみた。

 鮫島は、時計も見ずに即決して、時間調整になるからよしゅごあんそ、眺めがよかですから、そら、見ておっきゃんせ、と、相好を崩して、言った。

 鮫島が案内してくれると言うので、鮫島について行った。

 牧山と竹添は、物見遊山ものみゆさんに来たわけではないと思いながらも、久美と行動を共にするしかない。前山と杉尾もついて来た。

 階段を上って、乗客や送迎人で賑わっている広々とした二階フロアを通り抜けて、さらに左奥の階段を上ると、右側に送迎デッキを兼ねた屋上が広がっていた。そこから、遠方に横たわる霧島連山が一望できた。

 久美は、送迎デッキの手すりの近くまで行って、目を細めて、見入った。

 姉を殺した男は、こんな山紫水明の故郷ふるさとを離れて、異郷に出て、実直に働いていた。家族のためだったのだろうが、今は、一人暮らしだと言う。家族はどうしたのか。ここに逃げ帰って来てから、どんな思いで、どんな風に生きているのか。どんな数奇な運命を背負っているのだろうか。

 久美が物思いにふけっていると、鮫島が傍らに立った。

 この、一見、怖面こわもての刑事は、顔に似合わず、親切だった。

 山の名前がわからんと、ただ見といやしても、勉強にゃならんでしょうが、と言って、鹿児島弁のアクセントで、前方の山を指さしながら、左から順に、栗野岳、韓国岳、獅子戸岳、新燃岳、中岳、一番右にとがって見える高い山が高千穂峰、などと、山の名前を教えてくれた。

 時々、視線を下に向けるので、そこに目をやると、手すりの下のコンクリートの壁に、前方の山の全景を描いた小さな案内板がはめ込んであって、下の方に山の名前も入っていた。

 久美は、一々、うなずいて、鮫島の気遣きづかいに応えた。

 牧山も、竹添も、展望デッキの手すりの近くまで出て来ていた。

 前山と寺尾は、出入り口の近くに立ったまま、久美たちを見守っている様子だった。

 長くそんなところにいるわけにはいかなかった。


       2


 階段を二つ下りて、一階のフロアを通って、空港を出た。

 空港ビルの外に屋根付きの広い歩道が延々と続いていて、その歩道に沿って、バスやタクシーが並んでいた。

 その中に、二人の制服警察官に見守られて、鹿児島県警の覆面パトカーが二台待機していた。一台目が白、二台目が黒の塗装だ。それぞれ、運転役の私服の刑事が乗っていた。

 鮫島に促されて、久美、竹添、牧山の順に、二台目の黒色の覆面パトカーの後部座席に乗り込んだ。久美が運転席の後ろ、竹添が真ん中、牧山が助手席の後ろという位置関係になった。

 助手席には、ベテラン刑事らしい鮫島が乗り込んで来た。

 先行の白い車には、前山や杉尾など、鹿児島県警の刑事たちが乗っている。

 運転役は久山俊彦の地元の伊佐署の刑事だと聞かされていた。

 二台の車は、空港から、北に向かった。

 『美人OL殺人事件』は、報道が過熱気味で、特に事件発生当初は、テレビ局のワイドショーは、連日、この事件を取り上げた。今もって、全国のマスコミの注目度が高く、事件に何か進展でもあれば、大々的に報じられる。

 鮫島も、それを知った上で、迎えに来ていたはずだ。

 鮫島が、早速、事件に話題を向けた。

 「久山は、今日、家におる、ち、地元署から、連絡が入っております。午前中は外出するな、ち、言うてあっちゅうこっでした」

 「警察が来るとは言ってないでしょうね」

 牧山が、慌てて、訊いた。

 鮫島が、助手席から、からだごと首をねじって、牧山に顔を向けた。

 「いいや、そげんこちゃうちょいもはん。注意を受けっおいもしたで・・・その久山っちゅうのが、ホンボシちゅうこっじゃんそかい?」

 牧山の言葉にカチンときたのか、鮫島の言葉が鹿児島弁だけになった。

 牧山は、意味がわかったらしく、

 「これは警察関係者だけにしか言えないことですが、その可能性があるということで、鹿児島に参りました」

 「まだ、被疑者の一人ってわけですな。・・・久山は、ぐらし男ですよ」

 「ぐらし男・・・?」

 「かわいそうな男じゃ、ち、いう意味です」

 「殺人コロシの疑いが濃くなってますから、それは仕方のないことだと思うんですが・・・」

 「そういう意味じゃなかとです。地元署からの報告によりますと、今年の一月の末頃、文無しで帰っ来たちゅう話です」

 「そうでしょうね。東京でホームレス暮らしになってたくらいですからね」

 「ホームレスになっとったとですか。シグマで働いとって、羽振はぶいがよか時期があった、ち、近所んもんは言うとるようですが・・・」

 鮫島は、鹿児島弁と標準語をごちゃ混ぜに使った。

 時々、他県人よそものと話していることに気づくようだ。

 「地元の駐在の話によりますと、娘が中学の三年で、高校に進学せんなならん時期が来ましてな。お金ん工面がつかんじゃったようです。久山は農作業を始めたようですが、すぐには金にならんですからな。奥さんは寝たり起きたりの状態で、久山は賃仕事を始めたようですが、それがたまにあっても、大きな金にはなりません。その上、久山は人間が違ったようになっとって、以前と違って、家族仲が悪かったようです。そういうことだけが理由だったとも思えんのですが・・・娘は、どうなったち思やっですか?」

 「・・・今時、高校に進学しない中学生はいないと思うんですが・・・」

 「今時、中卒で就職する生徒こどもは、めったに、おいもはん」

 「・・・・・?」

 「娘は、今年の三月、自殺したちゅうこっです」

 「えっ! 自殺!」

 久美は、ひどく驚いて、叫ぶように言った。

 その反応が想定以上だったようで、鮫島は、思わず、久美に顔を向けた。うしろの牧山と話をしながら、久美にもチラチラ視線を送っていたので、太い首をねじる必要はなかった。

 鮫島が、続けて、言った。

 「小屋の天井のネダい縄をむすっつけて、首をくくって、ぶら下がっとった、ちゅうこっです」

 久美は言葉を失った。

 牧山も竹添も何も言えない。

 鮫島の話だけでは、久山の娘の自殺の詳しい経緯いきさつはわからない。鮫島に聞いても、わからないだろう。十四、五歳の女の子が簡単に自殺するとは思えなかった。

 鮫島が、さらに、続けた。

 「・・・駐在や近所の者の話によりますと、久山は、近所交際きんじょづきあいんで、荒れた家ん中い、一人でおっちゅうこっでした。病気持ちの奥さんは、薩摩川内市の実家に帰ってしまったとかで、最近の様子はわからんそうです。高校二年生だった息子も家出したらしいですな」

 話が途切れた。

 鹿児島に意気込んでやって来た三人は、言葉を失ったままだ。

 こちらが持ち出さない限り、鮫島の方からは、もう、久山のことを話題にする気はないようだった。

 久山の郷里は、熊本との県境に近い北薩の伊佐市内にあった。県道を、空港から北北西の方角に、車で四十分ほど走ると、伊佐市に入る。市とは名ばかりで、面積は広いが、山地と、ところどころに広がる田畑が、市のほぼ全域を占めている。

 伊佐市の中心街は、もっと北に走らなければならないが、久山の家は、その手前の旧菱刈町内にあった。

 伊佐市は、旧大口市と旧菱刈町が合併して、できた市だ。

 旧菱刈町の町役場は、現在は、市の支所になっている。

 旧菱刈町の中心街と思われるあたりは、支所の近くから旧大口市へ向かう県道沿いにあるが、車で三,四分も走れば、家並みが途切れるほどのさびれた田舎町だ。

 その家並みの中程から、県道を左の側道に入り、三,四百メートルほど走って、右に曲がり、家並みが途切れると、一面の田園風景が広がった。

 稲を刈り取った後の田んぼが続いている。

 右手の山は近いが、左前方や左手や後方に見える山々ははるかに遠い。

 天気がよければ、韓国岳や高千穂峰も見える、と鮫島が教えてくれた。

 左手の広々とした田んぼの先に延々と続く川の堤防が見える。その川の向こうにも田畑が広がっているようだ。

 鮫島が、問わず語りに、このあたりは伊佐盆地と言って、伊佐米いさまいというおいしい米の産地だ、という意味のことを言った。

 田舎のなつかしい田園風景そのままだ。

 のんびり、幸せに、暮らせそうなところだが、基幹産業が農業や畜産だけでは、生活が大変な人もいるのだろう。

 久美は、今の久山は、何をして生活してるのだろうと思った。

 「久山は何をして食べてるんですか?」

 「米や野菜を少しは作っとるようですが、ソッノタッの近くん養豚農家で賃仕事をしとる、と、地元署が報告してきております」

 「ソッノタッ?」

 「曽木そぎの滝と申しまして、東洋のナイアガラ、と、呼ばれている有名な滝でございます。そら、太か、見事な滝ですから、一度見に行って見てください。ここから五、六キロ西にございます」

 鮫島は「曽木の滝」という観光名所を自慢した。聞き返されることを期待して、故意に、ソッノタッと、鹿児島弁を使ったのかもしれない。それに、鮫島の言い方が、観光ガイドのような口調になったのがおかしかった。 

 久山の家は、山裾に近い田んぼの中にあって、小さな木立に囲まれていた。 周辺は寂として、人影が見えない。

 家の裏手に山が迫っている。

 下の方の竹林の周辺に常緑種と思われる雑木が広範囲に繁っている。中腹のあたりには杉やひのきの林もあって、里山のイメージとはほど遠い。

 山裾に散在している家々も、大半が木立に囲まれていて、似たような規模で、似たような造りだ。

 久山の家が近づくと、牧山は、死角になる位置に車を停めてほしい、と鮫島に頼んだ。鮫島は、何も言わずに、頼みを聞いてくれた。先行している車に乗っている前山や杉尾たちにも、鮫島が、無線で指示した。

 牧山は、久美が同行すると決まってから、安全を守ってやることさえできれば、久山との最初の接触は久美に任せようと決めていた。

 そのことは、竹添にも、久美本人にも、事前に伝えてあった。

 牧山や竹添のような本職の刑事であれば、久山が警戒することは目に見えていた。久山の警戒心を解いた上で、久美が尾形を特定した時のようなやり方で、決定的な言質げんちをとれないか、と期待していた。

 それに、大川が、牧山らの鹿児島行きを前にして、こんなことを言った。

 あのには、聡明な推理力に加えて、独特の説得力がある、そんなものを活かす方法を考えろ、と。

 牧山は、車を降りる前に、久美に注意した。

 「久山が真犯人ホンボシだとすると、あなたが事件の関係者だとわかった場合は、何をしでかすかわかりません。こんなことは言いたくありませんが、尾形があなたを襲った時、刃物を持っていたら、あなたの命はなかったかもしれません。久山は、いきなり、切りつけてこないとも限らないのです。お姉さんは、のどの頸動脈を切られていましたからね。そんなやつだということを頭に入れておいてください。とりあえず、家の外に連れ出してください。外でも話はできるはずです。あなたが見えるところにいます。何かあったら、すぐ飛び出していきます」

 「久山がどんなやつだろうと、危ない思いはさせません。私たちが命をかけて守ります」

 竹添は、本気で命を張るつもりらしく、目を異様に光らせている。

 鮫島は、牧山と竹添の大げさな言葉に驚いて、ポカンと口を開けている。

 この若い娘が、やはり、捜査関係者などではなくて、こともあろうに、ガイシャの妹であるらしいことがわかったようだ。

 鮫島の常識では考えられないことだったが、他県よその警察のすることに口出ししてはいけない、よほど事情があってのことだろうと思ったのか、ごっつい顔を引き締めて、ただ、こう言っただけだった。

 「あたいどん(私たち)も油断しません。安心しておってください」

 久美は、車を降りて、久山の家に向かった。

 鮫島と牧山と竹添は、すぐに駆け込めるように、木立の隙間に身を潜めた。 前山や杉尾たちも、家の中から見えないような場所を見つけて、それぞれ、配置についた。その動きは、さすがに、専門家のものだった。

 久美は、庭に足を踏み入れた。

 庭は意外に広く、枯れかかった草花や雑草が目立った。

 家の前面の町道との境目に繁っているイヌマキやサザンカは、剪定された形跡が見えず、伸びるにまかせてあった。

 家の右手に、横幅が十メートルを越えるほどの木造の小屋がある。

 屋根はスレート()きで、戸や板壁が傷んで、小屋全体がひしゃげているように見えた。

 小屋の左側は車庫に使われていて、白い軽トラックが入っている。

 旧式の古びたもので、茶色の錆びが目についた。

 小屋の左側は、ところどころに破れ目の見える板壁になっていて、横に滑る式の幅の広い板戸がついている。農機具を入れるのに使っているのだろう。

 この小屋で、中学三年生の娘が、卒業を前にして、十四歳の短い命を絶ったのだろうか。

 家は木造の平屋で、かなり大きい。

 屋根瓦が白っぽく古びて、雨樋あまどいは波打って、ところどころ破れ目が見える。

 家の正面の右側に、大き目の滑り戸があった。

 焦げ茶色のサッシ作りで、上半分に磨りガラスがはめ込んである。

 そこが玄関口だろうと思ったので、久美は、その前に立った。

 久山との対決が迫って、久美の心臓は早鐘を打つようになっている。

 呼吸を整えて、自分を落ち着かせようと努めた。

 深呼吸を一つしておいて、思い切って、

 「ごめんください!」

 と、大きな声で言った。


        3


 中で、すぐに、人が動く気配がした。

 久美は滑り戸から五、六メートルほど離れた。

 牧山に言われるまでもなく、久美自身も、久山は自暴自棄になっている可能性があると思っていた。

 磨りガラスの向こうに、人影が立って、

 「役場やっばから来たっじゃろが、なご(長く)待たすいもんじゃ」  という声と共に、戸が右に滑って、半分開いた。

 上下草色の作業服を着た半分白髪(しらが)頭の男が、顔を出した。

 久美に顔を向けた途端に、シワの刻まれた顔が驚愕し、引きつった。

 男は、何を思ったか、いきなり戸口を飛び出して、裸足はだしのまま、久美の左方向へ駆け出した。

 「久山が逃げたわ!」

 久美は悲鳴のような叫び声をあげた。

 男たちが、慌てて、庭に駆け込んで来た。

 竹添は大慌てに慌てて、木の根に足を取られて、前につんのめった。

 その時には、久山は、西側の小さな木戸を走り抜けて、姿が見えなくなっていた。

 牧山や竹添や鹿児島県警の刑事たちは、家の前面をうろつくわけにもいかず、西の木戸のあたりには配置についていなかった。

 東側の木立の陰や農機具を入れる小屋の裏側にいて、久美の安全を守ることだけを優先していた。

 久山が刑事たちの動きを知っていたわけではない。

 その西側の木戸が、裏山に逃げ込む最短距離だったことが後でわかった。

 「こら、困いもしたな。逃ぐっとは、思ちょいもはんじゃした」

 意外に素早く駆け込んで来た鮫島が言った。

 鮫島の鹿児島弁を聞くと、困っているようには聞こえない。

 「すぐに見つかいもそ。こん裏ん山い逃げ込んだんごあんそ」

 牧山と竹添は、久山に逃げられて、顔から血の気が引いていたが、鮫島にそう言われて、少し落ち着いたようだ。

 西の木戸から出て、裏山の下の小径こみちを歩くと、久山の家から西へ十四,五メートル離れたところに、裏山への上り口が口を開けていた。

 人が通って踏みならしただけの、道とは言えないけもの道だ。

 鮫島を先頭にして、牧山、竹添、それに、前山、他に伊佐署の刑事三人が山に踏み込んだ。

 久美は、ついて来るなと言われて、杉尾に付き添われて、後に残った。

 杉尾が、鮫島は県警本部の捜査一課の敏腕警部だ、と教えてくれた。

 第一線の警部を案内役に出してきたということは、この事件に対する鹿児島県警の意気込みのほどがわかるような気がした。

 久美が、警部さんの鹿児島弁はとてもユニークですね、と言うと、杉尾は、笑いを含んだ声で、鮫島警部は他県人にも遠慮無く鹿児島弁を使う、それが鹿児島のためになると言って譲らない、ばあちゃんに育てられて標準語が使えないから、居直ってしまって、あんなことを言ってるんだと陰で言われている、と言った。

 高齢者以外で鹿児島弁を使う者は鹿児島にもほとんどいなくなっているとも言ったが、そういう杉尾も、使う言葉は共通語に近いが、鹿児島訛りだった。

 一時間ほど経った頃、山に踏み込んだ一行が下りて来た。

 「この山は、意外に奥が深いですね。山の中に隠れてしまえば、この人数じゃ見つけることができそうもありません。それに、山の向こう側に下りれば、県道がある」

 牧山が、疲れた顔を隠しきれずに、言った。

 上着やズボンに、二,三個所、鉤裂かぎざきを作っている。

 竹添も似たようなもので、せっかく着てきた一張羅に、草の実がついて、鉤裂きができている。

 同じく擦り傷や鉤裂きを作った鮫島が、さすがに緊張して言った。

 「こや(これは)、県警本部に連絡して、人数を増やしもそ」

 鮫島は、覆面パトカーのところへ行って、緊急の警察無線を使って、県警本部に連絡を入れた。

 直ちに、伊佐署と横川署と薩摩川内署に、検問の指令が下された。

 時を移さず、大がかりな山狩りが行われることになった。

 周辺の県道や町道には、何カ所もの、検問所が設けられた。

 全国的に注目を集めている重大事件の殺人容疑者が山に逃げ込んだというのだから、鹿児島県警としても、万全を期さざるを得なかったのだろう。

 ところが、久山は、意外に簡単に、身柄を拘束されてしまった。

 青い捜査服に身を固めた警察官四、五人に囲まれて、裸足の久山が山から下りて来たのは、正午過ぎだった。

 先発の数組が山に入っていただけで、周辺の道路に、赤色灯を回転させたパトカーやワゴン車が次々に到着している頃で、本格的な捜索は、まだ、始まっていなかった。

 捜索隊は、拍子抜けしたようだ。

 久山には、逃げようとする意思など、全くなかったのだろう。

 自分の方から先発の捜索隊の前に姿を現したそうだ。

 後の供述によると、山に逃げ込んでから、一旦、山を出ようとしたのだが、刑事らしい男たちが山の中を歩き回っているのに気づいて、元の場所に引き返し、隠れていた、その後も、次々に近づいて来るパトカーのサイレンの音に驚いて、震えながら、じっと動かずにいた、と言う。

 久山は二人の警察官に両脇下を抱えられて、引きずられるようにして、ヨロヨロ歩いて出て来た。

 警察官が腕を離した途端に、くずれるように、庭にへたり込んだ。


        4


 久山を拘束するに足る自白も物証もなかった。

 山に逃げ込んだことが、警察側の心証を悪くしての捜索だったことは言うまでもない。

 無論、逮捕状はない。

 牧山は、鮫島に、そのことを指摘して、この場所で、すぐに尋問することを認めてほしい、と頼んだ。

 鮫島は、大がかりな捜索態勢まで取らされて身柄を拘束したばかりの重大事件の被疑者だが、鹿児島県警の管轄下で起こった事件ではない、R県警から出張って来た三人に聴取の優先権を譲るのが筋だ、と判断したようだ。

 牧山が、落ち着いて話を聞きたいので、場所は久山の家の中にさせてほしいと頼むと、鮫島はあっさり認めた上で、土間に刑事や警察官を入れもすが、こい(これ)だけは、許してください、と言った。

 土間から離れた八畳間を使うことになった。

 土間の近くに台所が見える。

 鍋や釜や汚れたままの食器類が乱雑に積み上げられている。

 八畳間もあまり掃除をした形跡が見えない。

 畳は、すり切れて、毳立けばだって、ざらざらしていた。

 部屋の一隅に、薄汚れた服や下着類などが脱ぎ捨ててある。

 それが幾重にも積み重なって、そのあたりは足の踏み場もない。

 家具類はほとんど目につかず、部屋の中が空漠がらんとした感じになっていた。

 八畳間の奥に床の間がある。

 その右隣に立派な仏壇があって、新鮮で色鮮やかな生花が飾ってある。

 その周辺だけは、掃除も整理も行き届いているように見えた。

 牧山は、当初の予定通り、前段階の尋問を久美に任せた。

 牧山と竹添は、八畳間との境目のふすまを開けたままにして、土間の近くの六畳間に控えた。

 久山は、応接台を挟んで、久美の前に正座している。

 大きい応接台は、以前の生活をしのばせるものだ。

 久山は、久美の顔を見ようとしない。

 頭を垂れたまま、一度も、頭をあげない。

 両腕を突っ張って、固く握りしめた両コブシを膝の上に置いて、身を縮めるようにしている。

 年齢の割に、白髪が多い。

 上下草色の作業服がだぶついて見えるのは、採光の悪い部屋にいるせいばかりではないだろう。大南にいた頃より、体もだいぶ痩せているにちがいない、と久美は思った。

 「久山俊彦さんね?」

 「・・・・・・」

 久山は顔を上げない。

 「あなたに会って、話を聞きたいと、ずっと思ってたのよ」

 「・・・・・・」

 顔を伏せたままだ。

 「一月十六日の、あの事件のことを正直に話してもらいたいんだけど?」

 「・・・・・・」

 やはり、俯いたまま、口を開かない。

 「薗田恵美のこと、覚えてるでしょう?」

 「・・・・・・」

 久山は、相変わらず俯いたままだが、肩と両腕が小刻みに震え始めた。

 「私がこの家に来て、あなたが戸を開けた途端に、なんであんなに驚いて、山の中に逃げ込んだりしたの?」

 久美がそう言うと、久山は、やっと、顔を少し上げて、上目遣うわめづかいに久美を見た。極度におびえている様子で、正常な眼の色ではない。

 その久山が、唐突に、驚愕するようなことを口走った。

 「・・・あんた、生きとったんか」

 「えっ! ・・・どういうこと!」

 「喉を包丁(ほちょ)で刺したら、いっき(すぐに)倒れて、そんままじゃったが・・・」

 「えっ・・・!」

 久美は、息を呑んで、絶句した。

 こんなに簡単に久山が犯行を自白するとは思っていなかった。

 久美は、久山が姉を殺したと確信に近いものを持っていたが、事件の解決までには、長い困難な道のりが待っている、この対決は、そのほんの序章はじまりに過ぎない、と思っていた。

 事実は小説よりも奇なり、という言葉があるが、現実は拍子抜けするようなことが多い。大がかりな山狩りにしても、そうだ。久山の場合は、意味をなさなかったと言ってよい。

 六畳間に控えていた牧山と竹添の驚愕のほどは想像に難くない。

 二人とも、顔色を変えて、思わず、腰を浮かしかけたが、さすがに、まだ、動かない方がいいことはわかっていた。

 久美は、内心の衝撃的な興奮が収まった途端に、久山の言っている意味がわかった。恵美と久美は、年齢が三つしか違わないばかりでなく、顔も、体型も、背中にかかるほどの長い髪も似ていると言ってよい。久美が着ている服も、久山が殺した時に姉が着ていたものと同じ仕立てのスーツだ。

 久山は、あの当時、夜の明かりの中でしか恵美を見ていない。

 姉の恵美と、戸を開けた途端に目の前に立っていた妹の久美と見分けがつかなかったとしても不思議ではない。

 久山は、久美を恵美だと思い込んでいるのだ。

 殺したと思っていた人事管理部長の娘が、突然、目の前に現れたのだから、久山の驚愕がどれほどのものだったか容易に想像がつく。

 久美は、大きく目を見開いたまま、久山の顔をしばらく見つめていたが、頭の中は、目まぐるしく回転していた。

 久美は、咄嗟とっさに考えを固めた。

 「・・・あなたは・・・私を殺そうとしたのね」

 恵美を演じることに決めたのだ。

 さすがに、声が震えて、上ずった。

 「・・・すまんかった。あん時や、おいは、どげんかなっちょった」

 久山は、そう言って、また、顔を伏せると、すくめた両肩を激しく震わせながら、涙を流して、泣き出した。

 「・・・あんたは、運が悪かっただけじゃ。車庫ん前で、あんたを見かけんかったら、あんなことにはならんかった。あんたには、死んでお詫びをしても、まだ、足りん」

 「えっ・・・? どういうこと?」

 「悪いのは、あんたのお父さんじゃ。おいは真面目に働いとった。あんたのお父さんも、それは認めてくれちょった。季節労働者はたくさんおったどん、あんたん家イ招待されたのはおいだけじゃった。そげな部長じゃれば、どげんかしてくれる、ち、おもて、難儀をしかぎいしっせえ、大南に行ったんじゃ。ところが、家ん中イ入れてもくれんじゃった・・・あんたが帰って来て、玄関に向かってる時じゃったが、おいが車庫ん前を離れんじゃったら、部長があんたに何とたか、覚えといやしじゃろが」

 「・・・父は・・・なんと、言ったの?」

 「覚えとらん? そんなはずはなかが」

 「悪いけど、ほんとに覚えてないのよ。父はどんなことを言ったんですか?」

 「恵美、けさちょ呼べ、ち、たろがな」

 「けさちょ?」

 「警察を呼べ、ち、意味じゃろが。血も涙もない言葉じゃ。おいは、すぐ、逃げもしたどん、これが元ん従業員にすいこっ(すること)じゃろかい、ち、おもて、走いながら、泣っもした」


      5


 久山は、元々、正直で、実直な性格だ。

 犯行をいったん自白してしまうと、姑息こそな隠し立てをするようなことはしなかった。

 以下が、久山の供述を元にした、犯行当時の状況である。

 大南署に連行された後で供述した内容も含まれている。

 言葉や表現が足りないと思われたところは、適宜、補足してある。

 心の動き、心理のあやなどについては、前後の状況から判断して、久美が推測したものである。


 薗田の家の車庫前を逃げ出した後、夜の道を彷徨さまよった。

 怒りや恨みよりも、もう、死ぬしかない、という思いしかなかった。

 仕事が見つからないとわかってからの十二月しわす以降、旅費の工面がつけば、郷里に帰ろう、家族と暮らそう、どんなに貧しい生活くらしでもいい、そう思っていた。

 夜の道を彷徨さまよいながら、かろうじて、その思いに支えられて、死ぬ決心がつかなかった。

 東京に戻れば、なんとかなるかるかもしれない、飢えずに過ごせそうな場所の当てがないわけでもない、知り合ったホームレス仲間もいる、そんなことを考えて、結局、駅に向かった。鈍行を乗り継ぐしかない額だったが、東京に帰るだけの電車賃は残していた。

 前途に何の希望もないまま、東京までの通し切符を買い、電車に乗った。

 途中で、JR東海道線の上りの鈍行列車に乗り換えた。

 窓外に流れる夜景を見ていると、絶望感が募った。

 自分一人の露命さえつなげそうになかった。

 見も知らぬボランテイアの青年に金を出してもらい、やっとの思いで大南に来たのに、頼みにしていた部長の薗田に冷たくあしらわれた。何よりも衝撃的だったのは、当の薗田が、警察を呼んで、自分を野良犬のように追っ払おうとしたことだ。

 絶望感が、いつしか、け口のない怒りに変わっていた。

 死ぬにしても、収まりがつかなかった。

 途中のH駅で電車を降りた。

 駅を出て、夜遅くまで営業しているスーパーを探した。 

 包丁を買い、食パンを袋ごと三つと、大きなパック入りの牛乳を、三本、買った。持ち金がなくなったが、事をうまく運べば、金が手に入るはずだ、失敗したら、その時こそ、自分の命を絶つ時だ。

 その日の深夜に、大南駅に引き返して来た。

 働いていた工場周辺は熟知していた。

 大南駅に着くと、新平田橋に向かった、

 工場から北へ歩くと、二級河川の新川が流れていて、新平田橋がある。

 その橋の下の河川敷は雑草に覆われていて、人目につかずに隠れていることができる。

 事実、その橋の下は、身をひそめて過ごすのに絶好の場所だった。

 日中は、河川敷を覆うたけの高い枯れた雑草の中で過ごし、暗くなってから動いた。

 薗田を襲うつもりでいたが、様子を探ってみると、短期間のうちに、それを実行することは不可能だと悟った。

 車庫前で薗田伸吾と話している時、薗田の娘が帰って来たことが、その娘の運命を変えることになった。この出会いがなければ、襲おうとは思わなかっただろうし、あんな残酷な結果になることもなかっただろう。

 わずか二日間だけで、帰宅時の順路をほぼ把握できたのも、この出会いがあったからだ。

 薗田が娘を掌中の玉のように可愛がっていることはわかっていた。娘を襲って、死ぬより辛い地獄を見せてやろう、公園のトイレに引きずり込むことができればなんとかなる、と思った。そのトイレは、通勤路にあり、その周辺の状況がわかっていた。改めて、下見もした。凶器の包丁は防寒着の内ポケットの中に入れていた。

 あの夜の犯行の前後の状況は、藤田が供述して、久美が、ほぼ、推理した通りだった。

 大きく違っていたのは、公園の近くに来ると、久山が豹変し、恵美の脇腹にいきなり包丁をつきつけて、恐怖のどん底に突き落としながら、トイレのところまで、無理矢理、連れて行ったことだ。

 恵美の体を後から両手で抱え込むようにして、トイレの中に連れ込むと同時に、左手を左肩の下から右の乳房のあたりまで回し、その左腕と自分の上半身で恵美の体を締めつけておいて、逆手に持った右手の包丁で、喉と思われるあたりを一気に掻き切ろうとした。

 トイレに抱え込まれた時には、恵美は完全に失神してしまっていたようで、左腕の力をゆるめれば、ずり落ちてしまいそうになって、慌てた。

 刺した途端に、血が包丁を濡らし、体に回した左腕のあたりまでしたたり落ちてきた。

 血を見た途端に、われに返った。

 すぐに右手の動きを止めて、急いで、左手を放して、体を引いた。

 恵美は、崩れるように、久山の手から滑り落ちた。

 握っていた包丁も放り出してしまった。

 恵美が声も上げずに倒れて動かなかったので、すぐに息絶えた、と思った。

 パニック状態になっていたが、金を奪わなければ、動きが取れない、この思いが頭をかすめた。

 ショルダーバッグが右肩から外れて、右腕の途中に引っかかっていた。

 バッグをもぎ取っておいて、ナップザックを背中から外し、床に置き、震える手で口紐くちひもほどくと、バッグを中に押し込んだ。

 右手と、防寒着の左腕のあたりが、血で濡れていた。

 男子トイレの手洗い場に飛び込んで、手や手首に付着した血を、急いで、洗い流した。

 防寒着の右の袖口と左の袖にも血が付着していた。

 慌てて、それも洗い流そうとしていた時、公園の西の入り口のあたりが明るくなっているのに気がついた。

 心臓が止まりそうになった。

 車の前照灯の明かりがゆっくり近づいていた。

 今にも、小径を入って来そうな気がした。

 慌てて血の付いた防寒着を脱ぎ、それを丸めてナップザックに押し込むと、いびつにふくらんだナップザックを抱えて、トイレを飛び出した。

 国道側の植え込みに沿って、本能的に、土手の方へ走った。

 血走った目で、植え込みの間隙を探した。

 土手と夾竹桃やレッドロビンの植え込みの間にわずかな隙間があった。

 そこを必死にかき分けて、なんとか、国道脇の歩道に出た。

 国道には、間断なく、車が行き交っていた。

 心臓の動悸は早鐘を打つようになっていたが、普通の足取りになるように努めながら、駅に向かった。

 求職活動用の濃紺の背広は、 着たきりで、型くずれしていたが、街路灯や車道を走っている車の前照灯の明かりでは、普通の通行人に見えたはずだ。

 駅に着くと、トイレに直行した。

 ドアが開いたままになっているトイレに入り、すぐにロックした。

 ナップザックを床に下ろし、点検した。

 背負いヒモ、口紐くちひも、閉じ口などに、血が付着していた。

 タオルを取り出し、水洗の水を流して、洗っては、拭いた。

 ショルダーバッグを取り出して、中を点検してみると、携帯電話、財布、簡単な化粧道具、ハンカチ、テイッシュぺーパー、銀行名の入った封筒、などが入っていた。

 財布の中身を点検してみると、一万円札が二枚、千円札が六枚、それに、別の場所ポケットに、小銭が入っていた。

 紙幣を抜き取って、背広の上着の内ポケットに入れた。

 小銭も上着のポケットに流し込んだ。銀行のATMのカードやポイントカード類が入っていたが、関心はなかった。

 封筒は、薄っぺらで、何も入っていないように見えた。

 念のためにと思って、中を覘いてみると、一万円札が見えた。取り出して見ると、八枚入っていた。

 驚いて、封筒の表を見ると、P購入代、と手書きの文字があった。

 Pが何を意味するのかわからなかったが、その時の久山には天佑てんゆうとしか思えなかった。財布の中身と合わせて、これだけの金があれば、鹿児島に帰れる、それに、あの親切な青年に金が返せる、と思った。


       6


 久美は、あの当時、姉がパソコンを買い換えようとしていたことを思い出した。

 それにしても、久山が、恩知らずにならなくてすむという意味のことを言ったので、さすがに、開いた口がふさがらなかった。

 これが久山俊彦という男なのか。

 それに、トイレの洗面所で、頬や顎や鼻の下のヒゲを剃った、と言うので、その理由を聞いてみると、鏡で見たら、むさ苦しく見えた、という意味のことを言った。さっぱりしたかっただけなのだ。

 とにかく、久山には、一貫して、捜査の目を逃れようという意図が感じられなかった。

 携帯電話は、どうしたのか、と聞くと、バッグの中に戻して、バッグごとナップザックの中に入れていた、と言った。

 携帯電話が鳴らなかったか、と聞くと、次のような意味のことを言った。

 東京に向かっている時、特急の電車の中で鳴った。

 他の乗客がいるところで、ナップザックを開けることはできなかった。

 鳴りまないので、ナップザックを持って立ち上がろうとした時、音が止まった。

 ところが、すぐに、また、鳴り出した。

 仕方なく、ナップザックを持って、デッキに向かった。

 デッキに着くか着かないうちに、音が止まった。また鳴り出すと困るので、背広の内ポケットに移しておこうと思って、取り出した。

 途端に、また、鳴り出した。

 手に握ったままだったので、通話ボタンを押してしまったが、応答してはいけないことに気づいて、交信状態を切った。

 また鳴り出すと思ったので、電源も切った。

 迫田への連絡には、恵美のケータイを使うつもりでいたので、処分する気はなかった。

 久山の話は、逃亡を企てていたはずの凶悪な殺人犯には考えられないようなことばかりだった。

 久山が捕まらなかったのは、信じられないような僥倖に恵まれたとしか思えなかった。

 鹿児島に帰ってからのことは訊く必要はなかった。

 「その携帯電話とか、お金を取った後のお財布とか・・・そういうものが入っていた私のショルダーバッグはどうしたの? どこかに捨てたの?」

 「・・・鹿児島に持って帰っ来もした」

 「えっ! ・・・それじゃ、防寒着や・・・まさか・・・」

 久美は、まさか包丁も、と言いかけたが、残酷な場面を想像したくなかったので、言葉を呑んだ。

 「全部すっぱい、持って帰っ来もした」

 久山は普通の犯罪者とは違う。

 驚くようなことばかり言う。

 「あんたが生きておって、こんなうれしかこたなか。あんたのことを、ずっと、おめ続けっ、毎晩、夢に見いぐらいつろごわした。あのバッグはあんたに返しもす」

 「えっ! ・・・どこかにあるの?」

 久山は、無言で、仏壇の方に顔を向けた。

 久美が驚いて目を向けると、白磁の花瓶に生けられた真新しい生花と青い陶器の線香立ては見えたが、金箔に縁取られた観音開きの戸が半開きになっていて、仏壇の中は見えない。

 久美は、立って行って、仏壇の中を覗いた。

 あった! 見慣れた姉のバッグが仏壇の奥にあった!

 真新しい位牌、制服を着た少女の写真、そのすぐ横に、姉のバッグが置いてあった!

 姉が、その頃、通勤用に使っていた焦げ茶色のショルダーバッグだ。

 ブーツの色に合わせたもので、恵美はそれが気に入っていた。

 血が付着していたはずだが、その痕跡は見えない。

 久山が拭き取ったのだろうか。

 久美の頭の中をいろいろな思いが駆け巡って、しばらくの間、仏壇の前を離れることができなかった。

 この女性用のバッグのことを問い詰められて、自分のやったことを話さざるを得なくなったのではないだろうか。

 テレビや新聞が大騒ぎしていた殺人事件の犯人が、自分の夫であり、自分の父親だ、と知った時、実直に生きてきた家族の驚愕と衝撃はどれほどのものだっただろうか。

 久美が、言葉を失ったまま、久山の前に戻ると、久山が、

「朝晩、お経をあげて、拝んでおいもした」

 と、言った。

 「えっ! ・・・何を・・・?」

 「あのバッグを・・・」

 久山の落ち窪んだ両眼がうるんだかと思うと、たちまち涙があふれ出てきた。

 久美は、一瞬戸惑ったが、心を鬼にして、訊いた。

 「あのバッグには、私のお財布や携帯電話も入ってるの?」

 「・・・いいや、けしょどっ、だけでごわす」

 「けしょどっ?」

 「化粧すっ時、つこもん(使う物)」

 「なんで・・・化粧道具だけを・・・」

 「あんたのたましが入っちょっちおめもした」

  化粧道具と言っても、パフなどを入れる小さな容器と口紅ぐらいのものだったはずだ。

 「・・・じゃあ・・・お財布や携帯電話などは・・・捨ててしまったの?」

 「いいや、捨てちゃおいもはん」

 「えっ! じゃあ、どこにあるの?」

 久山は、また、驚くべきことを言った。

 「裏ん山イ、埋めてあいもす」

 六畳間で聞いていた牧山と竹添が目を剥いた。

 「その埋めたところは覚えてますか?」

 「警察んしいつかまる前は、そん上、座っちょいもした。あんたが、そこへ行っちゅうとなら、連れて行っもしど」

 久山は、驚くようなことばかり言う。

 「えっ! 私を連れて行ってくれるの!」

 久山は、充血した落ち窪んだ眼に涙を溜めたまま、黙って頷いた。

 刑事や警官たちの存在など、どうでもよかったのだろう。

 久美が目顔で合図すると、我慢に我慢を重ねて座っていた牧山と竹添が、すぐに立ち上がった。

 鮫島に、久美が久山と一緒に山に登ることになった、と言いに行ったのだ。

 久山の決心が変わることを恐れて、久山の言う通りにすることになった。

 久美は、久山と二人だけで、山を登った。先回りした捜査服姿の警官たちが、あちこちに伏せているのが丸見えだった。

 それほど山を登らぬうちに、久山が立ち止まった。

 久山が指さした先は山の斜面で、木々の間に灌木や藪が繁っていた。

 久山が木の枝や灌木を両手でかき分けながら進むと、小さな洞窟の入り口が現れた。

 これでは、鮫島や牧山や竹添たちがいくら捜しても、久山を見つけることができなかったはずだ、と久美は思った。

 捜査服が、一人、中に入った。

 一人しか入れない。

 久山が、洞窟の中の地面にわらが敷いてあって、その藁の下に埋めてある、と言ったので、中に入った警察官が藁の下の地面を掘ると、そう深くないところから、ナップザックが出てきた。

 全員が、再び、久山の家の庭に下りて来た。

 土に汚れたナップザックが開けられた。

 中から、防寒着、恵美の携帯電話、財布、財布の中からは、銀行のATMの数枚のカード、ポイントカード類、などが次々に出てきた。

 その様子を見ていた久美が、傍らにほうけたようにして突っ立っている久山に、心を鬼にして、言った。

 「私は恵美じゃないのよ。恵美の妹の久美よ」

 久山は驚愕して、目を大きく見開いた。

 久美の顔を、しばらく、穴の開くほど見つめていた。

 「・・・じゃあ、やっぱい・・・あんは・・・死んだとでごわすか」

 久山は、そう言うと、呆然と突っ立っていた。

 そう長い時間ではなかったのだが、久美には、長い時間のように思われた。

 久山は、崩れるように、膝を折った。

 すぐ近くで見守っていた牧山や竹添や捜査服姿の警官たちが、たちまち、久山を取り囲んだ。

 久山は、地面にひたいを激しくこすりつけるようにしながら、悲痛な声をあげ始めた。

 泣き声なのか、叫び声なのかわからなかった。

 お経を唱えているようにも聞こえた。

 久美は、これでよかったのか、と思った。

 尾形にしても、久山にしても、家族のために、懸命に生きようとしていた。

 それで、何がむくわれたというのか。

 世の中がおかしくなっているとしか思えなかった。

 お姉ちゃん、お母さん、仇は取れたわ。これで許してね。

 久山は、かわいそうな人だったわ。

 あふれ出てきた涙をこらえようとして、空を仰ぐと、南国の秋の空に、薄く流れた筋雲と見分けがつかないほどはかなげに、欠けた残月が浮かんでいた。



     第十一章  障  壁


    1


 捜査陣にとって、凶器の発見は、久山の公判には欠かせないものだった。

 ナップザックの中に、包丁は入っていなかった。

 久山が大南署に連行されてきて、拘置された後になっても、凶器は見つからなかった。

 久山に、包丁はどうしたのか、と聞くと、よく覚えていない、と言う。

 いくら、脅しても、すかしても、犯行時、頭がパニックに(おかしく)なっていたので、記憶にない、という意味のことを繰り返すのみで、それ以上、問い詰めようがなかった。

 他の証拠品をほとんど持ち帰っていた久山が、包丁だけ持ち帰らなかったはずがない、という主張を無視できず、捜査員を改めて鹿児島に派遣し、鹿児島県警の全面的な協力を得て、久山の家の中、小屋の中、庭、家の周辺、洞窟の中、など、隈無くまなく捜索したが、発見できなかった。

 久山の家の台所にあった包丁二本が押収されてきたが、久山は、当然のことだが、それらが凶器であることを否定した。

 鑑定の結果もそうなった。

 牧山は、犯行を自白している久山が、こんなにもかたくなに凶器を隠そうとするはずがない、何か重大な事実を見落としているのではないか、と思い始めていた。

 久美は、それまでの経緯や事件との深い関わりから、拘留後の久山の供述内容を知ることができる立場にあった。

 凶器が見つかっていないと聞いて、久山逮捕までの経緯や状況を、何度も、総浚そうざらいしてみた。

 その結果、思い当たることが出てきた。

 さらに、それに付随して、腑に落ちないことがいくつか出てきた。

 久美は、牧山を通して、捜査本部長の大川政嗣に面会を申し入れた。

 事件のことは抜きにしても、鹿児島行きでいろいろ配慮してくれた大川に久しぶりに会ってみたいという思いもあった。

 大川が了解した旨の連絡をくれた牧山が、笑いを含んだような声で、署長が首を長くして待ってますよ、と言った。

 十二月も一週間ほど過ぎた頃、大学の講義はまだ続いていたが、久美は大南市に帰って来た。

 駅に着くと、すぐ、大南署に向かった。

 久美が、大南署の玄関ホールに入ると、免許切り替えの手続き関係らしい人々でにぎわっていた。

 受け付けカウンターの内側は交通課になっている。

 制服姿の警察官たちの中に、私服の男がいた。

 奥の交通課長席の近くの椅子に座っていたのだが、久美に気づくと、すぐに立ち上がって、手を挙げた。

 午前中、とだけ言って、正確な来署の時間を伝えていなかったので、牧山は、かなりの時間そこにいて、久美を待っていたに違いない。

 竹添は、鹿児島から帰ってほどなく、県警本部に呼び戻されたと聞いていた。柔剣道のブロック大会の代表メンバーだったので、練習環境を考えてのことのようだった。

 久美が牧山に伴われて署長室に向かうと、刑事防犯課長の水之浦が現れて、ついて来た。

 物腰は丁重で、言葉遣いにも気を遣っていたが、取って付けたような様子が見え見えだった。

 署長室に入ると、署長席に座っていた大川政嗣は、すぐに椅子を立って来て、満面に笑みを浮かべて、久美を迎えた。

 「やあ、このたびは、ご苦労をかけました」

 大川は、そう言いながら、応接セットの近くに立った久美に近づいて、右手を差し出したが、すぐに引っ込めた。

 久美の鹿児島行きの労をねぎらって、握手をするつもりでいたようだ。

 「いえ、足手まといになるばかりで・・・」

 「いや、いや、おかげで、事件に目鼻がつきました。今日も、わざわざおいでいただいて、恐縮です」

 大川の久美に対する態度や言葉遣いは、いつも、丁重だ。

 水之浦が、苦々《にがにが》しげな顔をして、横を向いた。

 久美は、水之浦の様子に気づいて、気持ちが折れかかったが、今さら、引き下がるわけにはいかなかった。

 「もう、あまり出しゃばってはいけないと思ったのですが、ちょっと気になることがあったものですから・・・」

 「そんなことだろうと思っていました。今度は、何が出て来るのか、とちょっと気になってました」

 大川は、そう言いながら、いつもの指定席を手で示した。

 ソファーの真ん中、テーブルを挟んで、大川の斜め前だ。

 久美が、丁寧に頭を下げておいて、そこに座ると、大川も大きな尻を肘掛け椅子に押し込んだ。

 水之浦は久美の左に、牧山は右に座る形になった。

 水之浦が、久美を横目に見て、早速、口を出した。

 「気になることとは、どういうことですか?」

 「凶器の包丁のことなんですけど・・・」

 久美がいきなり久山の起訴のネックになっている部分を口にしたので、水之浦が続けて口を出した。

 「・・・ほう・・・凶器は確かに、まだ、見つかってませんが、どこにあるかわかってるってことですか?」

 「はい、いえ・・・ただ、こうじゃないか、と思ってることがあるということなんですけど・・・」

 水之浦は、そんなことだろう、という顔をした。

 牧山は、久美が何を言い出すか、ある程度、予測していた。

 しかし、それを気振りに見せず、こう言った。

 「凶器のことが引っかかって、久山の起訴内容が固まらず、今のところ、略式の起訴に留めています。しかし、それも時間の問題だろうと考えています。久山の絞り方や周辺の捜索が、まだ、足りないのです」

 「これ以上、久山関連の周辺を捜索しても、凶器は見つからないんじゃないでしょうか?」

 水之浦が、むっとしたような顔をして、口を出した。

 「いくらあなたでも、軽はずみなことは言ってほしくないな。捜査員たちがどんなに苦労してるか知ってるはずでしょう?」

 久美は、捜査陣が積み上げてきた実績や苦労はよくわかっているつもりだったが、言い返さないわけにはいかなかった。

 「でも、見つかっていないんでしょう?」

 久美にそう言われて、水之浦が即答できずにいると、大川が口を出した。

 「おっしゃる通りです。・・・で・・・どこにあるか見当がついてるってことですか?」

 「ええ・・・たぶん・・・藤田が知っていると思います」

 「えっ・・・!」

 大川と水之浦が、ほとんじ同時に、声を上げた。

 牧山は、久美が何を言い出すか、ほぼ、予測できていた。

 久山が犯行をあっさり自白してからは、捜査陣は視野狭窄の状態に陥っていたと言うしかない。久山の周辺から凶器が見つからないとすれば、事件の流れを見直せば、藤田が持ち去ったと考えるしかないのだ。

 牧山は、ほぞむような思いだったが、口から出て来た言葉は、こうだった。

 「・・・それは・・・ないんじゃありませんか。あいつは、凶器が包丁だったことさえ知らないんですよ」

 「ほんとに、そうでしょうか? 藤田を再尋問なさってる時は、姉を殺したのは久山だと思い込んでいましたので、そう気に留めていなかったことなんですが、久山が逮捕された後、久山をいくら問い詰めても、周辺をいくら捜索しても、凶器が見つからないと聞いて、思い出したことがあるんです」

 「ほーう、どういうこと?」

 水之浦も、さすがに、身を乗り出した。

 「牧山のおじさまも気づいておられたと思いますが、藤田は、姉が殺された現場の話になると、極度におびえて、体が異常に震えていましたね。ストーカーをするほど好きだった女性が殺されて、その現場のことを話さなければならないわけですから、その時は、それがおかしいことだは思わなかったのですが、こういう状況になってみると、あの様子は異常だったとしか思えなくなったのです」

 「ほーう、そんなことですか」

 と、水之浦。どうせそんなことだろうという顔だ。

 そして、こう、続けた。

 「これまでの経験でよくわかってるはずで、釈迦に説法するようなことかもしれませんが、具体的な、それも検察官や裁判官が納得するような確かな証拠でもなければ、ただの直感や推測だけじゃ、どうにもならんのです。そんなことで藤田を疑うのは、いささか乱暴じゃありませんか」

 水之浦は、気遣いをしているような言葉を使う時は、後に辛辣しんらつな言葉が続く。さとすような口調になっているのも、久美の神経を逆撫さかなでした。それに、藤田の真犯人説に、一時は、頑なに拘泥こだわっていた水之浦が、藤田をかばっているのがおかしかった。

 久美は、いろいろ教えていただいてありがとうございます、と言っておいて、水之浦の言ったことを全く無視して、自説を繰り返した。

 「藤田は、供述したこと以外に、何かを隠している、何かを知っている、再度、尋問すれば、きっと、何か出てくる、そう思えてならないのです」

 「そんなことを考えていたんだったら、なんで、われわれに言わなかったんですか。言うべきだったんじゃありませんか。機会はいくらでもあったはずでしょう。あなたは、いつも、情報を小出しにする!、それも、決まって、後になってからだ!」

 水之浦が声を荒げた。自分の言ったことを無視されて、カチンときたようだ。

 強い言葉でそう非難された久美は、さすがに、泪目になった。

 うつむいて、睫毛まつげに溜まり始めた涙を指先で払った。

 「このことは、いくら探しても、久山の周辺から凶器が見つからない、と聞いて思い出したことなんですよ。そんな言い方をされるなんて・・・」

 強気一点張りに見えていたじゃじゃ馬娘の、意外な一面を見せられて、水之浦が慌てた。

 「ごめん、ごめん、言い過ぎましたね」

 子どもにあやまるような言い方だ。

 大川が、珍しく気色けしきばんで、言った。

 「水之浦君、君は、このお嬢さんに出し抜かれてばかりいたもんだから、ムキになってるんじゃないの。藤田を再尋問することなど、簡単なことじゃないか。何も出てこなくても元々だろうが。藤田の再尋問をしなさい! 場合によっては、再度、署に留置する。これは捜査本部長としての私の命令だ。峯崎検事には、直接、私が交渉する」

 牧山も、とがった目を水之浦に向けている。


        2


 牧山は、水之浦のいないところで、久美の考えを、改めて、詳しく聞いておこうと思った。

 大川と水之浦に断って、二階の取調室に久美を案内した。

 「こんな場所ところで申し訳ありません」

 「ああ、牧山さんに呼び出されて、父や母と、ここに来た時以来ですね。あの時まで、取調室なんて、テレビのドラマでしか見たことがなかったんですよ」

 と、言いながら、鉄棒のはまった小窓や、狭い室内を見回している。

 牧山は、しまった、と思った。

 この取調室が、あの夜、父親の伸吾と母親の綾子と久美を待機させた因縁の場所だったということに、迂闊にも、気づいていなかったのだ。

 「場所を変えましょうか?」

 「どうしてですか?」

 「思い出させてしまったんじゃありませんか?」

 「おじさん、て、やっぱり優しいのね。いいのよ。姉と母が、また、ここに私を呼び寄せたんだと思います。ここに入って来て、改めて、闘志が湧いてくるような気がするんですもの」

 久美は、そう言ったが、目が潤んでいる。

 牧山は、自分の配慮の無さを、久美が、そういう言葉で、かばってくれたのだと思った。聡明であるばかりでなく、思い遣りがあって、心優しい娘だ、と牧山は改めて思った。

 久美が、先にパイプ椅子に座ったので、牧山も、机を挟んで、その真向かいに座った。

 牧山が、先に、切り出した。

 「藤田は、殺害現場の話になると、確かに、怯えて、震えていましたね。私も気づいてはいたんですが・・・恋い慕っていた恵美さんが殺されている現場の話をしなければならないわけですから、異常なことだとは思いませんでしたが・・・」

 「私も同じで、あの時の藤田の様子に重要な意味があるとは考えていませんでした。しかし、久山が逮捕されて、久山の周辺をいくら捜索しても、凶器が見つからないと聞いて、思い出したのです」

 「なるほど・・・あの様子は尋常じゃなかった、何かある、隠している、そう思ったってわけですね」

 「はい。その前提で考え始めると、いろいろ不審な点や納得できないことが出てきたんです」

 「そうだとすれば、われわれの失態です。藤田の供述の内容を、もっとしっかり検証してみるきだったということになります」

 「いえ・・・失態なんて言われると・・・凶器のことは不明でも、久山は、一貫して捜査陣に調子を合わせるような供述をしてきたはずですから、藤田を含めて、他の者に疑いを持たなかったのは仕方のないことだったんじゃないでしょうか?」

 「いや、気遣っていただいて恐縮です。捜査陣が視野狭窄の状態に陥っていた可能性は否定できません・・・ところで、先ほどの、不審な点、というのはどういうことですか?」

 「 先ず、犯行現場のことですが、久山の供述から推測すると、姉は、あまりの恐怖に、のどを刺される前に、すでに失神していたことがわかるんです。意識を失って、ぐったりした状態の姉の体重を支えながらの凶行だったはずです。久山は、医学の知識がない上に、興奮の極に達していたはずですから、包丁を突き刺した時、喉のどこを刺したのかさえよくわからなかったんじゃないでしょうか。そんな久山が、頸動脈にまで達する致命的な傷を、一瞬のうちに、負わせることができたとは思えないのです。その可能性が全く無かったとは言えませんが・・・。それに、姉の喉には、無惨な傷が二ヶ所ありました。久山が供述した状況から考えると、久山に二度刺すほどの余裕があったとは思えないのです」

 牧山が、手で制するような仕草をして、口を出した。

 「ちょっと待ってください。久山は二度刺したことを否定していませんよ」

 久美は、すぐに、こう訊いた。

 「久山が、自分で、そういう意味のことを言ったのですか?」

 牧山は、即答できずに、ぐっと詰まった。

 「・・・そうですね・・・検案書を突きつけられて、やっと認めた、そういう状況だったような気がします」

 久美は、牧山このひとはやはり正直だ、と思った。

 久美は、牧山のいさぎよい態度に力を得て、考えていたことを口にした。

 「私は、致命傷になった傷は久山のものではない、と思ってるんです」

 「えっ・・・! 何か根拠でもあるんですか?」

 「久山は、姉が血を流して倒れたので、それに動転して、殺してしまったと思い込んでしまったんじゃないでしょうか?」

 「・・・致命傷じゃなかった・・・そういう意味ことですか?」

 「はい・・・失神していただけだ、と・・・」

 「驚いたな・・・あなたにしては、短絡過ぎるような気がしますが・・・他に、何か、根拠があるんじゃありませんか?」

 「根拠といえるかどうかわかりませんが、再尋問をなさった時、藤田は、姉の死顔しにがおが、穏やかで、きれいだったと言いましたね。でも、安置室で見た時の顔の表情は、そうは見えませんでした。藤田の供述には虚偽うそじっているとしか思えないのです。藤田にやましいことがあるからじゃないでしょうか」

 「なるほど・・・しかし、いずれにしろ、立証が問題になりますね。物的な証拠でもなければ、捜査陣や検察を納得させることは難しいでしょうね」

 「証拠になるようなことかどうかわかりませんけど、犯行当日のトイレの明かりのことを調べてみていただけませんか?」

 久美は、理由を訊かれると思ったが、予想がはずれた。

 牧山は、何かひらめいたのか、考え込んでしまった。

 他にも指摘したいことがあったが、水之浦の言葉や態度を思い出した。

 同時に、捜査の専門家の牧山を前にして、生意気なことをしゃべり過ぎたと思った。

 警察の捜査陣は、大がかりな組織力をかして、想像もできないような地道で、堅実な捜査をする。

 久美は、これ以上口出ししてはいけない、牧山たち捜査陣を信じよう、と思った。



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