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リーマンショック殺人事件(全編)  作者: 松島 圭(本名・成尾五邦)
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第一章 迷宮

 リーマンショック殺人事件(全編)


  第一章  迷 宮


    1


 二〇〇九年一月十六日、午後八時三十分。

 恵美えみが帰って来ない。

 平常は、夜の七時になる前に帰宅し、残業や懇親会などで帰宅が遅くなるような場合は、母親の綾子あやこに事前に教えていたし、急な場合は、必ず連絡を入れていた。

 外泊することもあったが、それはよほど特別なことで、綾子は、少なくとも一週間以上も前から、どういう目的で、どこへ行くのか、知らされていた。

 次女の久美くみは、二階の自室にいる。

 大学の二年生で、東京・文京区の学生マンションに入っているが、冬期休暇で帰って来て、後期試験の日程の都合で、親元にいた。

 久美も七時過ぎまでは姉の帰りを待っていたのだが、締め切り間近のレポート作製の途中であることを知っていた綾子が、気をかしてくれたので、夕食を先に済ませて、自室に上がっていた。

 綾子は階段を上る。

 久美の部屋のドアを躊躇ためらいがちにノックする。

 久美が、椅子から立っていって、ドアを開けたが、綾子は入り口に立ったままだ。

 「どうしたの? お姉ちゃんのことじゃない?」

 久美も、恵美が帰って来た気配がないので、綾子が上がって来る前に、何度か時間を確かめていた。

 「まだ、帰ってないのよ」

 「いつもより遅いんじゃない?」

 久美は、そう言ってしまってから、すぐに付け加えた。

 「まだ、八時半でしょう? これぐらい遅くなってもおかしくないわよ」

 「でも、連絡がないのよ。こんなことって一度もなかったのよ」

 そう言われると、すぐには言葉が返せない。

 綾子は、そんな久美を見て、さらに不安になったようだ。

 「やっぱり、歩いて通勤するのはめさせておけばよかったわ」

 「車の免許がないんだもの、駅までのき帰りぐらい仕方ないんじゃないの」

 「でも、夜道を帰って来るのよ。このごろ、暗くなるのがとっても早くなってるような気がするわ」

 「暗くなるのは、冬のあいだだけじゃないの。それに、商店街や住宅街の中を帰って来るんだから、夜道なんて言えないわよ」

 「それにしても、こんな時間よ」

 「帰りが遅くなった時は、いつも、タクシーで帰って来てたじゃない。今日も、そうするつもりでいるのよ」

 「でも、そんな時は、必ず、連絡があったのよ」

 「・・・・ケータイに電話を入れてみたら? 電話してみたの?」

 「そう思ったんだけど、まだ、してないのよ。何か、こう、胸騒ぎがしてね。出なかったらどうしようと思って・・・」

 「あは、はは。今日のお母さん、ちょっとおかしいんじゃない。心配し過ぎよ。何か事情があるのよ・・・お父さんは? 今日も遅くなると言ってたそうだけど、まだ、なの?」

 「会社がね、それも、お父さんの人事管理部ところが大変なことになってるみたいで、今日も、帰りは何時になるかわからないと言ってたわ」

 「お父さんの会社もそうなのよね・・・わかるわ。今度の不況は半端じゃないもの。・・・じゃあ、私が電話してみるわね。テレビでも見ててよ」

 綾子は、久美の顔を見つめて、しばらく突っ立っていたが、

 「・・・・そうね。そうしてもらうしかないわね」

 と言うと、心配そうな顔をしたまま、階段を下りて行った。

 十二、三分ほどして、久美が居間に下りて来た。

 綾子は、テレビを消して、テーブルの前に座り込んでいた。

 久美が下りて来るのを待ちかねていたらしく、すぐに半腰になって、化粧っけのない顔を向けた。

 「出ないわ。コールサインがあったので、しばらく待ったの。応答がなくて、留守電になりそうになったので、いったん切って、ちょっと間を置いて、またやってみたの。やっぱり、コールサインはあるんだけど、応答がないのよ。念のためにと思って、もう一回やってみたの。すると、つながった気配がしたんだけど、こっちが何か言い出す前に、切れちゃった。それで、また、やり直してみたんだけど、今度は、コールサインがなくなって、電源が切れてるか、電波が届かない、という音声しか返ってこなくなったわ。時間を置いて、何回やっても、同じなの」

 綾子が、目を見張って、立ち上がった。

 「ケータイにも出ないって? それ、どういうことよ!」

 「どういうことって言われても・・・。出られない事情が何かあるんじゃないかしら。電源を切らなきゃいけないところにいるのかもしれないし・・・着信に気づいて、きっと、連絡してくるはずよ。もう少し、待ってみようよ」

 久美も、一回は繋がったのに、すぐに切れたのが腑に落ちず、胸騒ぎがしていたが、綾子の心配を増幅させてはいけないと思って、そう言った。

 その後も、恵美のケータイに電話を入れてみたが、電源が切れたままで、何回やっても、同じだった。

 九時半になっても、恵美は帰って来ない。

 連絡もない。

 伸吾しんごも帰って来ない。

 綾子は、たまりかねて、久美のケータイを夫の伸吾のケータイに繋いでもらった。

 コールサインを鳴らし続けても、マナーモードにでも切り換えてあって、着信に気づかないのか、伸吾も出ない。

 久美は、仕方なく、自宅にすぐに連絡を入れてほしい、と、メッセージを入れた。

 こんな時に限って、と、不安をつのらせていると、しばらくして、久美のケータイが鳴った。

 伸吾の番号が表示されていたので、久美は、通話ボタンを押しておいて、急いで、綾子に渡した。

 綾子が耳に当てると、何かあったのか、と伸吾。

 周囲をはばかってか、声をひそめている。

 綾子は、前置きも言わずに、いきなり、なぜ、電話に出ないのよ、と、取り乱した声で言った。

 伸吾は、綾子のいつもと違う様子に驚いたようだが、いったい、どういうことなんだ、今、席をはずせないんだ、と、声を潜めたまま、早口で言った。恵美が帰ってない、と聞くと、なんだ、そんなことか、と言った。

 綾子は、伸吾のそんな反応が信じられなかったらしく、珍しく気色けしきばんで、恵美ちゃんのケータイに電話を入れても、出ないのよ、こんなことって、一度もなかったのよ、おかしいでしょう、きっと・・・と、言いかけた。

 伸吾は、言葉をかぶせるようにさえぎって、もう子供じゃないんだから、心配し過ぎるのもいい加減にしなさいよ、今、重要な会議の最中で、私が責任者の立場なんだ、それが一区切りついたら、本社と打ち合わせてから、支社内の対策会議を再開しなければならない、組合幹部も待機させたままなんだ、と、声を潜めたまま、早口で言った。

 伸吾は、周囲を憚って、気をつかっている様子だった。

 途中で言葉を差し挟めないまま、交信が切れてしまったので、綾子は、うらめしそうな泪目なみだめになって、ケータイをしばらく見つめていた。

 綾子は、せ型で、知的な顔立ちをしている。

 四十歳代の半ばを過ぎているが、日頃は、その年齢には見えない。

 小柄な方なので、化粧をして外出した時など、五、六歳は若く見られる。

 しかし、この時の綾子は、化粧っけのない顔が青ざめて、目尻の小皺こじわや顔の色艶いろつやが年齢相応に見えた。

 十時を過ぎても、恵美は帰って来ない。

 連絡もない。

 伸吾も帰って来ない。

 電話もかけて寄こさない。


   2


 母娘おやこで不安をつのらせていると、十時半になる頃、やっと、伸吾が帰って来た。

 伸吾は、年齢は五十がらみ、やや大柄で、目鼻立ちがはっきりしている。

 ダークグレーの上等の背広を上品に着こなして、髪の毛にはきちんと櫛目くしめが通っている。最近は、激務に近い日常になっているはずだが、中年太りの体型を免れているせいもあって、体全体からエネルギーを発散させているような若さを保っていた。

 伸吾は、玄関を入ると、靴も脱がないうちに、急いで出迎えた綾子に、気色けしきばんで言った。

 「こっちの事情も察してくれよ。なんとか理由をつけて抜け出して来たが、とても帰れるような状・・・」

 綾子は、伸吾に、皆まで言わせなかった。

 「あなた、恵美のことが心配じゃなかったの! まだ、帰ってないのよ」

 「えっ・・・!」

 「会社の事情もわからないわけじゃないけど、会社の仕事と自分の娘とどっちが大切なの、って言いたいわ」

 綾子は滅多めったに怒った顔を見せたことがない。

 その綾子の顔が青ざめて、目が吊り上がっている。

 伸吾は、突っ立ったまま、返す言葉がない。

 「連絡もしないで、こんなに遅くなったことは一度もなかったのよ。ケータイに電話を入れたら、最初は呼び出し音があったのに、途中で電源が切れたって言うのよ。何回やっても、電源が切れたままで、こんな時間になっても、まだ、帰ってないのよ。おかしいでしょう? 警察に届けるしかない、って言い合ってたところだったのよ」

 「警察? ・・・まさか、それほどのことじゃないだろう。急に用事ができたか、途中で、誰か知り合いに・・・」

 「何を呑気のんきなこと言ってるのよ! そんなことだったら、連絡を入れるはずよ。第一、ケータイの電源なんか切るはずないでしょう?」

 伸吾は、会社が尋常な事態ではなくなっていて、そのことで頭が一杯で、帰宅した時も、頭の切り替えが完全にはできていなかったようだが、さすがに、顔色を変えて、腕時計を覗き込んだ。

 「・・・・もう、こんな時間か・・・・」

 「ああ、もう、どうすればいいのかしら」

 「とりあえず、心当たりに電話を入れてみよう。警察に届けるのは、それからにした方がいいだろう」

 伸吾も、胸騒ぎが大きくなっていたが、綾子を落ち着かせるために、そう言うしかなかった。

 恵美の勤務先は、伸吾の会社の系列で、大南駅から北東へ三十数キロ、通勤電車で五十分ほどの距離にある。

 伸吾も、久美も、恵美の職場の同僚の佐々木弥生ささきやよいを知っていた。

 佐々木は、恵美の高校時代の親しい同級生でもあったので、何度か家に来たことがある。年末にも、恵美が家に連れて来た。

 佐々木は派遣社員で、そのことで相談があると言うので、伸吾は話を聞いてやった。連絡先として、伸吾がケータイの番号を手帳に控えていたので、久美が電話を入れた。

 佐々木は、恵美が乗り降りしている電車の時刻まで、日頃の習慣を知っていたので、電話の内容に驚いた様子だった。

 退社前に、他の課に在庫資料を届ける必要があって、恵美にも断って、資材管理課の第三室を恵美より早く出て、そのまま、会社を出てしまった、恵美さんも五時半頃までには会社を出たはずだ、と言った。

 伸吾は、恵美が所属している資材管理課の課長・今西秀一郎の自宅の電話番号を手帳に控えていたので、自分で電話を入れた。

 今西は、戸惑った様子だったが、すぐに、しっかりしたお嬢さんですから、ご心配なさるようなことはないでしょうが、念のために、資材管理コンピューター室主任の漆原うるしばらのところへも電話を入れてみてください、と言って、漆原の自宅の電話番号を教えてくれた。

 漆原孝志は、恵美が帰宅してないと聞くと、えっ、そうですか、と、驚いたような声を出した。それから、いつものように、五時半になる前に、お先に失礼します、と挨拶されて、資材管理課の第三室を出て行かれるところは見てますが、それ以後のことはわかりません、と言ってから、責任を感じたのか、私もできるだけ心当たりを当たってみます、と言ってくれた。

 久美は、恵美と共通の、いくつかの知り合いの連絡先に電話を入れた。

 結局、電話を入れた先で、恵美の退社後のことを知っている者はいなかった。

 午後の十一時になる前と、十一時を少し過ぎた頃、電話の呼び出し音が鳴った。いずれの時も、恵美からと思って、期待と不安の入り交じった顔をお互いに見合わせて、急いで電話に出たが、佐々木と今西からのものだった。

 二人とも、恵美のことを心配してのことで、恵美の退社後の情報を知らせるものではなかった。

 その後も、漆原や、問い合わせた先からも電話がかかってきたが、いずれも、恵美の安否あんぴを気遣うものだった。

 綾子は、居間に座り込んでしまった。心配の極に達していて、おびえた顔が別人のようだ。

 久美は、新入生だった前年度の大学祭で、コンテストに引っ張り出されたほどの美貌だが、そのりの深い顔を曇らせて、綾子の傍に横座りに座って、畳のへりを見つめている。心臓が早鐘を打つようになっていた。

 伸吾は、畳の上に胡座あぐらをかいて、生色のせた深刻な顔をして、時計の針の動きに頻繁に目をやっている。

 午前0時に近くなって、伸吾も警察に連絡せざるを得なくなった。

 立ち上がって、電話機の方へ行きかけた。

 電話機は、居間の外にあって、廊下の端にある。

 日頃は冷静な伸吾も、背広の内ポケットにケータイが入っているのをうっかりするほど平常心を失っていた。

 伸吾が居間の滑り戸を開けて、廊下に出ようとしたとき、玄関のチャイムが鳴った。

 伸吾の動きが、金縛かなしばりにあったように、止まった。

 恵美ならドアのキーを持っている。

 チャイムなど鳴らすはずがない。

 綾子は、目を大きく見開き、顔を引きつらせた。

 伸吾は、思い直したように、玄関に通じる廊下に出た。

 問い合わせの電話を入れた先の誰かが、駆けつけたものと思ったようだ。

 伸吾は、玄関の方へ歩きながら、問いかけた。

 「どちらさまですか?」

 「大南警察署の者ですが、夜分遅くすみません」

 と、ドアの外から男の声が聞こえた。

 伸吾は、よほど衝撃を受けたのか、しばらく、突っ立っていた。

 綾子も久美も、警察と聞いて、心臓が止まるほど驚いて、玄関に通じる廊下に出て来た。

 伸吾が、震える手で、ドアを開けた。

 暖められていた屋内に、冷たい外気が流れ込んで来た。

 玄関先の蛍光色の灯りの下に、四十年配の私服の男が立っていた。

 その背後に、若い警察官の制服姿も見える。

 「大南署の牧山という者です。ちょっと、よろしいですか?」

 私服の男が、そう言いながら 警察手帳の写真付きのページを見せた。

 伸吾は、うなずいたが、目を見張ったまま、口がきけない。

 牧山と名乗った男だけが中に入って来た。

 中肉中背で、あごの張った、見栄みばえのしない顔だ。

 白っぽいコートがヒザの下まである。

 コートの下は黒っぽい背広で、薄青色のシャツの前に判別不明の色のネクタイを垂らしている。太い眉毛の下に光っている眼と、角刈り頭が、刑事らしく見えないこともない。

 「薗田さんのお宅ですね?」

 「はあ、そうですが・・・何か?」

 伸吾は、息が止まりそうになって、聞く。

 「薗田恵美、さんは、お宅のお嬢様ですか?」

 「・・・・恵美は・・・・うちの娘です」

 「ご在宅ですか?」

 「・・・・いや・・・・まだ・・・・帰ってませんが」

 「やはり、そうですか」

 伸吾は、一瞬、呼吸いきを呑んで、絶句していたかと思うと、大きく目を見開き、

 「やはり、ってどういうことです!」

 と、驚愕した声を出した。

 「この段階では、何とも・・・。こんな時間に申し訳ないのですが、大南署にご同行いただけませんか」

 「えっ! 恵美がどうかしたんですか!」

 「ここでは、なんとも・・・」

 「いったい、どういうことなんだよ! そんな曖昧あいまいなことで、警察に来い、というのはあんまりじゃないか! こんな時間に!」

 伸吾は、何か深刻な事態が起こっているらしいと察していながら、声を荒げた。察したからこそ、その得体えたいの知れない大きな不安を目の前の刑事にぶつけたくなったのだろう。

 顔が引きつって、唇が震えている。

 「申し訳ありません。くわしいことは、後ほど、お話できると思います。とにかく、署においでいただけませんか。確かめていただきたいことがあるものですから・・・」

 伸吾の背後に立っていた綾子が倒れそうになる。

 久美が、綾子を、背後から支えた。

 久美も、顔から、すっかり血の気が引いている。


    3


 伸吾はまだ服を着替えていなかったので、そのまま、外に出た。

 日中は冬とは思えないような陽気だったが、夜がけるにつれて、冷え込みがきびしくなっているようだった。

 綾子は蜜柑色の室内着のままだったが、いつもの気遣いができない。

 久美は家に入り、マフラーと厚手あつでのコートを取って来て、綾子の首にマフラーを巻いてやり、肩から背中にコートを着せかけてやった。

 久美も、首回りのゆったりした純毛の白いタートルネックに、紺青色の細身のズボンという軽装だったので、手近にあったダークレッドのダウンジャケットを羽織って出て来ていた。

 住宅が建ち並んだ道の脇に、赤色灯を回転させたままのパトカーと、黒い普通車が停まっていて、パトカーの運転席に制服警官、普通車の運転席には私服の男が座っていた。

 牧山が、黒い覆面パトカーの後部座席のドアを開けて、うながすような顔をした。

 伸吾は、綾子を気遣って振り向いたが、久美が綾子の背中に手を回しているのを見て、ふらつくような足取りで、先に乗り込んだ。

 久美は、ふらふらして立っているのがやっとという様子の綾子の背中を押して、なんとか座席に押し込んだ。

 久美が綾子に続いて乗り込むと、牧山がドアを閉めた。

 牧山が助手席に座って、ドアを閉めると、パトカーが先導する形で、走り出した。

 車内では、重苦しい沈黙が続く。

 牧山のとらえどころのない茫洋ぼうようとした横顔が、時々、対向車の前照灯に不気味に照らし出される。

 綾子が、たまりかねて、前の座席に問いかけた。

 「うちの恵美むすめに・・・何かあったのでしょうか?」

 牧山は、前を向いたまま、何も答えない。

 綾子は、マフラーを目に当てて、肩を震わせ、すすり泣きを始めた。    「何か、はっきりしてることがあるんじゃないの!」

 伸吾が、声を荒げた。

 「・・・・ご勘弁下さい」

 牧山は、少し頭を下げるようにして、そう言うと、また前を向いて、沈黙を続ける。

 伸吾は、さらに何か言いかけたが、口をつぐんだ。

 こんな頼りない田舎いなかのおじさんみたいな刑事に何か聞いても無駄だ、と思ったのだろう。

 大南署に着く。

 鉄筋コンクリートの四階建てだ。

 一、二階の全部の窓という窓に明かりがともり、三階の大半、四階の一部にも灯りがいている。

 正門付近は昼間のように明るく、赤色灯を回転させたパトカーが出て行ったかと思うと、すぐに覆面パトカーらしい車が入って来る。

 牧山に先導されて、伸吾、綾子、脇下に右手を回し左側から綾子を支えた久美が玄関ホールに入ると、二、三人の制服警官が、動きを止めて、姿勢を正して、頭を下げた。

 牧山に続いて、玄関ホールの左奥の階段を上った。

 二階に上がって右に進むと、廊下の先に、大きな部屋があるようだ。

 出入りが頻繁で、騒然そうぜんとした感じになっていた。

 牧山は、その二つ手前の、明かりのついた小部屋のドアを開けて、ドアが閉まらないように支えた。

 三人が中に入ると、続いて部屋に入って牧山が、暖房のリモコン・スイッチをいじった。

 中は殺風景で寒々とした小部屋だ。

 中央に長机が二つ平行に並べてある。

 その周囲に折りたたみ式のパイプ椅子がいくつか置いてあって、机の先の小さな窓には、鉄棒が五,六本はめ込んである。

 牧山はパイプ椅子を、武骨な手つきで、長机の前に三つ並べ換えておいて、

 「申し訳ありませんが、ここで、しばらくお待ち下さい」

 と、言った。

 伸吾、綾子、久美の順に座るのを見届けると、牧山は小部屋を出て行った。

 廊下からはあわただしい動きが伝わって来るが、小部屋の中は別の世界のようだ。

 何の指示も連絡もないまま、一時間ほど待たされた。

 異常な不安の中で待たされて、苛々《いらいら》が募る。

 伸吾が声を荒げた。

 「何様なにさまのつもりなんだ! これじゃ犯罪人扱いじゃないか!」

 久美にしても、居ても立ってもいられない気持ちは同じなのだが、綾子がほうけたような様子で座っているのが気になって仕方がない。

 綾子は、顔から生色が失せて、今にも気を失いそうな様子だ。

 午前一時を過ぎたころ、牧山と青い捜査服を着た男が入って来た。

 「現場責任者の柏木です。現場から、先ほど、帰ってきたばかりです」

 牧山が、現場、という、生々《なまなま》しい警察用語を使って、捜査服姿の体格のいい男を紹介した。牧山と違って、上背うわぜいがあって、精悍せいかんな風貌をしていた。

 柏木が、頭を下げてから、言った。

 「お待たせしました。確かめていただきたいことがございます。お連れするところは・・・実は・・・遺体安置室です」

 「えーっ・・・!」

 伸吾は、脳天に痛撃でも喰らったように驚愕して、パイプ椅子を大きく鳴らして、腰を浮かした。

 綾子が不安定に体を動かしたので、椅子から落ちそうになる。

 久美は、咄嗟とっさに腰を浮かし、脇の下に両手を入れて、綾子を抱きかかえるようにして支えた。

 久美の顔も、紙のように白くなっている。

 伸吾が、うめくように、言った。

 「・・・こういうことってあるのかよ!」

 眼の色が異常で、色のせた唇が震えている。

 牧山は、そんな家族に、言葉のかけようがない。

 柏木はうながすような顔をしているだけだ。

 二人が部屋の外に出て、黙って歩き出したので、ついて行くしかない。

 綾子も、久美に支えられて、よろめきながら歩き出した。

 安置室は、地下にあった。

 六畳間くらいの安置室は、むき出しのコンクリートの床だ。

 天井の蛍光灯が寒々《さむざむ》と照らしている。

 右側にスチール製の大きなベッドがあって、その近くの壁際かべぎわに青いクーラーボックスがいくつも積み重なっていた。

 捜査服が一人と、制服が二人、立ち番をしていた。

 ベッドの上には、何も乗せられていない。

 正面奥に、青いビニールシートが敷いてある。

 綾子は、安置室に足を踏み入れて、青いビニールシートに目をやった途端に、コンクリートの床にくずおれた。

 朝、家を出た時の娘の通勤服姿をシートの上に見たのだろう。

 それ以前の数日間は寒い日が続いていたが、この日の朝は、珍しく、春を思わせる陽気だった。

 天気予報でも、低気圧が太平洋側に移動するのは夜になってからとのことで、日中の予想気温は一月とは思えない温度だった。

 綾子が予報が当たるとは限らないから、と気遣ったにもかかわらず、歩くと汗が出て来るのよ、きっと温暖化の影響ね、と笑って、恵美はコートを着ないで出勤した。

 綾子は、両手で顔を覆い、コンクリートの床に座り込んで、肩を激しく震わせながら、おめくような声で泣き出した。

 伸吾と久美はビニールシートに近づく。

 久美は、綾子の様子から覚悟はできていたが、突然しゃがみ込んで、両手で顔を覆って、ワッと泣き出した。

 ビニールシートの中央に、若草色の厚手のスーツを身に着けた髪の長い女が仰向けに横たわっていた。

 上着の首周りのえりのあたりから胸にかけて黒ずんでいる。

 肌色の厚手のパンテイストッキングが脱がされかかって、両方のげ茶色のブーツの上のあたりに固まっていた。

 その向こうの祭壇らしいところで五,六本の線香が煙を上げている。

 顔が蒼白になった伸吾は、ほうけたように、突っ立っている。

 柏木が、事務的な口調で、言った。

 「現場での代行検死のみで、正式な検死がまだ終わっておりません。捜査上の事情があって、申し訳ありませんが、現場の状況を再現してあります」

 遺体は、まっすぐ仰向けに、横たわっている。

 整った青白い顔に、苦悶くもんの表情が見える。

 首元の左側に無惨むざんな傷跡が二つあった。

 その一つが大きく口を開けている。

 喉元のどもとから大量の血が流れ出て、周囲に付着していたはずだが、それがきれいにき取ってあった。

 すんなり伸びた形のよい両脚が少し開き、パンテイストッキングが膝の下に固まっている。

 上半身に下着は見えず、上着のスーツが素肌に直接着せられていた。

 スカートのすそが左側だけめくれて、左の太股から恥毛まで、蛍光灯の下にさらされている。

 太股に白い体液のようなものが流れた跡があって、恥毛にもそれがこびりついていた。

 伸吾は、唐突とうとつにしゃがんで、すそに手を出そうとした。

 「触ってはいけません!」

 柏木が、語気を強めて、注意した。

 「なんでだよ! 裾がめくれあがって、丸見えじゃないか!」

 伸吾は、真っ赤に充血した眼で柏木を見上げて、泣き声で怒鳴った。

 狂ったような眼の色になっている。

 「現場で、そういう風になっていたのです。裾のめくれ具合にも意味があって、捜査資料になる可能性があるのです」

 柏木が冷然と言い放つ。

 柏木に、そのつもりはなくても、伸吾にはそう聞こえる。

 「ちくしょう! 勝手な屁理屈をこねやがって! 首の傷もむき出しじゃないか! 家族に見せるんだったら、もっとやりようがあるんじゃないのか!」

 「お嬢様だということですね」

 柏木は事務的に聞く。

 そう聞くしかないのだ。

 伸吾は答えない。

 両膝を床に落とすと、号泣し始めた。


      4


 大南警察署に一一〇番通報があったのは、午後九時五十六分だった。

 通報したのは、コンビニ店の若い男の店員だ。

 通報の内容は、先ほどコンビニ店に電話があった、若い女性が死んでいる、コンビニ店から大南市街へ向かう県道の途中にある林の中で、車道の近くだ、どこかへ連絡してくれ、という極めて簡単なもので、それだけ言うと、すぐに電話が切れた、と言う。

 俄作にわかづくりの捜索班が編成されて、通報のあったコンビニ店に向かった。

 コンビニ店は、雑木林から、県道を西へ向かって車で二キロ弱ほど走った先にあった。

 そのあたりから、また、人家が増え始めていた。

 電話を受けたコンビニのアルバイト店員は、捜査員にかれて、その電話があったのは、午後九時五十二,三分頃だった、警察へ連絡してくれというものでもなかったし、通報していいものか迷ったので、帰宅していた店長に相談してから一一〇番に通報した、電話は上ずった男の声で、発見した経緯はもちろん、名前も言わなかった、声からは年齢の推定はできなかった、と言った。

 一一〇番にはいたずら電話もかかってくるが、この電話の主は、直接一一〇番へ通報していない。警察へ知らせろ、とも言っていない。捜査員は、この通報には、信憑性しんぴょうせいがあると判断した。

 雑木林の規模が大きいことがわかっていたので、急遽、人員を増やし、直ちに捜索が行われた。

 雑木林は、大南市街から西へ五,六キロ走った先で、県道の両側に四,五百メートルほども続いていた。

 規模の割には、発見が早かった。

 通報の内容が、死体は車道の近くにある、というものだったからだ。

 通報通り、若い女性の死体が、雑木林の中ほどの、県道脇の側溝から十数メートルほど中に入り込んだところで発見された。

 争った形跡や血痕などはなく、別の場所で殺し、車で運んで来て、現場に遺棄いきしたものと思われた。

 周辺一帯が徹底的に捜索されたが、犯人の遺留品いりゅうひんなど、物証になるようなものは見つからなかった。

 県道脇の側溝から死体があった場所まで、灌木かんぼくが折れたり、雑草が踏みつけられたあとが残っていた。

 雑草はほとんど枯れていて、湿気を含んだ地面がむき出しているところもあって、靴跡が、二,三残っていた。靴のサイズは二十六センチ、靴底の紋様からメーカーを特定できないことはないと思われた。

 若草色の上着が血痕で汚れていたので、通勤服を着たまま鋭利な刃物で首を切られたものと推断された。

 パンテイストッキングが両膝の下まで脱がされていたが、こげ茶色のブーツは履いたままだった。スカートの裾が左側だけめくれていた。

 死体と死体が身に着けていたものには、ブーツ以外に、指紋が残りそうなものがなかった。そのブーツにも、ガイシャの指紋さえついていなかった。

 上着の左胸の内ポケットに、通勤用の定期券パスに使えるカードが残されていた。犯人が見過ごしたものか、身元がわかるように故意に残したものかわからなかった。それには、本人の指紋と思われるものしかついていなかった。登録内容等を警察権限で調べて、ガイシャは大南市在住の薗田恵美らしいとわかった。

 死体は車道から見える場所にはなかった。夜も遅い時間で、その上、雑木林の中に十数メートルも入らなければならなかった。それに、善意の発見者であれば、直接、通報するはずだ。

 コンビニ店に電話をしてきた男が、犯人か、あるいは死体を運んだ共犯者である可能性が濃厚だった。

 犯行後それほど時間が経過していないことは、代行検死でも明らかだった。

 理解できないのは、犯人か共犯者であれば、犯行の当日に警察に通報してきたという点だ。死体の発見が遅れれば遅れるほど、犯人には有利になったはずだからだ。


      5


 翌日、早朝、一一〇番に通報が入った。

 公園のトイレの中におびただしい血が流れた跡がある、というのだ。

 直ちに捜査班が向かった。

 公園は、薗田恵美の家から、七,八百メートルほど離れた位置にあった。

 トイレはコンクリート建てで、出入り口は男女共通になっており、男子用トイレの出入り口の手前の床に血が流れた跡があった。

 床に夥しく流れた血は、早朝の光りと、トイレの天井からの蛍光色の明かりが入り交じって、赤黒く、不気味な色をしていた。

 血溜まりの中に、コンクリートの床が白々とき出している個所があった。 やや縦長のものと、半円に見える形のものだ。

 縦長のものは、ガイシャが倒れていたところだと、すぐに判断がついた。その形から、背中の一部と臀部の一部の位置がわかったので、どちらに頭を向けて倒れていたかも明らかになった。

 半円に見える形のものは、ガイシャの頭部と思われるあたりにあったが、それは、一見して、頭の跡とは思えないものだった。

 血の中には、靴の跡らしいものも、いくつか、あった。サイズは、いずれも、二十六センチ、靴底の紋様から、雑木林の中にあったものと同じであると推断された。

 それほど規模の大きい公園ではない。

 トイレは公園の東側の入り口から三十メートルほど中に入った位置にあり、そこは公園の北端に近いところだ。

 周囲にはサワラやカイズカイブキなどの灌木が植えられていて、榎木えのきけやき椿つばき、桜、などの樹木も近辺に立っていた。

 トイレ、公園の中、公園の周辺一帯が徹底的に捜索されたが、犯行に結びつくと思われるようなものは見つからなかった。

 国道から左折して県道に入ると、この公園がある。

 六十メートル弱ほどの公園の脇を通り過ぎると、県道や公園と同じ平面の住宅街が続いている。

 公園の北側にも宅地が造成されていて、やはり、住宅が建ち並んでいた。

 公園と公園の北側の宅地とは高低差があって、公園のすぐ北側に高さ七、八メートルほどの土手が横に走っている。

 トイレはその土手の近くに建っていた。

 国道脇の歩道と公園との境目には、レッドロビン、さらにその内側に大きく育った夾竹桃きょうちくとうがぎっしり植わっていて、国道側に車を駐めるところはない。

 国道を通る車のドライバーが、公園のトイレを使うことはないと思われた。

 事実、暗くなってから、ことに、冬の寒い時期に、そのトイレの周辺に立ち入る者はほとんどいない、と警察に通報した初老の男が言った。

 廣森秀雄ひろもりひでおは、早朝に犬を散歩に連れ出すのが日課で、いつものようにトイレに入ろうとして、きもつぶした、と言う。

県道に沿って、大人の背丈より高いサザンカが隙間無く植わっていて、びっしり葉をつけている。

 真ん中あたりはサザンカが途切れて、コンクリートの台座の上に、縦長の丸くて太い岩に文字をり込んだ記念碑が立っている。

 その周囲だけは、ツツジなどの灌木が植わっているが、その先は、またサザンカだ。

 別の言い方をすれば、公園の東側の入り口と、記念碑の立っている五,六メートルほどの幅の場所と、西側の入り口の部分を除けば、公園の中は、県道からは、見通せないということになる。

 公園の西側の入り口の近くから公園を半周できる小路こみちがあって、車を乗り入れることができる。

 この小路は、トイレの裏側のあたりで、行き止まりになっていた。

公園に面した県道の反対側はブロック塀で、その内側に、セメントの白い粒子を吹き付けたモルタルの高い壁が続いている。

 壁は色褪いろあせて、元の色を留めていない。

 以前は生鮮食品や日用雑貨を販売するスーパーだったのだが、現在、国道側の出入り口は、大きなシャッターが下りたままになっている。

 大型スーパーやコンビニ店の進出が相次いで、店終みせじまいを余儀よぎなくされたものと思われた。

 このブロック塀と壁が尽きるあたりから先は、また、住宅が建ち並んでいた。


    6


 血痕は薗田恵美のものと判明し、犯行現場であると断定された。

 徹底した聞き込み捜査が行われた。

 事件当日、午後六時四、五十分頃、黒っぽいワゴンタイプの軽自動車が公園の近くの県道を走っているのを見かけたという二、三の目撃証言があった。

 同じ時間帯に、薗田の家の方に向かう側道の先の県道で、Uターンをしている車を見た、という証言もあった。これも黒っぽいワゴンタイプの軽自動車だった、と言う。

 さらに、トイレの近くに、それと似た車が停まっているのを見た、という証言があった。水銀灯のある場所から離れていて、周辺に樹木もあったので、よくは見えなかったが、車の色は黒っぽかったと言う。  

 午後十一時を過ぎた頃、公園のトイレに目を向けた高校生がいた。

 松岡大樹まつおかだいきは塾帰りの受験生で、近道をして、旧地元スーパーの西端のブロック塀の脇の路地から県道に出た。

 その時、トイレの明かりが目に入った。小用を催していたので、西の入り口から公園の中に入ろうとしたが、こごえるような寒さで、その上、夜の公園は、暗くて、不気味だった、数百メートル走れば、自分の家に帰り着く、そう思って、我慢したと言う。

 それ以外には、その日の夜、公園の周辺で不審な人物を見かけたとか、悲鳴らしいものを聞いた、というような情報は、いっさい捜査員の耳に入って来なかった。

 午後六時二十五分大南駅着の電車から薗田恵美が降りるのをを見た、という証言が複数あった。証言したのは、同じ電車に乗り合わせる機会が多く、薗田恵美に関心を寄せていた若い通勤客たちだった。

 恵美は徒歩で往き帰りしていた。

 駅から公園までは、普通に歩くと、二十分とはかからない。

 凶行は、この、極めてわずかな時間内に行われたことになる。

 雑木林の死体発見現場の近くでは、通行車両の聞き込み捜査が延々と続けられていた。

 この県道は、名古屋方面へ通じているが、途中から道路の幅員が減少し、狭隘きょうあいな道を山越やまごえしなければならない。夜になると、通行量が極端に少なくなる道路だった。

 事件当日の午後九時三十〜四十分ごろ、現場付近の道路脇に、ワゴンタイプの黒っぽい軽自動車が停まっているのを見たという目撃証言が三件あった。

 二人は、車体の色は黒だった、と言ったが、一人は、濃紺だったような気がする、と言った。

 黒だと言った目撃者は、停まっていた車の前方、大南市街の方から対向車線を走って来て、現場を通り過ぎている。

 濃紺だったと証言した一人は、停まっていた車の後方から走ってきて、その車を避けるために、ハンドルを右に切って現場を通り過ぎている。

 同じような条件で検証した結果、後方から同じ車線を走ってきた場合、前照灯の明かりで黒と濃紺の色が判別できることがわかった。

 この車は公園の周辺で目撃された軽自動車と同一のものであると推断されたが、プレートナンバーは、どの桁の数字も、わからなかった。

 事件のあった日以前に、タクシーの運転手が、ワゴンタイプの黒っぽい軽自動車が停まっているのを何回か見かけていた。駅前広場のロータリーの向こう側の暗がりに停まっていたという。

 OL風の若い女が車の中を覗き込むようにして、話をしていたことがあったので、傍を通りかかる女性に車の中から声をかけて、軟派でもしているのだろうと思って不愉快だった、と、その運転手が言った。

 大南駅の周辺や国道で、ワゴンタイプの黒っぽい軽自動車を見かけた、という情報も複数あった。片側二車線の左側の道のさらに左端に車を寄せるようにして、時々車を停めたりしながら、ゆっくり走っていた、特に気にも留めずに追い越した、車内が暗くて、運転席にいた者が男か女かもわからなかった、と言う。

 事件後に見かけたという情報はなかった。

 ワゴンタイプの濃紺の軽自動車の発見に全力が注がれた。

 車のいくつかの特徴から、メーカーも二社に絞られて、大南市とその近辺の同型、同色の軽自動車のリストが作られて、その持ち主の、死体発見当日、特に薗田恵美が大南駅に着いたはずの六時二十五分前後から、雑木林の道路脇で軽自動車を見かけたという証言を得た九時三十分〜四十分前後のアリバイの有無を中心に、その行動が洗われたが、アリバイが曖昧でも、裏が取れず、任意の事情聴取を繰り返しているしかなかった。

 レンタカーの営業所の聞き込み捜査も、広範囲にわたって、徹底して行われたが、このタイプの車を借りた者はいなかった。

 届出のある盗難車にも、このタイプの車はなかった。

 大南市以外の車の数は、膨大な数になる。

 それでも、捜査の範囲を、大南市から周辺の地域へ徐々に広げていくしかなかった。

 靴はN社製のスニーカーだとわかったが、その販売数は捜査の及ぶ範囲を絶望的に超えていた。

 事件発生当初、県警本部からも捜査一課の課長以下三十数名のベテラン刑事が加わって、捜査会議が、連日、行われたが、計画的な犯行なのか、行きずりの犯行なのか、暴行目的だったのか、物盗りが目的だったのか、など、基本的な疑問点について、見解が分かれた。

 凶行後、それほど時間が経過しないうちに、死体を遺棄した場所を通報したのはなぜなのか。

 喉元の傷口から大量に血が流れ出たはずだが、それが死体からきれいに拭き取られていて、上着のスーツは素肌に直接着せられていた。

 首をかしげるような疑問点が、単純に見えた事件に、特異な様相を帯びさせていた。

 DNA鑑定の結果、その型が特定された。

 同型、同色の車の持ち主や、少しでも疑わしいと思われた者は、改めて、体液のついた物や毛髪などの提供を求められた。

 手こずらせる者もいたが、結果的に、それを拒み通す者はいなかった。

 結局、この中から、DNAの型が一致する者はいなかった。


       7


 不幸は重なることがある。

 薗田の家を、さらに、不幸が襲った。

 事件直後は、刑事たちが、毎日のように訪れていた。

 恵美の部屋の中の物は全て、押し入れの中、服、机の引き出しの中、本棚、一冊一冊の本やノート、パソコンの内容、メールアドレス、細々《こまごま》とした持ち物、など、不必要と思われるものまで、調べては帰って行った。

 弔問に訪れる人々の数が日毎に減って、刑事たちの来訪もだんだん間遠くなっていく。

 伸吾にとっても、久美にとっても、恵美のむごたらしい死は、何をもってしてもつぐなえない、死生観が百八十度変わるほどの激しい衝撃だったが、綾子の心の中の状態は、伸吾にも、久美にも、予測できなかった。

 恵美は、幼い頃、よく病気をした。

 その病気も、生後間もなくの腸炎、三歳のときの重篤の肺炎、など、死ぬんじゃないかと心配するほどのものだった。

 学校に通うようになってからも、ちょっとした風邪でも、高熱が続くことがあった。

 人見知りが激しくて、来客などに声をかけられると隠れてしまうような子どもだった。

 成人するにつれて、病気をすることは、ほとんど、なくなったが、人見知りする性格はそのままで、車の免許を持っていないのも、無口な中年の男性教官が隣に座るのを嫌がって、教習所通いを止めてしまったのが原因だった。

 恵美は親元から離れて生活くらしたことは一度もない。

 大学も自宅から通い、卒業後も親元から通勤していた。 

 恵美は、綾子の目から見れば、幼い子どもの頃と同じだった。

 気配りと内助の功で評判の高かった綾子が、事件後、外部との接触を避けるようになった。

 その代わり、伸吾や久美に、恵美の思い出話をするようになった。

 それは、饒舌と思われるほどのもので、以前の綾子にはなかったことだ。

 幼い頃からおしゃまで元気がよかった久美と違って、恵美には世話を焼かされてきたという思いが、不憫ふびんな思いを伴って、綾子の心の奥深くに呪縛じゅばくとなって残っていたとしか思えない。

 綾子は、悪夢に悩まされ、不眠症になった。

 夜中に、悲鳴を上げて、飛び起きたりする。

 伸吾が驚いて目を覚まして、どうしたんだ、と聞くと、恐ろしい顔をした男に追いかけられて、殺されそうになったのに、金縛りのような状態になっていた、などと、恐怖に全身を震わせながら訴える。

 布団の上に座り込んでいたり、突然、泣き出したりする。

 似たような状態が二週間近く続いていた。

 それでも、葬儀が終わって三週間ほど経つと、異常な状態が間遠くなり、以前と変わらぬ様子で、出勤する伸吾を送り迎えしているように見えた。

 伸吾の会社も、世界規模の不況の影響は避けられず、事態が深刻化しつつあった。伸吾は、否応なく、その対応に追われていた。会社を休めるような状況でも立場でもなかったが、できるだけ、帰宅を早めるように努めていた。

 久美は、綾子の様子が気がかりな上に、自分も傷心から立ち直っていたわけではなかったが、その綾子が、いつまでも大学を休んでいてはいけない、とひどく気遣い始めたので、東京の学生マンションにもどっていた。

 久美は、毎日、電話を入れていた。

 その会話やりとりに、格別な異常を感じていなかった。

 しかし、綾子は、精神に異常をきたしていたとしか思えない。

 家には綾子しかいないことが多い。

 伸吾を会社に送り出した後、台所の片付けをし、洗濯物を干し終わると、居間にぼんやり座り込んでいる。

 しばらくすると、部屋着のまま、家を出る。

 夢遊病者のように、ふらふらと歩く。

 決まって、恵美が通勤していた大南駅へ向かう。

 駅に着くと、恵美の年頃の若い女の子をさがす。

 そういう女の子の後を追いかける。

 恵美でないとわかって、落胆する。

 こういう日が、何日か、続いていた。

 駅へ行く途中に踏切がある。

 警報機も遮断機もついている。

 右方向からの上りの電車が通り過ぎても、遮断機が上がらないときがある。

 その時も、上りの電車が通り過ぎた後も警報機が鳴り続け、遮断機が下りたままになっていた。

 にもかかわらず、綾子は、遮断機をくぐり抜けて、踏切の中にふらふらと入り込んだ。

 人通りが少ない時間帯だったことが綾子の命取いのちとりになった。

 ほとんど間を置かず、左方向から走ってきた下りの電車に、綾子はかれることになった。

 下りの電車の運転士の話によると、警笛を鳴らす間もない出来事で、その女性は、走って来る電車の方を見ることもなく、夢遊病者のようだったという。

 自殺か、事故か、警察でも決めかねたが、結局、本人の不注意による事故死ということで処理された。


     8


 事件が解決しないまま、月日が経過していた。

 事件当初は、県警をあげての大がかりな捜査体制が築かれていたが、三ヶ月以上経過して、実質的な捜査体勢は縮小されつつあった。

 大南署の実質的な捜査は、専従班中心になっていると言ってよい。

 警部補の牧山晃司まきやまこうじが専従捜査班の責任者になっていた。

 牧山は粘り強い捜査をする。牧山に専従班の指揮をらせているのには、それなりの理由があった。

 牧山の頭には、死体をた時の印象が焼き付いていた。さらに、ガイシャの母親の悲惨な事故死は、事実上、同じ犯人による二次殺人と考えるしかなく、牧山の執念に火をつけていた。

 事件発生当初、県警本部から捜査のベテラン刑事や大勢の警察官が派遣されて来て、人海戦術と言えるほどの大がかりな捜査が実施された。

 この間に、恵美の周辺の知り合いや友人との交友関係、勤務先の会社関係者などの捜査は、一通り終わっていた。

 靴のサイズ、製造メーカー、製品名が特定されていた。

 しかし、その販売数は捜査の及ぶ範囲を絶望的に超えていた。

 捜査線上に浮かんだ被疑者もいたが、結局、決め手に欠けて、事件は迷宮入りの様相を呈し始めていた。

 軽自動車の線の捜査は、県警本部の指令で、延々と続けられている。

 牧山ら専従班は、それまで繰り返してきた捜査と同じように、徒労感だけが残る捜査に終わりそうだと思いながらも、不審者のさらなる情報集めに加えて、恵美の周辺の関係者や交友関係の捜査を繰り返すしかなかった。

 六月も中旬を過ぎていた。

 若い刑事の竹添康則が、どんより曇った梅雨空の下を、牧山と肩を並べて、聞き込み先の駐車場へ向かいながら、元気のない声で言う。

 「こんなに難しい事件になるとは思いませんでしたね。犯人の手がかりが見つかりそうもないような気がしてきました。日数が経つほど捜査が難しくなりますね」

 「五ヶ月やそこらで、弱音を吐くのは禁物だ。おれに言わせりゃ、捜査は、まだ、始まったばかりだ。犯人ホシを挙げるまでに何年もかかった事件はいくらもある。この事件も、じっくり腰を据えてかかれ、ってことだろう」

 「報道陣に無能呼ばわりされて、叩かれっ放しですからね。意地でも、迷宮おみや入りにはできません・・・腹が減ったなあ。二時前ですよ」

 竹添は、左腕を伸ばして、腕時計を牧山に向けた。

 「もう、そんな時間か。へぼな捜査でも、時間だけは経ってしまうな」

 「ラーメンでも食べませんか。朝、見かけたラーメン屋だと、車だったら、五分とかかりませんよ」

 午後二時を少し過ぎた頃、空きっ腹を抱えた二人は、ラーメン店に入った。

 狭い店内には、三人の作業服姿の男たちがテーブル席に座っているだけで、他に客はいない。

 カウンター席に並んで座った二人は、それぞれ、ラーメンを注文した。

 テレビの音声が耳に入ったので、牧山は、その方に目を向けた。

 左側に畳を三枚平行に並べた形ばかりの座敷席があって、その壁際の棚の上に小型の液晶テレビが置いてある。

 画面はそれほど大きくないが、画像は鮮明だ。

 深刻な雇用状況や企業倫理についての特番のようだった。この時間帯にニュースのワイドショウをやっているのはYテレビだけのはずだ。

 画面には、国内の代表的な自動車会社名が並んでいて、それぞれの会社の期間従業員の雇い止めの数や派遣社員切りの数が一覧表になって出ていた。

 前年度下半期から吹き荒れた派遣切りの数を改めて示したものらしい。

 牧山が関心を持ったのは、Σ(シグマ)自動車工業だ。

 三千六百余の数字が出ていた。

 失業率が五パーセントを大きく超え、派遣切りの問題は、厳しい雇用情勢の分析に欠かせない要因の一つになっていた。

 政権交代が騒がれていて、派遣法の改正も争点の一つになっていた。

 Σ(シグマ)自動車工業は、もともと自己資本率が高く、経営が堅実で、顧客に人気の高い高品質の大衆車を生産してきた。

 一九七〇年代後半に、特別仕様車のシグマZを市場に投入し、新車の需要が一気に高まっていた当時の風潮が追い風になって、販売台数が急速に伸びた。

 他のメーカーの経営が危機に瀕しているような時も、シグマは、次々に人気車種や大衆車を市場に投入して、国内でも、海外でも、売り上げを伸ばし続けていた。

 二〇〇八年、夏、米国のサブプライムローン問題やリーマンショックに端を発した激震が世界の企業を襲った。

 海外市場が急速に冷え込み、国内市場の買い控えが大規模に広がり、先行き不透明で、大幅減産を余儀なくされ、年末が近づく頃から、期間労働者や派遣社員の大量解雇が始まった。

 Σ自動車工業も、例外ではなかった。

 規模が大きいだけに、その数も半端ではなかった。

 大南工場も、無論、大量の期間授業員の雇い止めや派遣切りを出していた。

 ガイシャの父親の薗田伸吾は、事件の起こる三年ほど前から事件後の一ヶ月ほど後まで、大南工場の人事管理部長だった。

 事件発生当初、この事実が捜査陣の注目を引かなかったわけではない。

 しかし、捜査は別の方向を向いていた。

 ガイシャの死体から血がきれいに拭き取られていたことが、当面の捜査に決定的な影響を与えることになった。

 死体から血を拭き取った理由は二つくらいしか考えられないが、その一つは、犯人がガイシャによほど愛着を持っていて、その思いが、そのような矛盾した行動を取らせたというもの、もう一つは、暴行目的であったにしろ、物盗ものとり目的であったにしろ、強く抵抗されて、やむなく殺してしまったが、殺した後、強い悔恨に襲われて、その贖罪しょくざいの気持ちが、そのような行動を取らせたというものだ。

 前者の場合は、ガイシャに顔を見知られていて、犯行の発覚を恐れた者の犯行、後者の場合ば、単純明快に、欲求不満の若者による短絡的な犯行、あるいは、それに近い年齢の者による同じような動機による衝動的な犯行。

 不器用に死後陵辱を加えているところから推測すると、いずれの場合も、欲求不満を持った若者の犯行である可能性が高い。いずれにしろ、解雇に対する恨みの線は考えにくい。そのような粘着性を持った者の犯行とは考えられない。

 このような主張が、その後の捜査方針に影響を与え、この時点まで尾を引いていた。

 牧山は、空きっ腹にもかかわらず、箸を握ったまま、しばらく、考え込んでいた。

 二月二十三日、月曜日の朝、シグマ大南工場のロッカーの中で爆発事故が起こっている。始業五、六分前だったので、死者三人、重軽傷者八人という大事故になった。大がかりな捜査を続けているにもかかわらず、こちらの方の解明も行き詰まっていた。この事件の方は、工場の内情に詳しい者の犯行で、解雇の問題がからんでいる、という線で、捜査の方針は一貫していた。


     9


 牧山は、夜の八時を過ぎた頃、薗田伸吾の家を訪ねた。

 気乗りがしないような顔をした竹添が一緒だ。

 伸吾が退社する前に、会社に電話を入れて、夜の七時半以降なら自宅にいる、という返事をもらっていた。

牧山が玄関のチャイムを鳴らして、牧山です、と告げると、しばらくしてからドアが開いた。

 ドアを開けたのは久美だった。

 独身の竹添は、久美を見て、びっくりしたような顔をした。

 竹添は、捜査が始まって二ヶ月半ほど経ったころ、県警本部から派遣されて来て、この事件に関わるようになっていたので、久美とは初対面だ。

 竹添のくたびれていた顔が、急に、しゃきっとなった。

 牧山は、捜査の過程で、久美に何度も会っている。

 東京の学生マンションにも出向いたことがあった。

 牧山はあいさつを抜きにした。

 「やあ、久美さん」 

 「お久しぶりですね。父にご連絡をいただいたと聞いて、お待ちしておりました」

 「こんな時間に、申し訳ありません。大学は? お休みですか?」

 「大学で勉強なんかしている気がしないんです。それに、父のことも気がかりで、ここしばらく、休んでいます」

 牧山は、久美の心情を察して、言葉を失った。

 母と姉を一度に失うという衝撃に耐えていることがわかっていた。

 アイドル系の美貌も、スラリとしたプロポーションも相変わらずだが、玄関先の蛍光色の灯りのせいか、化粧っ気のない顔が青ざめて、睫毛の長い切れ長の目が潤んでいるように見えた。

 久美は二人を応接間に通した。

 広い応接間には、紫檀造したんづくりの大きなテーブルがあって、テーブルを挟んで、焦茶こげちゃ色のソファー、二つの同じ色の肘掛け椅子、いずれも高価そうな本革張りだ。

 天井にはシャンデリアを模した大きな照明器具が下がっていて、柔らかい光を広げている。壁面には高名な画家が描いたものらしい絵画がかかっていて、壁際の調度品も豪華なものだ。

 しかし、牧山は、なにか、索漠さくばくとしたものを感じた。

 この家を襲った大きな不幸が牧山の心を暗くしていたからだろう。

 久美が出て行ってしばらくすると、伸吾が入ってきた。

 牧山も竹添も、顔を緊張させて、直立不動の姿勢で立っていた。

 「や、これは、失礼しました。どうぞ、お座りください」

 伸吾は、右手で、ソファーに座るようにすすめる仕草をした。

 牧山と竹添が、それぞれ、ソファーに腰を下ろすのを見届けてから、伸吾も向かい側の肘掛け椅子に座った。

 伸吾は、一流会社の幹部社員の面影を留めてはいるが、顔色が冴えない。  頬がそげて、下瞼したまぶたの下のふくらみが増し、頭髪は黒よりも白い色の方が目立つ。体も以前より一回り小さくなっているように見えた。

 「捜査は進んでおりますか? 犯人の目星がついたから、お見えになったんじゃありませんか?」

 伸吾に、開口一番、そう言われて、牧山は返す言葉がない。

 神妙な顔をして、黙って、頭を下げるしかない。

 「どうやら、そうじゃないらしいですな」

 伸吾の頭の中には、警察に対する抜き難い不信感がある。

 娘の死体を見せられた時、家族に対する配慮のかけらもなかった。

 その思いが、どうしても、言葉に出る。

 ドアにノックの音がして、久美が入って来た。

 ドアを開けるために右手を空ける必要があって、左手に、コーヒーカップを四つ乗せたお盆を、慎重に、ささげ持っている。

 上質なコーヒーの香りが部屋いっぱいに広がって、緊張しかけていた空気を和らげた。

 久美は、コーヒーを満たしたカップを、スプーンを乗せた受け皿ごと、丁寧に、それぞれの前に置いていった。

 「ちゃんとコーヒーメーカーで作っておいたものですからね」

 久美は、そう言いながら、牧山に笑顔を向けた。

 気安さと親しみが感じ取れた。

 「ありがとうございます」

 牧山も、久美に顔を向けて、顔をほころばせた。

 竹添は、恐縮したような顔をして、頭を下げた。

 久美も、伸吾の左隣の肘掛け椅子に腰を下ろした。

 伸吾が、改めて、口火を切った。

 言いたいことを我慢していたようだ。

 「用もないのに、お見えになったとは思えませんな」

 「お察しの通り・・・・実は・・・・」

 牧山が言い淀んでいると、伸吾は牧山の次の言葉を待たなかった。

 「私の工場のロッカーの爆発事件も、死人まで出てるのに、未だに未解決だ。警察の捜査陣が無能・・・失礼・・・無能というのが言い過ぎであれば、まともな捜査をしているとは思えんのですがね。娘の事件も、これで捜査を打ち切りたい、そんなことでも言いに来たんじゃありませんか?」

 刑事にとって、これほど屈辱的な言葉はない。

 伸吾は、牧山の答えがわかっていながら、辛辣しんらつな言葉を浴びせたのだろう。

 「いえ、とんでもありません。結果が出ておりませんので、言い訳のしようがありませんが・・・。今夜、おうかがいしたのも、実は、捜査の局面を打開する必要がありまして、あの当時の詳しい情報を・・・」

 「えっ・・・? 今さら、何を寝ぼけたことを言ってるの! 娘の事件後もそうだったが、爆発事件が起こった頃も、どうでもいいようなことを、それも同じようなことを、何度もうるさく聞かれて、その都度、お話してるじゃありませんか!」

 「申し訳ありません。そう言われると、お返しする言葉がないのですが、事件発生以来、車、靴、凶器、など、大がかりな物的捜査に加えて、お嬢様の周辺の者、不審者、など、被疑者が浮かんでは消え、その裏付け捜査で手いっぱいの状態だったとお答えするしかありません。それで犯人が見つかっていないのです。正直な内情ことを申し上げれば、このような手詰てづまりの局面を打開しなければならなくなってるわけですが・・・お父様、つまり、薗田さんの会社関係の方面が、ほとんど、手つかずに・・・」

 「まったく、あきれてものが言えん! 当時、私の立場でわかっていたことは、全て、お話したじゃありませんか! その頃、気にかかっていたことがあったので、そのこともお話ししたんだ。どれほど裏付け捜査をしたのかわからんが、それほど時日も経たんうちに、その線はないと言われた。理由を聞いてみると、もっともらしいことを言われたので、深くは追求しなかった。その後も、この方面で警察が動いている気配は全くなかった・・・今ごろになって、私の会社の関係者に犯人がいるというのかね?」

 「そう決めつけていただいても困るんですが、局面を打開する策の一つとして・・・・」

 「今さら何を言ってるんだ、まったく! 今まで、警察は・・・」

 伸吾は、気色けしきばんで、一度にこみ上げてきたらしい怒りを牧山にぶつけようとした。

 横で聞いていた久美が、それを制して、口を出した。

 「お父さん、ちょっと待って。実は、私もそんなこと考えてたのよ。事件が起こった頃、お父さんは大南支社の人事関係の責任者だったのよ。シグマも大勢の期間従業員の解雇や派遣社員切りで騒がれていて、お父さんのところも、勿論、例外じゃなかった。解雇された人たちの中に、お父さんを恨んでる人がいたとしてもおかしくないと思ってたの。こんなこと言いたくないけど、お父さんが直接襲われてもおかしくなかったのよ。犯人がまだ見つかってないんだから、これからだってわからないと思うわ。お父さんだって、そんなことわかってたんじゃない? 私を心配させたくないから、黙ってただけじゃない?」

 伸吾は、すぐには、言葉が出て来ない。

 久美は、今度は、牧山に向かって、こう言った。

 「おじさん、さすがよ。私も父の周辺から何か出てくるかもしれないと思ってたの」

 竹添は驚いたような顔をして久美の言うことを聞いていたのだが、牧山が、おじさん、と呼ばれたのを聞いて、これにも目をいた。

 牧山は、恵美のことで、東京まで、久美を訪ねて行ったことがある。

 久美の入っている学生マンションは女子学生専用の建物なので、中に入るのを遠慮して、近くの食堂兼喫茶店のようなところで話を聞いた。

 牧山が外へ出て、若い刑事と肩を並べて歩いていると、おじさーん、忘れ物よ、と叫びながら久美が後を追いかけて来た。色のめた襟巻きを椅子の背もたれに置き忘れていたのだ。

 牧山が、おじさんはひどいな、と言うと、久美が、じゃあ、何と呼べばいいの、と聞くので、あは、はは、やっぱり、おじさんか、という会話やりとりをしたことがある。それ以来、久美は、その呼称よびかたが気に入って、牧山のことを、おじさん、と呼ぶようになっている。

 牧山も、久美に、おじさん、と呼ばれて喜んでいた。姉の恵美のことで話をするような場合も、深刻さが薄れて、救われたような気になるからだ。

 伸吾は、引きつったような顔になっている。

 頭の回転も判断力も優れた伸吾が、久美が言ったようなことを考えなかったはずがない。事件が起こった頃、気になっていたことがなかったわけでもない。

 その頃、伸吾が捜査陣に聞かされていた犯人像は、土地勘があって、恵美を見知っていた周囲の者、あるいは、全く見ず知らずの欲求不満の若者による衝動的な犯行、というものだった。

 伸吾は、結果的に、それにすがっていたことになる。娘の事件に関しては、日頃の冷静さや慎重さを伸吾から奪っていたとしか思えない。

 久美が、顔に決意をみなぎらせて、言った。

 「私も何かしなければいけないと思ってるの。このまま生きているわけにはいかないもの。お母さんだって、お姉さんと同じ犯人に殺されたのと同じだわ。どんなことがあっても、ぜったい、犯人を見つけ出すわ」

 牧山が目を剥いた。

 「いや、それはだめです! それに、危険です!」

 「いやよ。姉と母が殺されてるんだから、今さらどうってことないわ。殺されたって平気よ」

 伸吾が、血相を変えて、腰を浮かした。

 「久美、何てこと言うんだ! 刑事さんたちが警察の組織を使ってやってくださることだから、小娘が余計なことに首を突っ込むんじゃない! お父さんも、心当たりのありそうな情報ことは全て刑事さんに話す。お父さんのことは心配しなくていい。食事の世話も、身の回りの世話もいらない。お手伝いさんに来てもらえるようになってるし、自分でちゃんとするから、すぐ大学に戻りなさい。いいね! わかったね!」

 伸吾は、人事管理部長から市場調査関係の部署に左遷うつされていた。

 期間従業員の雇い止めに始まった人減らしは、派遣社員切りから正社員の就業時間の短縮や早期退職の勧奨にまで及び、それに伴う人事の全体的な見直しなど、人事管理部長の仕事はさらに激務になっていた。

伸吾は、事件後、明らかに生気をくしていた。

 比較的閑職と見なされている部署に回されたのは、伸吾自身が希望したか、あるいは、会社の上層部が激務に耐えられないと判断した結果だろう。


                   

                 第二章 女コロンボ・久美の参戦 に続く    

                 




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