第六部 新しい歩幅で
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美咲は、泣き崩れる健介の姿から決して目を逸らさなかった。幻滅など微塵もなかった。むしろ、目の前にいるこの人が、どれほどの重い孤独と自責の念を一人で抱えて生きてきたのかを知り、胸が張り裂けそうなほどの愛しさが押し寄せていた。美咲はゆっくりと歩み寄り、コートのポケットから取り出した清潔なハンカチを、健介の震える手にそっと握らせた。「高橋さんだから、です」美咲は静かに、けれど世界で一番確かな事実を告げるように言った。「仕事に真摯なところも、周囲の痛みに寄り添えるところも、自分の時間を大切にしているところも。……そして、こんな風に涙を流せるくらい、心が綺麗で不器用なところも。私が好きになったのは、傷ひとつない完璧な誰かじゃありません。痛みを抱えながら懸命に生きている、高橋健介さん、あなたなんです」。健介はハンカチで目元を強く押さえながら、ゆっくりと顔を上げた。赤くなったその瞳は、まるで暗闇の底から初めて光を見上げた人のように、無防備で、澄み切っていた。「……ずるいな」健介は掠れた声で、泣き笑いのような表情を浮かべた。「そんな風に言われたら……もう、逃げ道がないじゃないか」「逃げなくていいんです」美咲は微笑んだ。「一緒に、隣を歩いてくれませんか」
健介は深く、深く息を吸い込み、冷たい夜気を胸いっぱいに満たした。そして、恐る恐る、壊れ物に触れるように、自分の手を美咲の手へと伸ばした。触れ合った指先は冷たかったが、その奥からじんわりと、確かな熱が伝わってくる。健介の大きな手が、美咲の手を包み込むように強く握りしめた。「……少しずつでもいいかな」健介が言った。その声には、迷いは消え、静かな決意が宿っていた。「君のまっすぐな気持ちに、俺もちゃんと、嘘偽りのない心で向き合いたい。だから……急がずに、二人で足並みを揃えていきたい」「はい」美咲は力強く頷いた。その夜、駅へと向かう二人の歩幅は、これまでのどんな時よりも自然に、ぴたりと重なり合っていた。
2
季節は巡り、柔らかな春の陽光が街を包み込む五月の日曜日。美咲は、健介の住む古いアパートのリビングにいた。窓からは心地よい五月の風が吹き込み、洗いざらしのリネンのカーテンをふわりと揺らしている。部屋の片隅には、使い込まれたカンナや紙やすり、植物性オイルの缶が整然と並んでいた。キッチンから、コトコトと湯の沸く音が聞こえてくる。「美咲さん、深煎りでいい?」「うん、ありがとう」。美咲は、リビングの中央に置かれた木製のダイニングチェアに腰掛け、その滑らかな肘掛けを手のひらでそっと撫でた。数週間前まで脚のほぞが緩み、表面のニスが白く曇っていた古いオーク材の椅子。健介が丁寧に分解し、やすりをかけ、何層もオイルを塗り重ねて修繕したものだ。深く温かな飴色に蘇った木肌は、触れると吸い付くように優しく、美咲の身体をしっかりと支えてくれる。所々に残る小さな凹み傷さえも、この椅子が経てきた時間の豊かな証として輝いていた。
健介が、二つのマグカップをトレイに乗せて運んできた。一つは健介の深いオリーブグリーンのカップ。もう一つは、美咲が自分の部屋から持ってきた、あの深い藍色の益子焼のマグカップだ。「どう? 座り心地は」健介が向かいの席に腰を下ろし、少し誇らしげに尋ねてくる。「すごくいい。ずっと座っていたくなるくらい、身体に馴染む」「よかった。古い木はね、ちゃんと手入れしてやれば、新しいものよりもずっと強く、優しくなるんだよ」。二人は顔を見合わせ、自然に笑い合った。湯気の立つ珈琲に口をつける。芳醇な香りと、心地よい苦味が口いっぱいに広がる。かつて、静寂すぎる自分の部屋で一人で飲んでいたあの孤独な苦味とは、まったく違う、甘みを帯びた味がした。
窓の外では、春の光を浴びた街が穏やかに呼吸している。美咲の人生から、「このままで良いのだろうか」という焦燥の問いは完全に消え去っていた。答えは、最初からどこかに用意されているものではなく、目の前の人と手を取り合い、自分たちの手で作り出していくものなのだと知ったから。誰かが決めた正解をなぞる必要はない。完璧な人間同士である必要もない。傷つき、迷い、それでも隣にいる人の温もりを信じて、一歩ずつ自分たちの歩幅で進んでいけばいい。「ねえ、健介さん」「ん?」「来週の日曜日、あの蚤の市に行ってみない? 二人で並んで座れるベンチ、探したいなと思って」。健介は目元を柔らかく崩し、少年のように濁りのない笑顔で頷いた。「いいね。探しに行こう」。並んだ二つのマグカップから立ち上る湯気が、春の柔らかな光の中でひとつに溶け合っていく。新しく刻まれる二人の時間は、まだ始まったばかりだ。




