婚約者ではない女性に恋をした王太子は、誰も悪役にしなかった――心変わりの責任は、自分で取ります
私は、婚約者ではない女性に恋をした。
だから最初にしたのは、その女性へ愛を告げることではなく、十年間婚約者だったヴィオラに事実を話し、謝罪することだった。
◇
「私は、リナ・ベルナールを愛しているのだと思う」
王宮西棟の小さな応接室でそう告げると、ヴィオラ・エーレンベルク公爵令嬢は、手にしていた紅茶を静かに受け皿へ戻した。
ヴィオラは私より一つ年下の十九歳。王国西部に広大な穀倉地帯を持つエーレンベルク公爵家の一人娘であり、私が十歳の頃から未来の王妃となるべく教育されてきた女性だった。
一方、私の名はユリウス・アルディア。アルディア王国の第一王子にして、現王太子である。
そしてリナ・ベルナールは、王立河川局に所属する平民出身の技師だった。
「愛している、ではなく、愛しているのだと思う、ですか」
ヴィオラが確認するように尋ねた。
「まだ本人には伝えていない」
「手を握ったり、口づけをしたり、将来を約束したことは?」
「ない。仕事以外で二人きりになったこともない」
「では現時点では、殿下はまだわたくしを裏切ってはいません」
思いがけない言葉だった。
私は責められる覚悟をしていた。頬を打たれても、父である国王に訴えられても、受け入れるつもりだった。
だがヴィオラは、怒りも悲しみも見せなかった。ただ、これから行われる会議の議題を確認するように、落ち着いた目で私を見ている。
「これからどうなさるかで、裏切りになるかどうかが決まります」
「私は君との婚約を一方的に破棄するつもりはない。リナを妾にするつもりも、身分を理由に君へ我慢を強いるつもりもない。まず君に話し、そのうえで、三人にとって最も誠実な道を探すべきだと思った」
「三人にとって、ですか」
「いや」
口にしてから、自分の間違いに気づいた。
「君とリナにとってだ。私は、自分で選んだことの責任を負えばいい」
ヴィオラはそこで初めて、わずかに表情を和らげた。
「少なくとも、殿下は想像していたよりも愚かではなかったようです」
「想像されていたのか」
「婚約者が別の女性に恋をした場合、まず相手の女性へ愛を告げ、その後でわたくしに婚約解消を命じるものだと思っていました。あるいは、わたくしが嫉妬から何かをしたことにして、王太子殿下が被害者を救う形を整えるか」
「そんなことはしない」
「ええ。今のところは」
ヴィオラの言葉は、刃物のように鋭かった。
だが、その警戒を責める資格は私にはない。王族の婚約において、立場の弱い側へ罪を押しつけることなど珍しくもなかった。王子が別の女性を選びたいのなら、婚約者には傲慢や不貞、性格上の問題が必要になる。
そうでなければ、王子自身が約束を違えたことになるからだ。
「婚約の解消を望んでいるのですか」
ヴィオラの問いに、私はすぐには答えられなかった。
「君を嫌いになったわけではない。むしろ尊敬している。君が王妃になれば、この国はきっと安定するだろう」
「ですが、愛してはいない」
「愛という言葉の意味を、これまで真剣に考えてこなかった。君とは幼い頃から婚約者だった。いずれ結婚し、君を大切にすることが当然だと思っていた」
「そこへリナ様が現れた」
「ああ」
「困った方ですね」
ヴィオラはため息をついたが、その声音には不思議と怒りがなかった。
「わたくしは十年間、王妃になるための教育を受けてきました。領地経営よりも宮廷儀礼を優先し、軍務よりも外交を学び、王太子妃として殿下の半歩後ろを歩く訓練を続けてきたのです」
「分かっている」
「いいえ。殿下は分かっておられません」
ヴィオラは私から視線を外し、窓の外に広がる庭園を見た。
「あれは、とても長い十年間でした」
責められるより、その静かな一言のほうが胸に重かった。
私が恋心の正体に戸惑っている間にも、彼女は人生の半分を、私の妻となるために使ってきた。その時間は、謝罪したところで返せるものではない。
「すまない」
「ですから、謝罪だけで終わらせないでください」
ヴィオラは再び私を見た。
「婚約を解消するのであれば、わたくしが十年間に失ったものと、これから失うものについて、殿下ご自身の名で責任を取っていただきます。リナ様のせいにも、わたくしの性格のせいにもせずに」
「約束する」
「まだ、婚約を解消すると決めたわけではありません」
「君は、どうしたい」
これまで私は、その問いを一度でもヴィオラに向けたことがあっただろうか。
どのような王妃になりたいかは尋ねた。どの国と関係を深めるべきか、宮廷費をどう削減すべきか、民衆の前でどのように振る舞うべきかについても、何度も話し合った。
だが、ヴィオラ自身が何を望んでいるのかを、私は知らなかった。
「わたくしは、エーレンベルク公爵家を継ぎたいと思っています」
彼女は初めて、王太子妃ではない一人の女性として答えた。
「母が亡くなってから、領地の管理は叔父が行っています。父には男子がおりませんが、現在の相続法では、わたくしが王家へ嫁げば公爵位は叔父の息子へ渡ります」
「君は公爵家を継ぎたかったのか」
「幼い頃から」
「なぜ、今まで言わなかった」
「言えば、婚約を嫌がるわがままな令嬢だと思われたでしょう。王太子殿下との婚約を喜ばないなど、家門の利益を理解できない愚かな娘だと」
ヴィオラの父であるエーレンベルク公爵は、王家との婚姻を何よりも重視している。娘が王妃になることは、公爵家にとって何世代にもわたる栄誉だった。
本人の望みなど、最初から問題にされていなかったのだ。
「では、君も婚約の解消を望んでいるのか」
「簡単には答えられません。王妃として国を支える覚悟は、すでにできています。殿下を憎んでもおりませんし、王家へ嫁ぐことが不幸だとも思っていません」
ヴィオラは言葉を選びながら続けた。
「ただ、別の人生を選べるのなら、領地へ戻りたいと思っています」
私たちは、長い間互いを知っていた。
しかし婚約者という立場から外れた相手が、どのような人生を望んでいるのかは、何も知らなかった。
「父上と公爵へ、婚約の解消を申し出よう」
「殿下は、リナ様へすぐに求婚なさるのですか」
「いや。まず婚約問題を片づける。彼女へ気持ちを伝えるとしても、その後だ」
「それがよろしいでしょう。婚約者を捨てて平民の恋人へ走った王太子と、その王太子を誘惑した女技師というお話にされては困ります」
「君を嫉妬に狂った悪女にする者も現れるだろう」
「ええ。世間は、男女の間に問題が起きると、必ず女を二種類に分けたがりますから」
「二種類?」
「男を誘惑した女と、男に捨てられて復讐する女です」
ヴィオラは呆れたように笑った。
「そのどちらにもならないためには、殿下にしっかりしていただく必要があります」
◇
私がリナ・ベルナールと出会ったのは、三年前の春だった。
王都を流れるアルナ河は、雪解けの季節になると毎年のように氾濫した。堤防が壊れるほどの大洪水は十年に一度だったが、低地にある職人街や貧民区は、春になるたび床下まで水につかる。
王家はそのたびに食料と木材を配り、壊れた家屋を直すための補助金を出した。
だが、それは洪水が起きることを前提にした対策でしかなかった。
私は王太子として河川改修計画を任され、王立河川局の技師たちを集めた。その末席で、周囲の男たちに埋もれるように座っていたのが、当時二十二歳だったリナである。
平民出身の女性技師というだけで珍しかった。
父親は水車大工で、幼い頃から歯車と水路を見て育ったという。王立工学院の入学試験では首席だったが、女性であることを理由に正規の技師として採用されず、最初の二年間は製図係として働いていた。
彼女が注目されたのは、私が各技師へ提出させた洪水対策案の中で、唯一、堤防を高くする以外の方法を示したからだった。
「上流に遊水地を作り、三つの水門で水量を分けます。市街地へ入る水そのものを減らすのです」
リナは巨大な地図を広げ、私を含む二十人以上の役人を前に説明した。
「しかし、予定地には農地がある」
財務官が指摘すると、彼女は淡々とうなずいた。
「買い上げが必要です。ただし毎年の復旧費用と比べれば、十二年で回収できます」
「水門が一つ壊れれば、被害は従来より大きくなるのではないか」
「三つすべてが同時に壊れた場合はそうなります。ですから互いに異なる構造とし、一つの欠陥が全体へ波及しないよう設計します」
彼女は、誰に対しても態度を変えなかった。
王太子である私の質問にも、下級書記の質問にも、同じように図面を示して答えた。
「完成記念碑を置く場所が必要だ」
王宮建築官が言ったときには、図面の一部を指しながら即座に反対した。
「そこへ置けば流路が狭くなります」
「王家の事業だと分かるものは必要だろう」
「殿下のお名前を石に刻んでも、水位は下がりません」
会議室は凍りついた。
本人はなぜ周囲が黙ったのか理解できないらしく、図面を見たまま、「記念碑を置くなら下流の広場にしてください」と続けた。
私は笑ってしまった。
それが、リナと交わした最初の会話だった。
三年間、私たちは河川改修事業に取り組んだ。
現地を歩き、村人と交渉し、雨の中で水位を測り、予算を巡って財務官と争った。リナは決して愛想のよい女性ではなかったが、自分の設計によって影響を受ける人間の暮らしを、数字の外へ追いやらなかった。
遊水地となる村の住民を移転させる際には、地図だけで新たな居住地を決めようとした役人へ、彼女は強く反対した。
「この村の人たちは水車と染物で暮らしています。畑だけを与えても生きていけません。水路と作業場を一緒に用意してください」
「そこまで面倒を見る予算はない」
「ならば、この計画は失敗します。家を奪われた人々が水門を守ってくれるとでも思っているのですか」
正しさだけで人が動くわけではない。
そのことを、リナはよく知っていた。
私は彼女の考え方を信頼するようになり、いつしか、一日の終わりに彼女の姿を探すようになっていた。
恋だと気づいたのは、半年ほど前である。
王都で大雨が降り、建設途中の仮堤防が危険な状態になった。私は現場へ向かおうとしたが、リナは馬車の前に立ち、王太子が行けば現場の者が私の護衛を優先しなければならなくなると拒んだ。
「ですが、私は責任者だ」
「だからこそ、邪魔をしないでください。殿下の仕事は、私たちが必要とする人員と資材をここから動かすことです」
その言葉に従い、私は王宮に残った。
夜明け前、堤防が持ちこたえたという報告が届き、泥だらけになったリナが戻ってきた。私は無事を喜び、思わず彼女を抱き締めそうになった。
その瞬間、自分の感情に気づいた。
何もせず、一歩下がった。
リナは私の様子に気づかず、追加の木材が足りないと報告を始めた。
翌日、私はヴィオラへ話をした。
◇
私とヴィオラは、互いの希望を記した婚約解消の請願書を、国王とエーレンベルク公爵へ提出した。
父は一読しただけで、書類を机へ投げ返した。
「認められぬ」
国王の私室には、私とヴィオラ、公爵の四人が集められていた。
「王家とエーレンベルク公爵家の婚姻は、二十年前から準備されてきた。西部諸侯を王家へつなぎ止めるために必要な婚約だ。若者の一時的な感情で変えてよいものではない」
「一時的な感情だけが理由ではありません」
ヴィオラが説明しようとすると、公爵が娘の言葉を遮った。
「お前は黙っていなさい。王太子妃になる以上に、何を望むというのだ」
「公爵家を継ぎたいと考えています」
「女のお前が?」
公爵は、娘が冗談でも口にしたように眉をひそめた。
「叔父上よりも、わたくしのほうが領地を理解しています。昨年の収穫予測も、南部水路の改修案も、わたくしが作成しました」
「それは王太子妃として領政を学ばせるためだ。公爵になるためではない」
「結果として、必要な能力を持っていることに変わりはありません」
「生意気な口を利くな」
公爵の声が強くなった。
父は二人の会話に興味を示さず、私へ向き直った。
「その女技師を気に入ったのなら、王宮へ置けばよい。王となれば、愛妾の一人や二人、誰も問題にはせぬ」
「リナを愛妾にはしません」
「では、別れろ」
「それでヴィオラと結婚しても、彼女を妻として愛しているふりをすることになります」
「王族の結婚とは、そのようなものだ」
「私だけなら耐えるべきかもしれません。しかし、ヴィオラにも同じ嘘を強いることになる」
父は苛立たしげに指で机を叩いた。
「王族に恋愛の自由があると思うな」
「自由がないからといって、他人まで不自由にしてよい理由にはなりません」
父の顔から表情が消えた。
王太子である私が国王の決定へ逆らうことなど、これまでほとんどなかった。
「この婚約を解消すれば、王家は西部の穀物と軍を失う可能性がある。民の生活と、自分の恋心を比べても同じことが言えるのか」
それは、私が最も答えにくい問いだった。
数万人の暮らしと、三人の人生。
王太子である以上、前者を選ぶべきだと教えられてきた。
「公爵家との協力関係が、一組の結婚だけでしか保てないのなら、その関係は最初から安定していません」
答えたのはヴィオラだった。
「何だと?」
「わたくしが殿下と結婚しなければ王家へ背くというのであれば、エーレンベルク公爵家は国への忠誠ではなく、王妃の外戚となる利益によって従っていることになります」
「黙れ、ヴィオラ!」
公爵が立ち上がった。
「お前は自分が何を言っているのか分かっているのか」
「よく分かっています、お父様」
ヴィオラは父親を真っ直ぐに見返した。
「わたくしは、家門の利益のために王太子殿下へ嫁ぐ道具ではありません」
公爵の手が上がった。
私は止めようとしたが、その前にヴィオラ自身が椅子から立ち、父親の手首をつかんだ。
「人前で娘を打てば、わたくしが王太子妃にふさわしくない証拠になりますか。それとも、公爵家が王家の婚姻を強制しようとしている証拠になりますか」
公爵は手を振り払い、荒い息をついた。
その日の話し合いは、何も決まらないまま終わった。
◇
三日後、王都の瓦版に、私とリナの関係が書き立てられた。
『平民女技師、王太子殿下を誘惑』
『十年の婚約を捨てた殿下と、悲劇の公爵令嬢』
『嫉妬に苦しむヴィオラ様、河川事業の中止を要求か』
事実と一致する記事は、一つもなかった。
私はまだリナへ気持ちを伝えていない。ヴィオラは河川事業の中止など求めておらず、むしろ公爵領から石材を安く提供する契約を結んでいた。
それでも人々は、記事を信じた。
王子と婚約者と平民女性がいる。それだけで、物語に必要な役割は決まってしまうらしい。
王子を惑わせる女。
裏切られ、復讐を企てる令嬢。
そして二人の間で迷う、優柔不断な王子。
リナは河川局の上司から、事態が収まるまで出勤を控えるよう命じられた。
私が彼女の家を訪ねれば噂を認めることになる。手紙を送れば、それが恋文として公表されるかもしれない。
結局、私は何もできなかった。
「殿下が来れば、石を投げられるのは私です」
河川局を通して届いたリナの伝言には、そう書かれていた。
『お気遣いは不要です。それより、三号水門の軸受けが予定より柔らかい可能性があります。材料検査をやり直してください』
自分の名誉より、建設中の水門を心配している。
その報告を受け、私は検査を命じた。
だが結果が出る前に事故が起きた。
三号水門の試運転中、巨大な鉄製の軸が折れ、門扉が一気に落下したのである。作業員二人が重傷を負い、流れ込んだ水によって工事現場の一部が崩れた。
設計責任者はリナだった。
瓦版は、翌朝には事故と私たちの関係を結びつけた。
『王太子の寵愛で地位を得た女技師、大事故を起こす』
『実力なき平民を登用した代償』
リナが首席で工学院を卒業し、三年間にわたって計画の中核を担ってきた事実は、記事のどこにも書かれていなかった。
財務卿グレゴール・ハインツ侯爵は、王宮会議で彼女の解任を主張した。
「今回の事故によって、河川改修事業の信頼は失われました。ベルナール技師には退いてもらい、従来どおり堤防の補修を中心とする計画へ戻すべきです」
「事故の原因は、まだ調査中です」
「殿下がかばえばかばうほど、私情による登用だったと国民は考えるでしょう」
侯爵の言うとおりだった。
私がリナの潔白を主張すれば、恋する男のひいきだと思われる。彼女を解任すれば、王太子の地位を守るために切り捨てたことになる。
「調査が終わるまで、私は河川事業に関する決裁から外れます」
私が告げると、会議室がざわめいた。
「殿下ご自身が、ですか」
「私はリナ・ベルナールに個人的な感情を持っている。その状態で、彼女の責任を判断することはできない。王立法院、工学院、職人組合からそれぞれ調査官を選び、事故原因を調べてもらう」
「王太子殿下が、ご自分の権限を手放すと?」
「一時的にだ。私が調査結果を決められる状態では、彼女に罪があってもなくても、誰も納得しない」
父は不快そうに私を見た。
「王太子が一人の技師へ恋情を抱いていると、正式に認めるつもりか」
「はい」
「王家の恥になる」
「隠し、彼女だけを処分するよりはましです」
私はその日のうちに、王太子府の名で声明を出した。
河川事業を通じ、私がリナへ個人的な好意を抱くようになったこと。リナ本人にはまだ何も伝えておらず、私的な関係も存在しないこと。ヴィオラにはすでに事実を話し、婚約について三者ではなく王家と公爵家を含めて協議していること。
そして、事故調査と婚約問題が解決するまで、私はリナの人事や河川事業の契約に関する決裁から退くこと。
それは王太子として、決して格好のよい声明ではなかった。
私が他の女性へ心を移したことに変わりはない。十年間の婚約がありながら、仕事で接する女性へ恋をした。その軽率さを責める声も多かった。
しかし少なくとも、リナが私を誘惑したという記事は、私自身の言葉によって否定できた。
ヴィオラが嫉妬しているという記事に対しては、本人が声明を出した。
『わたくしは王太子殿下と婚約問題について協議しておりますが、リナ・ベルナール技師を非難した事実は一度もございません。殿下の感情について責任を負うべきなのは殿下であり、相手の女性ではありません』
文章の最後には、ヴィオラらしい一文が付け加えられていた。
『なお、わたくしを哀れな捨てられ令嬢、あるいは嫉妬に狂う悪女として描いた記事については、いずれも事実に反するため、発行者へ訂正を要求いたします』
◇
事故調査が始まって十日後、ヴィオラが王立河川局を訪れた。
出勤停止中のリナも、調査官からの聴取を受けるために呼び出されていた。
二人が顔を合わせるのは、それが初めてだった。
後から聞いた話によれば、しばらくは互いに何を言うべきか分からず、調査室で向かい合っていたらしい。
「わたくしが、あなたを階段から突き落とすのを警戒しているのですか」
先に口を開いたのはヴィオラだった。
「階段はありません」
「では、毒入りの紅茶を?」
「自分で持ってきた水があります」
リナは机の上の水筒を示した。
ヴィオラは、そこで小さく笑ったという。
「あなたは、わたくしが想像していたより面白い方ですね」
「私は、あなたを面白いかどうか考えたことがありません」
「当然でしょう。わたくしたちは、会ったこともなかったのですから」
それにもかかわらず、世間は二人が以前から憎み合っていると決めていた。
「私は、あなたに謝るべきでしょうか」
リナが尋ねた。
「なぜです?」
「王太子殿下が私を好きになったからです」
「それは殿下の問題です。あなたが意図的に誘惑したのでなければ、わたくしへ謝る理由はありません」
「誘惑していません。そもそも、昨日まで知りませんでした」
「殿下らしいですね。肝心の相手より、先に婚約者へ話すとは」
「普通は逆なのですか」
「逆だから、多くの問題が起きるのでしょう」
二人は友人になったわけではない。
ただ、自分たちの間に憎しみがあることにしなければ都合の悪い人間がいる、という点では意見が一致した。
リナは事故の原因が設計ではなく、使用された鉄材にあると考えていた。図面で指定した材料より炭素量が少なく、強度が不足していた可能性がある。
しかし納品記録上は、すべて基準を満たした鉄材が使われたことになっていた。
「契約書を見せてください」
ヴィオラが言った。
「見ても、技術的なことは分からないと思います」
「鉄のことは分かりませんが、お金の流れなら分かります」
王妃教育の一環として、ヴィオラは国家予算と商取引法を学んでいた。さらに公爵領の収支を何年も確認してきたため、表向きの帳簿から隠された利益を探すことに慣れている。
二人は三日間、契約書と材料記録を調べた。
その結果、三号水門の鉄材を納入した商会が、契約締結の直前に所有者を変更していることが分かった。新たな所有者は名も知られていない地方商人だったが、資金を出していたのはハインツ侯爵の甥が経営する投資組合だった。
さらに、アルナ河が氾濫するたびに支払われる復旧事業の多くを、ハインツ侯爵と関係する商会が受注していた。
洪水がなくなれば、彼らは毎年得ていた巨額の利益を失う。
事故が意図的なものだったか、単なる利益優先の材料偽装だったかは、その時点では分からなかった。だが少なくとも、リナの設計が直接の原因ではなかった。
「ヴィオラ様が見つけたことにしたほうがよいと思います」
リナが提案すると、ヴィオラは眉を寄せた。
「なぜです?」
「私が発見したと言えば、殿下に助けてもらうための言い訳だと思われます」
「わたくしが発見すれば、殿下を取り戻すため、あなたの無実を証明したことにされます」
二人はしばらく考え、同時にため息をついた。
「面倒ですね」
リナが言った。
「ええ、本当に」
結局、二人は連名で調査官へ報告書を提出した。
◇
調査が進む一方で、エーレンベルク公爵は王家へ圧力をかけ始めた。
西部から王都へ送られる予定だった穀物の一部を、自領の倉庫へ留め置いたのである。
公爵は不作へ備えるための合法的な措置だと説明したが、時期があまりにも露骨だった。王家が婚約解消を認めれば、王都の小麦価格はさらに上がると示しているのだ。
父は私を呼び出し、二つの選択肢を示した。
一つは、リナの解任を認め、ヴィオラとの婚約を継続すること。
もう一つは、ヴィオラが父親と共謀して王家を脅していると公表し、エーレンベルク公爵家を反逆の疑いで処分することだった。
「公爵令嬢を父親と切り離せば、婚約は解消できる。その後で女技師を妃にするかどうかは、時間を置いて考えればよい」
「ヴィオラは穀物の留め置きに反対しています」
「だが、公爵家の娘だ」
「リナは事故を起こしていません」
「だが、国民はそう信じている」
「つまり、どちらか一人を悪者にすれば、私の立場は守られると?」
「政治とは、民が理解できる形で責任を示すことだ」
父は、王として現実的な解決を提示しているつもりだった。
王子が婚約者ではない女性へ恋をした。その結果、王国の重要事業と西部諸侯との関係が揺らいでいる。
誰かが責任を取らなければ、民は納得しない。
「責任を取るべきなのは私です」
「お前を処分すれば、王太子が不在になる」
「だからといって、何もしていない女性を処分するのですか」
「何もしていないわけではない。女技師はお前の心を動かし、公爵令嬢は父親を抑えられなかった」
「それを罪と呼ぶなら、王子へ愛されることも、父親を持つことも犯罪になります」
父は深く息を吐いた。
「理想だけで国は治められぬ」
「承知しています。ですから、法に従って調べます」
「法で人の感情が収まるものか」
「収まらなくても、罪のない者を差し出すよりはよい」
私は、王太子としての進退を王国評議会へ委ねることにした。
婚約問題と河川事業に関する調査結果が出た後、王太子として適格かどうかを評議会に審議してもらう。私が不適格だと判断されたなら、弟へ地位を譲る。
父は激怒した。
だが一度正式な文書として提出された以上、国王が握りつぶせば、今度は王家が調査を恐れていると見られる。
「王冠を賭けるほど、その女が大切か」
父に問われ、私は首を横に振った。
「リナだけのためではありません。誰かを悪人に仕立てなければ守れない王冠なら、いずれ別の問題が起きたときにも、同じことを繰り返します」
◇
評議会の審理は、王宮の舞踏会場ではなく、王立法院の議事堂で行われた。
貴族だけでなく、工学院、商人組合、河川沿いの各地区からも代表者が出席した。私は王太子の席には座らず、証言を求められる者の一人として、ヴィオラやリナと同じ列に座った。
調査結果を読み上げたのは、王家とも公爵家とも関係のない法院長だった。
三号水門の破損は、設計上の欠陥ではなく、規格外の鉄材が使用されたことによるもの。納品した商会は材料費を削減し、差額をハインツ侯爵の甥が経営する投資組合へ流していた。
ハインツ侯爵自身も、長年にわたり洪水復旧事業を特定の商会へ優先的に発注し、利益の一部を受け取っていた。
侯爵が河川改修計画を意図的に妨害した証拠までは見つからなかった。しかし事故後、原因調査が終わる前からリナの解任を求め、従来の復旧中心の政策へ戻そうとしたことは、重大な利益相反と判断された。
さらに、私とヴィオラとリナに関する記事の一部が、侯爵と関係する印刷業者へ金を支払って書かせたものだと判明した。
「王太子殿下が女技師を特別に登用した事実は確認されませんでした」
法院長の声が、議事堂へ響いた。
「リナ・ベルナール技師は試験と実績によって現在の地位に就いており、王太子殿下との私的関係も存在しません。一方、殿下がベルナール技師へ個人的な好意を抱きながら、河川事業の責任者を続けていたことは、適切だったかどうか議論の余地があります」
私は証言席へ呼ばれた。
「殿下は、ご自身の権限によってリナ・ベルナール技師へ利益を与えましたか」
「与えていません」
「愛情を伝え、婚姻や身分の上昇を約束したことは?」
「ありません」
「では、ご自身に何の責任があるとお考えですか」
私は少し考えた。
「彼女へ感情を抱いていると自覚した時点で、河川事業の人事評価から退くべきでした。実際に便宜を図っていなくても、疑われる状態を放置したことは、責任者として適切ではありませんでした」
次に、ヴィオラが証言席へ立った。
「王太子殿下の心変わりによって、名誉を傷つけられたとお考えですか」
「個人的に、何も感じなかったわけではありません」
彼女は議員たちを見渡した。
「ですが、わたくしの名誉を最も傷つけたのは、殿下の感情ではございません。事情を知りもしない人々が、わたくしは捨てられた哀れな女である、あるいはリナ様へ復讐しようとする悪女であると決めつけたことです」
「殿下との婚約解消を望みますか」
「はい。ただし、リナ様に敗れたから退くのではありません」
ヴィオラは、父親である公爵のほうを見た。
「わたくしはエーレンベルク公爵家を継ぐことを望みます。王太子妃として受けた教育と、領地経営の経験を、そのために使いたいと考えております」
最後にリナが呼ばれた。
「ベルナール技師は、王太子殿下から愛情を告げられた場合、受け入れるつもりですか」
議事堂に、かすかな笑いが起きた。
リナは質問した議員を見て、真顔で答えた。
「それは、河川事故と何か関係がありますか」
「殿下とあなたの関係も、今回の審理の対象です」
「関係はありません。私は昨日、声明を読むまで、殿下の気持ちを知りませんでした」
「では、今は?」
「今ここで答えれば、王太子殿下の地位に影響するのですか」
「影響しないとは言えません」
「ならば答えません。王太子を続けられるかどうかと、私が結婚したいかどうかを同じ秤に載せないでください」
再び笑いが起こったが、先ほどとは種類が違っていた。
リナは少しも冗談を言ったつもりはないらしく、そのまま席へ戻った。
◇
評議会は三日間の審議の末、私を王太子の地位にとどめると決定した。
全会一致ではない。
婚約中に他の女性へ心を移したことは、将来の王として軽率だったという批判も受けた。感情を自覚した後も、しばらく河川事業の責任者を続けたことについては、正式な戒告が出された。
だが、リナへ不当な利益を与えず、自ら調査権限を手放したこと、婚約者や相手の女性へ責任を押しつけなかったことは、王太子としての不適格を示すものではないと判断された。
ハインツ侯爵は財務卿を解任され、収賄と契約詐欺の罪で法院の裁きを受けることになった。
ヴィオラの父であるエーレンベルク公爵には、穀物の留め置き自体は法に反しないものの、婚姻交渉へ影響を与える目的で民の生活を利用したとして、王国穀物評議会の議席停止が命じられた。
公爵は最後まで、娘が自分へ恥をかかせたと怒っていた。
しかしヴィオラは、もはや黙って従わなかった。
王国評議会は、女性による爵位継承を全面的に認める法案の審議を始めた。成立までには時間がかかるだろうが、王家は特例として、ヴィオラをエーレンベルク公爵家の正式な後継者に認定した。
私たちの婚約は、双方の合意によって解消された。
どちらかの不貞や性格上の問題を理由とするのではなく、王家と公爵家の政治的状況、そして両当事者の将来を改めて検討した結果であると公表された。
ヴィオラは王宮を去る日、私へ言った。
「これで、わたくしの十年間が無駄にならずに済みそうです」
「本当にすまなかった」
「殿下は、まだ謝罪だけで済ませようとなさるのですね」
「他に何をすればいい」
「良い王になってください。わたくしが王妃になるために学んだ十年間は、今後も公爵として国を支えるために使います。殿下も、わたくしが支える価値のある王になっていただかなければ困ります」
ヴィオラはそう言って笑い、領地へ帰っていった。
リナの出勤停止も解かれた。
私は河川事業の責任者へ復帰したが、彼女の人事評価については、今後も別の監督官が担当することになった。
その日の夕方、私は建設現場でリナと二人になった。
正確には、少し離れた場所に護衛と作業員が十人ほどいたので、二人きりではない。
「ご迷惑をおかけしました」
私が言うと、リナは新たに納入された鉄材を確認しながら答えた。
「殿下が恋をするたびに事故調査が始まるのであれば、今後は気をつけてください」
「何度も起こすつもりはない」
「それで、私に何か言うことがあるのでは?」
私は、そこで初めて彼女へ気持ちを伝えた。
「あなたを愛している」
「そうですか」
リナは鉄材を軽く叩き、音を確かめた。
想像していた反応とは違った。
「それだけか」
「私も、殿下を嫌いではありません」
「嫌いではない」
「今のところ、それ以上のことは言えません」
リナは私のほうを向いた。
「殿下が王太子ではなくなっても同じ気持ちでいるのか、自分でも確かめたかったのです。ですが、結局王太子のままでしたので、まだ分かりません」
「では、どうすれば分かる」
「三号水門を完成させましょう」
「水門と私たちの関係に、どんなつながりがある」
「三年間一緒に働いて、それでもお互いを嫌いにならなければ、少しくらい信用できます」
「もう三年、一緒に働いている」
「事故があったので、最初から数え直します」
私は抗議したが、リナは聞かなかった。
◇
三号水門と上流の遊水地が完成したのは、それから四年後だった。
完成直後の春、アルナ河流域では、過去五十年で最大の大雨が降った。
上流から流れ込んだ水は遊水地へ分けられ、三つの水門は設計どおり順番に開いた。低地の道路には多少の浸水があったものの、職人街の家々が水につかることはなかった。
雨がやんだ翌朝、私はリナと一緒に水門の上へ立った。
眼下では作業員たちが点検を行い、遠くの市街地からは教会の鐘が聞こえていた。
「四年たった」
私が言うと、リナは記録板へ水位を書き込みながらうなずいた。
「そうですね」
「三年間一緒に働いて、それでも嫌いにならなければ信用できると言ったな」
「四年です。水門の完成が遅れましたから」
「では、答えを聞いてもいいか」
リナは記録板から顔を上げた。
「その前に一つ、確認します」
「何だ」
「私は王太子妃になりたいわけではありません。河川局の仕事を辞めるつもりも、殿下の半歩後ろを歩くつもりもありません」
「半歩前を歩いても構わない」
「邪魔なら押しのけます」
「それも覚悟する」
「私が王家の考えに反対しても?」
「これまで何度も反対されている」
「では、結婚しても、それほど変わりませんね」
リナは、ようやく笑った。
「私も、殿下を愛しているのだと思います」
「思う、なのか」
「以前、殿下がヴィオラ様に使った言葉でしょう」
遠くから、視察に訪れていたヴィオラの声が飛んできた。
「いつまで話しているのです! 完成式典を始めますよ!」
四年前に父から公爵位を継いだヴィオラは、王国初の女公爵として、西部諸侯をまとめていた。王妃教育で身につけた外交力は、宮廷ではなく領地と評議会で存分に使われている。
私とリナの婚姻について最も強く支持したのも、彼女だった。
「いつまでも昔の婚約者と現在の恋人を争わせる記事を書かれては迷惑です。さっさと結婚して、別の話題を提供してください」
そう言って、王国評議会へ婚姻承認を迫ったのである。
もちろん、リナとの関係を理由にヴィオラが結婚を急がせたわけではない。本人は今も独身で、公爵領の改革と女性相続法の成立に忙しくしている。
私たちは、互いに別の道を選んだ。
誰かが勝ち、誰かが敗れたわけではない。
◇
後世の歴史書には、私の婚約解消騒動について、王太子時代の小さな失敗として記されることになるのだろう。
十年の婚約がありながら、平民の女技師へ恋をした王子。
その一文だけを読めば、私は軽薄で愚かな男に見えるかもしれない。
実際、愚かな部分はあった。
ヴィオラが何を望んでいるのか尋ねたこともなく、王妃となるのが当然だと思っていた。リナへの感情を自覚した後も、自分が河川事業の責任者であり続けることの危うさへ、すぐには気づかなかった。
私の恋によって、二人は望んでもいない物語の役を押しつけられた。
だから私は、自分がまったく悪くなかったとは思わない。
だが、罪を軽くするために、リナを誘惑者にはしなかった。
婚約を解消するために、ヴィオラを嫉妬深い悪女にも、王妃にふさわしくない令嬢にもしなかった。
自分の選択に、自分の名で責任を負った。
私が断罪されなかったのは、王子だったからでも、最後にすべてがうまくいったからでもない。
誰かを悪役にしなければ成立しない幸福を、選ばなかったからだ。




