一章 『準備運動』
翌朝、俺は住み慣れた家を出た。
見上げれば、重なり合う広葉樹の隙間から、刺すような日差しが降りてきている。
街道とは名ばかりの、獣道に毛が生えた程度の道。踏み固められた地面の感触だけが、かろうじて自分が文明の方角へ向かっていることを教えてくれる。
しばらくこの森を歩いたが、そろそろ抜けられるのを祈るばかりだ。
「だいぶ歩いたな……」
見送りに来た里の連中に「嫁さん見つけてこいよ!」と冷やかされ、先生には最後まで「その死んだ魚のような目をどうにかしろ」と罵倒されながら。
正直、まだ納得はいっていない。
だが、あんなに必死な先生の顔を見たのは初めてだった。
『授業』。そう銘打たれたからには、俺に拒否権はない。
「……誰かのために力を使う、か」
街道を一人歩きながら、俺は背中の斧の重みを確かめる。
先生の教えは、いつだって正しかった。
強く、決して折れることのない不屈を叩き込まれてきた俺にとって、今の課題はあまりに不慣れで、ひどく抽象的だ。
そんなことを考えていた、その時だった。
――風に乗って、鋭い悲鳴と獣の咆哮が届いた。
俺の意識が、一瞬で「日常」から「戦闘」へと切り替わる。
身体が勝手に動き、茂みを掻き分けて音のする方へと駆けた。
視界が開けた先には、無惨にも護衛の兵士たちが物言わぬ骸となって転がり、立ち込める血の臭いが鼻を突く。
そして、二十数体のゴブリンが、今まさに一人の少女の服を剥ぎ取り、醜悪な手でその白い肌をまさぐっていた。少女の口からは、悲鳴すら上げられない、か細い嗚咽が漏れている。
「助け……て……」
「リリシア!リリシアぁ!!」
隣では彼女の父親だろうか?
商人がゴブリンにいたぶられている。必死に少女の名前を叫んでいる。
少女の絶望に満ちた瞳と、俺の目が合う。
「……タイミングが良すぎますね、先生」
肩から斧を下ろし、地面へと叩きつける。ドサリ、という重苦しい音が、ゴブリンたちの耳障りな笑い声を切り裂いた。
「揃いも揃って……」
驚き、一斉にこちらを振り返る醜悪な顔ぶれ。
ゴブリンの一体が、まさぐっていた少女から手を離し、血走った目で俺を睨む。
俺は威圧的な笑みを浮かべながら、一歩を踏み出した。
「今日は初仕事なんだ。……不本意ながら、お前らが相手でも全力で行かさせてもらう」
「ギギャッ!?」
先頭のゴブリンが、威嚇とも嘲笑ともとれる声を上げた瞬間、俺の視界から「色」が消えた。
意識の深度を一段、底へと沈める。周囲の動きが、まるで粘り気のある泥の中を進むかのように緩慢に引き伸ばされていく。
一歩。
踏み込んだ右足が土を抉り、爆ぜるような駆動音が全身の骨を震わせた。
手近な場所にいた三体が、錆びた短剣を振り回して飛びかかってくる。
俺は背負っていた大斧――鉄の塊と言っても差し支えないその質量を、無造作に真横へと薙いだ。
――《断》――
肉を断つ感触ではない。
硬い薪を叩き割るような乾いた衝撃。
斧の重圧に耐えきれず、ゴブリンの胴体は風船のように弾け、どす黒い血と内臓を撒き散らしながら森の奥へと吹き飛んでいった。
「ヒッ……ギギィ!」
仲間の惨状に、一瞬の静寂が訪れる。だが、血の匂いに狂った群れは、すぐさま数を頼りに四方から殺到してきた。
頭上から振り下ろされる棍棒。背後から突き出される槍。
俺はそれを避けない。
ただ、最小限の動きで斧の柄を盾にし、衝撃を逃がしながら、そのまま一回転して円を描く。
遠心力を乗せた一撃が、群れの中心で炸裂した。
地面に叩きつけられた斧頭が土を爆発させ、衝撃波だけで数体を圧殺する。生き残った個体も、砕けた四肢を引きずりながら、理解できない恐怖に顔を歪めた。
少女を組み伏せていたリーダー格の巨体が、怒りに任せて手斧を振り下ろす。
俺は左手一つでその腕を掴み、みしり、と骨が軋む音を聞きながら、至近距離でそいつの濁った眼球を見据えた。
掴んだ腕を強引に引き寄せ、がら空きの腹部へ、膝を叩き込む。
鈍い音が響き、ゴブリンの背中が不自然に盛り上がった。肺の中の空気をすべて吐き出し、白目を剥いて崩れ落ちる獣。
残った連中は、もはや戦意を喪失していた。
彼らにとって俺は、もはや獲物ではなく、理解不能な「災害」そのものだったのだろう。
俺は返り血を拭うこともせず、逃げ惑う背中を一つずつ、確実に、そして無慈悲に粉砕していった。
◇◇◇◇◇
数分もしないうちに、あたりに漂うのは、噎せ返るような死の臭いと、静寂。
立っているのは俺一人。足元には、「処理」されたゴブリンの肉塊が転がっている。
俺は斧の刃についた汚物をゴブリンの死体で拭い、再び肩に担ぎ直した。
ふと視線を落とすと、そこには服を無惨に引き裂かれ、地面にへたり込んだまま震えている少女がいた。
案の定、少女は救世主を見るような、それでいて得体の知れない化け物を見るような、複雑な怯えを瞳に浮かべていた。
「リリシア!」
父親がおぼつかない足取りで、少女を抱き締める。
荒らされた馬車の中からまだ汚れのない柔らかな毛布を見つけ、それを引っ張り出した。
「……ほら。そんな格好じゃ、俺も目のやり場に困る。とりあえず、それを羽織っとけ」
放り投げるようにして毛布を渡す。
少女は一瞬だけ驚いたように目を見開いたが、露わになった自分の肌に気づくと、顔を赤く染めて身を縮めた。そして、縋り付くようにして毛布をきつく身体に巻きつける。
その場に散らばる兵士の遺体を見渡す。
鼻を突く血の匂いの中、物言わぬ肉塊と化した兵士たちを見下ろす。
街道の護衛が三人とは、慢心が招いた悲劇か。運悪くゴブリンの群れに目を付けられたのが運の尽きだ。
一人は首を深く貫かれ、地面にどす黒い染みを作っている。見開かれた瞳は、迫りくる矢を捉えながらも体が反応しなかった絶望を物語っていた。理解の及ばぬ速度で訪れた終焉。
「彼らは知り合いですか?」
血に濡れた指先を動かさないまま、俺は商人と娘に向き直る。
「いえ……。ギルドで依頼を出して、今日集まってもらったばかりの冒険者です……」
商人の声は震えていた。隣に立つ娘は、俺が死体の懐に無造作に手を突っ込む光景に耐えかねたのか、顔を背けて小刻みに震えている。
「冒険者……か」
先生からはあまり詳しく教わっていない。ギルドという組織に属し、依頼を遂行することで対価を得る。そんな単純明快なシステムの一部だと聞いている。ならば、目の前の惨状は「契約の不履行」という結果に過ぎない。
憐れみの言葉とは裏腹に、俺の指先は事務的な手つきで遺体の装備をまさぐっていく。返り血で汚れた銭袋を引き剥がすたび、冷え切った硬貨がチャリンと虚しい音を立てた。
回収した三つすべての銭袋を、俺はそのまま商人へと差し出す。
「こ、これは……?」
困惑し、受け取るのを躊躇う商人に、俺は淡々と言い放った。
「返金です。彼らはあなた方を守るという契約を果たせなかった。なら、この金は本来の持ち主である貴方の手に戻るのが道理だろう」
「……あ、いや、しかし……」
「死人に金は持てません。死体に抱かせて腐らせるよりずっといい」
「あ、ありがとうございます」
「礼には及びません」
助けられた安堵と、得体の知れない「強者」への畏怖。複雑な色が混じった表情で礼を述べる商人に、俺は興味なさげに視線を外して、素っ気なく返した。
「あ、あの……旅人さん。あっしら、これから近くの街まで用事がありまして。ここからなら徒歩でも日が暮れる前には着けます。……けど、流石にあっしらだけで歩くには、その、心細すぎる。どうか街まで護衛して貰えねえでしょうか?」
「構いませんよ」
俺の即答に、商人が一瞬呆けた顔をする。
「俺も王都へ向かう中継地点を探していたところだ。このあたりの地理にも疎い。案内役がいてくれるなら、こちらとしても都合がいい」
「そ、それはこっちの台詞ですよ! あんたみたいな腕利きが隣にいてくれるなら、冒険者を数人雇うよりずっと心強い!」
俺の打算的な返答をどう解釈したのか、商人は救われたと言わんばかりに目を輝かせた。
「さあ、こっちへ。リリシア」
商人に促され、馬車の影から先程の少女が姿を現した。厚手の毛布に身をくるみ、震える足取りでこちらへ近づいてくる。
「この子はあっしの娘です。ほら、旅人さんにご挨拶を」
少女は俺の顔をまともに見れず、毛布の端をぎゅっと握りしめた。
「り……リリシア、です。助けていただいて……ありがとうございました……」
少女は消え入りそうな声で頭を下げる。
肩まで伸びる艶やかな黒髪の隙間から、怯えた瞳がこちらを伺っている。
そこには、先ほどまでの惨劇が焼き付けた恐怖の残像と、目の前に立つ「得体の知れない救世主」への戸惑いが色が濃く張り付いているように見えた。
「……挨拶は済みましたね。必要な物だけ持って、さっさと動く。いいですか」
余韻を断ち切るように、俺は冷淡に告げた。
「この血生臭い場所に長居すれば、別の魔物を呼び寄せる。日は悠長に待ってはくれません。一秒でも早くここを離れるべきだ」
「わ、分かりました! すぐ、今すぐ支度をさせやす!」
俺の放つ威圧感に弾かれたように、商人は慌てて荷物へと駆け寄った。
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