一章 『強引な旅立ち 』
――あれから八年。
あの日、泥にまみれて引きずっていたリザードマンの斧は、今では俺の体の一部のように馴染んでいる。
石で研ぎ、脂で磨き、幾度となくその刃で魔物の骨を断ってきた。柄には滑り止めの革を巻き直し、継ぎ接ぎだらけの無骨な武器。だが、十四歳の俺に「死」を突きつけたこの鉄塊こそが、俺がこの世界で生き延びてきた唯一の証拠だ。
「……いたな」
低く呟き、茂みの陰で腰を落とす。
今回の依頼は、街道近くに居座った『マッド・ベア』の討伐。体長三メートルを超える巨体、鉄をも噛み砕く顎、そして泥を纏った剛毛は生半可な剣を通さない。
以前の俺なら、姿を見ただけで腰を抜かしていただろう。
だが今の俺は、ただ静かに呼吸を整え、獲物の動きを観察している。
先生に叩き込まれたのは、綺麗な剣術なんかじゃない。
泥をすすり、不意を打ち、持てる全ての力で相手を「殺す」ための生存術だ。
「ふぅ……」
肺からゆっくりと空気を吐き出す。
右手に伝わる斧の冷たさが、心地よい。
不意に、風の向きが変わった。
熊が鼻を鳴らし、こちらの気配を察知する。
爆発的な踏み込み。
八年前、二つの太陽の下で必死に足を動かしたあの時とは違う。地面を蹴る脚には確かな力が宿り、視界は驚くほど冷静だ。
咆哮を上げようとしたマッド・ベアの懐に、一気に潜り込む。
遠心力を乗せ、下から上へと斧を振り抜いた。
――ズシュ、という重い手応え。
そのすぐ後に、山のような巨体が地面を揺らして横たわる。
溢れ出した血が土に吸い込まれ、生温かい獣の臭いが周囲に立ち込めた。
俺は斧の刃を熊の毛皮で乱暴に拭い、肩に担ぎ直した。
二十二歳。この世界に来てから、背も伸びたし、体にはいくつもの古傷が刻まれた。鏡なんて滅多に見ないが、たまに水面に映る自分の顔は、十四歳の頃の面影をほとんど残していない。
「さて……右耳が討伐の証拠だったか」
腰のナイフを抜いて、右耳に切り込みを入れていく。初めての頃は魔物の死体を捌く作業に抵抗があったが、今はなんてことない作業として処理できる。
「これでヨシッと」
耳を麻のような素材で出来た袋に入れる。
「さっさと帰りますかね~」
◇◇◇◇
一時間ほど歩き、俺は先生の隠居先である人里へと戻ってきた。
深い森の奥、地図にも載っていないこの平穏な場所を守っているのは、一癖も二癖もある猛者たちだ。
「よお、リオ! 相変わらず速いお帰りだな。流石は先生の秘蔵っ子だぜ!」
門番を務める大柄な男、ゼッツさんが豪快に手を振ってきた。
「不意打ちが上手くいっただけですよ。それに、俺なんて先生の足元にも及びません」
「ははっ、相変わらず謙虚な野郎だ!」
ガハハと雷のような笑い声を上げながら、ゼッツさんが俺の肩をバシバシと叩いてくる。丸太のような腕から繰り出されるそれは、もはや打撃に近い。
「い、痛いですよ、ゼッツさん……。加減してください」
「すまんすまん! ほら、さっさと行きな。先生がお待ちかねだぞ!」
……足止めしていたのは、どこの誰でしたっけ。
喉まで出かかった皮肉を溜め息と一緒に飲み込み、俺は促されるまま里の中へと足を踏み入れた。
里の中へ足を踏み入れると、家々の窓や畑から次々に親しげな声が飛んできた。
「おかえり、リオ! 今日の晩飯、うまい肉が入ったから寄っていきな!」
「リオ兄ちゃん! 街の面白い話、今度ゆっくり聞かせてよ!」
「あんた、またそんなに返り血を浴びて……。先生に大目玉を食らわされても知らないわよ?」
洗濯物を干す主婦から、木剣を振るう子供たちまで、誰もが家族のように俺を呼ぶ。
この八年、血と泥にまみれながら積み重ねてきた時間は、俺を単なる「異邦人」から、この閉ざされた共同体の一員へと変えていた。
一つひとつに苦笑いで応えながらも、俺は自然と歩調を速めていた。
やがて、里の最奥。
周囲の賑わいから切り離されたかのように、ひときわ静謐な空気を纏った古びた屋敷が見えてきた。
あそこに、俺のすべてを鍛え上げたあの人がいる。
門を前にして、俺は無意識に背筋を正し、重い斧を背負い直した。この場所では、ただの「リオ」ではなく、あの人の弟子としての顔に戻らなければならない。
門を潜り、静まり返った庭を横切る。
先ほどまでの里の賑やかさが嘘のように、ここは研ぎ澄まされた静寂に支配されていた。
板張りの廊下を進み、俺は奥にある書斎の扉の前に立つ。
返り血の臭いが残っていることが少し気になったが、そのまま軽く扉を叩いた。
「リオです。マッド・ベアの討伐、完了しました」
「……入れ」
中から届いたのは、低く、重厚な響きを持つ声。
扉を開けると、そこには机に広げた古い羊皮紙から目を上げ、俺を見据える先生の姿があった。
眼鏡の奥の鋭い眼光は、一瞬で俺の消耗具合と、背負った斧にこびり付いた血の跡を読み取る。先生は短く「ご苦労だった」とだけ告げ、椅子に深く腰掛けた。
「報告は後でいい。それより、リオ。お前に大事な話がある」
その声の調子に、俺は思わず背筋を伸ばした。
八年間、この人の元で修行してきた。厳格な指導も、皮肉混じりの説教も受けてきたが、これほどまでに「重い」響きを含んだ声を聞くのは初めてかもしれない。
先生は机の上の書類を片付けると、組んだ指の上に顎を乗せた。
「お前をこの里に留めて、今日でちょうど八年になる。……基礎は教えた。敵を殺す合理も、お前は十分に身につけた」
先生の言葉が、一呼吸置いて部屋に落ちる。
「お主……つまらん」
「………………え?」
「町で立派な騎士になると志高かった門番の娘も、僧侶を目指しておった村の看板娘も、お主に色目を使っておった奴らとはどうなった?」
「お、おっしゃる意味が……」
「どうなったぁ!?」
先生――ガルヴァンが、机をバンバンと叩きながら立ち上がった。
あまりの熱量に、俺は椅子ごと後ろにひっくり返りそうになる。
「……て!? いや! 何を言って……! 修行ですよね? 俺の成長の話とかそういう大事な話じゃなかったんですか……!?」
「それが大事な話じゃ! 良いかリオ、お主は強い。ワシの教えたことはすべて吸収した。だがな、お主のその枯れ果てた精神性はどうなっておる! まるで人生三周目の老いぼれではないか!」
先生は憤慨した様子で、俺の胸ぐらを掴まんばかりに身を乗り出してきた。
「十四でこの世界に来てから八年。瑞々しい十代の後半を、血と泥と魔物の臓物に捧げおって……。ワシはな、お主が村の娘と仲睦まじくしておる姿を見て、『やれやれ、修行をサボりおって』とニヤニヤしながら叱る、あの師匠特有の楽しみを一度も味わっておらんのだぞ!」
「…………へ?」
俺の口から漏れたのは、言葉というよりは、ただの抜けた空気だった。
頭が追いつかない。
この八年間、俺の甘さを一滴残らず絞り出し、冷徹な生存術を叩き込んできた男が、今、何を言っているんだ?
「……あの、先生。聞き間違いでなければ、今、俺がモテないことについてお怒りですか?」
「モテないのではない! お主が『関心を持たぬ』のが問題だと言っておるのだ! ワシはな、お主が色恋にうつつを抜かすのを『それもまた若さよな』と遠くから見守る準備を、八年前からずっと整えておったのじゃぞ!」
「し、知りませんよそんなの! 俺を寝る間も惜しんで魔物の巣に放り込んだのは誰ですか! 『女にうつつを抜かす暇があるなら、一回でも多く斧を振れ』って言ったのは……っ!」
「それはそれ、これはこれじゃ!」
先生は真っ赤な顔で、吐き捨てるように断言した。
なんだその無敵の論理は……!
「良いか、リオ。ワシは教えたはずだ。常に『周囲の状況を観察しろ』とな。お主に向けられた娘たちの熱い視線は、立派な環境情報だろうが! なぜそれを、迫りくる矢を避けるような冷めた目で見流す必要がある!」
「……あ、あれは、敵意じゃないから無視しろって教わった結果ですよ」
「屁理屈を抜かすな! 挙句の果てにはなんじゃ、魔物を仕留めてきた直後の顔が、今日の献立を考えておる主婦より落ち着いておるとはどういうことだ! もっとこう……『俺の強さに惚れるなよ』くらいの不敵な笑みを見せられんのか!」
目の前で激しく身振り手振りを交える師匠を、俺は遠い目で見つめた。
尊敬していた。心から。
この人は、世界の理をすべて知る賢者か何かだと思っていた。
だが今、俺の目の前にいるのは、単に「理想の師弟ごっこ」を完遂したかっただけの、面倒くさい親戚のオヤジだった。
俺はこめかみを押さえ、深いため息をついた。
この人は、一度スイッチが入ると止まらない。かつて、魔物の生態について三日三晩語り続けられた時と同じ熱量だ。方向性が百八十度違うだけで。
「いいかリオ! 町で騎士になると言って出ていった門番の娘……ああ、エリンだ。あの子が休暇で戻ってきた時、わざわざお前の前で剣の手入れをしていただろう! あれをどう見た!」
「……『重心が後ろに寄りすぎだ、あれじゃ実戦で死ぬな』って思いましたけど。あとでアドバイスしておきました」
「バカか!? あの子はお前に『凛々しい自分』を見てほしかったんじゃ! それを、ガチの技術指導で泣かせて帰す奴があるか!」
先生は天を仰ぎ、今度は椅子に深く沈み込んだ。
「ならば、聖職を目指して町へ行った看板娘の……リサはどうだ? お前にやたらと手料理を振る舞っていただろう。あれは、胃袋を掴みにきておったんじゃぞ!」
「ああ、あれですか。……毎回、やけに塩気が強かったんで、『疲労回復にはいいが、常用すると内臓を壊すぞ』って先生の薬草学の知識を引用して教えてやりました」
「お、お主という奴は……!」
先生の顔が赤から青、そして白へと忙しく変わる。
「リサが里を出る間際、寂しそうに『一人は怖いです』と言った時、お前は何と返した?」
「『……安心しろ、ゴブリン一匹ならお前でも殺せるように訓練してやる』って言いましたけど。実際、護身術は必要でしょう?」
俺の至極真っ当な(はずの)回答に、先生はついに机に突っ伏した。
静寂が部屋を支配する。しばらくして、震えるような声が漏れ聞こえてきた。
「……リオ。ワシが悪かった。お前を鍛えすぎた……。お前をこのままここに置いておけば、いずれ『感情を捨てた殺戮の置物』になってしまう」
先生はゆっくりと顔を上げると、憑き物が落ちたような、それでいて今までで一番深刻な表情で俺を見据えた。
「最後の課題だ。リオ、今すぐ町へ行け。そして……戦い以外のことで、誰かのためにその力を使ってみせろ。もし次に会う時までにお前に『春』が訪れていなければ、ワシは師匠を廃業する!」
「そ、そんな!? 俺にはまだ、あなたから教わることがまだまだあるんです! 剣技だって、魔法学だって、歴史だって……!」
俺は必死で食い下がった。
この八年間、俺の世界のすべてはこの人の背中だった。冷徹で、厳格で、けれど圧倒的に正しい師匠。その教えをすべて吸収し、いつか「合格だ」と笑ってもらえる日を夢見て、俺は地獄のような修行に耐えてきたのだ。
「まだ未熟なんです! 武器の扱いも、動きも、知識も、まだ先生の域には――」
「黙れ! その『向上心の方向』がもう手遅れだと言っておるのだ!」
ガルヴァン先生は、俺の言葉を遮って一喝した。その目は、もはや怒りというより、愛犬を無理やり野生に帰そうとする飼い主のような、悲痛な決意に満ちていた。
「リオ、お前はもう『技術』を詰め込む段階ではない。今のままで王都へ行けば、お前はただの、やけに腕の立つ『便利な道具』として使い潰される。……ワシが育てたのは、そんな血生臭い鉄塊ではないぞ」
先生の声が、少しだけ低くなった。
「いいか。お前は強くなった。だが、その強さを振るう『心』が、十四歳のあの日から止まったままだ。それではいかん。……人は、誰かを愛し、守り、時にはバカな過ちを犯して初めて、本当の意味でその力の使い道を知る」
先生は机の引き出しから、古びた革の財布と、一通の紹介状を取り出した。
「これは旅費と、王都にある知り合いの宿への紹介状だ。……断っておくが、これは『破門』ではない。『授業』だ」
「先生……」
「行け、リオ。お前のその曇りなき、かつ絶望的にズレた瞳で、もう一度世界を見てこい。……そして、もし運良くお前の斧ではなく、お前自身を必要としてくれる者が現れたなら、その時こそ次の修行をつけてやる」
俺は差し出された紹介状を見つめた。
先生の瞳は、いつもの厳格さを保ちつつも、どこか寂しげに揺れている。
「……分かり、ました」
俺は震える手でそれを受け取り、深く、深く頭を下げた。八年間の感謝と、この人から離れる不安。それらすべてを斧と一緒に背負って、俺は部屋を後にする。
「……あ、そうじゃ」
扉に手をかけた俺に、先生が最後にと付け加えた。
「愛想良くするんじゃぞ。折角の色男が台無しじゃ」
更新は不定期になります……!
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