プロローグ的な異世界転移。
初めまして!
これから面白いの書いていきたいと思うので読者の皆様、よろしくお願いします!
まばたきをした。
たったそれだけの間に、世界が入れ替わっていた。
さっきまで指先に感じていたスマホの滑らかな感触は、ゴツゴツとした岩の冷たさに変わり、鼻を突いていたコンビニの揚げ物の匂いは、鼻腔を焼くような焦げ臭い鉄の臭いに変わっている。
目の前には、巨大なトカゲ。
それが二本足で立ち、血の滴る斧をこちらに向けている。
「ギギッ?」
トカゲが首を傾げた。
どうやら、驚いているのは俺だけではないらしい。
思考が追いつかない。
恐怖よりも先に、脳が「これは現実ではない」という強烈な拒絶反応を起こしている。
だが、鼻腔を突く生臭い風と、頬を掠めた火の粉の熱さが、残酷なまでにリアルだった。
トカゲ――いや、直立したその姿は、RPGで見る『リザードマン』そのものだ。そいつが、困惑したように細い瞳孔を揺らしている。
「……あ」
声が出た。その小さな震えが、膠着していた空気を切り裂くスイッチになった。
リザードマンの喉がゴクリと鳴り、斧を握る太い指に力がこもる。殺意が、物理的な重圧となって俺の肩にのしかかった。
逃げなきゃ。
そう思った瞬間、
「ギガァァアアアッ!」
トカゲが叫んだ。
同時に、血塗れの斧が、脳天を目がけて振り下ろされる。
死ぬ。
本能がそう確信し、俺は無様に目を閉じた。
――ガギィィィィィィィン!
鼓膜を劈く、硬質な金属音。
数秒待っても訪れない衝撃に恐る恐る目を開けると、俺の視界を「背中」が遮っていた。
使い込まれた焦げ茶色のマント。
その裾から覗くのは、節くれだった細い両腕だ。
自分よりも二回りは巨大なリザードマンの斧を、その老人は一本の細い長剣で、事も無げに受け止めていた。
「……小僧。腰が抜けておるなら、せめて目を閉じていろ」
低く、地鳴りのような声。
老人が剣をわずかに捻ると、あれほど重そうだった斧が嘘のように跳ね上げられた。
リザードマンが体勢を崩し、たたらを踏む。
「ギ、ギガァッ!?」
怪物の動揺を、老人は見逃さなかった。
流れるような動作で一歩踏み込み、鋭い刺突が放たれる。
閃光。
一瞬の沈黙の後、リザードマンの分厚い胸板を、銀色の刃が易々と貫通していた。
「ギ……」
怪物が崩れ落ち、地響きとともに絶命する。
老人は流麗な手つきで剣を振り、付着した血を払うと、静かに鞘へ収めた。
そして、まだ地面にへたり込んだままの俺の方へ、ゆっくりと振り返った。
深く刻まれた顔の皺と、鋭くもどこか慈悲深い眼光。
「見慣れぬ身なり……。小僧、お主の出身は?」
「……出身?」
問い返そうとしたが、喉が引き攣って声にならない。
脳内をぐるぐると回るのは、ついさっきまで見ていた光景だ。駅前の喧騒、スマホに届いた通知、揚げ物の匂い、そして――。
「日本、です。……たぶん」
ようやく絞り出した答えに、老人は眉をわずかに動かした。
「ニホン……か。聞いたこともない名だな」
老人は顎の白い髭をさすりながら、俺の着ているパーカーやスニーカーを、まるで未知の生物を見るような目で見分けている。その視線は鋭いが、リザードマンが放っていたような害意はない。
「年は?」
「十四です……」
老人の目がわずかに細められた。その瞳の奥に、驚きとは別の、苦い感情が混じったのを俺は見逃さなかった。
「……その若さで……」
老人はふう、と深くため息をつくと、腰の鞘から再び剣を抜き放った。
また襲ってくるのかと肩を震わせたが、彼は俺を見ることなく、ただ無造作に剣先を地面へと向けた。
「立てるか?これよりこの森を抜ける。もたもたしていれば、次の『鱗共』が仲間の死体を喰らいに集まってくるぞ」
「え、あ、はい……」
慌てて立ち上がろうとしたが、力の抜けた足が笑って、再び地面に尻餅をついてしまう。
無様だ。十四年間、平和な日本で学校に通い、スマホをいじり、適当に生きてきた俺にとって、この「死の匂い」が漂う森はあまりに情報量が多すぎた。
「情けない声を出すな。生きる意志を捨てた者から順に、この世界の土に還る」
老人は突き放すような口調で言ったが、差し出されたその手は、まるで大樹の根のように硬く、力強かった。
俺はそのゴツゴツとした手を取り、泥だらけになりながら立ち上がる。
「……あの、あなたは?」
ようやく出た震える声に、老人は歩き出しながら短く答えた。
「通りすがりの隠居老人だよ」
自嘲気味に笑う彼の背中は、先ほどリザードマンを屠った時と同じく、隙が一切ない。
そう名乗った老人は、森の奥――木々が異常なほど高く、空を覆い尽くしている方角を指差した。
「お主……ワシが鍛えてやろう」
その言葉は、唐突だった。
あまりに重く、逃れられない宣告のように俺の鼓膜にへばりついた。
「え……鍛えるって、何を……?」
問い返す俺に、老人は歩みを止めず、背中を向けたまま淡々と言った。
「見ての通り、この地は弱者に慈悲をかけぬ。そのひょろついた手足に、他者の命を奪ったこともないであろう甘い面構え。そんな状態で一人になれば、明日の朝には魔物の糞に混じって転がっているのが関の山よ」
その言葉の一つ一つが、刃物のように俺の自尊心を削っていく。
否定したかった。そんなわけないと言い返したかった。
だが、さっきの斧の風圧を、死んだトカゲの生臭さを思い出すと、喉が拒絶するように閉まった。
「お主を捨てた両親の元へ帰す術は知らぬ。だが、この世界で這いつくばってでも生き延びる術なら、叩き込んでやれる」
老人が、肩越しに鋭い視線を投げかけてくる。
その眼光は、単なる同情ではない。何かを見定め、試そうとする者の目だ。
「……やりたいことなんて、何もなかったのに」
ポツリと、無意識に本音がこぼれた。
学校に行って、塾に行って、暇があればスマホを眺める。
そんなふうに、誰かに引かれたレールの上をただ歩いていれば済むはずだった十四歳の日常。
「『やりたいこと』か。そんなものは、強者だけが言える贅沢よ。……嫌か?」
老人が足を止め、完全に俺の方を向いた。
森のざわめきが、一瞬だけ止まる。
選択肢なんて、最初からなかった。ここでこの老人の手放せば、俺を待っているのはさっきの化け物たちの餌食になる未来だけだ。
俺は震える拳を握り、泥にまみれた顔を上げた。
「……お願いします。死にたく、ないです」
その答えを聞くと、老人はほんの少しだけ口角を上げた。
「……良い目だ。その恐怖を忘れるな」
老人はそう言うと、地面に転がっていたリザードマンの斧を拾い上げ、事も無げに俺の方へと放り投げた。
「うわっ!?」
慌てて受け止めようとしたが、ずっしりとした鉄の重みに持っていかれ、俺は再び無様に尻餅をついた。重い。両手で抱えても、まともに持ち上がらない。
「それを引きずってでも持ってこい。それがお主の最初の『剣』だ」
「……これ、で戦うんですか?」
「戦うだと? 冗談を。そんななまくら、今の貴様ではただの『重り』よ」
ガルヴァンはそのまま背中を向け、迷いのない足取りで深い藪の中へと分け入っていく。
俺は必死に斧の柄を掴み、泥にまみれ、膝を擦りむきながらその背中を追った。
振り返れば、遠くの方で空を焼く太陽が、じりじりとその色を濃くしている。
スマホも、教科書も、温かい夕飯が待っているはずの家も、もうどこにもない。
バサリ、と頭上で巨大な鳥のような影が横切った。
何かが軋む音、遠くで響く獣の咆哮。
これから何が起きるのか、自分はどうなってしまうのか。
期待なんて一つもなかった。
ただ、胃の奥が縮み上がるような不安と、右手に感じる斧の冷たさだけが、俺が「生きている」ことを証明していた。
これが、日常というレールから放り出された、最初の日だった。




