8話
ナナを失ったあと、ミィナは戦場を離れた。
依頼を達成しても、誰からも名を呼ばれず、感謝されず――
彼女はただ、名もなき“静寂”の中にいた。
それでもいいと思った。
戦いのない朝があるだけで、もうそれでよかった。
彼女は、南方の丘陵地帯にある小さな集落――「カラン村」に辿り着いた。
ここは、どの国の領土でもない、かつて魔王軍の支配地だった“空白の村”。
戦火を逃れてきた民たちが、手探りで再建を始めた場所だった。
「手伝いが欲しいって? 私は戦士だけど、それでもよければ」
「いや、むしろありがたい。怪我人の運搬も、斧を振るのも、重労働だからな」
斧を持ち、石を運び、食糧を釜で煮る。
それだけの、何の変哲もない毎日。
誰かに命令されることもなければ、剣を抜く必要もない。
「悪くないな……こんな毎日も」
笑うことすら忘れていた顔に、微かな笑みが戻ったそのときだった。
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ある晩。
村の外れ、炊き場から少し離れた小屋で、何者かが焚き火を囲んでいた。
「……あれは?」
ミィナが気づいたときには、村はもう“囲まれていた”。
肩に奇妙な刻印を持つ一団。
見覚えがあった――彼らは、東方王国の秘密軍。ミィナの元雇い主であり、彼女に「処刑命令」を出した者たちだった。
かつて、ミィナが殺さずに“逃がした王子”――
その事実が漏れ、彼女に裏切り者の烙印が押されたのだ。
「追ってくる……結局、どこまで逃げても」
兵士は村の子供を人質に取り、ミィナの身柄を要求した。
「名乗り出なければ、この村を焼き払う」
ミィナは静かに村の中央に立ち、告げた。
「私が、その“処刑対象”だ。……他に犠牲は出さないで」
**
拘束された彼女の手首には、かつての戦友たちと同じく“囚人の印”が刻まれた。
しかし、連行の途中――彼女は自ら脱走した。
地形を知り尽くし、夜陰にまぎれ、兵士たちの包囲網を突破。
だがその途中で、村の少年・カイルが後を追って来てしまう。
「ミィナ姉ちゃんを助けるんだ!」
「バカ! 来るな! 戻れ!」
叫びは届かず、カイルは兵士の一人に斬りかかられ――
ミィナは本能で動いた。
武器も持たず、素手で兵士の腕を折り、喉を突いて倒す。
あの日、ナナを守れなかった自分が、今ここで――
「もう、誰も殺させないッ!!」
**
その夜、彼女は村へ戻らなかった。
少年を遠くの川まで逃がし、彼の命だけを守り――
自らは山林の中に身を隠した。
追手が追いつくたびに、彼女は逃げ、隠れ、傷を負いながら進んだ。
体力は限界。
かつて失った指が冷たく痺れる。
喉は渇き、腹は空き、足はもはや歩けないほどだった。
それでも、進んだ。
**
夜明け――
彼女は、森の最深部にあった廃神殿へと辿り着いた。
そこは、かつて神への祈りが捧げられた場所。
今では誰も寄りつかず、風と苔と野鳥だけがいる“世界の果て”。
ミィナは、神像の足元に崩れ落ちた。
「もう、いいかな……私、ここまで頑張ったよね……」
瞳を閉じたそのとき――
一羽の鳥が、彼女の肩にとまった。
それは、かつてナナと遊んでいた森にいた鳥。
彼女が唯一、名前を呼んだ存在たちの“記憶”だった。
「……そうか、逃げても、追ってくるのか。運命も、過去も……」
それでも。
彼女は立ち上がった。
「じゃあ、私も……逃げるだけじゃなく、向き合ってやるよ」
剣はない。味方もいない。
けれど――命を背負って、生きてきた重みがある。
**
ミィナは、神殿を後にした。
戦争はまだ終わっていない。
でも、いつか終わらせるために、彼女は歩き続ける。
逃げても、追ってくる。
けれど、それに立ち向かう力も、彼女には残っていた。
それが――命を失ったものたちから、託された意思だった。